終の先の住処

しあわせ千歳

終の先の住処




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✿ 公開初日(2025,10/2)の不具合を修正しました!

読みづらくなってしまい大変失礼致しました(*m_ _)m



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はじめまして、しあわせ千歳と申します^ ^♪

この作品は2024年の夏~秋のBL小説の公募に向けて執筆した、

しあわせ千歳が当時のありったけの萌えを詰め込んだ渾身のBL小説作品です。


結果だけを申し上げますと、大賞をいただくことはできませんでした。

しかし、有難いことに選考には通過しまして、この作品を読んでいただいた方々より複数の「いいね」を頂くことができました。

とてもうれしかった半面、大賞をいただけなかった私自身の未熟さも見え、とてもいい経験をさせていただきました。


そこで、せっかくなのでこちらに、

選考に通過しましたBL小説作品『終の先の住処(ついのさきのすみか)』の全文を掲載いたします。


厳しいお言葉もあるでしょうが、なにかしらのご反応をいただけると、しあわせ千歳が喜びます。

できれば気持ちの良いコメントなどいただけるとより、しあわせ千歳が舞い上がります笑。


小説全文でも50,000文字に至らない程度の文量で、比較的、短時間でお楽しみいただけます。

それでは、しばしのお付き合いのほど、どうぞよろしくお願い致します。


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◉ちるちる「性癖大爆発♥光・闇の創作BLコンテスト」 選考通過作品



『終の先の住処』(ついのさきのすみか)


 著 しあわせ千歳




 山々に囲われたこの辺りでもひと際標高がある皇海山(すかいさん)の広大な尾根、とはいえ十分に山の奥に位置したこの場所を紡久(つむぐ)にとっての終の住処と決めている。約束を果たす為にここで独り暮らしをするトタン屋根の平屋の一軒家は紡久の生家だ。

 元は茅葺屋根でとても古い建物だが、住んでいるついでに手入れを続けていれば不便もなく最寄りの集落からこの一軒だけが離れていてもひとり気ままで何の苦労もない。元々はこの場所にも他に数軒の家々があったのだが、時代だろうか一軒、また一軒と住人が減りこの小さな山奥の集落に住む者はもう紡久のみとなってしまった。

 寂しいとは思わない。山の中でも話し相手は居る。まったりとした毎日の日課として木々や草の間、もう荒れてしまった山道を歩き近所のケヤキの御神木を見回っている内、紡久の周りに今日も友達が増えてきた。「おはよう」と声をかけると、右手から「紡久!」と親しそうな明るい声が、左手から「人の挨拶なんかしないよ」とひねくれた声、そして紡久の三歩先を行く一体からは「おっはよう」と陽気な声が返って来た。

 紡久とこうして言葉を交わせる妖怪は珍しくはないものの、多くもない。妖怪の言葉のみを話す個体と紡久は会話が出来ないし、そもそも口の無い妖怪は何も喋らない。口が在っても言葉を一切解さない個体も居る。そんな小物妖怪たちと、言葉を超えた絆で紡久は関係を築いている。仲が良いと個人的には自負しているが、妖怪は気まぐれなのでそうそう心を砕く事はしない。ただ、たった独りでこの長い人生を生きるには、紡久にとって彼ら妖怪の存在が必要なのだ。

 ゆっくり気の向くままに妖怪たちと共に歩を進めていると、山の木々と生い茂る草の間にふと見慣れぬものがあるのに気づく。白い布か何かだろうか、紡久は立ち止まり興味本位でいつもと違う方へと一歩を踏み出す。いつもは気にもならないミンミンゼミの鳴き声が珍しく耳についた。

「おおー、珍しい。人だ。紡久、人が倒れてる!」

「死んでるか?」

「いや生きてるかも知れないぞ」

 先に目的の場所に着いた愉快な妖怪たちが「それ」を取り囲み口々に喋る。だが気まぐれの妖怪は人と違い悪気なく簡単に嘘を吐くので紡久は彼らの言う事の全てを信じはしない。この目で確認するまで真実とは限らないのだ。

「どれどれ」

 白い布の傍まで来て「それ」を覗き込めば、そこには人、男性が俯せに横になっている。遠くからでは見えなかったが、背中に山の獣、大きな熊か何かに引っ掻かれたであろう爪痕とおびただしいほどの赤黒い血が出ていた。

 一見して彼はこの山で遭難したのだろうと知れる。昨日、同じ頃にここを通りがかった時には紡久も友達の妖怪たちも気が付かなかったのと、背中の傷がまだ新しいのと、土や草の地面に落ちた血は黒くなっておらずこちらも真新しい。倒れた男の薄く開いた唇の前へそっと手をやれば、指の先に触れる風がある。微かに呼吸をしているのだ。まだ生きている。

 人として見殺しには出来なかった。自分よりも幾分か大きな男の身体を、片腕を紡久の肩に回し脱力する男の足を半ば引きずる格好で何とか自分の家へ運んだ。道すがら着いて来た妖怪が周りで「痛いの痛いのといでいけ~」と口々に言っていたのが微笑ましく、男の重みが和らいだ。

 まずは手当だ。男は虫の息で今にも死んでしまいそうだが、そうさせない秘策が紡久にはある。だが傷口からばい菌が入り体内へ広まってはいけない。血のついた上半身の白い服をひと思いに破り脱がせてやり、ついでに彼を運ぶのに血で汚れた紡久の甚平と一緒にそれらを浅い樽に張った井戸の水に浸した。透明な水に鮮血が混じる。この水は後で変えるとして、他の樽を手に急いで縁側から庭へ出る。狭く小さな庭の隅に湧き水の如く、昔よりは量の少なく湧き出るそれを大切に溜めた窪みより一杯だけ、いつも側に置いている湯飲みに汲み、樽へは井戸から新しい水を入れて部屋へ戻った。

「おいお前、しっかりしろよ」

 声をかけてやればちゃんと聞こえたらしく、男がほんの小さく呻く。よし、意識がある、これなら助けられる。

 手ぬぐいを澄んだ樽の水で濡らして軽く絞り、男の背中の傷にそっと当てる。痛いのだろう、男が若干肩を揺らしまた呻いた。だからといって作業を止めず、とんとんと手ぬぐいを動かし砂や汚れを落としていく。消毒には傷口を洗うのが一番だが、男は身長があり紡久には抱えられない。風呂場にシャワーがあれば良いが、この家の風呂にそれは無い。

 時間をかけてしっかり傷口を洗うと、そこからまた新たな血がじんわりと溢れてくる。紡久は目途をつけて支えていた男の身体を、部屋に敷きっぱなしになっていた自分の布団へ横這いに寝かせた。

 綺麗にしてみれば、男の背中は太すぎる二本の爪によって割かれているのが見て取れる。どんなに大型の熊でもこんなに太い爪は持てないだろう。とすれば、この傷をつけた犯人は山に棲む大型の妖怪だろうと紡久には容易に想像がついた。不運な男だ。このような周りに何もない山へ入ったが最後、妖怪の巣窟で餌食になる。命が助かるだけマシだといえた。

 人知れずため息を漏らし紡久は洗った手ぬぐいで男の顔の泥を落とす。そして傍らの畳の上に置いたままの湯飲みを取り、そっと男の口へと飲み口を押し当てた。

「飲め、ひと口でいい」

 そっと湯飲みを傾けるが、痛みに耐え閉じられた男の口内へ入ることなく透明な液体が頬から落ち、シーツへ沁みを作る。意識のしっかりしない人には飲めないかと考えを改め、紡久は再び湯飲みを傾けほんの少しだけ、舐める程度飲ませるつもりでそれを自分の口へ含んだ。

 そっと男の唇へ自身のそれを押し当てる。含んだまま飲み込まないようにしながら舌と唇で男の口を割り、無理やりに中身を含ませてやった。口に入ればあとは飲み込ませるだけだ。男の気道を確保するため、屈んでいた身を起こし首の裏へ手を回そうとした時、男の喉が鳴った。

「よかった、飲めたな」

 吐息交じりの声に答えは返ってこない。しかし横たえた男の様子を黙って見ていればじきに呼吸が落ち着いてきたのが見て取れた。背中の傷の痛みが和らいだのだろう。

 それから紡久は手ぬぐいをまた洗い直して、男のまだ泥だらけの顔や身体を改めて拭き綺麗にしてやる。泥を拭っては手ぬぐいを水で洗い、それを幾度となく繰り返す。細かな擦り傷が男の肌にたくさんあった。つい先ほど飲ませた物が効いてきたようで、それらは見る見るうちに塞がっていく。少し飲ませ過ぎたかもしれないと若干の不安が胸に込み上げた。だが飲ませなければ男は死ぬだろうし、紡久の処置に文句は言わないだろうと心の内で結論づける。

 血で膝などの肌に張り付いた「ずぼん」を脱がせ一通り男の身体を拭き終えると、綺麗になった顔をしっかり覗き込む。体格が良いとは思っていたが、思ったよりも若い。二十歳そこそこだろうか、好青年だ。

 それから、血と砂まみれの男のずぼんを樽の水の中へ漬ける。処置で汚れた紡久の肌も手ぬぐいで洗った。応急処置だがしないよりは良い。後で風呂に井戸の水を溜めて湯を沸かそう。そして男の下の布団の汚れたシーツを変える。自分より身体の大きい男を一旦布団の上から退け、また戻す作業はわりと重労働だった。ここまでして、紡久は畳の上に立ち上がり眠る男を見下ろし、大きなため息を吐く。もう大丈夫、そんな安堵の息が勝手に何度も唇を滑って出た。

 暑い時期とはいえ怪我をした身体では寒いかと思い薄手の布団を掛けてやると、男が小さくいびきをかき始めた。人の気も知らずのんきに眠っている。本人の治癒力にもよるが、そのうち背中の傷も塞がるだろう。今はこのまま眠っていればいいと紡久はまたふっと息を漏らした。

 男が目を覚ます頃には腹を空かせるはずだ。何か食べられるものでも準備してやろうと、畳の高い位置から土間へ降り竈へ火をつけようとマッチの小箱を取り、更にたすき掛け用の紐へと手を伸ばし、ふと気づく。そういえば普段着の甚平が血で汚れ脱いだので、紡久は上の服を着ていなかった。

 意外と心の余裕を失っていたようでくすっと自身の行動を笑い、男が目を覚ます頃も裸のままでは恥ずかしい、と畳一間の広い部屋へ戻り角の押入れの中から替えの甚平を取り出し羽織る。独りの気ままな生活では、洋服や着物よりも甚平が楽だ。押入れ特有のカビの臭いは仕方がない。独り暮らしで二着の甚平を普段着として洗っては交互に着ての生活なのだ、もう一方の洗い立ての甚平は男が目を覚ましてから着せてやるとして今すぐに欲しい紡久の分の洗い立ての服が無かった。

 そうして竈の土鍋で湯を沸かす間に男の様子を遠くから確認する。いびきはこの距離では聞こえないが、周りでは害のない妖怪たちがまた興味津々と彼を囲い、口々に何か言っていた。微笑ましい光景だが、妖怪の持つほんの小さな妖気でも弱い人に悪い影響を及ぼす。男には意思を強く持っていてもらう他できる事がないが、少しだけ考えを巡らせ、紡久は再び彼らへ視線を向けた。

「お前たち、米を炊くから手伝ってくれ」

 大きな声で誘えば予想通り妖怪たちが数体、こちらへ向かってくる。言葉を知らない妖怪は他の妖怪の行動や仕草でも理解できるらしく、後から紡久の居る土間へやってきた。いくら紡久以外の人の存在が珍しくても、ただ眠っているだけの男には興味が続かないらしい。

 米を炊くのは紡久にとっても一大行事だ。こんな山奥で稲作をし自分で作っているというのにあまり米を食べない。腹が空かない体質だが、米に限らず食事を摂る事さえ面倒で最近では三日に一度、忘れていれば五日間も食べない事があるくらいだ。それも一度の食事に必要な量は茶碗一杯分あればいい。庭に湧き出るそれを少し舐めていれば死にはしない。それだけで十分に生きていけるのだ。

「米? 白いの?」

「たべる」

「今たべる」

 口々に喋る妖怪たちはその言葉の意味を分かっている個体と、分からずもただ口にしている個体がいる。ただ、どの妖怪が紡久の話す人の言葉をしっかり理解しているのかは把握している。

「白い米を炊くよ。今夜は人が居るからな、いつもの玄米は硬くて消化に悪いんだ」

 言いながらも紡久は紐を背中へ回してたすき掛けをして、のんびりとした動作で竈へ火をつける。竈にくべた薪の火が大きくなるまでには少しの時間がかかるので焦っても仕方がない。火の動向をいつも見ているのに珍しい物を見る様な目でじっと見つめている妖怪をそのまま放っておき、紡久は他の妖怪を伴って隣の棟の倉庫代わりにしているそこへ自分で作った米を取りに行く。知り合いから貰った精米機へ玄米を入れて白くした。

「この機械、すごい、すごい!」

 毎度、精米機が動くのを見ながらも初めて見るのだと言い続けるこの妖怪は、紡久の言葉を半分は理解してくれる、男の子の座敷童だ。人でいうと三歳くらいの見た目だが、きっと紡久よりも長く生きているに違いない。

