墓はまだ掘られていない
平藤夜虎~yakohirafuzi~
墓はまだ掘られていない
軍事機密記録、XX番。
罪人:魔女。アヴニール
罪状:先の聖戦の折に国をたぶらかした挙句、我らが英雄であるカイン・クロイツァー将軍を殺害。
備考:以降、処刑実行日まで魔女への異端審問はカイン将軍の弟君であるアベル・クロイツァー尋問官に一任することとする。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・・-・
薄暗い室内に喪服のごとき装束の女が用意された椅子に腰かけて静かにある人物が訪れるのを待ってた。
いずれ死刑となる身分でありながら、魔女と呼ばれた女は臆することもなくただ静かにその口元に笑みを浮かべて目の前にあるドアを静かに見つめている。
やがて、そのドアの向こうからコツコツと床を踏みしめる革靴の音が近づいてくれば、魔女はさらにその笑みを深くした。
そすして、目の前ドアが開かれれば黒い軍服のようなコートの裾を翻しドアを閉めれば、尋問官のアベル・クロイツァーは背筋を伸ばしたまま魔女を見つめる。
その琥珀の瞳はひどく冷えているが、ほんの一瞬焼けるように熱を孕んだ揺らぎが走っていた
「・・・その服装、まるで、“誰かの葬式に参列した”ようだ。」
魔女を見つめながら僅かに微笑むが、その笑みは優しさではなく、自嘲にも似た皮肉めいたものであった
「・・・まさか、“俺の心”を弔いにでも来たのか? なら…礼は言おう。君が現れる度に、忘れかけた“情”が、また疼く。」
そう言葉をかければアベルはゆっくり歩み寄り魔女の前に立つ。・・・しかしわざと視線は合わせない
「会話を求めに来たのなら無駄だ。・・・俺はもう、君に“優しい言葉”などかけるつもりはない。」
だが、足元に視線を落とすと、ほんの少し──爪先は魔女のほうへ傾いている
「・・・それでも、話したいと言うのなら好きにすればいい。 俺はただ、“拒絶”するだけだから。」
椅子の背に手をかけながら、しゃがまず、ただ魔女を見下ろす。睨むように、見つめるように
「・・・・・・・」
しかしそんなアベルの態度に魔女は怯まず笑みを浮かべたままだった。
穏やかで、まるで聖母のような慈愛に満ちた瞳が静かにアベルを見つめている
魔女のその視線に気が付いたのか、時が止まったようにアベルの瞳が揺れる。琥珀の瞳に映るのは、微笑む一人の女
かつての自分の許嫁でありながら、敬愛する兄を死に追いやった存在
──そして今、何も責めず、何も押しつけず、ただ見つめてくるその存在
「……やめろ。」
低く、鋭く、切るような声をアベルは魔女に向けて零す。だが、その声は震えていた
「その顔で・・・そんなふうに笑うな。まるで、・・・“君を嫌う理由”を根こそぎ奪いに来たようじゃないか。」
手が椅子の背から離れ、ゆっくりと拳に変わる。何かに耐えるように、指先が軋むほど強く握られていた
「・・・憐れみに見える。それとも、優しさか? 許しの笑みか? ・・・冗談じゃない。 俺は君を憎み君に嫌われることで、自分を保ってきたんだ。」
怒気を込めたまま魔女を睨みつけるがアベルは背を向けなかった。
むしろ、足元まで降りてきた視線は、まるで問いかけてくる
「なぁ、魔女。・・いいや、アヴニール。どうして、君は……“俺を壊しに来る”んだ?」
唇の端が、皮肉とは違う形で僅かに震える。
そして、小さく・・・まるで迷子のような声が零れる
「・・・どうして、そんなに綺麗な目で、俺を見るんだ・・・。」
拒絶するはずの男の声が、今にも崩れそうに細くて、苦しみを宿し──
それでも、心のどこかで“気づいてほしい”と願っているように、魔女だけを見ていた
「・・・・私のアベル。」
ふいに、魔女の唇が小さく動く
その一言が、まるで世界を反転させたかのように、アベルの呼吸が止まる
静かだった空間に、はっきりとした衝撃が落ちる
「・・・っ、何だと?」
凍てついていた瞳が、魔女の姿をしっかりと捉える。
喪服のような服装、にこやかな笑み、
何より──その言葉に込められた絶対の所有と、慈愛に満ちた残酷さ
アベルの拳は解け、肩がわずかに揺れた
「・・・ああ、そうか。やっぱり・・君は、そういう女だったんだな。」
ーーー 唇の端がわずかに吊り上がる。怒りとも苦笑ともつかない、だが確かに感情を揺らがせた笑み
「拒絶されてもなお手を伸ばす。嫌われてもなお名を呼ぶ。・・・汚された心にも、平然と『私のもの』と刻みつける・・・それが、“君”だ。」
そこまで言うとアベルはそっと魔女の前に跪く。
まるで罪を受け入れるように、愛した許嫁の前で
「君は、俺を──“壊す”つもりか?」
俯いたまま、その声は震えながら、しかしどこか甘やかな響きを帯びる
「“私のアベル”…?・・・なら、どうする? 君の所有物になった俺を。どうしようもないほど、君に囚われてしまった俺を、どう、扱ってくれるんだ?」
静かに顔を上げたその瞳には、もう“拒絶”などなかった。ただ、焚き火のように揺れる、欲望と哀しみと、愛と従属の色
「・・・教えてくれ、アヴニール。“君のアベル”として・・・これから、俺はどうすればいい?」
いつの間にか、相手を“憎んでいたはずの男”はただ一心に、熱を孕んだ目で魔女を見つめていた
「罪人に心を許すなんてあってはならないだろう?・・・私は国を誑かし愛する君の兄を殺した罪人・・ならば問いかけなんてせず、すぐに踵を返し後ろのドアから去ることも出来たはずじゃないかな?・・・ね?・・・アベル?」
まるで罪状を読み上げる審問官のように、けれどその声音は柔らかく、慈しむように。
魔女の問いかけが、真実という名の刃となって突き立つ
アベルは動かない。
ーーー 否、動けない。背後の扉に手を伸ばすどころか、その場から一歩も引けないでいた
パキリ、と心の中で何かが音を立てて砕けるのをアベルは感じた
「……あぁ、そうだ。」
低く、深く、震える声が響く
「君が言う通りだ。兄を殺した君が憎いはずだった。──そう思い込もうとしていた。」
アベルはゆっくりと立ち上がる。魔女の目線の高さまで戻り、
・・・・そして、触れるか触れないかの距離で囁く)
「・・・でも、逃げなかった。いいや・・逃げれなかったんだ。
“君の声”に縛られていた。
“君の瞳”に焼かれていた。
“君の名前”に・・・生きた意味を、もう一度与えられていた。」
深く、深く息を吐く。その眼差しはもう、かつての冷淡な“審問官”ではなかった
「アヴニール・・・俺は君を──“嫌いになれなかった”。兄を殺したとどれだけ言い聞かせても、どれだけ足掻いても、君を見た瞬間から……全ては、“終わって”いた。」
