上から読んでも下から読んでもよだみきはきみだよ  ep.5

よだみきはきみだよ

○シ○のハンバーグ事件

 久恵は来月の5月に出産予定の妊婦だ。先週には、先生から、「赤ちゃんにお腹からもう出てくるように言いなさい。」と言われた。彼女は赤ちゃんとは予定日に産まれるものだと思い込んでいたので、自分の気持ちの準備が出来ていなかったことを知り、その日から親子で心と身体の準備を整える努力をした。まだ産まれる前のお腹の子を「あーちゃん」と呼び、「あーちゃん、お母さんの準備が出来たからいつでも出てきて良いよ。」とお腹を擦りながら、毎日声を掛けるようにした。


 私は妊婦の間、出産に関する本や雑誌を読んではいたが、何を読んでも、「出産は十人十色」としか思えなかったので、読むことをやめた。あまり、知識ばかり入れて心配ばかりしても身体に悪いと思ったからだ。そう考えるに至った後、通っている産婦人科の先生から、出産に関する本を読んでいるのか聞かれた。私は正直に読むことをやめた事を伝えると、「偉い!それで良し。頭でっかちな人は困るんだよね。学校の先生とか、変に知識を入れて来るからやりづらくていけない。」と言っていた。

 あぁ、私は、この先生に任せていれば、もしも何かが起こっても何の心配も無い、と安心した。

 この病院を選んだ理由は、①会社帰りの遅い時間まで診察時間が有る②会社のお休みの土曜日も診療時間が有る③会社と自宅との間の有る、この3点の条件にあてはまる病院をタウンページで探した結果だった。初めて診察に行った際、先生から、「どうしてうちに来たの?」と聞かれた。私は正直に「タウンページで探しました。」と答えた。後から知ったことだが、この病院は皆、口コミで妊婦さんの紹介で訪れる人ばかりだそうだ。そんな事は知らずに訪れた自分はなんてラッキーなんだと思った。それから、この病院の先生は少し、他の病院の先生とは違うと思った。妊娠以外の事でも、何を質問してもちゃんと答えてくれるので、どんな事でも質問したり相談したり出来たからだ。

 ある日、月に一度の検診の日に、歩いて病院まで行く途中、歩道橋の上で手摺に掴って下を向いて動かないおじいさんに出逢った。私は「どうしましたか?具合でも悪いのですか?」と尋ねると、「俺はここから飛び降りて死ぬんだ。」と、言い出した。これから命を生み出す私の前で死ぬなんて言うのはやめて!と思い、「取り敢えず、ここから降りましょう。」とおじいさんを歩道橋から降ろした。すると、おじいさんは酔っているらしく、「あんたは妊婦さんか、そうかそうか、お腹を触らせてくれ。」と手を伸ばしてきた。私は驚いて、すぐに110番をして、お巡りさんにおじいさんを引き取ってもらった。私が嫌がっても何度も何度もおじいさんがお腹を触ろうとするので、お巡りさんが到着するまで恐怖を感じていた。その後、無事に病院まで辿り着くと、今まさに私の身に起こった事を先生に話した。すると先生は、「良いんだよ、目の前で飛び降りてもらえば。そういうのは吉凶だよ。」とあっけらかんとして言った。私はその時、頭をハンマーで殴られたような衝撃を覚えた。今まで生きてきた中でそんな発想は全く無かったから、「そんな考え方もあるのか!」と、思った。まぁ、そう言われたからと言って、次に同じ事が起きて、目の前で死のうとする人がいたら、「はい、どうぞ。」とはならない。きっと今日と同じ対応をするだろう。けれど、その先生の考え方は今の私の中で息づいている。悪い事が起きても、「吉凶、吉凶」と言ってしまえば、次にうまくいく事を願える。自分が予定していた事が何らかの理由で出来なくなったとしても、「今はその時でないのかもしれない」と次回に期待出来るようになり、くよくよしなくなった。

 それまで勤めていた会社は女性社員が私以外には二人しかいなくて、今まで出産する人が居なかった為、育休の制度が無かった。もしも育休を取るなら、制度を作ってくれると言われたが、私の為だけに制度を作ってもらうのも申し訳ないので、社長や経理をやっている社長の奥様と話し合い、予定日の十日前に会社を辞める事を決めていた。