精米を終えると、白い米を桶に入れて庭の井戸へ向かい、洗う。米も水も目分量だが、怪我人に食べさせるならば少し柔らかい方が良いだろう。竈へ戻り、念のため眠る男へ視線をやる。米を取りに行く前と何も変わった様子はなかった。

「白米っ! 白米っ!」

「たべる」

「今たべる」

 紡久の足元で不器用にぴょんぴょんと座敷童が跳ねる。他の小物妖怪たちは同じことをずっと言いながら、竈の上の土鍋を見上げている。蓋をした土鍋から、美味しそうな湯気がもくもくと上がっていた。

「まだだ、火から上げたら蒸らすからな。お前たちは手を出すな」

 手伝ってくれ、と言ったのは紡久だが本当に手伝ってもらう事など何も無い。言った事を理解し出来るだけの妖怪はあまり居ないし、頼み事をするほど彼らを信用してもいない。ただ毎日その顔を見せに来てくれるから話をする。ただそれだけの関係だ。

「ほわあ~~~っ」

 炊き立ての白米の入った土鍋の蓋を開けると、一体の妖怪が湯気とよく似た声を出す。その一体以外の妖怪も同じく瞳を輝かせ、土間に置いた土鍋を取り囲み真っ白を見つめている。微笑ましいと思いつつ、紡久は彼らを自由にさせて自分は白米へ竹製のしゃもじを入れた。

「……早く、早く!」

「白いのたべる」

「たべる」

「まだ熱いぞ、火傷するから手を出すな」

 そう言っているのに二体の妖怪が土鍋の中へ手を差し入れる。紡久はもう片方の手で彼らのそれを払いのけ、湯気の立つ白米を空いた桶に移して冷ます。眠る男の為に握り飯にしてやろう。いつ目を覚ますか分からないが、それなら冷めた飯でもうまいだろう。

「えーと、塩は、っと……」

 言いながら立ち上がり、土間のすぐ側へ塩を取りに行く間にも妖怪が言いつけを破り手を出して白米を口に運んでいる。これはいつもの事で、妖怪たちに食べられても十分な量の米を炊いたので問題ない。「うまい、うまい」と言いながらしゃがんでちびちびと米を食う姿はやっぱり微笑ましかった。

「よーし、つまみ食いはそこまでだ。握り飯のほうが塩味があってうまいぞ」

「これもうまい」

「うまいからこれでいい」

 言いながらも土鍋から視線を離さず両手を使い食べる妖怪たちにとっても白米は珍しい。玄米に比べて味が美味しいのは紡久も分かっているが、白米は触感があまりなく紡久の好みはぷちぷちとした触感のある玄米だ。その方が米を食っていると実感できて好きだった。

 塩をまぶした握り飯とその他にもいくらか食べ物を準備し終え、紡久は更にまだ動く。風呂釜に井戸の水を溜めておき、男が起きたら薪を燃やして風呂を沸かすのだ。紡久の身体も男の処置で汚れたので、彼の後に入ろう。このところは昔よりも夏の暑さが濃い。風呂の準備は重労働で二日か三日に一度と決めているが、本当は毎日入って身体を清めたいものだ。

 井戸と風呂場を往復していたその時、不意に地面が揺れる。ごうごうと音が鳴り、持っていた桶から水が溢れる。咄嗟に桶を足元の土間に置き、紡久は布団で眠る男の元へ駆け寄った。その間にも大きく揺れる地面は棚から物を落とした。

 男を気づかい身体を支えるうちに地震が治まる。体勢を変えないまま紡久はほうっと息を吐いた。安堵して身を起こし男の様子を窺うと、「ううっ」と一度だけ呻いた男が再び小さくいびきをかき始める。のんきなものだな、と頬を緩めた。

 地震が多くなっている。この土地との約束が紡久を欲しがっている。“その時”はもうすぐそこまで近づいていた。


 



 男が目を覚ましたのは、森で拾ったあの日の夜遅くになった頃だ。そろそろかと風呂釜へ薪をくべて火を焚き、紡久が外から土間へ戻ると眠っていたはずの男が縁側に立ち、開け放たれた戸の向こうの暗い庭をただ見つめている。美しい立ち姿だ。しかしもう起き上がれたのかと紡久は驚いた。

「昼間は意識なく倒れて寝たきりだったのに、もう歩いたのか」

 紡久の落ち着いた声音に男が振り返る。

 部屋の中は天井の裸電球ひとつのみで薄暗い。しかしこの明かりに慣れた紡久の目はどうという事も無く、男の顔を見返した。

「あ……、あなたが助けてくれたんですか? 俺、途中から記憶が曖昧で」

 早口に喋る男の声がうまく聞き取れない。このような山奥に独りで暮らす紡久の話し相手はもっぱら妖怪たちだけだ、若い人と話すのは久々で紡久の耳が早口に慣れていなかった。

 紡久は少し怯えた様子の体格のいい男へ、ゆっくりとした動作で土間から畳へ上がり近寄る。庭に湧き出る聖水を飲ませ傷が癒えたとはいえ、身体はまだ本調子ではないはずだ。急に近づき驚かせては可哀想だろう。

 縁側に立っていた男は布団の方へ戻り、紡久が側まで来て膝を折るのを見てからそこへ同じように正座した。

「山の中で倒れていたところを私が助けた。八十八紡久(やそはちつむぐ)だ。お前、名は?」

「あ、はい。俺は榊信大(さかきしんだい)です、二十一歳です。あの、助けて頂いてありがとうございました」

 言って男、信大はその場で大きく頭を下げる。自分の名前を名乗れる、頭を下げられる、そんな風を見て取って紡久は内心でほっと安堵した。

 顔を上げた信大の顔をまた見返す。表情は硬いが悪い奴ではなさそうだ。それもまだたったの二十一歳、少し前まで子どもだった者に優しくしてやろうという思いがこみ上げる。

「では信大、腹ごしらえをしよう。握り飯と漬物と、若い桃の砂糖漬けくらいしか無いが、食べられそうか?」

 言いながら立ち上がり、紡久は食事の準備にと土間へ行き予め用意していたそれらを乗せた皿を一人分の膳へ乗せて持っていく。紡久の分は先に済ませたので、これは信大の物だ。

「ありがとうございます、何から何まですみません」

 その言葉遣いから信大が食事を欲しがっているのを感じ取り、紡久は布団の横に膳を下ろす。

「良いさ、どうせ暇だからな。少しの間、お前と話をしながら過ごすのも悪くない」

 笹の葉に乗せた塩の握り飯の皿を目の前へ差し出してやると、信大は少し躊躇う素振りを見せた。中々、手を出さない信大はただ黙って握り飯と紡久の顔を交互に見ている。

「毒など入っていない。私が食べてみせようか」

「あっ、いえ、いただきます」

 躊躇っていたわりに、握り飯を持った信大は遠慮なくそれを口に頬張った。紡久の手で握った大きめのそれをたったの三口で食べ終え、驚いたのは紡久だ。

「お前、もっとゆっくりと食べろ、病み上がりだぞ」

 くすっと笑えば、信大は頷いたもののもう一つの握り飯へ手を伸ばし、それも大きな口であっという間に平らげる。空になった皿を膳に戻すと、今度は信大が自ら漬物の皿を取り上げ一口で食べ終え、更に桃の皿も同じくすぐに食べてしまった。

「なんだ、気に入ったならもっと持ってくるが」

 空っぽの膳を持って立ち上がろうとしたその時、紡久の細い腕を信大の大きな手が掴んだ。

「いえ、ごちそうさまです。しばらく食べてなくて、あの、美味しかったです」

 掴まれた手首に紡久はそこへ座り直す。信大の手は強く握られていた。顔を覗き込むと、どこか目が怯えている気がした。

「どうした?」

「……あ、何でもありません」

 はっとしたように信大が手を離し俯く。正座していた脚を崩し背中を丸める姿が、何だか急に大きな子どもに見えた。

 それから予定通り彼に風呂を進め、五右衛門風呂が初めてだという信大に使い方を説明し、紡久は外で薪の番をする。小さな窓から信大の使うお湯の音が響いてきた。見たところ、一番大きく負った背中の傷はしっかり塞がっていたので、一応湯が沁みないかと心配していたが、どうやら問題なさそうだ。

 ただの気まぐれ、それが紡久が信大を助け構う理由だった。独り山奥で暮らしていても、人は独りでは生きていけない。最寄りの小さな集落まで山を徒歩で下りそこで作った米を売って生計を立てているが、その集落の人たちとは会話もする。いくら山の中の独り暮らしでも紡久を知る人々がまだいくらか居た。だが、信大のような若者と話す機会はそうそうない。過疎化が進み最寄りの集落には年寄りばかりだ。

「まあ、私も十分、年寄りだが」

 自分の考えに小さく笑う。紡久はもう長い事ここで生きてきた。

「紡久、薬つくって」

 ふと座敷童が側まで来て小さな声で言う。紡久の甚平の袖を小さな手で引き、こっちに来てと促す。

「わかった、ちょっと待ってな」

 薪の火をそのままには出来ない。紡久は少し考え、火の始末をする。信大もそろそろ湯から上がる頃だろう。

 畳の部屋へ戻ると、そこには初めましての妖怪が来ていた。見ためは五歳児ほどの人の姿で、顔があるはずのそこに目と鼻と口がない。のっぺらぼうの妖怪だ。

「どうした、何があった?」

 紡久の元へ、たまにこうして妖怪が訪ねて来ることがある。それはこの土地と紡久の血が大きく関係していた。

 この土地では、他ではとても珍しくまだ聖水が湧き出ている、妖怪にとって好ましい環境だ。聖水が湧くという事はこの土地がまだ生きているということで、妖怪のみでなく獣や樹木、草花、虫など土地に根差す者にとって好ましい養分が土の中に絶えることなくたくさん含まれている。人の世では令和になったこの時代に、遥か古の時代からずっとここで聖水が湧き出続けていた。

 その庭で採れる聖水を利用して、紡久は妖怪相手に薬を作っている。聖水そのものはすごい力のあるもので、下手をすれば妖怪にも毒になる。その力を和らげ小物妖怪にも毒にならない薬とするのに、紡久の血を利用していた。

 紡久の血には湧き出る聖水と似た効力が生まれつきある。だからか、紡久自身が怪我をしても傷はみるみると治る。だが紡久の血を他の者に塗っても同じ効力はなかった。それなのに妖怪には違ったようで、それは彼らの傷を癒してくれた。聖水と紡久の血で作る薬は彼らの為だけに作っている物だ。

 口がなく喋らないのっぺらぼうの様子をよく見れば、膝の裏に何か細いもの、木の枝のような物が刺さっている。古びた服の上から突き刺さるそれは痛々しく、すぐにでも抜いてやりたいが紡久は咄嗟に手を出すのを躊躇った。その枝に酷く禍々しい妖気を感じたからだ。

「これは良くないなあ、ひとまずやるだけやってみよう」

「はやく」

「紡久、急いで」

「分かってるさ」

 暗い庭の隅、聖水の湧き出るそこへ明かりを持たずに急いで行き、いつもの通り湯飲み一杯のそれを持ってくる。何でもいいが小さな器、茶碗を用意してそこへ少しの聖水を入れ、更に包丁で自分の腕を少しだけ切る。簡単だ、聖水と血を同量混ぜるだけ。

「出来た。これを傷口にかけるよ、痛いかもしれないけど我慢しろ」

 話しかければ、のっぺらぼうは言葉を理解しているらしく、頷いた。

 いくよ、と声をかけてそっと傷口へと茶碗を傾ける。薬が傷口へ触れた途端、じゅうっと音がして黒い煙が湧いた。紡久は痛がる妖怪の膝を片手で押さえつけ、尚も薬をかける。すると細い枝が自ら抜け、畳の上へ落ちた。少しの間、それを見つめる。だが枝はもう、禍々しい気を発してはいないようだ。

「はあ、はあ……、これでもう大丈夫だ」

「やったあ!」

「紡久すごい」

「傷、治った」

 周りの妖怪の言う通り、のっぺらぼうの膝の裏の傷は綺麗に治り、肌色が見える。傷が治ればもう用はないとばかりに、のっぺらぼうはすっくと立ち上がると一目散に庭を通って山の中へとすごい速さで逃げて行った。

「ふふ、凄い慌てっぷりだな」

 助けた妖怪に見返りなど求めていない。ただ妖怪を助けるのは、紡久が半分人、半分妖怪の半妖だからだ。紡久の出生はかなり特殊だった。

 時は明治十八年、上野国(こうずけのくに)が群馬県と呼ばれるようになった頃。周りに比べひと際標高の高い皇海山(すかいさん)の麓、とはいえ十分に木々の深い山奥にほんの小さな集落があった。その中でも一番大きな茅葺屋根の日本家屋で紡久は生を得る。その日は真夏にも関わらず蝉も鳴かないような涼しさで、陽の昇る前の薄明るい早朝から夜中まで絶えずしとしとと雨が降っていたらしい。

 紡久は第二子、八十八家の次男で下には妹がひとり。こんな辺鄙な山奥で暮らす家族は明治になっても昔ながらの囲炉裏を囲む生活を続けていた。田畑を耕し、米を作り、牛を育て、木を切り、近隣の村にそれらを売りにいく、土地に根差した暮らしだ。