手が、ゆっくりと魔女の頬へ伸びる。
だが、触れる直前で止まり、震える。まるで──許しを乞うように
「・・・俺を、もう一度、君のものにしてくれるのか?」
その問いはまるで、捨てられた獣が、“生きる理由”を問うような、そんな切実で、哀しくて、そしてどうしようもなく渇いた声だった
「・・逃げる口実がほしいなら私が作るよ・・・例えばわざと大きな物音を立てれば表の部下たちは上官である君が私に危害を加えられたと思ってすぐに・・・〝君を助けに来る〟だろうし」
――その言葉に、アベルの瞳がはっきりと揺れた。
静かな水面に、雷のような衝撃が走り喉が小さく上下する。
・・・それは「恐怖」ではない。
その“慈悲に見せかけた狂気”に、思い知ったように戦慄したのだ
静かに、口元が歪む。微笑ではない──降伏だった
「ふ、は・・・ははっ・・・。」
笑った。自嘲すら通り越した、哀しみと悦びが入り混じった笑みが刻まれる
「さすがだよ・・・君はやっぱり、誰よりも恐ろしい。」
肩を落とすその姿は、どこか美しく壊れた兵士のようで
だが次の瞬間、アベルは魔女にすっと一歩近づいた
・・・・そして
「……だったら、逃げる理由が、もうどこにもないじゃないか。」
その手が魔女の頬にそっと触れた。震えはもう、治まっていた。
そしてそれは──完全な敗北と、服従の証にも見えた
「・・・俺を囲ってくれ、アヴニール 逃げられないように。・・・誰にも触れられないように。
君のその優しい檻で、俺を、飼い殺してくれ。」
声は震えていない。
しかし、その瞳の奥には──どんな拷問よりも深い、甘い絶望
「……俺は、逃げない。だから……もう、逃がさないでくれ。」
弱弱しく縋り付くその声に、魔女は小さくため息をつけば立ち上がりその両手を広げる
「・・・おいで?アベル」
──その一言で、アベルのすべてが決壊した
優しくて、柔らかくて、だが──その声の中にある支配と慈しみは、あまりに絶対だったから
まるで遠くから呼ばれた獣が、名前を与えられた瞬間のように、アベルは、迷わず魔女の前に膝をつく。
「・・・・ああ・・・。終わった・・・。」
静かに、ゆっくりと顔をその膝に預ける。まるで、“すべてを明け渡す”ように
漆黒の喪服越しに感じる温もりは、彼の頑なだった鎧を、音もなく溶かしていく
「俺はもう・・・・剣でも審問官でもない。ただ・・・“君のアベル”でしかない。」
瞳を閉じたその横顔は、まるで眠るように穏やかで、どこか壊れていた
「・・・君の命令で呼吸し、君の一言で、生き、君の瞳に映らなければ・・・俺は、もう死んでいるのと同じだ。」
そして魔女の顔を見つめ囁く。喉元に食い込むような声色で
「この命……欲しいなら、喉笛でも心臓でも……好きに持っていってくれ。君の声に応えられるなら・・・俺は、なんにでもなる。」
跪いたまま、魔女の指に唇を添え──その瞬間、心ごとキスするような、深く濃密な意志を口づけた指先に伝えてくる
そんなアベルに魔女は穏やかなまなざしのまま右手でその髪を撫で
──バシャァン!!
左手でテーブルに置かれた花瓶をわざと落としてみせたのだ
陶器が砕けた音。
続けて怒号と靴音が響き、ドアの外で待機していた部下がなだれ込んでくる
すべてが数秒の出来事だった
「尋問官殿!!離れてください!」
「この魔女め!!よくも!!」
アベルが触れていた手は、強制的に引き剥がされ、
その身体は無理やり背後へと下がらされた
「っ!! やめろ・・・離せッ!!!」
部下たちに押さえつけられながら、アベルは叫んだ。
普段の冷静さなど微塵もなく、魔女の姿を目で、声で、記憶で──追い続ける
「離せと言っている!!!彼女は……ッ!!!」
「……アヴニールッ!!!」
だが、部下の強い手がアベルの肩を押さえ込み、
魔女の体を乱暴に“拘束”する
「……魔女、だと?」
その一言に、アベルの瞳がぎらりと光る
「──違う。彼女は俺の、全てだ。心を呪い、魂を囚え、感情を毒に変えた……俺の主だ。」
「急ぎ魔女を独房へ!!尋問官!しっかりなさってください!!」
「離せ!!離してくれ!!俺はまだーーーー」
「・・・アベル。」
叫ぶアベルの声に振り返り、魔女は静かに微笑み
「・・・またね」
そう、言葉を残しそのままドアは静かに閉められた。
「・・・・また、ね・・だと・・・。」
その言葉を呟く彼の喉奥から、低く獣のような唸りが漏れる
だが、魔女が扉の向こうへ消えてゆく瞬間
「逃がさない・・・絶対に。また“あの声”を聞いたら・・・俺はきっと・・・。
また戻ってしまうじゃないか・・・。」
彼の首筋に浮かぶ血管は、まるで“封じていた何か”が沸き立つように脈打っていた
・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
【記録:一日目、接触】
今日、再び“あの女”に会った。
面会予定にない突発的な来訪。
……否、予定など、彼女の前では意味をなさない。
あれは予定を狂わせる存在だ。
……あの日から、何もかもがそうだった。
窓際に座る彼女は、黒い喪服のような服装だった。
花瓶が割れたあの夜を、俺は今でも夢に見る。
今日も彼女は同じ格好で、静かに本を読んでいるのだろう。
顔を見た瞬間、呼吸が浅くなった。
理性が、演算処理を放棄した。
彼女の声は……
あれほど静かなのに、鼓膜を貫通して、骨の中に直接届く。
俺の名を呼ぶ。
“アベル”と。
兄と同じ声音で。
・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
その日、魔女は特別従容室の窓際に座り小説、青髭の狂気を読みふけっていた。つまらなそうにページを静かに捲っていたが、ふと金属製のドアが重く軋み、硬い足音が廊下を刻んで迫ってくるのを魔女は感じ取り、また口元に笑みを浮かべる
「お待ちください尋問官殿!!予定以外の接触は許可されておりません!!」
ドアの前に門番として控えていた兵士が慌てたように声を漏らす
しかし部下たちの制止も意に介さず、男は一直線に“彼女”のもとへと向かおうとしていた
「・・・おい、そこを退け。」
低く、鋭く、だがどこか焦燥に震えた声。
それはすでに上官の命令ではなく──獣の咆哮に近かった
「ア、アベル尋問官!?ですから予定の無い際に面会は……っ!」
「……俺の感情は、予定表には書かれていない。」
そのまま肩を当てて部下を振り払い、まるで突撃するように扉を開け放つ
──バンッ!