 妊娠は病気ではない。けれども妊娠期間中、特におおよそ六か月の安定期迄の間には何が起こっても不思議ではない。私も流産してしまったかと思う位、大量出血して、しばらく安静にしていなければならない時期もあった。悪阻がひどくて食べられない時も有ったし、怠くて眠くて、家事が出来ない時もあった。それでもなんとか乗り切って、安定期に入った頃合いに、先生から「なるべく動いて歩くように」と言われた。妊娠前は家から会社まで自転車で約20分通っていたが、妊娠がわかってからは、バスを二つ乗り継いで、通勤するようにしていた。仕事内容は電話応対と図面のトレースだったので、会社では座りっぱなしで、身体を動かす事が全く無かった。そこで、通勤を徒歩に切り替えてみた。それから、お昼休憩の時間に、お弁当を食べた後に、会社の周辺を歩くようにした。私の場合は、安定期以降は体調も悪くならずに順調だった。ただ、会社からの帰宅途中に夕飯の買い物をする際に、ついつい妊婦だという事を失念して、毎回レジ袋2袋分を買ってしまい、スーパーから家まで、重くて後悔することがしばしばあった。夫は妊婦を大事にするとか、自分より優先して考える、というような事は全く頭に無い人だったので、買い物を頼める人では無かった。妊娠中に一度だけ、買い物にスーパーへ二人で行った事があった。その際は、買ったものを持ってもらった。それを親戚が見ていたそうで、後日、「買い物を手伝ってくれる優しい旦那さんね。」と、言われた時は驚いた。たった一度だけ、妊娠中に二人で買い物に行ったのは、一生に一度だけだったのに、それを見られて、良い旦那さんだと思われるなんて、本当に運の良い人だと思った。

 もうすぐ、予定日なので、三年勤めたこの会社も辞めた。仕事内容は易しく、残業も殆ど無いにも関わらず、前職のお給料よりも高い金額で雇ってくれた。この会社で働いたのはたった3年だっだが、その間に結婚、妊娠も有り、会社全体で、女性を大事に、妊婦になってからはもっと大事にしてくれて、幸せな時間を過ごした。

 会社を辞めて、予定日の二日前の午前十時に病院へ行くと、「今日はもう赤ん坊を下腹へ下ろすから横になって。」と言われ、ベッドに横になると、先生が両手でお腹の脇の辺りをぐいーと下へ押し始めた。ベッドから起きると、下腹辺りに重くて鈍い痛みが始まっていた。それは一定の間隔でやってきた。

「それから、うんちが溜まっているから出しておきなさい。」とも言われた。

 お医者さんてそんな事もわかるんだ。何でもお見通しだな。確かに昨日はお通じが出ていなかったなと思いながら、病院から家までゆっくり15分かけて歩いて帰り、昼食を済ませると、無事にお通じが出て安心した。その後、相変わらず鈍痛が一定の間隔であったけれど、まだ10分以上も間が空いていたのと、猛烈な眠気に襲われたので、鈍痛によって何度も起こされながらも昼寝をした。夕方になると、流石に鈍感な私でも不安になったので、一度病院へ電話をし、鈍痛が一定間隔で有る事を伝えると、お医者さんも、「分娩にならなくても良いから、とりあえず病院へ来なさい。」と言ってくれたので、入院の荷物を持って病院へ、大事を取ってタクシーで向かった。夫の治人は、今頃はもう、会社から自分の父親と弟と一緒に車で実家へ帰っているはずなのに、家にはまだ戻っていない。きっといつものようにパチンコに行っているのだろう。夫の実家へ「病院へ行くので夕飯はそちらで食べさせて下さい。病院には私の母が来てくれるので、誰も来なくて大丈夫です。」と伝えた。妊婦の私を気遣ってくれない夫に傍にいて欲しくなかったからだ。

 病院に着くと母がすぐ来てくれた。まだ子宮口がそれほど開いていないので、しばらく病室で待機して、我慢できなくなったら呼ぶようにと言われた。母が腰を擦ったり叩いたりして痛みを半減させてくれた。やっぱり頼りになるのは、気持ちのわかる先輩だ。二時間程経ち、看護師さんが診に来てくれると、「もう、だいぶ子宮口が開いているじゃない。我慢しすぎよ。」と、分娩台へ移動することになった。私は、出産というのは経験した事もない痛みがあるものだとだけ覚悟していた。だから、どこまで我慢するか、というのがよく分らなかった。きっと看護師さんが診にきてくれなかったら、いつまでも痛みに耐えていたと思う。

 妊娠すると食べ物の好みが変わったり、臭いに敏感になる人は多いと思う。今まで何とも思わなかった物や好きだった物でも、突然、臭いを嗅いだだけで気分が悪くなったりして嫌いになったりする。私の場合は、「たばこ」と「○シ○のハンバーグ」の臭いに敏感になってしまい、その二つを口にした人には絶対に傍に寄りたくないと思う程だった。妊娠前は夫が隣でたばこを吸っても気にならなかったし、○シ○のハンバーグは夫の好物なので、会社からの帰宅が遅くなった時等の夕飯には、何度も助けられ、私も好きで食べていたのに。

 分娩台に移動すると、「来なくて大丈夫」と、言ったのに夫が病院にやって来て、私の頭側に立った。そして、先生が言う事をいちいち真似して私に命令しだして、私をイラつかせた。先生が、「頭を動かさずにまっすぐして。」と言った途端、夫は私の頭をまっすぐに向かせようと触り、押さえつけた。