今でこそ半妖の紡久も、初めはただの人だった。だから両親も集落の者も、他の子どもと同じように接し育ててくれた。違和感に気が付いたのは年老いた父親だ。数えで二十七歳だというのに見た目が十代のように若いままだった。それからは、紡久を見る周りの目が変わってしまった。紡久を妖怪だと言ったのは実の兄だ。老いていかない身体など、普通の者にしてみればただ気持ちの悪い事だっただろう。

 紡久が自分の身体に異変を覚えたのはそれよりもずっと前、十七歳になった頃からだった。ある日を境に自分の生まれる前の記憶を夢枕に見るようになり、繰り返し見せられるその内容は次第に鮮明になっていった。その夢が事実ならば、紡久は生まれながらにしてこの土地と約束を交わしていた事となる。それは、今は土地自身が守り続ける聖水の湧くこの土地を紡久が引き継ぎその先を守り続けてくれ、というものだった。

 紡久がまだ母親の腹の中に居た頃、あと百五十年もすれば土地が枯れ聖水が枯渇する、と土地に相談を受けた。聖水は有限で、無くなれば土地が死ぬのだと聞いた。だが、そうなる前に土地は紡久を見つけた。ただの人ではなく、普通は見えない妖怪が見え、更に力の強い土地の者が現れるのを待っていたらしい。その者ならばこの先、土地を守っていける、土地を託すことができる、と。そして生まれる前の紡久は土地の願いを受け入れてしまった。

 それから百四十年という月日を紡久は生きてきた。土地との約束に縛られこの皇海山を出る事ができず、百四十年もの時を生きた。土地は力を失いつつあり、あと十年もてば良い方だ。山では頻繁に地震が起こり地すべりが増えた、湧き出る聖水も以前よりもずっと少ない。毎日見舞っている立派な御神木のケヤキが土地の本体だが、見た目は百四十年前と何も変わらないのに精気は年々薄くなっていた。

 土地の力のお陰で紡久の寿命は長い。もう長いこと鏡を見ていないが、見た目はまだ二十代ではないだろうか。百四十歳を迎えた年寄りだというのに、土地の加護を受けた半妖だからというだけで老いが遅い。それでも百二十年余りで人の十歳程度は老けていた。

 老いなど何も気にならない。そのうち、あと数年もすれば紡久はこの土地に成る。御神木のケヤキのように、この脚から根を出し樹木の様にこの土地とただ数千年を生きるのだ。

 そこに紡久の望みはない。生まれながらに決められた運命には逆らえない。土地に成れば感情は無くなるのだろうか、虚無が襲ってくるのだろうか。独りで永遠を生かされるならばいっそのことその方がしあわせかもしれない。





 野菜の小さな畑から帰り部屋へ入ると、開け放ったままの縁側でまた信大が庭を見て座っていた。ただいま、と土間から落ち着いた声で話しかけたが気づかぬようで、信大は黙って庭のもっと向こうを見ているようだった。

 紡久は彼の邪魔をしてはいけないと思いつつも隣へ行き、そっと腰を下ろす。気配に気づいた信大がぱっと横を見た。

「どうだ、まだ身体は怠いか?」

 傷は癒やしても、聖水は人にとって万能じゃない。あんなに酷い怪我をした信大が昨日の今日ですぐに野を走り回れるはずはなかった。

「おかえりなさい、紡久さん」

 紡久の問いには答えず、信大が人懐っこく笑う。どき、と紡久の鼓動が跳ねた。かわいい顔で笑うんだな、と思ったが言葉にはしないでおく。

「ここ、気持ちいいですね。暑いけど風が吹き抜けるから」

「そうだな」

 何だか気分が良い。信大が居るだけで見慣れたこの何もない家の中が華やぐ。妖怪以外の客人など本当に久しぶりで、紡久は何かしら信大を構いたくて仕方がない。だけどこの客人は何をしたら喜ぶのだろうか。

 脚を伸ばして背伸びをする。彼の言う通りここは風が吹き抜けて汗が冷やされ気持ちがいいのだ。

「あれ、紡久さん背中に入れ墨してます?」

 言われ、「あっ」と声が出た。慌てて甚平の襟をたくし上げたが、もう信大に見られてしまった。

「……なんか、隠したかったですか?」

「いや、見るな、これは……呪いが移るぞ」

 言葉にしてから、紡久は後悔する。そんな事はもう信じていなのに、不意に昔の事を思い出してしまった。

「呪い?」

 何も知らない信大が目を丸くして聞き返す。こんな言い方をすれば興味を持ってもおかしくはない。紡久が悪い。

「……生まれながらにここ、うなじに濃く赤い痣があってな。年々、背中に広がっていくのが恐ろしいのだろう、皆、私を遠ざける」

「ええっ、大丈夫なんですか、それ? だからこんな山奥に独りで住んでるんですか? 若いのにどうしてこんな所で昔の生活をしてるんだろうって思ってたんです」

 素直な性格なのだろう、信大が心配そうな視線を寄越す。怖がられることはあっても心配されたことはこれまでにも無く、紡久はその反応に面食らった。

「大丈夫だ、私の身体はなんともない。ただこの地でその時を待つだけだ」

「その時? 何かあるんですか?」

 瞳を覗き込まれ、紡久はわざと前を見て視線を逸らす。これ以上、信大に何を言うつもりはない。これまで誰にも話さずひとりで抱えていた土地との約束とこの青年はなんの関係もない。優しさに甘えてしまいそうになりながらも、紡久は信大の瞳を振り切った。

 覚悟はとうにできている。生まれながらに定められた百五十年という月日。背中の痣が全身、脚へと到達し“その時”が来るまで紡久はこの生家で気ままにのんびりと過ごせればそれでいい。“その時”が来れば、この土地に縛られもう二度とこの足で地面を蹴ることは叶わないのだから。

 ぐう~~~、と不意に小さな音がした。

「あっ、すみません、俺……っ」

 信大の腹の音だ。そういえば、あれから食事をしていない。夜遅くに握り飯を食べさせたきり、朝も昼も何の用意もしていなかった。

「済まないな、つい食事を忘れてしまう。昨日炊いた白米があるからそれを食べよう」

「ありがとうございます。紡久さんはお腹空かないんですか?」

「ああ、私はいい」

 答えてから、紡久はまた「あっ」と内心でひやりとしたものが巣くう。信大は普通の人だ。紡久の感覚で変な事を言ってはまた質問が返ってくるだろう。

 紡久は半妖なのでさほど人の食事を必要としない。たまに少しの聖水を摂取していれば死ぬこともない。だからつい、準備の大変な食事を怠ってしまう。

「やっぱり私も一緒に食べようかな」

 わざと言葉にして言い、紡久は縁側で立ち上がった。

 土間へ降りて鉄鍋を持ち庭の井戸で水を汲んで戻りそれを竈へ置き、火をつけて自分で育てた葉物野菜で味噌汁をつくる。ついでにもう一方の竈で昨日炊いた白米を蒸して温めた。

「ごはん? ごはん?」

「ああ、お前たちも食べるか? 白米は冷たいままでいいよな、お前たちは」

「うん、たべる」

「やったあ、白米だー」

 土間に集まった小物妖怪たちが嬉しそうに踊っている。二日続けて人の食べ物がもらえる機会はそうそうないからだろう。人の食べ物は妖怪にとってご馳走なのだ。

「紡久さん、俺も手伝います」

 難なく歩けるようになった信大が土間へ降りてくる。体力が戻るまでは少しでも動いた方が良い。紡久は頷いた。

「じゃあ、そこに膳をふたつ並べてくれ」

「はい」

 隅に重ねて置いている膳を信大が並べる。その上へ紡久が白米の入った茶碗と味噌汁の椀、そして箸を置いていく。ついでに妖怪たちの為に、畳の上へ白米の茶碗を三つ並べた。

「あれ、茶碗多くないですか?」

「ああ、良いんだ」

 妖怪たちが食べるから、と言いかけて紡久は黙る。また変な事を言ってしまいそうだった。

「はやく、はやく」

「たべていい?」

「たべる」

「いいよ、食べて」

 紡久が許しを出すと、数体の妖怪が一目散に手を出し、両手で白米を頬張った。膳の上は紡久のもの、畳の茶碗は妖怪のもの、という決め事をしっかり守っている。妖怪が人の言う事を聞くなんて普通はあまりないらしいが、この妖怪たちとの付き合いはもう百年近くにもなるので紡久の簡単な願いくらいは聞いてくれる。そんな彼らがかわいいとさえ紡久は感じていた。

「紡久さん、さっきから誰と話してるんですか?」

 信大の戸惑ったような声にどきっと鼓動が嫌に鳴る。しかし友達の妖怪たちを無視しては可哀想かと、紡久はこれまで通り彼らと会話していた。

「あ、ああ。お前には見えないんだな。この辺りには昔から妖怪が住んでいてな。持ちつ持たれつ、私も彼らに助けられているんだ、怖がらないでやってくれ」

 慌てた鼓動を内心で落ち着けながら、紡久は何でもない事のように穏やかな声を心掛ける。ちらっと信大の様子を窺えば、彼は驚いた様子で目を見張っていた。

「妖怪? じゃあこの多い分の茶碗は妖怪のものですか? 入っていたごはんが目の前で消えてびっくりしたんです」

 やっぱり驚かせてしまったか、と紡久は苦笑する。しかし妖怪たちは何も悪くない。ただそこに在るだけの彼らを責めないで欲しい。

 その時、ふと、ごごご……と低い地鳴りがして地面が揺れる。まただ、また地震がきた。

「あっ、……膳が!」

「いい、危ないからしゃがんでいろ」

 揺れる最中、ふたつの膳が土間の砂の床へ落ちる。こぼれた白米と味噌汁の具を求めて妖怪たちが群がった。地面が揺れていても妖怪には何という事もないのだ。

 じきに揺れが収まり、畳の上で膝を突いていた信大が大きなため息を吐く。

「はあ、大きかったですね。大丈夫でした? その……妖怪も」

 そうして紡久の見ている目の前で落ちた膳と空になった茶碗を拾った。

「ふふ、妖怪たちはお前よりずっと強いぞ。私も含めてな」

 くすっと笑い、紡久も起き上がる。竈の火の始末をした後で良かった。家に燃え移ったら大事だ。

「ええと、紡久さんも妖怪なんですか? あっ、いやそんなはず無いですよね、すみません」

 信大の純粋な疑問が返ってくる。言われれば確かに今の言い方は紡久も妖怪だと言っているようだ。隠したいわけでもないが、人は自分と違うものを受け入れられないものだ。家族でさえ紡久を妖怪だと罵った。だが信大はどうだろう。紡久の話を信じてくれるだろうか。信じてくれたら紡久を怖がるだろうか。しかしこの素直な男は他と違うような気がした。

「私は半分人、半分妖怪の半妖でな。人でも妖怪でもない、人になり損ねた存在さ」

「え……」

 どうしてだろう、自分が悪いなどと思った事もないのにどうしてか卑下した言い方になってしまった。こんな風に聞けば、人は紡久を否定するに決まっている。

 土間の縁のすぐ近くの畳の上へ正座し、信大は何も言わず少し離れた床を真剣な目で見つめている。信じたというよりは、紡久のような人ならざるものの存在が珍しいのかも知れない。

「私が怖けりゃ出ていけ。傷はもう殆ど癒えただろう」

 低い声が出た。この男を責めることなど何もないのに、心がざわつく。久しく忘れていた怒りに近い感情が湧き上がる。どうせお前も私を拒絶するのだ、と。

 ふと信大が顔を上げ、両手を丸めて膝に置きこちらを見た。凛々しい顔つきは笑っておらず、眉間に皺を作っていた。

「いえ、怖くないです。あなたは俺を助けてくれたんだ」

 なんとも男らしい、芯の強い瞳だろうか。建前でもいい、半妖の紡久を怖がらないらしい。

「例えば森の獣、そうだな……熊や獅子がお前を助けたとしよう。だが奴らは人を食う。半妖の私とてお前を喰わないとは限らんぞ」

 うすら笑いを浮かべわざと怖がらせるようなことを言い、信大を試す。「喰われる」と知れば大抵の人は逃げ出すだろう。それで良い。瞳の奥に燃える何かを持つこの男をこんな土地に縛り付けては不便だ。さっさとここを出て行けばいい。

「……どうして悪者のフリをするんですか。看病して食べ物まで譲ってくれたのに最後には食うんですか。じゃあなんの為に助けて生かしたんですか。紡久さんは俺を食わないです」

 信大の瞳が真っ直ぐと紡久を貫く。そんな熱い目で見ないでくれ、嘘が知れてしまう。聖水を舐めていれば死なない紡久に人を食う趣味はなかった。

 そこでふと気づく。紡久は彼に甘えていた。この純粋な男に自分を否定しないでくれと、試しながらも甘えていたのだ。

「そうか、意地悪をして悪かった。飯にしよう」

 たった今、準備した膳は地震で倒れて妖怪たちに全て食べられてしまった。だから紡久は先ほどの手順をなぞり、改めて味噌汁を作り白米を温める。信大はそれをただ側で見ていた。

 もう怒りはない。この男に対し何故それと似た感情が湧いたのかは紡久自身も不思議だが、信大は何か持っている、そんな直感を得た。理由のない落胆に似た怒りがいつの間にか嬉しみに変わっているのだ。無条件で紡久を信じてくれる信大の心の深さに惚れたからかもしれない。





 うだる様な暑さの季節が徐々に移ろい、米の収穫の頃がやってきた。信大は未だにこの家で居候をしている。あの怪我の後、傷もしっかり治り体力はもう元のくらいまで戻っているだろうに、しかし信大は下山しない。薪割りや畑の管理、木の実の収穫や稲刈り、甚平の洗濯、食器洗いなど、紡久の仕事を手伝っては共に笑い、仲良く楽しい生活を続けていた。

「おい信大、また怪我をしているじゃないか」

 夜の薄暗い明かりの下で紡久は声を上げる。傍に寄らないと気づかないような切り傷や擦り傷が、甚平の裾からいくつも見て取れた。

「あれ、本当だ。いつの間に」

「いつの間にか怪我をするなら、せめてもう少し落ち着いて動け」

「良いんですよ、このくらい。放っておけばそのうち治ります」

 なんという言い草だろうか。紡久はわかり易くため息を吐く。こんな時、人ならば消毒をして絆創膏を貼るのだろうが、それを必要としない紡久の一人暮らしでここには絆創膏がない。「仕方がない」と声を漏らしながら立ち上がり、手ぬぐいを片手に真っ暗闇の庭へ降りる。半妖の紡久は人よりも随分と目が良いのでこの程度の暗闇ならば先を見る事が出来た。庭の隅の聖水で手ぬぐいを濡らして固く絞る。それで傷の出来た人の肌を拭えば、たちまち治るのだ。

「よし、これでいい。とにかく無鉄砲に動くな、傷を作らぬよう気を付けろ」

「はい」

 ただの消毒だと勘違いしているのか、薄明るい室内では傷が治ったのが見えないらしい信大は特別な反応をせず頷く。聖水について話していないのでそれも当たり前だった。

「紡久さん、布団に横になってください。マッサージしてあげます」

 夜風の入る涼しい部屋で今度は信大が紡久を促す。あの怪我が治って少しした頃から信大は夜になるとたまに「まっさあじ」と言って紡久の背中を揉んでくれた。初めて受けた時はとても気持ちが良く眠ってしまいそうなほどふわふわとした気分になった。しかし一方的に信大に「まっさあじ」をさせて自分が眠っては失礼だと思い、紡久は毎度眠らないよう心掛けている。

「あれ、あんまり凝ってないですね、肩が柔らかいです」

「ん……信大が手伝ってくれるから、私の負担が少ないんだ」

 畑仕事も薪割りも去年は全て紡久ひとりでしたが、今年は信大のお陰で幾分も楽だ。

「そういえば昼間、庭の湧き水を見たら全然出てなくて。あれ、もう枯れちゃいそうですね」

 どき、と紡久の鼓動が鳴る。聖水に関して信大に話すにはまだ早い。しかし人が触れていい物ではないので「庭の湧き水には触れるな」とだけ伝え、注意させている。

 聖水だなんて聞いても普通の人は信じないだろうが、信大なら信じてくれるかも知れない。だが、妖怪にはともかく人には危ないものなのだから知らないに越したことは無いのだ。

 ふと目を覚ます。「まっさあじ」をしてもらいながらいつの間にか眠っていたようで、紡久はひとり自分にがっかりとする。隣に敷かれた布団では信大が小さくいびきをかいて眠っていた。

 外が薄明るい。朝陽が昇る前の空が白み始めた頃だろう。よく眠り目が冴えてしまった紡久は起き上がり出かける支度をする。隣の布団で眠る信大を起こさないよう気を付けながら、下駄を履いていつもの森の中を散歩する。

「紡久さん!」

 鳥たちのさえずりを聴く森の中で、背中から信大に呼ばれ咄嗟に振り向く。紡久の後を着いて来たようだ。

「起こしたか、済まないな」

「いえ、俺も紡久さんと散歩したい気分なので」

 信大が追い付くのを待ち、落ち葉を踏みゆっくりと歩を進める。こうして早朝に一緒に森の中を散歩するのは初めてではなかった。

 御神木のケヤキまでぶらぶらと歩き、樹齢三千五百年だという太い樹を見上げる。紡久の生まれた百四十年前と変わらぬ姿で枝をいっぱいに伸ばし、葉を紅葉させていた。

 ケヤキは本来、三千五百年も生きないらしい。だがここは未だに聖水の湧き出る生きた土地だ。この土地には太く立派な幹の樹木が多く生えている。それにこのケヤキは土地の本体だと聞いている。土地が生きる限り、このケヤキも生きていくのだろう。だがそれも残すところ十年は持たないだろう。

「いつ来ても立派ですね」

 何も知らない信大が太いケヤキの幹を見上げ、朝焼けに照らされた風に吹かれる枝葉を感じている。もうすぐこのケヤキが死んでしまったら、こんな紅葉した姿を見られなくなるのだろうか。長年、寄り添い紡久を苦しめた御神木との別れを想像し、どうしてか心がしんみりとした。

 帰りは来た時とは違う道を歩く。途中からいつもの妖怪が数体、姿を見せ、紡久と信大を囲う様にしてぴょんぴょんと跳ねながら一緒に散歩を楽しんでいた。

「あそこ! 倒れてた、あそこ!」

「あの木のとこだ」

「たおれてたね」

 急に口々に言う妖怪たちの指さす方を見る。そこはあの日、傷ついた信大を拾った場所だ。

「ああ、信大があそこで倒れていたな。私ひとりで傷ついた信大を家に運ぶのは苦労したんだ」

 ふふ、と紡久は笑みを零して懐かしむ。もう良い思い出になっているそれは、信大との出会いそのものだ。

「俺があそこに? ……そうだ、鞄が無いかな、俺の荷物が入ってるんです」

 信大が先に走ってその場所へ行き辺りを見回すので、紡久は歩いて付いて行く。あれから随分と日が経ったが、妖怪や森の獣たちが鞄を持ち去っていなければきっと在るだろう。

 後から来た紡久へ、しゃがみ込んだ信大が汚れたものを掲げて見せてくれる。

「ありました、俺の鞄です。中身は……うん、ちゃんと残ってる。よかったあ、スマホは充電しなきゃな」

 逆さまにした鞄から土の上に中身を出して確認している。紡久には初めて見るものばかりでそれらがどんな物なのか、どう使う物なのか、殆ど分からなかった。

「紡久さん」

 荷物を鞄の中に戻し、信大が立ち上がる。紡久より若干視線の高い位置から見下ろされ、呼びかけに答える代わりに彼を見つめた。

「あの時、俺を運んで看病してくれた日……、紡久さん俺にキスしました?」

 揺れる瞳が紡久へ注がれている。「きす」と言われてそれが何なのか瞬時に理解できない。首を傾げると、信大が言い直した。

「キスは、接吻です。唇と唇を合わせて……」

「わかった、もう良い!」

 なんてはしたない事を簡単に言うんだ、と紡久は視線を逸らす。下に逸らせば、信大の形のいい唇が目に入った。

 あの日、意識のない信大を助ける為、聖水を飲ませるのに口移しをした。あの時はやむを得ずそうしたが、よく考えてみれば他の方法もあった。布に沁み込ませた聖水を食ませるなど、他にもやりようがあったのに口移しをしてしまった。思い出すと頬が熱い。少しの後悔に似た感情が沸き上がった。

「俺も怪我して上の空でしたが何となく、……ここに冷たくて柔らかいものが触れた気がしました」

 自身の唇に指を当て信大が吐息を吐く。

「……」

 人でもない紡久の接吻は嫌だった事だろう。独りではない楽しい生活で忘れていたが、信大に拒絶されるならば自分から手放してやろう。信大は優しい男だ。看病をされた恩があり自分からは言い出せないのかもしれない。ならば、紡久から幕を下ろしてやればいい。

「お前、もうとっくに怪我が治っているだろう、さっさと此処から出ていけ」

「え……」

 また普段は出さない低い声が出た。信大は驚いた顔をしているだろうか。俯いたままの視線は彼の足元を見ていて表情が分からない。少しの間がふたりを包んだ。

「怒らせましたか。どうして?」

 信大の指が頬に触れる。驚いたのは紡久だ。触れられるとは思わず、紡久の肩が跳ねた。

 どうして? 紡久は怒っているわけではない。これは紡久自身の問題だ。

「怒らせたなら謝ります」

「うるさい。お、お前のせいじゃない」

 拒絶される事への恐怖を知ってしまった。若い頃に大勢の人に拒絶されたこの身はもうそんなものを感じる事は無いと、慣れた感情だと知っていた。それなのに信大の拒絶が怖い。それだけ今の紡久は信大に心を砕いていた。

「お前は何なんだ。お前と居るだけで心がざわつく、胸が痛いんだ。私は変なんだ」

 顔を上げられないまま、答えの出ない感情を彼へぶつける。今も胸が痛い。ゆうべは「まっさあじ」を受けて心が穏やかだったのに、今は違う。ここに、信大の目の前に居たくない。

「こんな病のような気持ちは嫌だ。お前、どこかへ行ってしまえ」

 子どものような事を言っている自覚がある。だがぶつける相手が目の前に信大しか居ないのだ。泣きたい気分だった。

「……もしかすると、俺はその紡久さんの気持ちを知っています。恋でしょう」

 片手で触れていた信大の手が両頬を包み、紡久の顔を上げさせる。涙の浮かんでいない泣きそうな顔を見られてしまった。恥ずかしい。

「そんなわけあるか、これが恋だって?」

 紡久は男だ。同性の信大に恋などするはずがない。そう思うのに「恋」という表現とこの苦しい気持ちがかっちりと合わさる。心の中の歯車と頭の中の歯車がしっかり噛みあうような妙な感覚だった。

 自覚をして信大を見返す。瞳の奥に燃えるような何かを持った眼差しが紡久の瞳を見つめている。ああ、この瞳が好きだ。

「俺もあなと同じ気持ちになります」

「……同じ? この苦しみを持っているのか」

 近い距離で互いに吐息交じりに話す。信大の息が顔にかかった。

「苦しみだけじゃありません。喜びや嬉しみ、離れたくないとか、触れたいとか、しあわせな気分にもなります」

 言われてみれば、それが恋だと紡久にも分かる。だが紡久と信大は別だ。彼には彼の元の生活があり、信大はそこで誰かに恋をしているのだ。

「お前、好きな者がいるのか」

 妙な親近感を覚え、同時に得た失恋に紡久が薄っすらと笑う。目の前の信大の瞳が嬉しそうに笑った。

「います。俺の好きな人はあなたですよ、紡久さん」

 意外な告白に紡久は笑みを消して目を見張る。自分を好きだと言ったのは百四十年の生涯で信大だけだ。それも出会ってからまだひと月が経つ程度の浅い付き合いだ。互いの事もまだよく話していない仲で、紡久は信大がどこで生まれ育ったのかさえも知らない。信大も同じで、紡久の事を殆ど知らないはずだ。そんな相手を簡単に好きになるだろうか。

「私は半妖だと言っている。よく知りもしない私を好きになるはずがない」

「でも紡久さんも俺に恋をしてるんでしょう。よく知りもしない、俺に」

 穏やかな信大の声が耳に心地いい。だけど甘えてはいけない。紡久はいずれこの土地になる身だ。今は半分だけ人だが、そのうち背中の痣が全身に広まり、完全に人ではなくなっていく。そんな紡久の運命に信大を巻き込んではいけない。信大の言葉を借りるなら紡久も信大が好きなのだ。だからこそ巻き込んではいけない。

「あなたに触れたい。あなたが好きなんです、……触れても良いですか?」

 紡久の迷いを知ってか知らずか、信大の頬を包む両手に力が篭る。まるで逃げ腰の紡久を逃がすまいとするように信大の顔が更に近づいてきた。接吻をされると思い、紡久はぎゅっと目を閉じる。

「……?」

 予想に反し接吻をされなかった。その代わりに頬に当てられていた手が離れ、長い腕で身体を抱き締められる。無抵抗の紡久の背中へ回された男らしく力強い信大の手が、痣の広がるそこを甚平の布の上から撫でた。

 人にこんな風に触れたことがない。人ならざるものの紡久は、これまで人に必要以上に近づかないよう生きてきた。だから適齢期で結婚もしなかった。

 どうしたらいいのか分からずただ信大にされるがままになっていると、耳元で彼の囁き声がする。

「はあ、落ち着く。紡久さんの匂い、好きです」

 すうーっ、と信大が鼻で息を吸う。くすぐったくて肩をすごめた。

 半妖の紡久は人よりも鼻がいい。しばらく共に過ごし、これまで嗅いだ事のない信大の体臭には人知れず気が付いていた。だけどその体臭が嫌ではないのだから、信大の言う事も理解ができる。ただ、少し恥ずかしいとは感じた。

 好きな人に触れたい、という感情が紡久にも在ったらしい。こうして信大に抱き締められるとその先を求めたくなってしまう。信大が自分に触れるのならば紡久も信大に触れても良いということだ。

「……なあ、今度はお前からしてくれ」

 軽く信大の背中を叩き腕を離してもらい、紡久は顔を上げて目を閉じる。あの時の信大は意識がなく目を閉じていたから、これでお相子だ。

 あの時とは違い理由のない口づけが降りてくる。温かくて柔らかいものが唇に触れた。じん、とそこが甘く痺れる。間近で息をする信大の気配さえ愛おしい。

 唇が離れそっと目を開けると、思っていたよりずっと傍に信大の瞳があった。また、嬉しそうな視線が紡久を見つめている。どき、と鼓動が跳ねたが今はそれさえ心地いい。恋は鼓動がうるさいものらしい。

「まさか、私が同性に恋をするとはな」

 照れ隠しで言葉を紡げば、信大の目じりが下がる。にんまりとした表情がどこか憎らしいが、紡久自身も嬉しいのだから始末が悪い。ああ、紡久は彼に恋をしたのだ。

 周りで小物妖怪たちが「ひゅーひゅー」と冷やかしてくる。恥じらいはあれど、彼らは信大には見えていないので気にしない事にした。

 今だけ、ほんの少しだけ、信大と夢を見ていいだろうか。“その時”が来れば紡久に抗う術などないのだから、ほんのいっ時だけ恋の夢を見させて欲しい。

 家に帰ったら全てを信大に明かそう。大丈夫、信大なら紡久の長い話を聞いてくれるさ。そんな想いを胸に抱え、紡久は「帰ろう」と彼へ手を差し伸べた。





 そろそろ冬支度を始めよう。越冬に使う薪などは夏のうちから準備し割っておいたが未だ足りない。だけどここ二十年ほど前から温かくあまり雪が降らないので越冬はぐんと楽になった。最寄りの集落の話好きの婆さんが「温暖化」だと言っていたのを随分前に聞いたが、そういう事なのだろう。百四十年も生きていると世の中が大きく移ろうものだ。

「紡久さん、今日も食べないんですか?」

 竈で一人分の食事の用意をしていると、信大が土間に降りてくる。

初めこそ頑張って信大と一緒に食事をしていたのだが、半妖と知れ、更に身の内を明かした今では何も隠すことがない。聖水をたまに舐める程度、摂っていれば死なないのだから楽なものだ。

 信大は、ゆっくりと思い出しながら身の内を語る紡久の話を最後まで聞いてくれた。数年後には紡久は意識を手放し土地に成る事も話した。淡々と話す紡久の声をしっかり聞いてくれていたが、信大の反応は薄いものだった。たまに頷き相槌を入れるものの、どこまで理解してくれたのかは定かではない。だけどあまり長いこと共に居られない事は伝えたはずだ。

 信大は紡久の今後について何も言わない。質問もなく、一方的に紡久が話しただけだ。これまで見てきた信大の性格なら、いくつもの質問をしてきてもおかしくはない。それなのに信大はただ頷いただけなのだ。もしかすると信大なりに思う事があったのかも知れない。妙な運命を背負った紡久に愛想を尽かす事だってあるだろう。しかし信大はここを出て行かない。紡久に愛想を尽かしたなら出て行けばいいのにそれをしない。それどころかたまに紡久に触れたい、と「まっさあじ」や接吻をしてくれる。嫌われたわけではないのだと信じたかった。

 この日の夜になり、紡久はとっておきの梅酒を開ける。初夏に庭で採れた青梅と最寄りの集落の小さな店で買った酒と砂糖を合わせたものだ。酒の中でも紡久が特に好きなのは果物の酒で、しかし一度にたくさん飲んではもったいないのでたまに湯飲み一~二杯だけと決めている。

 ひとつだけ置いた膳の上に酒の時しか使わないお気に入りの湯飲みをふたつ置き、梅酒を注ぐ。それを見ていた信大が珍しい物を見るような声を出した。

「酒ですか? 梅酒かな、いい匂いですね」

 頷き、片方の湯飲みを信大へ手渡す。自分はもう片方の湯飲みを唇へ運んだ。

「お、いい出来だ。甘すぎなくていい」

 自分の好みに合わせて作るよく漬かった果実酒は絶品だ。紡久はちびちびと勿体ぶって酒を仰ぐ。それを向かい側で見ていた信大がくつくつと喉を鳴らして笑った。

「うまいですね、これ。今年の梅ですか?」

「今年の梅も漬けたが、これは去年の梅酒だ。最低でも一年は寝かせたい」

 言って、また一口を煽る。目の前で信大もまた一口、飲んだ。ああ、独りではない酒の旨いこと。今夜は特別にもう一杯、多く飲もう。隣には信大、庭からは虫の声と優しいそよ風、そして目の前には旨い酒。とても気分のいい夜だ。

「あの、紡久さん。俺の話も聞いてくれますか」

 久しぶりの酒に酔いふわふわとした気分でいると、不意に信大がいつもよりも硬い声を出す。顔を見ればその横顔も声音と同じく強張っているように見えた。

「何だ?」

 少しの不安が胸に込み上げながらも、紡久は何でもない事のように返す。例え信大に何を言われても紡久はそれを受け入れるしかない。ここを出ていくならば土地を離れられない紡久はただ彼を見送るだけだ。

「紡久さんは何も聞かないでくれてますけど、俺は紡久さんにも俺の事を知っていて欲しいんです。だからちゃんと話します。聞いてください」

 信大の話は予想と違っていた。てっきり別れを切り出すのだとばかり思っていたが、信大は今の紡久をちゃんと見てくれている。先日の紡久の話を経て、今度は信大の事を教えてくれると言う。知りたい、ずっと聞くのを我慢していた。しかし紡久に事情があるのと同じく、信大にもきっと事情がある。こんな人の寄り付かない森の中で傷つき倒れていた信大がここに来るまでに何があったのか、紡久は声も出さずにただ信大の顔を見つめ、話を聞いた。

 信大は大学生らしい。普段は東京の実家で暮らしていて、両親と弟がいる。学業の他に運動をしていて身体を鍛えている。東京の暮らしはこんな山奥の家とはずっと違っていて、竈や囲炉裏も厠も押入れもない。しかし昔ながらのこの場所での生活も楽しい。などなど、信大の普段の生活について教えてくれた。

 更に話は信大が此処へ来ることになった理由へと進んでいく。事の始まりは信大と血の繋がった祖父の言葉だった。

『俺の母方の兄の血は不老不死の万能薬らしい。どんな病も怪我も治すんだ。信大の曾祖母の兄がまだ群馬の家に住んでるらしいが、本当に生きてるならもう百四十歳にもなる。俺も母親からチラッと聞いただけだけどな』

 続けて信大が明かす。

「俺の祖父の母親、曾祖母の生家の名は、八十八(やそはち)です。紡久さんと同じ苗字なんです」

 信大の口から出た彼の祖父の言葉に紡久は少しの恐怖を覚える。そして信大の曾祖母、八十八恵は紡久の実の妹だ。信大と紡久は血が繋がっていた事になる。

「……それで、お前は私の血を求めてここに来たのか」

 紡久の血が万能薬だなどというでたらめを実の妹が息子に喋ったのだろうか。いや、喋ったのだろう。でなければ信大がわざわざ東京からこんな山の中へ来るはずがない。酒でふんわりしていた脳内が冷えていく。

「初めは、あわよくばと思っていました。けど違うんです、紡久さんの血が欲しいなんて今は思ってません」

「では何故、此処へ来た!」

 一瞬にして頭に血が上る。膳に置いた湯飲みが片方、畳を叩いた振動で転げ酒が滴る。信大がびくっと身体を揺らした。こんな大声を出したのはいつ振りだろうか。胸の奥が痛い、頭が回らない。ああ、恋とは厄介だ。この男の望みを叶え、永遠に別れを告げようとさえ思えてくる。

「私の血が万能薬だと? ……クックック」

 可笑しくて喉から笑いが漏れる。実妹の恵は、亡くなる少し前までこの生家へたまに脚を運び紡久に会いに来てくれていた。ここへ来る客人は何十年も恵しか居なかった。他の家族も親族も既に先に逝き、恵が最後に残った唯一の肉親だった。だから紡久は、恵だけは信じていた。それなのに……。

「すみません、紡久さん。話すか迷ったんですけど、黙っていられなくて。話の続きを聞いてください」

 頭上でした信大の声に我に返る。気づけば信大はすぐ隣で膝をつき、紡久の背中を撫でてくれていた。

 もっと嫌な男なら憎み切れるのに。効果が無いとわかっていて血を差し出せる相手ならまだ良かった。紡久は胸で大きく息を吸い、その分だけゆっくりと息を吐いた。

「もういい、何も聞かない、出て行け」

 わざと低い声で言い、信大の手を払う。だが払った手はすかさず元の位置へ戻り、また紡久の背中を撫でた。

「出て行きません、話を聞いてください」

 真っ直ぐとした心地のいい声が紡久へ向けられている。

 信大は芯が強く強情で優しい奴だ。自分でこうと決めたら一歩も引かない。そんな信大を好いてしまったのだ。惚れた弱みとはよく言ったものだ、と心の中で諦めのため息を漏らす。

 此処は紡久の終の住処だ。信大が出て行かないつもりならば紡久にはどうにもならない。

「分かった、話は聞こう。それから出て行け」

「怒らないでください、お願いですから」

 近い距離で感じる困ったような信大の声音に、たった今とは別の意味で可笑しくなってきた。紡久の一挙一動に信大が困っている。少しの優越感に近い気持ちが紡久の心を落ち着かせた。

「俺には弟がいます。その信二(しんじ)の為にダメ元でもと縋る思いでこの地に来ました。信二は学校でいじめにあって不登校になって、それからずっと家から一歩も出ないんです。心の病にかかってしまったんです」

 紡久はただ黙って彼の話を聞く。その間も信大は手を動かして紡久の背中を撫でてくれていた。

「家を出る時、信二と約束をしました。『お兄ちゃんが万能薬を持って帰るからな』と。だけど俺だってそんな薬があるはずは無いと思ってます。ただ少しでも信二の気持ちが上向くならと思って、ただの励ましのつもりでした」

「だが、万能薬はあったというわけだ」

 口を挟むと、紡久の両方の肩をそれぞれの手で強く抑えて信大がこちらへ向き直る。瞳を覗き込まれ、紡久も彼を見返した。

「聖水を分けてはやらない。あれはただの人には危険なものだ」

 一呼吸だけ早く紡久が口を開く。たったひと瓶でも人の手に渡れば、効力を知った他の人々が此処へ押し寄せるかも知れない。そうなれば土地を掘り起こしもう枯渇しかかっている聖水の取り合いが始まるだろう。それに聖水の効力は人には強すぎる。決して人の手に渡してはならない。だから紡久がここで長年、守り続けてきたのだ。

「聖水が欲しくないわけではありません。でも事情を知れば持ち出そうとも思いません。紡久さんの敵にはなりたくない」

 敵、という言葉に紡久は信大の瞳の奥を見る。本当にこの男は、と紡久は口角を上げて目を閉じた。

 信大は嘘のつけない男だ。だから彼がこうだと言ったら無条件で信じられる。もし嘘をついていれば、覗き込んだ視線を真っ向から見返すことの出来ない不器用な奴なのだ。

 一体、何に怒っていたのだろうか。信大は初めから紡久の味方だったと後になって気が付く。紡久が聞かないからとただ黙っている事の出来ない信大がかわいらしい。もうその気がないのに実は万能薬を求めていたと告白する、その意味を考えた時、自分よりもずっとずっと年下の男の子が愛おしくなってしまった。

「さて、飲み直すか」

「あれ、もう怒ってないんですか?」

 紡久の明るい表情を見てもまだ怒っていると感じていたらしい信大が可笑しい。このまま怒った振りを続けたら信大はどんな反応をするだろうか。困った姿も喜ぶ姿も怒った姿も、どんな姿でも見せて欲しい。ひとまず信大は「出て行かない」と言っている。ならばもう暫くの間は、信大との楽しい生活を続けられそうだ。





 朝晩が甚平一枚では肌寒くなってきた。夏の布団からもっと厚みのある冬用の布団へと出し変えたのはつい一昨日のことだ。

まだ辺りが薄暗い早朝、ふと目を覚ました紡久はもぞもぞと布団から出て日課の散歩へ行くため出かける準備をする。いつも部屋着と出掛け着が同じ甚平で着替えもしないが、腰の紐が解けており結び直そうとした、その時。背中の赤黒い痣がへその傍まで来ていることに気付き、ぎょっとする。ゆうべ風呂に入った際には気が付かなかったのに、一晩で急速に進んだようだ。

 土地が紡久を欲しがっている。痣を広げ、人で失くしていく。

 散歩へ行くのを止め、紡久は布団に戻って慌てて掛布団に包まる。こんな事をしても逃げられるものじゃない。分かっていても、そうせずにはいられなかった。

 もう一度眠ってしまおうと目を瞑っていると、地面が揺れる。また地震だ。

「うわ、地震です、紡久さん!」

 隣に敷いた布団で眠っていた信大が飛び起きる。慣れたもので紡久は掛布団に包まったまま、顔だけを出して揺れが収まるまで信大の様子を見ていた。

 じきに揺れが終わる。布団の上で座った信大が「ふうー」とため息を漏らしていた。

「また揺れたな」

 この地震の原因はこの土地にあると、これも以前、信大へ話した。紡久が土地を引き継げば頻繁に起こる地震も徐々に無くなる事だろう。

 土地を引き継ぐ。それは現在この土地を守る神が消え、紡久がこの土地になるということだ。もちろん紡久はこのままというわけにはいかない。信大と過ごすこの穏やかで楽しい生活が既に恋しい。信大が恋しい。長年、生きてきたのに人としての紡久は信大よりも先に消える。信大を残すことへの抵抗もあるが、彼には元の家に家族が居る。大丈夫、紡久が居なくても信大は生きていく。そう思うのに、どうしてこんなに寂しいのだろう。