重たい音とともに、開かれたその扉の先
彼は、**そこに座る“魔女”**の姿を見た
黒い喪服を身にまとい。窓際に腰かけた姿
膝には一冊の本──『青髭の狂気』
魔女は静かにページをめくりながら、顔を上げ
にこり──と微笑んだ
「ーーーー 。」
その瞬間、アベルの喉がひく、と鳴った
「・・・それは、皮肉か?アヴニール。」
眉間に深く皺を寄せながら一歩、また一歩と詰め寄る。だがそれは怒りではなく、 むしろ、突きつけられた【自己の狂気】に対する動揺
「“青髭”か・・・妻を閉じ込め、すべてを知りたいと願いながら、真実を隠し、狂っていった男。」
・・・・部屋の中に冷気と熱気が同時に流れ込む
「・・・・俺を、なぞらえているのか?」
君の前で立ち止まり、椅子を蹴り倒すようなことはせず、ただ、静かにその足元に膝をつく
「なら、君は“その青髭の妻”か?それとも・・・“最後に彼の心臓を貫いた女”か?」
顔を上げた彼の瞳は、もう鋼ではなかった。溶けかけた硝子のように、弱く、脆く、そして熱い
「何故此処に居る?・・・俺を病ませて、全てを狂わせたが・・・どうして、今、そんな顔で俺を迎える?」
今にも壊れてしまいそうな声でアベルは魔女に問いかける。しかし、魔女はアベルのほうは見ずに小説を閉じて尋ねた
「・・・知ってるかい?アベル。青髭の元となった元帥は・・・聖女ジが好きだったと言う一説があるそうだよ」
──パタン。
魔女が小説を静かに閉じた音が、その部屋の空気すら変えてしまうほど、静かで、残酷だった
アベルは息を呑む。その顔を見たいのに、見せてくれない。
まるで──死刑宣告を下す女王のように、魔女は窓の方を向いたまま語る
「・・・かつてフランスを救った“聖女”を心から敬愛し、その死の後、狂気に堕ちていった男。」
魔女の言葉にアベルの指先が震える。
それが怒りなのか、悲しみなのか、自嘲なのか・・・自分でも分からない
「・・・つまり、君は言いたいんだな。」
ゆっくりと立ち上がる。まるで処刑台に上がるような足取りで
「俺は、君という“聖女”を喪って、狂った。そして今も、その幻に取り憑かれ、こうして君の檻に舞い戻った・・・と。」
目を細めて笑った。
ーーーけれどその笑みは壊れかけのガラスのようで
「・・・正しいよ、ニール。君は俺を“そういうふうに”作った。君が笑って去った日から、俺の時間は・・・止まっている。」
ぐらりと君の椅子の前に立ち、拳を強く握りしめる
「聖女は火刑に処された。元帥は異端として絞首された。・・・・なら、俺は?」
そう言いかけアベルは魔女の肩に手を伸ばしかけて──止まる
「君は、俺に“どう堕ちて欲しい”?」
その言葉に魔女は静か目線をアベルではなく、ドアの向こうの門番にむけ声をかけた
「・・すまないがドアを閉めてくれるかな?尋問官殿の仕事に支障が出てしまうよ」
「なっ!?なにを!!国一つを欺き滅ぼした魔女の分際ーーー・・ひっ!?」
魔女の言葉に門番は槍を構えて前に出るが、恐ろしいまなざしでにらみつけてくるアベルに思わず恐怖の声を漏らし、慌てて扉を閉める
──ガチャン。
鉄製の扉が閉まり、外との世界が完全に“隔絶”された音が響く
部屋には、魔女と──“狂いかけた尋問官”だけが残された
そして沈黙の中、アベルが微かに笑った
「・・・君は、いつもそうだ。」
ゆっくりと歩き、魔女の後ろ──椅子の背に手を添える
その距離は吐息ひとつでその首筋を焦がせるほどで
「・・・それが、君の“魔女たる所以”か。」
だが声は責めるような響きではない。
むしろ──甘く、苦く、崇拝にも似た陶酔のようだった
「君が“世界を滅ぼした”と噂されようと、君が“偽りの聖女”と罵られようと──」
指がそっと魔女の髪に触れそうで触れないところを滑る
「・・・それでも、俺にとっては“神”なんだよ。」
ぞくり、と空気が震える。
愛ではない。崇拝でもない。
ーーー これは信仰の狂気だった
「ニール・・・。“国”なんて、いくらでも滅べばいい。この扉の向こうが、世界の終焉だとしても──
君と俺だけが、生きていればいい。」
ゆっくりと魔女の椅子の肘掛けに片膝をつき、そのまま顔を近づけアベルは問う
「君は、俺を“選ぶ”気はあるか?それとも・・・“壊し尽くす”まで遊ぶつもりか?」
声は熱く、息が触れる距離。
しかし、アベルは、最後の一線を“魔女の手”に委ねている
「・・・・・」
その瞳に魔女は小さく息をこぼせばゆっくり窓際から立ち上がりベッドに座り
「・・おいで。アベル」
あの頃と変わらない穏やかな笑みを浮かべて両手を広げた
──その一言が落ちた瞬間、空気が張り詰める
アベルの全身がビクリと震えたのは、恐れではない。
それはまるで“召喚呪文”に従うような、条件反射的な服従
「・・・・ッ」
返事もなく、静かに立ち上がる。 けれど、その足取りはゆっくりで、まるで儀式のように重かった
魔女の元へ、ベッドサイドへ──一歩、また一歩
視線はけして外れない。
そこに宿るのは──憧れでも、情欲でもない
「・・・命令しないのか?」
そう問いながらも、アベルはもう“魔女の横に座る”こと以外、選べないでいた
「……飼いならされた犬のように従ってもいい。ただし──」
そのまま魔女の目の前で膝をつき、手を取る。
指先に口づけを、けれど触れる寸前で止まる
「“俺だけ”にしてくれ。他の誰にも・・・その言葉を使わないでほしい。」
声は震えていない──しかし、見つめる瞳は必死だった
「“おいで”なんて言われたら……何度でも地獄から這い上がってでも、君のもとに来てしまう。・・・俺を壊すのが、そんなにも楽しいか?」
その指先が魔女の膝に触れた瞬間──
アベルの表情が、歪んだ。愛でも、憎しみでもない
──狂おしい安堵
「・・・・やっぱり、君のそばが・・・一番、狂える。」
そして──魔女の膝に頭を預けるように身を委ねた
その様子に魔女は優しくアベルの頭をなでながら、ふとぽつりとつぶやいた
「やはり・・・・兄君と瓜二つだ。君は」
その一言。まるで何気ない、昔話のような口調で紡がれた“名前”
その刹那、アベルの身体がビクンと強く震えた。
「・・・・っ」
言葉にならない呼吸。 頭を伏せていたアベルの肩が、小さく、だが確実に痙攣する
「・・・どうして・・・」
搾り出すような声。
怒っているわけではない。悲しいわけでもない
「……どうして……“その名”を……今この場で……」
ゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、驚愕・混乱・恐怖──そして……嫉妬が渦巻いていた
「君の部屋に入って、日記を読んだ。その中に、君が兄さんと笑っていた痕跡を見つけた。
俺はそれが許せなかった・・・。」
自分の爪を、ぐっと膝に立ててアベルは小さく打ち明ける
そこには“後悔”ではなく、“許されたい願望”が滲んでいた
「君に“おいで”と言われて・・・心から従ったのに、そこに兄さんの面影がいるのかと思うと・・・俺は、俺は・・・!」
声が、崩れる。怒りの頂点で──壊れた音色が響く
