能登の荒波
湯本優介
能登の荒波
「折木商。どうです、景気は」
「おおこれはこれは先生。お久しゅうございます。へえ、おかげさまで」
その日料理屋折木の戸を叩いたのは、関東一の陶芸家と名高い本郷伊左衛門先生その人だった。
「本日はどうなさったんです? 先生がお手紙もなく突然いらっしゃるなんて珍しいじゃありませんか」
「少し近くへ用があったんですが、やはりこの辺りへ来たのなら食事はここしか無いと思いましてね」
「先生にそこまで言っていただけるとは、いやはやありがたい限りです。ささ、座敷の方
へ。特別いい酒をご用意しますよ。おい尚三、尚三!」
「はい、はい」
奥から、見かけ十五歳程の少年が駆け出してきた。尚三と呼ばれるその少年は、先生の顔を見るなり、すぐにお辞儀をした。
「これは、陶芸家の本郷先生。ようこそ、足を運んでいただきありがとうございます」
「尚三や、徳利と猪口。それから、そうだな……鶴八丁を座敷へ運んでくれ」
「はあ、ですがいいんですか? あれは晩酌用にっておっしゃってましたけど」
「先生がお見えになってるんだ。今うちにある一番いいのをお出ししないでどうする。ほら急げ!」
言われて、尚三は足早に厨房に入っていった。靴棚の上に飾っている「能登の荒波」をはじめとして、先生はこの料亭のためにいくつもの作品を焼いてくださっている。日本全国の雄大で優美な自然をそのまま切り取って持ってきたような先生の作品は、お客の目を引く折木自慢の内観を支えている。亭主の先生がいらっしゃった時の張り切りぶりは、そのご恩のためだ。それは店を閉めている日であっても変わらない。
「ほう、鶴八丁といえば、勝浦の銘酒ですな」
「さすが、お詳しい。辛味がきつくて癖の強い品なんですが、私はこれが言いようもなく好きでしてね。日本酒といえば関西のイメージが強いですけど、関東の酒も質では決して劣りませんよ。それに関東で飲むんなら、関東の土地になじんだ酒に越したことはありませんから」
「はは、それもそうだ」
そう話しながら、二人は座敷に着いた。そこは一人向けには少々広く、むしろ落ち着かないような気までしてくる。「小席でよろしいのに」と先生はおっしゃるが、亭主はどうしても座敷でもてなさずにいられないようだった。尚三が酒を運んで来るのを待つ間、亭主と先生はまたしばらく雑談に花を咲かせた。
「さっきの子はお弟子さんかい?」
「いえそんな大したものでは。知人の子でしてね、雇うどころか預かるつもりもなかったんですが、私や従業員の年齢も考えますと、いくら客足の少ない小料理屋といいましても厳しいものがありまして」
「ああそうでしたか、お体は大事になさってくださいよ。ここの料理が食べられなくなってしまっては、器作りに身が入りませんから」
「ありがとうございます」
しばらくして、尚三が盆を持って座敷に入ってきた。あわせて亭主が袖をまくり、先生へ質問する。
「さて、肴は何に致しましょうか」
「では、卵粥をお願いできますか」
「えっ。……先生、先生の注文に文句を言うわけではありませんが、うちでは焼き物や刺身もご用意できます。先生もいつもは、そちらになさるじゃありませんか」
先生は顔を上げ、窓の方をご覧になった。亭主の不安を煽るような長い一呼吸を挟んで、視線もそのまま、ようやく口を開かれた。
「酒が得意じゃなかった頃、体の弱い私を気使って、母が食わせてくれたんです。味は薄くてとても肴と呼べるようなほどではなかったんですが、妙に身にしみましてね。ほら、今日は引き締まる寒さでしょう。こういう寒さはその日のことを思い出させるんですよ」
「そうでしたか、失礼しました。すぐにご用意致します。腕をふるいますよ。尚三、その間先生のお酌をしなさい。失礼のないようにな」
「はい、わかりました」