 この暮らしが惜しい。この命が惜しい。今更、そんな日が来ようとは。とうの昔に置いてきた人としての幸せを望む日が自分に来ようとは。運命が、この痣が、難い。

 時が来れば、紡久は永遠に闇の中を彷徨うこととなる。そこに光が射すことはない。せめて弓張月の光でも射せばいいのに。その薄明るい光さえあれば、紡久は現世(うつしよ)を想い信大の姿を想像できるのに。

 気が付くと、部屋が明るい。被っていた布団を退ければ、覚えのある香ばしく甘い良い香りが辺りに充満していた。早朝の地震の後、紡久はそのまま眠っていたようだ。もぞもぞと布団から起き上がりそれを畳みながら匂いのする方を見ると、信大が竈の前で何かしていた。

「おはよう、寝坊してしまった」

 相変わらず紡久の甚平を着た背中に大きな声で話しかけると、信大がぱっと振り返る。彼の目の前には熱した鉄鍋、手には木べらを持っていた。

「あ、おはようございます紡久さん。栗は好きですか?」

 予想通り、信大は庭で採れた栗を茹でているようだ。押入れに布団を仕舞い終え、紡久も土間へ行く。信大の周りには小物妖怪たちが三体、栗の動向を見守っていた。

「よく竈の火を点けられたな。初めてじゃないか」

「はい、紡久さんに教わった通りにやってみたらそんなに難しくないですね」

 へへっと最後に歯を見せて笑い、信大が前を向く。この香りからして、栗はそろそろ食べごろだろう。

「どれ、皮に切れ目は入れたのか?」

「切れ目?」

 栗の皮は炒ったり茹でただけでは固く、予め切れ目を入れないと剥くのに苦労する。そんな事は知らなかったようで、信大は慌てて鉄鍋を火から下ろそうと手ぬぐいを手にした。

「待て、もう手遅れだからもう少し煮て、冷めるまで待とう」

「ああ……」

 信大が肩を落としわかり易く落胆する。周りの妖怪同様、今すぐに食べるつもりだったのだろう。熱した栗は熱すぎてどのみち直ぐには食べられないが、しょぼくれる妖怪たちと信大の重なった反応がかわいくて紡久は声を出して笑った。

「よし、じゃあ朝飯を作ろう。信大が火を準備してくれたから助かる。ああ、信大はそのまま栗の番を頼む」

 指示を出しながら紡久は空いた鉄鍋を持ち、裏手から土間を出て倉庫代わりの棟へ米と野菜を取りに行く。いつも代わり映えのしない米と味噌汁だけの朝食に、何かもう一品追加しよう。信大の好みに合わせて精米機で米を白くしながら、周りを見回す。たくあんの樽に梅干しの壺、秋茄子のぬか漬け、梨と柿、さつまいも。この時期は山の幸が多く食材の備蓄が増えて腹も心も潤うというものだ。

 一緒に着いて来ていた座敷童を伴って、信大の待つ土間へ戻る。白い米と足の早そうな葉物野菜を味噌汁用に、更に太く実ったさつま芋を二本だけ手にしていた。

「今朝は米と味噌汁と、あとさつま芋を蒸かそう。甘くてうまいぞ」

 紡久の明るい声に妖怪たちが万歳をして喜ぶ。いつ間に増えたのか、小物妖怪は部屋に五体になっていた。これではさつま芋が足りないか、と紡久は苦笑した。

「済まない、もう一度さつま芋を取ってくる」

 くすくすと笑う紡久に気付いただろうが、信大は「はい」と頷いただけだ。ここに彼には見えない妖怪が居る事に初めは違和感を覚えていたが、今ではもう慣れたのかもしれない。

「いも、いも!」

「紡久、はやく、さつま芋!」

「分かってるさ」

 妖怪たちはいつだって食いしん坊だ。急かされても紡久が急ぐ事はない。妖怪たちは急かすが本心では急かしている自覚もあまりない。長い付き合いだ、紡久はそんなどこか無責任に見えるかわいらしい妖怪たちを理解していた。

 さつま芋をもう二本、手にして土間へ戻る。それから米を洗おうと鉄鍋を手にして、それら持っていたものが手指からすり抜け土の床へ落ちた。

 かしゃん、ざらざら、ごとん、とそれぞれが床に当たるけたたましい音がする。

「わあー、落ちた!」

「紡久が落としたー!」

「おっきい音~!」

「大丈夫ですか、紡久さん?」

 目の前に居るはずの妖怪たちと信大の声が、扉を一枚隔てているような距離に聞こえる。自分の両脚になにか覚えのない感覚が這い、力を入れられない。それにも関わらず両方の脚が動いた。

「えっ、紡久さん、どこに行くんですか?」

 どこに行くのか自分でも分からない。脚が勝手に動くのだ。

 紡久の身体は意思と反して土間を出て外へ行き、いつも朝の散歩で通る道を歩く。この道の先は御神木だ。そうか、御神木に呼ばれているんだ。どこか他人事のような感覚でそんな考えが脳裏に浮かんだ。

「紡久さんっ! 待って、行くな!」

 追いかけて来た信大に後ろ手を捕まれる。助けて、信大。声を大きく出したいのに喉が鳴らない。紡久の身体は勝手に信大の手を振りほどいた。

 両腕を振り回し尚も歩を進める。それでも行かせまいと、信大が紡久の背中へ力いっぱい抱き着いた。それでやっと進もうとする脚が止まる。

「行かせない、よくわかんないけど、今はそっちに行っちゃダメだ!」

 身体を羽交い絞めにされ尚も脚は勝手に踏ん張ったが、自分より大きな身体を支えられずふたりで地面に倒れた。その衝撃で右の肩を地面の木の根にぶつけ、痛みが走る。しかしその痛み以降、身体の自由が元に戻った。

「紡久さん、大丈夫ですか、紡久さん?」

「はあ、はあ、はあ……っ」

 やっと息が出来た心地で紡久は胸で激しく呼吸をする。信大が心配している、早く無事を伝えなくては。しかし胸が苦しい、地面に寝転がったまま呼吸を整えるので今は精いっぱいだ。

 少し落ち着き仰向けになったまま目を開けると、紡久の上に信大が覆いかぶさり起き上がれないよう押さえつけられている。まだ信大が守ってくれているのだと知った。

「追いかけてくれてありがとう、もう心配ない」

 自由の利くようになった両腕で信大に抱きつく。こんな風に彼に甘えたのは二度目の接吻をしたあの時以来だ。信大の温かい体温と、互いに早い重なる鼓動が紡久の不安を和らげてくれる。

「何があったんですか」

 両手を砂に突っ張り紡久を見下ろし、信大が泣きそうな顔で問う。まさかそんなに心配を掛けていたとは思わず、紡久は慌てた。

「泣くな」

「……だって紡久さんが……っ。俺、紡久さんを失いたくない」

 ぽたっと、紡久の頬に信大の温かい涙が落ちる。両方の目から溢れた雫はまるで、泣くことのできない紡久の頬を代わりに濡らしてくれているようだった。

「ごめんな、ごめん……」

 こんなにも純粋な信大を泣かせてしまった。だが紡久の未来はもう決まっていて逃げ出せない。頭を撫でて謝ること以外に紡久には出来ることが見つからなかった。

 ふたりで手を繋いで家に戻る。土間では妖怪たちが、紡久の落とした米と野菜、さつま芋を生のまま盗み食いしていた。そんな友達の妖怪たちの姿を見ればいつもなら微笑ましくてくすくすと笑いがこみ上げるのに、今はそんな気が起こらない。

「紡久!」

「紡久と人間が帰ってきた!」

「これ、うまい」

 口々に話しかけてくる妖怪たちの相手をする気も起きない。信大に促されるまま土間の縁に腰かけ、汚れた足を濡れた手ぬぐいで拭いてもらう。ぼーっとしている内に信大は自分で足を拭いたらしく、立つように肩を支えて貰ったので立ち上がり、一緒に部屋の奥へ歩いた。

 朝飯どころではなくなってしまった。

 自分の意思と関係なく身体が動くことなどこれまで一度も無い。一度でもこんな事があればこの先、何をしていても御神木に呼ばれれば身体が勝手に行くのだと不安になる。御神木へ行けばどうなるのか。しかし紡久にはそれに抗う方法がわからない。

 広い畳の部屋のいつも布団を敷くあたりに信大と並んで座る。膝上までの甚平の裾から赤黒い痣が見えた。

「……っ」

 痣が急速に広まっている。ついこの間、へそまで来たそれがもう尻を通り脚の半分まで来ている。これでは足の裏まで来るのにそう時間はかからないだろう。あと十年は無理でも数年くらいはまだ人の暮らしが出来ると思っていた。それなのに、早過ぎる。

「どうして……」

 力の入らない吐息が漏れる。信大が隣から腕を伸ばし紡久の肩を抱き寄せた。力の強い大きな手がぐっと肩を支えてくれる。なんと心強く逞しい腕だろうか。信大の為にもしゃんとしなくては、と自分を奮い立たせるが今はいけない。今だけ、明日になったら頑張るから、今だけ信大に甘えさせてくれ。

「焦ってる? 土地がですか?」

 午後になり心が落ち着いてきた頃、紡久は信大に朝の事を話す。痣が急速に広まっている事と紡久の自由を奪い自身の元へと呼び寄せた理由は、おそらくそういう事なのだろうと紡久は結論づけた。開け放った戸から庭に湧き出る聖水へ視線をやれば、予想通りそれは既に湧き出てはいない。小さな窪みに溜めた分だけで、それが蒸発すればもうそれっきり。聖水の源泉は枯れる寸前なのだろう。

「信大が好きだ」

 これまであまり伝えていなかった気持ちをしっかり言葉にする。信大の事を想うと同時に紡久の明日への覚悟が崩れそうにもなる。だが明日にはこの身に自由がなくなるかも知れないのだ、動くうちに、紡久が人であるうちに出来ることをしたい。

 しっかり目を見て言葉にした紡久の告白を聞いていたはずの信大は反応を示さない。たまに瞬きをして、紡久を見返している。優しい信大のことだ、何か感づいたのかもしれない。

「信大が愛おしいんだ」

 もう一度、言葉にする。生まれて初めて紡いだ愛の言葉に、心がこそばゆい。それは信大に何かを求めたいんじゃない、ただ気持ちを伝えたいというだけだ。

「何を考えているんですか?」

 いつものような明るい声を仕舞い、信大が唸る。眉を寄せた表情にやっぱり何かに気付いているようだと悟る。それでも良い、明日が来るかも分からないこの身だ、どんな顔でも良いから信大と共に居たい。

「どうして弱音を吐かないんですか。紡久さんは人なのに人じゃないものになるんですよ、怖いとか嫌だとかないんですか!」

 感情をぶつけるような信大の大声には驚いた。そんな感情をここ百年、持ったことは無い。怖いも嫌だも、もうとっくに乗り越えた。若い頃は自分の運命を呪いたくもなったが、それももう昔の事だ。全てを受け入れ、自分を無理やり納得させた。紡久はもう年寄りだ。

 だって紡久が弱音を吐いたら土地が死ぬじゃないか。この土地には愛着がある。友達の妖怪たちも棲んでいる。紡久の生まれた家がある。何よりここは生まれて初めて愛した信大と出会った場所だ。

「ほら、紡久さんだって泣きそうな顔してるじゃないですか」

「え……」

 言われるまで気付いていなかった。信大の言葉が引き金となり紡久の頬を熱いものが伝う。それは朝、紡久の頬に落ちた信大のそれと同じくらい熱い想いだった。

「ふ……っ、う……」

 弱気な紡久など自分じゃない。だけど涙が止まらず溢れ出てくる。もう何十年も泣く事などなかった。

恥ずかしい顔を見せたくないと俯けば、信大が紡久の頭を両手で強く抱き締めた。頭に信大の鼓動を感じる。信大が生きている音がする。

 自分の身体が勝手に動くことへの恐怖。いよいよ紡久がこの土地になるのだという実感。ひとりぼっちであの御神木のようにただひたすらにそこに佇むだけの存在。何かを慈しみ好きになることの無い、意識だけの存在。暗闇の水面を独りきりで波に揺られて漂い続けるような、永遠の孤独。

「嫌だ、嫌だ、……土地になど誰が成りたいものか!」

 声に出してみれば簡単な事だった。本当は普通の人として寿命を全うして死にたかった。百四十年もの間、命を長らえて良い事など何もない。家族にさえ妖怪だと虐げられ、終の住処と決めた此処に隠れ住んでいれば不便はあれど辛いことは無い。だが紡久は辛い事もしあわせな事も普通の人としてたくさん経験し、寿命を全うして死にたかったのだ。

 気が付けば紡久は信大の腕の中でしゃっくりをしながら大泣きしていた。顔が涙でぐちゃぐちゃだ。「嫌だ、もう嫌だ」と泣き続ける紡久の涙を、たまに信大が甚平の袖で拭ってくれた。