「ほら、頭をまっすぐにするんだよ。」

「ちょっと、やめて触らないで。」私が、夫の手を振り払うと、その瞬間、ふっと今一番嫌いな臭いが私の鼻の周りに充満した。

「ちょっと❗○シ○のハンバーグ食べたでしょ❗」私は、堪りかねてそう叫んだ。

よりによって、夫は私が嫌いになった〇シ〇のハンバーグを実家で食べてきたのだ。その臭いを嗅ぐと気分が悪くなると知っているはずなのに。

 後になって、冷静に考えれば、それは無理もない事だ。急に夫の分も夕食を用意しなければならなくなった義母は、夫の好物で、実家にいつも常備している〇シ〇のハンバーグを食べさせる事は必然だ。○シ○のハンバーグには全く何の罪も無い。完全に私の体調の都合だ。夫はそんな私のイライラは全く気にしない性格だ。気が向いて出産に立ち会い、出産が終わると私に労いの言葉も無く、さっさと帰って行った。いや、もしかしたら労いの言葉はあったのかもしれないけど、それよりも私をイラつかせた事で頭がいっぱいで覚えていなかったのかもしれない。

 出産日はちょうどゴールデンウィークの真ん中の平日だったが、私達親子以外は誰も入院して居なかった。私は出産の際、病院の支給する病衣しか身に着けていなかったので、少し寒いと感じていた。出産は、思っていたよりあっけなく終わった。とっても痛くて辛い事が長く続くと思っていたので、先生から「あと2回いきめば産まれるよ」と言われた時は、「え?もう?」と、意外な感じがした。先生の言った通りに、それから2回いきむとあーちゃんは無事に産まれてきた。

 出産が終わり、ベッドに横になったまま病室へ運ばれると、しばらくして看護師さんがあーちゃんを連れてきてくれた。私は母子同室の病院で出産したからだ。さっきまで私のお腹の中にいたあーちゃんが隣のベビーベッドにいるのはとても不思議な気持ちだった。あーちゃんは時々、「ふにゃぁ、ふにゃぁ。」と泣いた。あーちゃんが泣く度に「よしよし、おかあさんはここにいるよ。」と、頭を撫でた。不思議な気持ちがずーっと続いて、興奮していてその時は気付かなかったが、私は高熱を出していたらしい。夜中に看護師さんが来て座薬を入れていった。でも、次の日、すっかり熱は下がり、全く問題なく母子ともに健康で、私は朝から自分の身の回りの物を自分で手洗いしたりしていた。病院のスタッフさんに「まだ、水仕事はしてはいけません。」と叱られたくらいだ。こんなに充実した出産ができたのも、この病院のお陰だと思う。

 今はゴールデンウイーク中なので、病院内はとても静かだった。夫も仕事が休みなので、好きなだけパチンコをしているだろう。きっと、朝からパチンコ店に並ぶだろう。付き合っている時のデートも「パチンコ行っても良い?」と何度も連れて行かれた。私はパチンコはやらないので、隣に座って見ているだけだった。今のパチンコ店で見ているだけなんて出来るかわからないが、その時は一度も怒られなかった。   爆音の店内で、隣でぐるぐる回るパチンコの玉を見ていると、いつも眠くなって、隣でよく寝ていた。

「よく、あんなうるさい所で眠れるね。」と家族や友達から言われたが、パチンコ店の中にずっといると、まわりがいくら爆音でもそれがノーマルになってしまい、全く気にならなくなる。でも話し声は聞こえないから、二人でいても会話は無い。隣でひたすら玉の行方を目で追っていると、いろんな方角からチーンとかジャラジャラとか音がする中で次第に気持ちがふわふわしてきて自然と眠くなってくるのは私だけだったのだろうか。

 案の定、その日の夕方近く、今日はパチンコが出なかったから、子供の顔を見に来たと言っていた。(子供よりパチンコが優先なんかーい!)と心の中で思っていたが、口に出さずに心にしまっておいた。

 出産後、何も無ければ通常一週間位で退院する。それまでは、母乳の出し方や赤ちゃんの世話の仕方等をいろいろ教わって、毎食、母乳が沢山出るようなメニューの美味しいご飯をいただいた。入院する前から母乳を出やすくする為に、乳首のマッサージを教わっていたので、出産後は問題なく母乳を飲ませる事が出来た。あーちゃんが泣くと、自然とおっぱいが張って、何もしなくても乳首から母乳がピューっと出る事があった。人間の身体って不思議だなぁと思う体験だった。

 母子同室の蜜月の期間中、慌ただしい動きがあった。私達親子の部屋は二階だが、一階の分娩室から、いきんでいる妊婦さんの声がはっきりと聞こえた。

「死ぬ~、死ぬ~助けて~。」という声が病院内に響き渡った。

「痛い~。死ぬ~。痛い~。助けてぇ~。」

その妊婦さんは、ずっと叫び声を出していた。

え?え?出産する時の声って、こんなにはっきり聞こえるの?こんな声を他人に聞かれたら恥ずかしいと思った。

え?私の時はどうだったろう?私は、出産は長く苦しく物凄く辛いものだと思っていたので、出産中は口を閉じて、必死に耐えて、全く声は出さなかった。はずだ。

あぁ~、でも、「○シ○のハンバーグ食べたでしょ❗」は大声で言ったかも知れない。

あぁ、私が出産した日の夜に誰も入院していなくて良かった~。

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