亭主がそそくさと座敷を出ると、尚三は徳利を持ってお酌を始めた。尚三は酒を注いでいる間、何をお話ししたものかと必死に考えていた。尚三がそうして黙っていると、何やら先生は、徳利を持つ尚三の手元を、じっとご覧になっていた。
「ひどく手荒れしている。それに、袖のところがうず黒くなっているね」
「すみません……」
「ああ、いやすまない。文句をつけたかったんじゃないんだ。この寒いのに、皿洗いをぬかっていないなと、むしろ感心していたんだよ。そういう手荒れにはね、ほうれん草や小松菜なんかを食べるといいよ」
尚三の酒を注ぐ手が止まると、先生は一口にそれを飲み干され、それから満足そうに、しとやかに猪口を置かれると、再び尚三の方に目線を向けなさった。
「昔から抜けない癖でね、人の細かいところが気になってしまうんだ。……あれ、よく見ると、手荒れとは別に小さな胼胝があるね。ペンなんかを長いこと持つとできるものだ。執筆の趣味でもあるのかい?」
尚三はぎょっとして、思わず持っていた徳利を落としそうになった。すんでのところで掴み直したものの、中身が少しこぼれてしまったので、尚三は慌てて卓上の布巾を手に取り、それを拭きとった。それから布巾を持ったまま、背筋を伸ばして頭を下げた。
「大変失礼しました。ええ、先生のおっしゃるとおり、自分はよく小説を書いています。実は、ひそかに作家を志しておりまして……」
「ほう、素晴らしいことじゃないか。働きながら自分の夢を追いかけるというのは、誰にでもできることじゃない。しかし、今の慌てぶりは引っかかるね」
尚三は息を飲んだ。俯いて丸くなってしまったその姿は、お世話になっている客人に見せるにはふさわしくないものだった。
「……自分の作品は、世に出せるようなものじゃないんです。これまで何作も何作も書き続けてきました。しかしそのどれもが、稚拙で不完全で、出来損ないの文章にしかならないんです。このまま執筆を続ける資格が、自分にあるのかどうか……」
尚三は、自分でも気づかないうちに、作務衣の裾を強く握っていた。
「その不安がさっきの動揺につながるわけか……」
先生はそれからしばらく下を向いて、目をつぶっていらっしゃった。その表情は他になく真剣で、さっきまでの気の良い親戚のような雰囲気も、今の先生にはもうなかった。尚三は少し恐れていた。実は、尚三は今よりずっと幼い頃に、親に連れられて相模原にある先生の工房へ伺ったことがある。ただ注文していた商品を取りに行っただけだったのだが、そこでたまたま一瞥した先生の職人としての横顔を、尚三は今でもよく覚えていた。あのときも同じように、尚三は少し恐れていた。
少しして先生はおもむろに立ち上がり、「ちょっとここで待っていてくれ」とだけおっしゃって、部屋を出ていかれた。先生を待つ間、尚三は気が気でなかった。成り行きで自分のことを話してしまったのを後悔しているうち、また少ししてから先生が、「能登の荒波」を抱えて座敷へお戻りになった。そして、それを机の上に置かれる頃には、先生はまたあの柔らかく親しみやすい雰囲気と表情に戻っていらっしゃった。
「尚三くん、といったね」
「はい、そうです」
「これは、ここの玄関に飾ってある『能登の荒波』という、私の焼いた欠皿だ」
「はい、よく知っています。まさに吹き乱れる大波を思わせる、素晴らしい作品です」
「本当にそう思うかい?」
尚三はその瞬間、体中に一本の波が走ったように、どきんと胸をつかれたのだった。実のところ、尚三はその作品を見る度、「ただの割れた皿じゃないか、何をありがたがることがあるんだ」と、無粋な気持ちを抱いていたのだ。そのところを、先生には見透かされてしまっていたらしい。
「……正直なところ、自分には、この作品の優れたところがわかりません。芸術には疎いもので」
尚三が少しふてくされたように答えると、先生は、「いや、大丈夫だよ」と言葉をお返しになった。