「紡久さん、俺もあんたが好きなんですよ」

 次第に泣き疲れ涙も止まり鼻を啜っていると、紡久の背中を後ろから抱きながら信大が言う。まだ紡久を好きだと言ってくれる信大をそっと振り向き、見上げた。

「ココに、紡久さんを好きだって気持ちをココに持ってる限り、あんたを御神木になんかさせない」

 紡久の好きな信大の芯の強い瞳がこちらを見下ろし、握った拳を胸に当ててはっきりと、だが落ち着いた声音で励まされる。

 御神木にさせない、信大のその言葉は彼の本心なのだろう。だが紡久がどれだけ土地になりたくない、嫌だ、と叫んでもこの運命は変わらない。それを分かっていて、紡久は頷いた。

「ああ、そうだな」

 信大を信じていないわけじゃない。信大の気持ちを疑ってもいない。だけどどうにもならない事はこの世にはある。それはどれだけ願っても叶わぬ夢だ。

「俺が紡久さんを守ります。何があっても紡久さんを独りにしません。一緒に戦いましょう」

「戦う……?」

 信大の言葉をそのまま返す。最初から叶わぬと分かっていて、戦うことなどしたことが無い。そもそも小さな人でしかない信大が土地を相手にどう戦うというのか。

 紡久の気持ちを汲んだらしい信大が、視線を合わせたまま口角を上げて笑う。それは不思議と、こんな時なのに紡久に少しの勇気を芽生えさせた。

「具体的にどうするんだ。私はこの痣に縛られて土地から、この山から出られないんだ。それでも戦えるか?」

「逃げるだけじゃダメです、こちらから攻めていかないと」

 膝に落としていた紡久の手を信大が拾い、力強く握る。例え悪あがきでも信大の気持ちが嬉しくて紡久のもう片方の手で彼の手に応えた。

 独りきりじゃないというのはこんなにも心強いのか。

「そんな事を言われたら、私まで戦おうと思えてくるじゃないか」

 初めから望みはないというのに、土地へ歯向かい戦えば何かが変わるだろうか。

「思ってください、戦って自由になるんです。あんな胡散臭い御神木なんかより俺を信じて」

 心の篭った言葉に、紡久はクッと喉を鳴らす。何もできないただの人のくせに信大は自分に何かができると信じている。かわいらしいと思った。

「いいだろう、信じる。何の力も無いただのお前を信じよう」

 好きになった男は無鉄砲だが情があり心の深い優しい奴だ。信大が手伝ってくれるなら、今だけほんの少しの間だけ、土地に歯向かい足掻いてみようと本気で思えてきた。心変わりをできるのは目の前で紡久を抱き締めている信大のお陰だ。あとは紡久の覚悟が固まるのを待つだけだ。

「戦って紡久さんが自由になったら、俺のお願いを聞いてください」

 紡久の背中を抱き締め直し、信大が耳元で囁く。こんなにくっついて傍で話していて、急に紡久の鼓動がどきっと反応する。信大の願い、それは弟の心の病を治す事ではないだろうか。紡久が自由になったら信大はきっとここを出て行くことだろう。

 胸に大きな寂しさがこみ上げる。だが、これ以上は甘えられない。信大は十分に紡久に尽くしてくれている。

「紡久さんを抱きたいです」

「……っ」

 耳元で響いた信大の声に驚き紡久の肩が跳ねる。それから逃すまいと、信大の両方の腕が紡久の身体を拘束するように強く抱き締めた。

 咄嗟に答えられず、紡久は息を飲む。背中に感じる信大の体温と鼓動を意識してしまい、紡久は逃げるでもなくただ背中を丸めた。

「ダメですか?」

 うなじに信大の息がかかる。鼓動がうるさい。誰かと肌を重ねた経験はないが、それが何を意味する言葉なのかは分かる。想像して、自分の身体に熱が篭っていくのを感じた。

 紡久は喉が詰まり声を出せず、代わりに首を横に振る。

「じゃあ、抱かせてくれますか?」

 うなじにかかる吐息に、今度はしっかりと頷いた。

 紡久だって好きな人には触れたい。紡久を好きだと言ってくれる信大も同じなのだと知れて、嬉しいとさえ感じた。

「はあ……やったあ。約束ですよ」

 頭の後ろでゆっくりと息を吐き、信大も嬉しそうな声を出す。抱き締められる腕にまた力が篭った。

 きゅっと、紡久の胸が甘酸っぱく締まる。信大の体温と香り、腕の強さ、甘い吐息、その存在の全てが愛おしい。明日になったらこの身体は土地に支配され動かないかも知れない。ならば今夜のうちに抱いてくれ。そんな想いを隠して、紡久は信大と一緒に戦う決意をする。独りじゃない、隣には信大が居てくれるんだ。

「……ん」

 自由になったら信大と肌を重ねるその時を夢に、紡久は首を回して彼を振り向く。信大の頬に手を当てて目を瞑れば、紡久の意図に気付いた彼が唇を重ねた。誓いの口づけには程遠いこの古い日本家屋で、紡久は信大と一世一代の大覚悟の「きす」をした。





 翌朝のまだ陽の登らない薄明るい森の中で、紡久は信大に支えられて歩きながら御神木のケヤキへ向かう。昨日とは違い操られることはなく紡久の意思でそこへ向かっている。森に棲む鳥たちの鳴き声と強い風にしなる木々の葉の音が今朝は妙に耳につく。足場の悪い木の根の張り出した土の上をいつもの下駄で歩きながら、紡久の片膝がたまに「かくん」と落ちる。腕を信大の肩に回しているので転ぶことは無いが、歩き難くて仕方がない。赤黒い痣は既に膝より下まで繋がっていた。

 これから御神木に決戦を申し入れにいくのだ。一晩中、寝ずにふたりで考えたそれは土地の本体である御神木と話をして分かってもらおうというものだ。とはいえ長く生きる紡久でさえ御神木と話をしたことはない。紡久の前へ姿を現したことのない御神木の本体と話ができるのかは不明だ。しかし何もせずにはいられない。このまま身体の自由を失い意識さえ手放す時が来るのであれば、どんな小さな望みでも試してみたいと紡久は思う。そんな風に思えるようになったのも信大のお陰だ。

「紡久~!」

「おっさんぽ、おっさんぽ」

 道すがら、いつもの妖怪たちが姿を見せて話しかけてくる。紡久ははっとして彼らへ答えた。

「お前たち、着いて来るな。今朝はいけない」

「紡久、怪我した?」

「痛いの?」

「痛くないからお前たちは着いて来るな」

「いったいの飛んでけ~」

「痛いの痛いのとんでけ~!」

 話しかけても妖怪たちは紡久の言葉をあまり聞いていない。この先でこれから何が起こるか想像できないだけに、小物妖怪たちを連れて行きたくはなかった。

「お前たち、あっちに行け!」

 力任せに叫ぶと、それまで口々に明るく喋っていた妖怪たちが黙り、立ち止まる。

「きゃあ~! 紡久が怒った~!」

「おこった、おこった」

「ぎゃああ~~~っ」

 そして一斉に逃げて行った。それでいい、今は紡久の側から離れていてくれ。

 妖怪たちが戻って来ないのを少し立ち止まって確認し、それからまた信大に支えてもらいながら前へ進む。しかし毎日通っていたこの道を歩くのにこんなに時間が掛かったのは初めてだ。それも、胸にこんなに恐怖を抱いている。隣に信大が居てくれて、本当に良かった。

 御神木までたどり着く。二日ぶりに訪れたそこは、紡久の知る光景ではなくなっていた。枝に残り紅葉していた葉は全て枯れ落ち、代わりに禍々しい黒いもやが大きく伸ばされた枝を包んでいる。土に近い太い幹の部分はしっかり木の肌が見えているが、紡久には真っ黒でそれ以外を見る事ができなかった。

「なんという事だ……」

 あまりに臭気が強くこれ以上は近寄れない。紡久は無意識に目を細め、甚平の袖で鼻を抑えた。

 実はこの禍々しい臭気に紡久は覚えがある。少し前に家を訪ねて来たのっぺらぼう妖怪の膝裏に刺さっていたあの枝切れと同じだ。あの枝はこの御神木のものだったのだ。

 こんな場所へ妖怪たちを連れて来なくて良かった。もしもこの臭気をあの小物妖怪たちが浴びたらひとたまりもない、消滅してしまうだろう。

「臭いですか? 何か見えてます?」

 肩を支えてくれながら信大がこちらを見る。そうか、普通の人には見えていないのだ。紡久は目に見える事をそのまま信大へ伝えた。

「臭気? じゃあそれを発する土地の本体がどこかに居るんですか?」

「ああ、探してみよう」

 正直あまり長い事こんな場所にはいられない。早く事を済まさなければ、半妖の紡久よりも先にただの人である信大が弱ってしまう。人は妖怪が発する弱い臭気にも中てられ易い。こんなに強く陰湿な臭気では尚の事だ。

 紡久は人よりも良い半妖の目と鼻で辺りを見回す。そこら中が黒いもやに塞がれ分かり難いが、ひと際もやが強く濃い場所があった。ここだ、きっとここに本体が居るに違いない。

「信大、瓶を」

「はい」

 何かの役に立つのではと提案したのは信大だ。庭に残る聖水を瓶に入れて持参していた。聖水は本来とても神聖なものなので、妖怪の禍々しい臭気には毒として利く。だがそれが御神木にも利くかどうかはやってみなければ分からなかった。

 紡久は瓶を信大から受け取り、中身を濃いもやの中へと撒く。すると途端に辺りを包んでいたもやが浄化され晴れ、地面にうずくまった大きな裸の男が姿を現した。

「あっ、男の人が! 俺にも見えます」

 信大の声にこちらを向いた男が表情なく立ち上がる。筋肉質の長身の男は、紡久よりも背の高い信大より倍はあろうかという程の大男だ。あまりの大きさに紡久は咄嗟に恐怖を覚えた。

『ああ、紡久よ、来てくれたのか』

 頭の中で声が響くと同時に大男が口角を上げてにたあっと笑う。名を呼ばれ、やはりこれが土地の本体だと確信した。

 しかし気持ちの悪い。大男は笑っているように見えて目が一切笑っていなかった。

『寂しかったんだ、昨日はどうしてここに来てくれなかったんだ、紡久よ?』

 本能でこの場から逃げたいと感じた。ねっとりと誘うような口ぶりで紡久へ手を伸ばす大男を、咄嗟に空いた方の腕を振って退けた。

「お前、この人を土地から開放しろ! 紡久さんは土地にはならない!」

 紡久の代わりに信大が言葉をぶつける。大男は首を傾げた。

『なあ紡久よ、こっちへおいで』

 信大を無視し、大男が再びこちらへ手を伸ばす。ひやりとした嫌なものが紡久の背中を伝う。せめてもの意思表示で首を横に振ったが、脚が勝手に動き一歩、二歩と大男の方へ近寄る。

「紡久さん?」

 咄嗟に信大が背中から身を引っ張り、ふたりで後ろへ転んだ。

 また操られたのだとこの時になってやっと紡久は自覚する。土地の本体ながらにまるで大物の妖怪のような大男に、そうとは知らずこれまで寄り添ってきた自分が嫌になる。紡久は会ったことの無い土地をもっと美しいものだと想像していた。

「紡久さんはお前の道具じゃない、紡久さんを解放しろ!」

『なーにを言っているのかな。紡久は百五十年前からこの土地になると決まっているんだよ。今更現れたちっぽけな人に横取りされたくないねえ』

 頭に流れてくる言葉は冷静な男の声なのに、目の前の大男から再び黒いもやが発せられ辺りに立ち込める。それと同時に御神木の樹に巻かれた太いしめ縄が切れた。

『紡久は私の物だ。孤独に死んでなどやらん、紡久と一緒に死ぬんだ。もう孤独は嫌だ……』

「な、何を言っているんだ」

 大男の、土地の言う事の意味が理解できず紡久の唇からぽろっと声が落ちる。紡久はこの大男の亡き後にこの土地になるという約束のはずだ。一緒に死ぬわけではない。

『寂しい、三千五百年も孤独に耐えたんだ、寂しい、聖水はもう出ぬ、土地は既に枯れた、もう手遅れだ、紡久を道連れに死んでやるんだ』

「そんな……じゃあ私は何の為に百四十年も生きたんだ」

『知らぬ、紡久と死ぬんだ、寂しいから一緒に死ぬんだ』

「そんな事って……」

 頭が熱い、怒りが湧く。脚が自由に動かず地面へ尻をついたまま、紡久は両手を握りしめた。

「ふざけるな、紡久さんはお前のおもちゃじゃない!」

 紡久より一瞬早く信大が叫ぶ。立ち上がり、自分よりずっと大きな男へ殴りかかった。

 信大は拳を振りかざしたが、大男に当たることはなくすり抜ける。大男の向こう側で前のめりに転んだ。

「信大!」

『人など無力なものよ。なあ、紡久よ』

 信大を振り返っていた大男がこちらへ向き直り、にたりと目を細める。ぞくりとした嫌なものが紡久の全身に巡り、勝手に身体を動かした。

「やだ、やめろ、嫌だ」

 自由になるのは口のみで、身体は地面から起き上がり大男の元へ歩き始める。「殺される」という底知れぬ恐怖が胸に巣くった。

「信大、信大!」

 慌てて助けを求める。大男が居て向こう側の彼の姿は見えなかったが、その大きな身体と黒いもやをすり抜けて現れた信大がその勢いのまま紡久へ抱き着き、再びふたりで後ろへ倒れ込んだ。