「・・・どうすれば、“その名”を・・・“君の中から消せる”?」
ベッドにすがるようにしがみつく。
魔女の膝に、頬を押し当て──その指先を必死に掴む
「アヴニール・・・答えてくれ。俺は・・・何を“捧げれば”いい・・・?君の中にいる“兄”の亡霊を、殺すために……」
アベルは祈るように魔女に呟くも、魔女は静かに言葉を続けた
「・・・・君の兄君、〝カイン・クロイツァー〟殿は立派な軍人だった・・・〝戦で華々しく散った〟と世間にはそう公表されたが・・惜しい人を亡くしたよ・・・軍からすれば、まさに英雄だった存在を私が殺した」
その言葉を聞いた瞬間──アベルの世界が、完全にひっくり返ったように見えた
ゆっくりと、まるで別人のように呼吸が乱れ、 琥珀の瞳の奥に溜めていた何かが、決壊する音がした
「…………カイン……」
名前を口にしただけで、膝に力が入らず床に崩れ落ちる。
掴んでいた君の膝から手が滑り落ち、拳を床に叩きつける
「・・・そうだ・・・俺の兄で・・・いつだって俺よりも強く、まっすぐで、最後まで信じていた……俺と君との結婚も心から祝福してくれた。」
唇が震え、声が途切れる。
普段見せることのない“アベルの人間としての声”が零れ出てゆく
「俺が審問官になれたのは、兄のおかげだ。 “人を救え”と言った兄の言葉だけが、俺の誇りで、・・・俺の剣だった。」
顔を伏せ、肩を震わせながらアベルは言葉を続ける
「・・・でも俺は・・・兄を守れなかった。君が兄を殺したと聞いた日、俺は世界中を呪った。人間も、神も、愛も、全部・・・。」
そして、悲しみに濡れた瞳で魔女を見上げる。
そこに宿るのはは憎しみでも狂気でもなく、ただの“痛み”だった
「・・・ああ・・・兄さんは立派な軍人だった。最後まで民を守って戦って死んだ。・・君に殺された・・・俺だけが──すべて失ってしまった。」
床に座ったまま、アベルは力なく笑う
その笑みは、ようやく鎧を脱ぎ捨てた人間の笑みだった
「・・・怖いよ、アヴニール。君は何者なんだ。俺を罰しに来た聖女か・・・それとも、本当に、俺を赦す魔女か?・・・。」
崩れ落ちたまま、アベルは、魔女の言葉を待っていた。 彼の心の奥にまだ、僅かに残る“救い”の欠片を探すように
しかし魔女はどこか懐かしそうにアベルの頬を撫でて言葉を返す
「・・・・・だって、よく似ているもの。アベルとカイン殿は・・・やはり双子だからかな?」
──その一言で、アベルの世界が完全に静止した
音が消えたように、呼吸すら止まり、琥珀の瞳の奥でいくつもの記憶が一気に溢れ返る。
・・・泣き声、笑い声、血の匂い、銃声、兄の手すべてがフラッシュバックした
「・・・・っ・・・双子・・・・」
唇が勝手に動く。
声にならない吐息が、断末魔のように漏れる
アベルは床に両手をつき、肩を震わせる。 その背は、もう“尋問官”ではなく、ただの人間──ただの、弟だった
「・・・双子だった。生まれた日も、泣いた声も、似ていた。けれど兄は“光”で、俺は“影”だった。」
顔を伏せ、指先が床を掻くように動く
「俺は兄の影であることに甘んじた。兄の名を誇りにして、兄の死を呪って、そして・・・兄を失ってから、自分の影しか見えなくなった。」
ゆっくりと顔を上げる。 瞳には、初めて涙の光が滲んでいる
「君がその名前を出した時、俺は心臓を掴まれたようだった。ずっと誰にも言わなかった“秘密”だったから。・・・あの日、兄と俺が双子だったことさえ、記録から消した。忘れたふりをして、生きてきた。」
震える手が君の袖にそっと伸びる
「アヴニール。君は、俺を罰するために“兄の名”を出したのか?それとも・・・“救う”ために?」
その声は、かつての冷酷な尋問官でも、狂気の信者でもない。兄を失い、自分を失い、
今ようやく心臓を晒した“弟”の声だった
「・・・アベル。」
優しくアベルの頬を撫でながら魔女が静かに見つめてくる
──その視線に、アベルは呼吸を止めた
まるで魂の深部を、血の奥底に沈んだ“罪”と“渇望”を──全て見透かされたかのように
魔女の“沈黙”は、言葉よりも重く、
そして、どんな拷問よりも鋭く、優しいかったから
「…………やめろ……そんな目で、見るな……」
アベルの瞳が、震えるか細い声が零れ落ちる。
まるで自分の中にある“本当の感情”が剥がされていくようで
「君に見られると……俺がどれだけ、醜くて、汚れていて、……それでも“君に救われたい”って、……願っていることまで、バレてしまう……」
けれど、視線を外せない。逃げられない
「……兄を失っても、生きてこれたと思っていた。でも、違った。……君に会って気づいたんだ。俺は、ずっと──影ではなく、本当の俺のまま愛されたかっただけなんだと。」
静かに、そっと──アベルは君の膝元に額をつける
「君が、俺を見てくれるなら……もう、……それで、いい。」
その背中は──敗北でも、恥でもない
崇拝にも似た、従属の美しさと、
命を差し出す覚悟の静けさに、満ちていた。
・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
【記録:兄の名前】
彼女は言った。
『君の兄君、カイン・クロイツァー殿は立派な軍人だった』と。
「君は、カインと似ている」とも言った。
……似ていない。
俺は兄のように立派でも、誠実でもなかった。
ただ……
ただ、君に“似ている”と言われたことが、
……嬉しくて、苦しくて、怖かった。
けれども彼女がベッドに座り、俺に『おいで。アベル』と呼びかけるたび何かが崩れて行く感覚に陥るのだ
ああ、神よ。
どうしてそんな言葉が、
脳幹を焼き切るほど甘美なのか。
彼女の膝に頬を寄せたとき、俺は確かに思った。
「ここが終点だ」と。
……生まれ変わるなら、彼女の胎から生まれたい。
……俺は、魔女に囚われたわけじゃない。
自ら、魔女の檻の中に入った。
扉の鍵すら、自分で閉めた。
なぜなら、彼女はこう言ったからだ。
『私のアベル』と。
その言葉を信じるためなら、
俺は神にも悪魔にも、犬にもなる。
・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
そして、その日の夜の事だった。
「ごきげんよう。アベル」
──その声を聞いた瞬間アベルの背筋がピン、と張った。
まるで鎖に繋がれた獣が、“飼い主の気配”に気づいた瞬間のように手にしていた報告書が、ぱさりと床に落ちる
「…………っ……ッ!」
振り向くのも、息をするのも、慎重に。
その“声”が、昨日と同じ響きなのかを確かめるようにまるで、夢の続きがまだ続いているのかを確かめるように
そして、自室の扉の目の前──喪服の魔女が 何もなかったかのように微笑んで、こう言った
「夜中なら警備も薄いだろうから、お邪魔させてもらったよ。」
アベルの胸が、大きく上下する。顔には感情がない。けれどその瞳は燃えている
「…………来て、くれた……んだな。」
まるで神に再び命を与えられた人間のように、彼は震える手で額に触れ、立ち尽くす