「君の感覚は間違っちゃいない。大半の人間の目には、この皿はただ大きく欠けていて、でこぼことしているだけの出来損ないにしか見えないだろう。いや、むしろ、その感性のほうが正しいのかもしれない」
尚三は言い返せなかった。本当に何もかも、思っていたことを全て言い当てられてしまった。膝の上で固定されているべき自分の手の居所を見失っていた。
「でもね、私はこれをこの形にするのに苦労させられたんだ。豪雨に襲われた能登で目にした、命を宿している波を表現するのにね。何日何週間やってもしっくりこなかったんだが、三ヶ月向き合い続けて、突然この姿がはっきりと見えたんだ。それだけのこだわりを持って、この皿を焼いたのさ」
先生が何を伝えたいのか、尚三には未だわからなかった。先生は『能登の荒波』を見つめたまま、尚三の方へ顔を向けずおっしゃった。
「君の作品は違うのかね」
そこではじめて尚三は、この話の矛先が陶器でなく自分に向けられているのを思い出し、はっとした。机の上の陶器を、まじまじと見つめずにいられなかった。
「この皿だって、君の小説と同じで不完全。世間の人は、もっと綺麗で正しい形を好むんだろうね。だけど私は、世間体に合わせるんじゃなく、自分の思いを素直にこの皿にぶつけることを選んだ。その実直さが一部の人に伝わったから、この皿は評価されたんだと、私は自負しているよ」
突然、尚三の目に、寄せては返し、日夜岩に懸命に身をぶつける、見たこともないはずの「能登の荒波」の姿が見えた。そこに見えた波は確かに生きていたし、この陶器もまた生きていた。
「君の作品は違うのかね」
同じ言葉でも、今度はぐんと重みを感じた。自分の小説は、こんなふうに命を宿してくれているだろうか。それでも尚三には、確かに言えることが一つだけあった。
「自分を殺してまで、小説を書きたいとは思いません」
「……いい顔だ。不完全だとか、稚拙だとか、質はどうだっていいと思うよ、私は。ただ、そこに君の熱意やら楽しみやら、そういうものを作品に注げなくなったのなら、すぐに筆を折りなさい。体裁や流行なんてものに、君の真意が負けようはずがないさ」
「はい、ありがとうございます」
「お待たせしました」
そこで、亭主が卵粥を持って帰ってきた。亭主が机の上に卵粥を置くと、先生は尚三に猪口を差し出された。そこに尚三が鶴八丁を注ぐと、静かで波一つ立たない酒の表面に、外から日が差し込んだ。
「今日は寒いですが、気持ちのいい天気ですな」
「ええ、まったくです。ささ、ぜひ温かいうちに、粥の方も召し上がってください」
「そうさせてもらいましょう」
亭主と先生の話がまた盛り上がってきて、尚三はごく自然に座敷を出ていった。先生は尚三が部屋を出たのをしっかり見送ってから、一口卵粥を召し上がった。
「美味いもんですなぁ。あの薄味の粥がこんなに美味くなるとは」
「ええ、そりゃあ、先生へお出しするものですから、私のできる限りを込めて作らせていただいたので」
「なるほど、折木商もまた、創作家というわけですな」
「そんなおおげさな。いやしかし、ありがとうございます」
二人は、そうして気の済むまで話し続けた。先生がお帰りになる頃には、外では夕日が燃え盛っていた。尚三は先生を見送ってから、それが沈むのをじっと眺めていた。そしていよいよ夜になると、自分の部屋へ駆け出してペンを手に取り、思いのままに用紙に文章を書き連ねていった。その顔に一切の不安の様子はなく、ただ尚三自身、書くというそれだけを生き生きと楽しんでいた。
今日も「能登の荒波」は、料理屋折木の自慢の内観を支えている。
能登の荒波 湯本優介 @yusuke_yumoto
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます