環境を守ることー感性の源としての自然ー
夏目アキ
環境を守ることー感性の源としての自然ー
「環境活動」と聞いて、多くの人はどこかに嫌悪感を覚えるだろう。約二年前、パナマで高速道路を封鎖した環境活動家が射殺されたというニュースがあった。環境活動という言葉に過激な印象がつきまとうのは、こうした事件の記憶が残っているからだろう。本来、「抗議」とは、相手に理解や同情を促すための手段である。しかし、誰かを傷つけたり、社会の機能を止めたりする抗議は、理解どころか反発を生むだけだ。その結果、「環境活動」という言葉そのものの価値を下げてしまう。
人々が環境活動に距離を置くもう一つの理由は、生活への直接的な負担だ。レジ袋の有料化を例に挙げれば、「環境のため」と言われても、日々の暮らしに余裕のない人々にとっては理不尽に感じられる。環境を守る大切さを頭では理解していても、現実の重さの前ではその思いは霞む。しかも、環境保全を訴える人々の多くは、生物学者や自然愛好家など、自らの興味関心の延長で語っている場合が多い。「この森にはアカショウビンが棲んでいるから伐採しないで」と言われても、鳥を知らない人には何も響かない。環境保全の本質を「自分の好きな生き物を守るため」とただのエゴでしか説明できなかった私たちこそ、ある意味で“環境破壊の共犯者”なのではないか。
だから私は、環境を守る本当の理由を語りたい。
人は感性によって生きている。感性は個性の基盤であり、人生の選択をも左右する。感性に優劣はないが、人々の心を動かす「美しい感性」というものは確かに存在する。文学の世界において、川端康成はその最たる例だ。私の愛読書『伊豆の踊子』には、峠で踊り子と別れる場面がある。川端はその別れを「涙」ではなく、「白い手ぬぐいが風に揺れる」という描写で表した。初めてこの一文を読んだとき、私はそのあまりの美しさに涙を流した。これは川端康成の天才的な感性があってこその表現である。彼は悲しみを言葉で説明するのではなく、風の動きで感じさせたのだ。
では、そのような感性はどこから生まれるのだろうか。
美しいものを書くためには、美しいものを感じ取る経験が必要だ。都会の夜景や建築にも人工的な美があるが、自然の中にある「不完全で、それでいて調和のある美」は、より根源的な感性を育てる。もし私たちが環境を壊し続け、森や川、鳥の声までも失ってしまえば、川端のような感性を持つ芸術家は二度と生まれないだろう。芸術だけではない。科学や哲学の発想もまた、自然からの刺激によって養われる。何を探求するにも、感性はその出発点である。感性を育てる環境が失われれば、人間の創造力そのものが貧しくなる。
だからこそ、環境を守るとは、単に動植物を守ることではない。
それは、人間の感性を未来へと継承する行為である。自然は人の心を映す鏡であり、創造の源泉である。私たちが自然を守るということは、つまり「人間らしさ」を守ることに他ならないのだ。
少しでも環境保全の重要性を理解してくれると嬉しい。
話を少し変えたい。環境保全の方法のあり方について語りたい。
私は近年の環境保護のあり方について気になることがある。多くの地域で「環境を守ろう」という取り組みが進められているが、その多くが本質を見誤っているように思える。環境保護というと、まず「生物採集者対策」が行われることが多い。希少な昆虫や魚類の採集を規制すれば環境が守られると考えるからだ。しかし、それはあまりに表面的だ。どんなに熱心な採集家や業者がいたとしても、彼らが一年に採れる生物の量などたかが知れている。それよりも、森林伐採や河川の改修など、大規模な開発行為のほうが、環境に与える影響ははるかに大きい。にもかかわらず、そこにはなぜか目を向けようとしない。
環境保護の現場では、「種の保護」が主な目的とされることが多い。たとえば、ある地域にオオサンショウウオが生息しているとする。天然記念物であり、絶滅危惧種でもあるため、行政や市民団体が「この種を守ろう」と声を上げる。もちろん、個体数が極端に減少している場合には、応急処置として個体保護を行うことは必要だ。しかし、それを恒常的な環境保全の中心に据えるのは間違っている。なぜなら、生物とは環境の一部に過ぎないからである。
オオサンショウウオを守るために最も重要なのは、彼らを取り巻く生息環境そのもの――澄んだ水、安定した流れ、落葉樹林の陰、そしてそこに生きる小魚や昆虫たち――を維持することだ。自然とは、生物と環境の連鎖によって成り立つ巨大なシステムであり、その一部だけを切り取って守っても、全体が崩れれば意味をなさない。いわば、倒れかけた家の一本の柱だけを補強しても、家そのものが傾いたままでは崩壊を防げないのと同じだ。
現在の環境保全は、この「家全体の構造」を見ようとしない傾向がある。種の保護活動はメディアに取り上げやすく、成果も目に見えやすい。その一方で、地味で長期的な「環境の保全」は評価されにくく、政治的にも注目されにくい。だが、本当に価値のある環境保全とは、目に見えない時間の流れの中で行われるものだ。森を伐らず、川を濁さず、土地の循環を保つこと――それこそが、永続的な環境保全の基盤なのである。
私は、環境保全の中心を「種」から「環境」へと移すべきだと考える。個体の救済に終始するのではなく、その個体を生かしている世界そのものを守るべきだ。人間もまた、自然という大きな生態系の一部であり、私たち自身の未来は、その環境の持続性の上に成り立っている。
環境保全とは、特定の生物を囲い込むことではない。生命が連鎖し続ける「場」を守ることこそが、その本質なのだ。
環境を守ることー感性の源としての自然ー 夏目アキ @Natumeaki
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