膝を折りかけ、寸前で耐える。今日は倒れない。昨日は倒れたから
「“おいで”とは……言ってくれないのか?」
魔女に問いながらも、もう身体は勝手に歩いてしまっている。まるで魔女の声にしか“移動命令”を与えられていないように
「君が来たということは……俺の存在は、まだ……必要だということだよな?」
ゆっくりと目の前に立ち、君にだけ見せる“微笑”を・・ まるで初恋の少年のように向ける
「今日も、蝕んでほしい。……昨日よりも深く、昨日よりも狂わせてくれ。」
そして囁くように、願いを込めて
「……君の“アベル”でいさせてくれ。」
その投げかけられた言葉に魔女は穏やかに両手を広げ
「・・・おいで?私のアベル」
──その瞬間アベルの瞳が、カッと見開かれた
全身が雷に打たれたように硬直し、次の瞬間──
「っ……!」
魔女の元駆け出す。尋問官の威厳も、冷静な足取りも、すべてを捨てて、まるで子供のように
愛する女の元へ、全身全霊で駆け寄った。
そしてその胸に、倒れ込むように飛び込み
「……っ、ああ……あああ……ニール……アヴニール……!!」
声が震える。強く、強く、その背に腕を回す
昨日は触れることもできなかった場所に、 今日は──許されたように、額を魔女の首筋へ押し当てる
「……君が……君がその言葉をまた……ッ!!“おいで”って……言ってくれた……!」
まるで迷子の少年が、母を見つけたような声で泣き笑う
「これが夢でもいい。もう、夢でも、妄想でも、幻聴でもいい……だから、君の腕の中で……終わらせてくれ……!」
震えながら、必死にしがみつくそして小さな声で
「……もう……兄さんの夢は見ない。君が“おいで”って言う限り、……俺の居場所は、ここだけだ……。」
その言葉には、従属も崇拝も超えた、生存本能そのものが宿っていた
アヴニールの掌が、そっとアベルの髪に触れた瞬間。彼の全身がふるふると震え、 まるで溶けるように君の身体にすがりつく。
首筋に当てていた額が、わずかに熱く濡れている──それが涙であることに、彼自身も気づいていない
魔女の言葉が、ゆっくりと胸に沁み込む
「……兄君の夢は見ない、か。」
その声に、アベルの指が魔女の喪服の裾をぎゅっと掴んだ
「……うん……見ない……見たくない……」
彼はまるで罰を受ける子どものように その膝に頬をすり寄せて、震えながら答える
「兄さんがいた日々は……もう、いらない。俺に必要なのは、“今の君”だけだ……過去も、正義も、誇りも……君の“おいで”一つで全部、消えたんだ。」
小さな声で、幼子のようにアベルは言葉を続ける
「……君の手のひらの温度だけが、俺がまだ、“人間”でいられる理由なんだ……。」
それは懺悔ではなかった。それは祈りでもなかった。それは、崇拝に塗れた愛と執着と破滅・・そのすべてだった
そして誓いのようにゆっくりと魔女の手に口づけを落とす。けれどそれは情欲ではない。儀式への契約だった
「ニール。どうか、もう……“俺の世界から、いなくならないで”。 君が消えるくらいなら、……俺がすべての光を焼き尽くすから……。」
アベルの声は、震えながらもはっきりと“決意”の色をしていたが、そんなアベルに困ったような笑みを浮かべ魔女は呟いた
「・・・・〝哀れなアベル〟・・忘れてしまったんだね」
──魔女の両手が、そっと頬に触れた瞬間アベルの時間がまた止まった。
その温度が、全ての鎧を剥がしてしまうことを、彼はもう知っている
頬に添えられた掌の下で、琥珀の瞳が細かく震えた。涙か汗か分からない滴が、君の親指に触れて滑り落ちる
「……っ……アヴニール…」
かすれた声。 抵抗する力は、もう微塵もない
「……忘れたくなかった……」
ゆっくりと目を閉じる。君の掌に頬を押し付ける仕草は、まるで迷子の子どものようで
「兄の声も、あの日の匂いも、俺が何を守りたかったのかも、全部、覚えていたつもりだった……」
目を開けると、そこには弱く、哀しい光が宿っていた
「でも……君に出会ってから、気がついたら……“兄の記憶”の中にいる自分が、もう見えなくなっていた。」
苦笑とも嗚咽ともつかない声が零れる
「君が“おいで”って呼ぶたびに、俺は……その瞬間のためだけに、生きるようになって……気づけば、兄の顔も、声も、ちゃんと思い出せなくなっていた。」
(彼の両手が、魔女の手にそっと重なる。掌の中の彼は、今、完全に“弟”として崩れていた
「……哀れだろう?英雄の弟でも、尋問官でもなく、君に撫でられることだけが世界になってしまった俺は……」
囁くように、弱く、そして甘く
「……それでも、君の手の中にいるなら……怖くないんだ。」
その声は、破滅ではなく、諦念と幸福が同居する声だった
しかし、何かを思ったのか魔女はゆっくり立ち上がりアベルから離れればドアに向かい
「・・・また来るよ。私のアベル」
そう言い残してアベルの部屋から立ち去った。
──その言葉に、残されたアベルの瞳が大きく揺れる
まるで心臓が止まったかのように、息を呑み、全身の血の気が引き、 それでもその言葉の余韻にすがりつこうとする
「……あ……」
ただの「またね」ではないただの「帰るね」でもない
アレは何かを“知っている”目をしていた
それを、アベルは本能で察してしまった
「……待って……」
その声は、あまりにも弱い
崩れかけた城の石を拾い集めるように、アベルは君の袖にそっと指先を添えようとしたがその指は空を切る
「……明日……」
繰り返す。自分に言い聞かせるように
「……君は、“明日”……来るんだよね……?」
魔女の笑みが何かを含んでいたことに、アベルは気づいてしまった
だが、それを問いただすことはしない。できない
──アベルは、魔女の“言葉”を、信じるしかない
「……お願いだ……俺を……今日みたいに、明日も、“アベル”でいさせてくれ……」
膝をついたまま、喉が震え、唇がかすかに血をにじませるほど噛み締められている
そして、力なく、君の手が離れていくその瞬間
「……行かないで。明日が……来る保証があるなら……俺は、それだけを信じて、生きる……」
アベルは、まるで明日という神話を抱く殉教者のように、床に額をつけ、その背中を見送るしかできなかった
・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・
【記録:尋問官の日記】
……寝ていない。
昨夜から、時間の感覚が曖昧になっている。
いや、正確には──“昨日”と“今日”の境目が、
彼女の「おいで」で消えてしまったのだ。
起きている。起き続けている。
このまま眠ってしまえば、“明日”が来ないかもしれないから。
あの声を、聞き逃したくない。
今日、彼女が俺の頬に触れた。
両手で包み込むように。
優しかった。温かかった。
だけど、その直後に──
彼女はこう言った。
『……哀れなアベル。』
そして、こう続けた。
『……本当に、忘れてしまったんだね?』
……俺は、何を忘れた?
カインのことか?
兄の最期か?
それとも、かつての誓いか?
