ロンドン、霧雨の異邦人

あかり

第1話

「ただいま」

 私は、初めてのパスポートを握りしめ、初めての一人旅、初めての飛行機から、初めての海外——ロンドンに降り立った。

 ヒースロー空港の到着ホールは、霧雨の湿った空気と、さまざまな言語のざわめきで満ちていた。ガイドブックで想像した街の匂い——紅茶の甘さと、煤けた石畳の記憶——が、かすかに鼻をくすぐる。


 でも、現実はもっと生々しく、冷たい風がコートの隙間を這い上がってきた。


 イミグレーションのカウンターで、期待した六ヶ月のビザが、たった二ヶ月しかもらえなかった。


 語学学校に払い込んだ三ヶ月分の授業料のレシートを見せて「三ヶ月は必要」だと訴えても、係員は冷たく首を振るだけだった。


 大きなスタンプに "two months" と書き込まれる乾いた音が、心に小さな亀裂を入れる。

 憤りが喉元までせり上がるのを、ぐっと飲み込んだ。二十歳の私は、そんな予期せぬ壁に、ただ立ち尽くすしかなかった。


 荷物をベルトコンベアから引きずり出し、肩に食い込む重さを無視して、出口へ向かう。

 この街が許してくれる滞在期間は、二ヶ月。それだけしかないのだ。


 空港直結の地下鉄、ピカデリー線に乗り込む前に、途中の公衆電話に立ち寄った。

 ガイドブックで目星をつけていたホテル——ヴィクトリア駅辺りの小さな宿だ。

 コインを投入し、受話器を耳に当てる。指先がわずかに震えていたのに、声は意外と落ち着いていた。


「今晩、空室ありますか?」


 受付の女性の心地よいブリティッシュ・アクセントが、線のように細い安心を運んでくる。

 シングルルーム、一泊三十ポンド。予約を確定させる頃には、心のざわつきが少し溶け始めていた。


 なにもかも初めてづくしの、初の一人暮らしが始まる。フラットは決まっていたが、入居前の数日はこのホテルに転がり込むしかない。

 どこに泊まるかは、着陸するまで決めていなかったのに——私は、自分でも驚くほど自然に、今晩の寝床を確保した。


 何度もそうしてきたように。


 いや、きっと、そうだったのだろう。遠い記憶の端で、ようやく帰宅できた安堵感が広がった。

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ロンドン、霧雨の異邦人 あかり @AKARI_MC

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