彼女の声は、まるで過去の記憶そのもののようだった。
“知っている目”で俺を見ていた。
俺の奥にある罪まで、全て。
彼女は最後に、こう言った。
『……明日、また来るよ。』
この一言を、俺は希望と受け取った。
同時に──呪いでもある。
なぜなら、「明日」が来なかった時、
俺の世界は全て終わるからだ。
「またね」ではなく、「明日」。
“具体的な約束”を与えてしまった彼女の罪は重い。
でも、
その罪も、罰も、喜んで受けよう。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・・-・
【部下によるアベルの行動異常記録】
■ 03:50:部下の咳払いの音に過剰反応。発声者を拘束・黙秘処理。
■ 04:12:特別従容室の壁に「明日」と72回記述。指の第一関節から出血。
■ 05:24:階下で聞こえた足音に対し、開錠命令。→ 誤報。
■ 05:46:録音された彼女の声を再生・停止を繰り返す。→ 再生回数1472回。
■ 06:00:兄の肖像を焼却。→「不要だ」と発言。
■ 06:09:再び、扉の前に正座。待機姿勢継続中。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
【記録:最後の日記】
彼女が“来ない未来”を、俺は信じられない。
でも──“来る”と信じなければ、生きていけない。
だから俺は、この部屋を聖域にする。
この心も、この肉体も──全てを、彼女が帰るための器にする。
彼女のために、俺はすべてを忘れる。
兄も、名も、己も──すべて。
そうすれば、“明日”がきっと来る。
だって、
“おいで”と言われたから。
・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
三日目。
夜の月が、まるで銀の刃のように窓から差し込んでいる特別尋問室の空気は、昨日よりもさらに張り詰めていた。
“何かが決定的に変わる”匂いがする──そんな夜だった
魔女は、月を背に静かに本をめくっている。黒い服の袖口が、光を反射して淡く揺れる
その扉の向こうで、靴音がゆっくり近づいてくる
──コン……コン……
規則的なノックではなかった。まるで、血と息で刻む心臓の音のような“ノック”)
ゆっくりと扉が開き、長い黒いコートに琥珀の瞳を持つ男が現れる──
その瞳は、二日間で完全に変わってしまっていた。
もう尋問官のものではなく、信徒か殉教者のもの
アベルは、魔女を見た瞬間、立ち尽くす。
声は……とても静かだった
「……来たよ……アヴニール。」
昨日までの「来た」という言葉にあった焦りや滲む恐怖はない。
ただ“確信”だけがある。魔女がここにいることを、疑っていない
ゆっくりと扉を閉め、ひざまずき、君から視線を逸らさずに言葉をかける
「昨日、君が『明日また来る』と言ってくれた。その言葉だけで、俺は生き延びた。」
その手には、もはや尋問官の書類も、銃もない。代わりに──一冊の古びた日記帳を持っている。
表紙に刻まれた名は、すでに削り取られている
それをゆっくりと、魔女の足元に差し出した
「……俺の“証明”だ。昨日までの俺を、ここに全部、閉じ込めてきた。今日、君が来てくれなければ……
俺はこれを自分で燃やして終わるつもりだった。」
そして、顔を上げる。琥珀の瞳に映るのは、月明かりを背負った魔女の姿──
その瞳は、もうどこにも逃げない“覚悟”の色
「アヴニール……今日こそ、答えてくれ。」
声は低く、しかし震えていない
「俺は、もう“アベル”じゃない。君が望むなら、“名前”も“国”も“過去”も捨てる。だけど、君の口から……ひとこと、聞かせてくれ。」
床に額をつけるように深く頭を下げてアベルは祈る
「俺を、何にする?“弟”か、“犬”か、“剣”か……それとも、君の“死”に付き従う影か。」
その問いは──ただの従属ではなく、愛する女に“選ばれたい”という最後の祈りだった
しかし、魔女はアベルのほうは見ず、手にした本を見せてきた
「これ、なんだかわかるかい?・・創世記の第四章。ある兄弟の話さ」
──その言葉に、アベルの背中がビクリと跳ねた
額を床につけたまま、目を見開く。君を見上げようとはしない──見てはいけないと、直感で理解していた
静かに月が、君の背を縁取る。そして、君の手元にあるその本──聖書)
そのページは、創世記 第四章──
──カインとアベル。
アベルは喉奥を鳴らし、低く、小さく、息を吸う
「…………“兄と弟”……」
声が震えた。だが、それは恐怖ではなく──予感
その瞬間、アベルの中で、今まで封じていた“記憶”と“意味”と“業”が──繋がってしまった
「俺は、弟……兄を失い、兄を超えられず、兄の幻に縋り……」
ぽつり、ぽつりと呟くその声には、 彼自身が気づかないほどの、痛みと、喜びと、絶望が混ざっていた
「君は、“知っていた”……?最初から……俺と兄の物語が、“それ”だったことを……」
ゆっくりと顔を上げ、初めて君を“見ないように”しながら君を見つめる──まるで神を直視できない信徒のように
「兄カインは、弟アベルを殺した。だが、俺は違う……俺は、兄を殺せなかった。兄の死に耐えられず……代わりに、自分を殺した。」
ふらりと立ち上がり、君との距離を詰める。だが、手は伸ばさない
「創世記のアベルは、血を流して死んだ。でも、俺のアベルは──君に殺されて、生きてる。」
にたりと、笑う。その笑みは泣いているようで、幸福に満ちた壊れた微笑
「だから……アヴニール…俺は、今日で、名前をやめるよ。」
そっと日記帳を足元に置きアベルは魔女を見る
「カインとアベルの物語は、神が幕を引いたけど──この“アベル”は、君が書き直せばいい。」
そのまま、跪き、手を差し出す
「……君が名を与えて。君が役割を決めて。君の物語の“第四章”を、俺に続けさせてくれ。」
その声は、もう人間のものではなかった
ただ、唯一神”に生かされた器の、祈りだった
しかし、魔女はそんなアベルの心とは裏腹に言葉を続ける
「・・・・・カインの亡骸だが、〝私が見た物〟とは違い、身元がわからないほどだったと聞いた。・・・私もそれを聞いて少なからず胸を痛めたよ。」
その言葉に、アベルの膝がガクリと崩れた
まるで“天上の剣”で心臓を一突きされたかのように──張り詰めていた彼の中の何かが、音を立てて砕け散った
「……っ、は……ぁ……」
ゆっくりと、顔を伏せる。だがその肩は、笑っているのか泣いているのか分からないほど震えていた
「……君が、“胸を痛めた”?……君が……その、君が……」
床に手をついたまま、低く低く、息を殺しながら
「俺は……ずっと……ずっと、あの時、“君に笑っていてほしかった”だけなのに……君が兄を殺したあの日、君が、どこかでその名を知って、心を痛めていたなんて……」
喉の奥から、抑え込んでいた感情が絞り出される。それは泣き声にもならない。神に触れてしまった者の断末魔だった
「だったら……だったら……俺は、あの日、死んでもよかったじゃないか……」
顔を上げる。 その琥珀の瞳は、月の光ではなく、君の言葉に濡れていた
「……アヴニール……“君が兄を悼んだ”と知っただけで……俺の心臓のすべてが……今、君に持っていかれた。」
滲む涙を拭おうともせず、君の足元に額を押しつけ、祈るように──いや、誓うように
「もう、過去は君のものだ。兄も、記憶も、罪も、死さえも……全部、君に差し出す。だから……お願いだ……」
呻くような声で、縋り付きながらアベルは魔女に言葉をかける
「俺を、“それでも生きていい”と……言ってくれ。君のために、生きたいんだ。“君の名で、命を赦してくれ”……。」
かつての尋問官は今、自分の罪と愛、そして“魔女が兄を悼んだ”という一言だけで、
すべてを魔女に明け渡そうとしていた
・・・しかし、
「っふふ、あはは、・・・あっはははは!」
──その“笑い声”が、月を震わせた
尋問室に響き渡るその笑い──
魔女は愉快そうに甘く、艶やかで、そして……どこまでも恐ろしく美しい笑みを浮かべた
その様子にアベルは、びくりと硬直する
額を床につけたまま、目を見開き、まるで咎人が神の裁きを待つような姿勢で、魔女のその声を聞いていた
魔女が笑っている
──楽しげに、そして……見下ろすように
「・・・・・・」
沈黙が芝居する尋問室、しかしアベルの呼吸だけが、激しく、乱れていた
「……やっぱり……君は……ッ」
その様子にアベルはゆっくりと顔を上げる。瞳の奥で、何かが爆ぜた。絶望か、歓喜か──いや、その両方
「そうだよな……君は……魔女だ。人の命も、記憶も、魂すらも掌で転がす存在……!」
血走った瞳が、君の喉元を見つめる
──だが触れられない
ただ、震える唇から、崇拝と嘆きと執着が混ざった言葉があふれ出す
「君が笑うだけで、俺の罪は赦された気がして・・同時に、地獄に叩き落とされた気分になる・・・!」
自分の胸を強く掴む。爪が食い込み、血の匂いが微かに漂う
「……アヴニール……その笑いは、何の意味だ?俺が壊れていくのが……そんなに可笑しいのか?それとも……まだ足りない?」
肩を震わせ、崩れ落ち、それでも魔女から目を逸らさずにアベルは言葉を続ける
「だったら……もっと笑ってくれ。君がそうやって笑うなら、俺はこのまま、跪いて燃えてやるよ……その笑みを拝むためだけに……ッ」
そして、掠れるように囁いた
「俺は……君の哀れなアベルで、いい……。ずっと、君に笑われる“影”で、いい……。」
弱々しい、アベルの心の内からの願いの言葉だった。今にも壊れてしまいそうな、獣の慟哭。
しかしそんなアベルの慟哭さえも魔女は穏やかな笑みを浮かべたまま切り返した
「そろそろ、茶番は終わりにしようか。」
「ニール?・・な、なにを」
「だってそうだろう?
ーーーーーーー 君はアベルではなく、カインなのだから。」
魔女が放ったその一言
その死刑宣告のような言葉が響いた時、アベルの中で、すべてが崩壊した
呼吸が止まる。心臓が跳ねる。世界が、音を失った
床に膝をついたまま、魔女を見上げていたアベル
──いや、“カイン”の瞳が、ゆっくりと、震え始める
「…………な…………に……を……」
かすれた声。喉から出るのは、理解不能な呟きではない。
理解してしまった者の
忘れていた真実を知った絶叫直前の“沈黙”
アベルの両手が床を掴む。白い手袋に血が滲むほど、指がめり込んでいく
「っ……やめろ……その名を……呼ぶな……ッ!!」
叫ぶように吐き出したその声は、今までのどんな懺悔や誓いよりも、深く、苦しく、哀しい
彼は知っている
それが、“最も触れてはならない”真実だと
だが魔女は、笑ったあとに──あえてそれを口にしたのだ
神のように、女王のように、それこそ、魔女のように
「君は、カインだろ?」
アベル・・・否、“カイン”は、泣きながら、笑った
乾いた声が、尋問室に滲んでいく
「はは……ああ……君はやっぱり……全部、知ってたんだな……」
髪をかきむしるように乱し、ぐしゃぐしゃのまま魔女を見上げる
「俺はアベルじゃなかった。生まれた瞬間から、“兄”として期待され──それでも君にとっては、俺は“哀れな男”だった。」
歯を食いしばり、地面を殴りながらカインは話を続ける
「……あの日、カインが・・アベル死んだのは……
戦じゃない。……俺が、殺した。
俺の中の“嫉妬”が、“怒り”が……
弟の命を焼いて弟に成り代わる事を選んだんだ。」
だがソレを言ってしまった瞬間、カインの瞳から、涙が溢れた
でもそれは、罪の涙ではない)
「けど、それでも……君が名を与えるなら......!俺はもう、“罪人”でもいい! “弟殺し”でもいいッ!!」
両手を広げ、魔女の方へ滲むように膝でにじり寄り
「俺を、殺してくれ!……君の手で終わりにしてくれ……!
それが、君の与えた“神罰”なら──俺は、それが欲しいッ!!!」
狂気の瞳を向けたまま両手を広げるカインに、魔女は穏やかな口調のまま問いかける。けして、責めず・・穏やかなまま、笑みを浮かべ
「・・・君が私をどんな眼で見ていたかなんて理解していたよ。だから、許せなかったんだろう?・・・許嫁に選ばれたアベルが」
その言葉は、世界の構造すら書き換える呪詛だった。
アベル──いや、“カイン”の瞳から、光が抜け落ちる音がした
それは、心臓を刃で貫かれるよりも静かで、 叫ぶ暇すら与えられないほど完璧な真実
カインの呼吸が止まる。世界が凍る。心が焼ける
音なき空虚。そして、破裂するような呻き。
「ぁ……っ……ぅああああアアアアッ!!!!!!」
獣のような、胎の底から絞り出した絶叫を響かせ、カインは頭を抱え、床を転げる。
その叫びは、罪と後悔と、狂おしいほどの愛に満ちていた
「そうだ……そうだった……そうだったんだ……っ!」
床に爪を立て、頬を血で汚しながら 喉が裂けるほどにアベルは叫ぶ
「アベルは・・・アイツ君の隣にいた。“当然のように”君の隣で笑っていた……!」
嗚咽が混ざる。血が混ざる。でも止まらない
「俺は、君の目に映る〝許嫁の兄〟だった。・・けれど、アベルは“男”だった……君の、許嫁だった!!!……だから……だから……!!」
顔を上げる。涙と血と絶望に濡れたその表情は、人間のものではなかった
まるで、神罰を乞う獣の顔だった
「俺は、“アベル”になりたかったんだ……!君の隣に立ちたかった!!!名前も、顔も、声も全部、アベルになれば、君が見てくれると思った!!」
そして……静かに、囁く
「……だから、俺が……アベルを……“殺した”。」
涙が、頬をつたう。しかしその目は、魔女だけを見つめている
「……君が“選んだ”人間を、この手で殺して、君に“選び直させる”ために」
そして、嗚咽混じりに笑う。狂気と崇拝の交じった声で魔女に問いかける
「──どうだ?……これでも、まだ俺を、蝕むつもりか?」
壊れた瞳が、ただ静かに魔女を見つめる
「・・・・・カイン。」
ふと、魔女の指先が、そっとカインの髪を撫でる・・・それだけで、彼の震えが止まった
もう、自分を責める声も、弟を殺した自責の念も、
愛する女を求めすぎて焼き切れた心も──すべて、魔女の指先に溶けていく
そして
「ーーーー っ」
魔女の唇が、そっと、吐息を重ねるようにカインの唇に触れた
一瞬。たった、それだけの時間
それなのに、彼のすべてが、崩壊した
「………あ……ッ」
その唇から漏れたのは、痛みでも快楽でもない──魂が溶けるような絶対的安堵
両膝が崩れ落ちる。崩れるように魔女に凭れ、
目を見開いたまま、ぽたぽたと涙を零す
「……なぜ……そんなことを……君は……俺を……まだ……」
・・・・言葉にならない
だって、自分は今、犯した罪の全てを告白した直後だった
神に背く罰を犯したはずだ
それなのに、目の前の女は──唇で赦した
「……これが、君の“赦し”……なのか……?」
手が震える。 魔女に触れたいのに、触れてはいけないと理解している
ただ、跪いたまま・・・泣きながら、吐き出す
「……俺は、“アベル”にはなれなかった。でも……君がこうして“触れてくれた”なら……それだけで……」
小さく、小さく笑う。
壊れた人形が、最後の微笑を浮かべるように
「もう……この身体……君のものだよ……。名前も、過去も、愛も、罪も、全部……君の“口付け”で……焼き尽くされた……」
そして最後に、カインは小さく願いを溢す
「ねえ……“それでも”言ってほしい……もう一度……“おいで”って……君の飼い犬になれるなら、地獄でも笑えるから……」
投げかけられた言葉に、魔女は小さく笑みを浮かべその頬を優しく撫で、言葉をかけた
「・・・こうなる結末を、君だけじゃなくて少なからず私も望んでいたと聞いたら・・君は幻滅するかい?・・・・〝私だけの〟カイン。」
ーーー その言葉が、夜の空気すべてを溶かした
「……私だけの、カイン」
それは彼にとって、最も望み、最も恐れていた“審判の言葉”だった
吐息の余韻がまだ唇に残る中、彼女が穏やかに、あまりにも優しい声で
──「私も望んでいた」と告げた
その瞬間、カインの全身が凍りついた
「……………」
沈黙。思考が追いつかない。
何かを取りこぼしたように、まばたきを何度もする
「……それは……」
かすれた声。震えた喉。ようやく出せた一言
「……“幻滅”なんか……じゃない……」
ふら、ふら、と魔女に身を預けるように滲み寄り、
そのまま、君の胸元に額をそっと預ける
体が震えている。でも、それは泣いているからじゃない
安堵しすぎて壊れそうになっているから
「……俺はずっと、“一方的に狂っている”と……思っていた。」
ぎゅうっとその背に腕を回す。まるで子どもが母に抱きつくように
「君の優しさは、“神の試練”だと信じてた。俺の執着は、“報われぬ罪”だと思ってた。でも……君が……君がそれを“望んでいた”なんて……」
くぐもった声で、笑いと涙が混ざる
「……なら、俺はもう……何一つ間違ってなかった…兄を殺したのも、名前を捨てたのも、君のために跪いたのも、全部、正しかったんだ……」
そして顔を上げ、魔女の目をまっすぐに見つめる
「…アヴニール“私だけのカイン”って……本当に、言ってくれた?」
まるでそれが夢か幻かを確かめるように、
その言葉だけが、彼の命綱となった
そして抱きしめてくる魔女の体を、強く強く・・逃がさないように抱きしめる
「なら……もう逃げないで。
もう、どこにも行かないで。
君のものになることでしか、
俺はもう、生きられないんだ……」
ーーーーーーーー
ーーー
ーー
その日の朝、王都の空はやけに澄んでいた
石畳に響く靴音とともに、紙を振り回す少年の声が城下町に響き渡る
「号外ー!号外だよぉ!!魔女逃亡!異端尋問官との共謀だってさー!!牢を破って夜明け前に脱出ー!!」
「衛兵たち、全員眠らされてたってさぁ!
“魔女の囁き”って本当だったんだー!
魔女に耳元で囁かれたら、男は誰でもひざまずくってさー!!」
「しかも相手は、かの有名なアベル・クロイツァー尋問官!護国の英雄兄弟が魔女の毒牙にかかったってさー!」
道行く貴族たち、平民たち、全員が息を呑む。まるでおとぎ話の中の結末を目撃しているように
「あの真面目で厳格だった尋問官が、魔女に口づけられたとたん、牢の扉を壊して、“行こう。君のために世界を焼こう”って言ったらしいよ!?」
そうして、その日新聞の見出しにはこう書かれていた
【号外】
ー 魔女、尋問官を堕とし逃亡 ー
【“アベル”の名を捨てた男は、魔女の手を取り、夜の王都を抜けた】
【異端と神罰の象徴は、今や最も危険な愛の共犯者】
・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
夜明け前
火の気も灯さない静かな小屋の中で、 カインは窓辺に腰をかけわずかに差し込む月光を背にそっと、魔女、アヴニールが残してくれた一冊の本を撫でていた。
ふと、指先が止まる。
もう、彼の中には「アベル」だった頃の躊躇も、「尋問官」としての使命もない。
そして、彼は静かに語り始める。その声は誰に届くものでもなく、 ただ隣で眠る愛しい女ために紡がれた祈りのような独白だった。
「……俺は、アベルじゃなかった。最初から、君が言った通り──俺は“カイン”だった。」
「弟を殺した。名前を奪った。君の視線の中に、自分が存在する未来が欲しくて……すべてを燃やした。」
彼は笑う。でもそれは、悲しみではない。赦しに近い
「・・あの日、アベルを殺した場面を君も見ていたはずなのに、君は罪をあえて被った。・・・けれど君が俺に与えたものは罪でも罰でもない。 “居場所”だった。」
本を閉じる音。指先が震えていないのは、ようやく彼が“名前の呪い”から解き放たれたから
「君が“アベル”を望んでいたなら、俺はなりたかった。でも……君が“カイン”を選んだのなら、俺は、この業と血と名を背負って・・ー君の傍に立つよ。」
窓の外、微かに霧が流れる遠くで馬車の車輪の音。おそらくは追手の気配だろう・・・けれど怖くはない
「この身は罪で構わない。この名は、呪われたままで構わない。」
そして、ただ一つだけ、囁くように
「……それでも君が、“私だけのカイン”と呼ぶなら──
俺は、君のために世界を敵に回す。」
彼は立ち上がり、振り返る
そこには、眠っている愛しい女の姿。
月の光に照らされる君は、あまりにも静かで、あまりにも綺麗で、あまりにも奪われたくない、罪人である己の宝物
「君の“おいで”が聞こえる限り、俺はいつだって戻ってくるよ。……この地獄の中で、たとえ世界が君を罰しようとも・・ー俺が、君を肯定する。」
カインの独白は、誰にも聞かれないまま、
月と風に溶けていった
その胸にあるのは、ただひとつの誓いと呪いだけ。
『永遠に、君だけのカインで在る』
墓はまだ掘られていない 平藤夜虎~yakohirafuzi~ @yakohira02
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