 はあ、はあ、と口で息をして、紡久を逃すまいと信大がぎゅうぎゅうと両腕で抱き締めてくる。今度は身体が自由に動き、紡久も彼を抱き締め返した。

「どうしたらアレを倒せますか」

 紡久の頭を片腕で支えてくれながら信大が耳元で小声で問う。しかし曲がりなりにもあの大男は土地神だ、妖怪ならともかく神を倒す術など紡久は知らない。もはや話をして通じる相手でもないと思われた。紡久はあれこれと脳内で考えてみたが、信大の腕の中で力なく首を横に振った。

 信大が先に起き上がる。紡久を心配してくれているのだろう、片手でぎゅっと肩を抱いたまま大男を睨んだ。

 その行動にふと気づく。信大は諦めていない、意思を強く持ったままだ。それじゃあ紡久も簡単に諦めるわけにはいかない。全てを終わらせて信大に抱かれるのだ。その為には今、踏ん張らなくてはいけない。

『……なんだその目は。紡久は共に死んではくれぬのか?』

 寂しそうな声を出し、大男が御神木の根の側でうずくまる。まるで自分の意見が通らなかった時の駄々っ子のような行動だ。しかしこれは子どもではない。

「私はまだ死ねない。だがこの土地を愛している。今、出来ることはこのくらいだ」

 紡久は地面を見回し丁度いい太めの枝を拾い、両手でへし折る。そして鋭い刃物になった枝先をひと思いに自身の腕へ突き刺した。

「紡久さ……」

 信大が驚いて声を出したが手で制する。紡久は自由に動く脚で歩き、枝を抜いて溢れ出る鮮血をうずくまりしゃがんだ大男の頭へかけた。

 枝先で作った傷がみるみるうちに塞がっていく。これだけの傷を作っても半妖である紡久の肌からは多くの血が出る事はない。だから治っては傷つけ、腕に力を込めて多くの血を分けてやった。

 当然、痛みはある。酷く痛い。だがこれは、ひとり孤独に死んでゆく土地へ、一緒には死んでやれない紡久からの餞別だ。これからこの土地になる予定だった者の血であれば少しは大男の、この土地の実にもなるだろう。

 すると大男がすっと立ち上がり、瞬時にまた多くの臭気を辺りへまき散らした。

「う……っ」

 すぐ側に居た紡久は咄嗟に袖で鼻を抑える。臭気をもろに浴びてしまった。何も見えてないはずの信大が小走りでやってきて、身体を支えてくれた。

「わあ~~~っ、紡久がしんじゃう」

「紡久―!」

「たすける」

 背中の方からよく知った小物妖怪たちの声がして振り向く。いつの間に側まで来ていたのか、小物のくせに勇敢にもこちらへ近寄ってくるところだった。

「来るな、あっちへ行け! お前たちには手に負えない!」

「つーむぐー!」

「たすける、たすける」

 いくら小物妖怪でも馬鹿ではない。自分の手に負えないとすれば普通は逃げて身を潜めるものだ。それなのに友達の妖怪たちが紡久の為にこちらへ来ようとしている。

「来るなって言ってるだろう……っ、お前たち、来るな!」

 いけない、紡久の声を聞いていない。こんなに強い臭気の中に入るだけで彼らなら消滅してしまう。それだけ弱い存在なのだ。

「おい、臭気を出すな、消してくれ!」

 妖怪たちがいう事を聞かないなら、土地に頼むしかない。聖水で浄化できればよかったが、もう残りを持ってはいなかった。しかし見上げた大男の表情はまたにたりと笑み、視線は小物妖怪たちへ注がれる。

「つーむー……」

一体の妖怪が紡久を呼ぼうとして、じゅうっ、と蒸気に変わる。

「ああ……っ」

 更に一体、また一体と、弱い妖怪たちが臭気に中てられ消滅した。彼らは自分の弱さを知っていても尚、友達の紡久を助けようとしたのだ。普通なら息を潜めて出てこないはずなのに、紡久の為に果敢にも出て来たのだ。だが長い付き合いの大切な友達が逝ってしまった。

『これで紡久も孤独だ』

 はっとして視線を上げる。この土地に愛着があり好きだと思っていたが、この大男は未来永劫ずっと好きにはなれないだろう。こんな男の土地を引き継いでなどやるものか。尚のこと紡久の頭に血が上った。

「紡久さんは孤独じゃない。俺が傍に居る限り孤独にはさせない」

 肩に当てられた信大の手がぐっと紡久を抱き寄せる。妖怪の見えていない信大には何が起こっているのか分からないだろうが、信大の熱い目は変わらず大男を睨んでいた。

 彼の手へ紡久の掌を重ねる。想いは同じだ。紡久とて信大を孤独にはしない。今ならそう思うことが出来る。目の前の孤独に怯える寂しがり屋の土地神の気持ちが、百四十年を生きてきた紡久にはよくわかるのだ。紡久も少し前まで永遠の孤独に怯えていた。土地神の言う通り、孤独は寂しい。

 寂しかった長い月日を思い出しながらも紡久は一歩前に進む。大丈夫、進める。紡久はもうひとりじゃない。

 大男に聞こえるよう、大きな声を出す。

「私の最初にして最後の願いだ、聞いてくれ。人として人生を全うしたい。今の私は妖怪だが、人になりたい。しあわせになりたいんだ」

 聞こえているはずの大男は表情を変えず、無表情でこちらを見てただ黙っている。

 しあわせなど人それぞれ違うものだろうが、紡久にとってのしあわせは「人になること」だ。人として好きな人と過ごし短い人生を終わらせたい。人生が長すぎては好きな人とずっと一緒になどいられない。

『人になりたい? 妖怪や土地であればもっとずっと長く生きられるぞ』

「命が短くても良いんだ、私は人でありたい」

 じっと大男の顔を見上げていると、大きな目がぐりんと動き再び紡久を捉えた。しっかり歯を食い縛り目を離さず、紡久も大男を見返す。先に顔を背けたのは大男だ。

『……そなたの最初で最後の願い、聞き入れた』

 頭の中でしっかり響いた大男の声。信大にも聞こえていたらしく、ふたり顔を見合わせる。その瞬間、大男から竜巻のような強い風が巻き起こる。驚きながらも飛ばされぬよう咄嗟にふたり手を繋ぎ脚を踏ん張った。それはほんの一瞬で、風が止む頃には大男の姿は消え、場に立ち込めていた臭気も全て吹き飛ばされたようだ。

『百四十年、土地に縛り付けて悪かったのう』

 空耳のような大男の声がした。紡久は周囲を見回したが、やはり大男の気配はもうしない。目の前のしめ縄の外れた御神木からも、土地神の宿る気配が一切しない。たった今、消滅したのだと悟った。

「あっ、黄色いお花だあ」

 小さな声にはっとして紡久が振り返る。そこには見慣れた男の子の座敷童が一体、森の中で足元の小さな花を愛でていた。

「お、お前、生きていたのか」

 駆け寄り話しかけるも、座敷童は紡久を見るなりふいっと顔を逸らし走り行ってしまう。いつもなら話しかければ紡久に答えてくれるのに、変だ。もしかすると今朝までとは違う個体なのかもしれない。だが消滅したはずの座敷童が生きていた。土地神が最期に力を使い妖怪たちを生かしたのかもしれない。

「あれ、紡久さん、痣が消えてますよ」

 後ろから信大に話しかけられ、紡久は振り向きながらも着ている甚平の裾からはみ出た痣を確認する。言葉の通り、ついさっきまで見えていた赤黒い痣が綺麗に消え、元の肌色の腕と脚に戻っていた。

「本当だ」

「ちょっと、失礼します」

 きちんと見るまで信用できない、というように信大が紡久の甚平の裾を捲り、直接背中を確認する。はあっ、と安堵の吐息が後ろから聞こえてきた。

「ほぼ消えてます、うなじの所だけ少し薄く残ってますが。これって紡久さん、人になったって事ですか?」

 聞かれても紡久自身に身体の変化はない。痣の無くなった両腕を伸ばしてみるも、やっぱり実感のある変化はなかった。

 だがひとつだけ分かった事がある。紡久はもう、土地になるという約束を果たす必要はないらしい。

「信大、帰ろう」

 来るときとは違い自分の思う通りに動く身体で信大へ手を差し伸べる。雲間から顔を出した朝陽が、ほっと息を吐いて笑い返す信大の顔を赤く照らしていた。





 トタン屋根の紡久の家へと帰ってくる。陽が昇る前に一大決心をしてこの家を出たのが既にずっと前の事だと思えたが、土間の隅に昨日の朝に信大が茹でた栗がある。鉄鍋の中に入れたままのそれはとっくに冷めている事だろう。

「朝飯に栗でも食べるか」

 畳の縁に座り汚れた足を手ぬぐいで拭きながら話しかける。隣では靴を脱いだ信大がただこちらを見て微笑んでいた。よく見れば信大の顔に擦り傷がある。着ている甚平にも泥が付いている。飯より先に着替えと傷の手当てだ。

「水、汲んでくる。お前は先に着替えていろ」

 指示を出し、立ち上がろうと下駄を履き直し脚に力を入れたその時、信大の両腕が伸びてきて横から抱き締められた。不安定な格好で支えられず、紡久の身体は畳の上へと倒れる。一緒になって倒れてきた信大に唇を塞がれた。

「ん……」

 これまでは触れ合うだけだったそこへ、信大の湿った舌が触れる。そのうち息が続かず紡久も唇を開けばそれを待っていたように彼のそれが中へ入ってきた。

「もっと口、開けて」

 吐息交じりの信大の声が紡久を急かす。こういった事に対する知識が薄く紡久にはどうしたら良いか分からない。それに、たった今、ふたりとも帰ってきたばかりなのだ。

「こら、落ち着け」

 覆いかぶさる信大の胸を両手で押し、隙間ができて紡久はやっと口を開く。信大は熱い息を漏らし、紡久の瞳を覗き込んだ。

「約束しました、抱いていいって」

「その前にまず傷の手当てと着替えを……んっ」

 人が喋っているのにまた唇を塞がれる。今度はしっかり口を開けていたせいで信大の舌がしっかり入り紡久の上顎を撫でた。ぞくりとしたものが身体を這う。そんな場所を舐められたのは初めてで、変になりそうだ。

 主に怪我をしているのは信大だ。本人がそれで良いならまあ良いかと諦め、紡久は彼に身を委ねる。相手は信大だ、悪いようにはしないだろう。今がまだ陽の昇り切らない午前中だという事も忘れてはいないが、彼が嬉しそうなので仕方がない。

 甚平の合わせの紐を解かれ、信大の下で肌を見せる。男同士で裸を見られて困る事もないはずなのに、相手が信大だと思うと何だか恥ずかしい。彼の筋肉質で小麦色のそれと違い、あまり食事をしてこなかった紡久の肌はただただ痩せ細っていた。

「み、見るな」

 信大が紡久に跨り何もせず肌を見下ろすので、堪らず両腕で顔を隠す。すると「ダメです、隠さないで」と信大の両手が紡久の両方の手首を掴んだ。それにも無抵抗でいると、信大は人の両手を顔の左右の畳の上にそれぞれ繋ぎ留める。急になにか悪いことをした子どもの心境になった。

「嫌だったら言ってください」

 初めて見る信大のぎらぎらとたぎる瞳が紡久を見下ろしたかと思うと、唇が降りてくる。また接吻をするのだと目を閉じたがそれは違っていた。左の乳首に温かくて湿ったものが触れ、そこを信大が舐めているのが分かった。

「……っ?」

 男はそんなところでは感じない。信大の行動の意図が読めず、だけど好きな人の好きにされたいとも思い紡久は暫く黙っていた。

「ふふっ、くすぐったいな」

 そのうち拘束する腕を離し、信大の手がもう片方の乳首を摘まむ。そんな場所を他人に触らせたのは信大が初めてだ。しかし女なら喜びそうなそれも紡久にはむず痒いだけだった。

「じゃあこっちは?」

「あっ」

 両手首の拘束を完全に解いた信大の手が紡久の股間を甚平の布の上から撫でる。そこも他人に触らせたことの無い領域だ。自分で触ることはもちろんあるが、自分じゃない手指に触れられているのが面白い。相手が信大だと思えば嫌ではなかった。

「少し膨らんでますね」

 わざわざ言わないでくれと思いながら目を閉じる。そうする間に、信大は甚平の下半身を脱がし、布を全て脚から引き抜いた。

「あれ、パンツは?」

 不思議そうな信大の声に目を開け、下の方で身を起こす彼を見返す。何か変だろうか、と紡久は首を傾げた。

「ぱんつとは何だ?」

「嘘でしょ、パンツ履いてないんですね」

 顔を反らし、だがちらちらと紡久のそこへ視線を向けつつ、顔に掌を当てて信大が笑う。甚平の下に何も履いていない事がそんなに変な事か。今時の人の生活には詳しくないが、昔は皆、着物の下にふんどしを付けてはいても「ぱんつ」など履いていなかった。それにふんどしは着脱が面倒なので紡久は使っていないのだ。

「紡久さん、かわいすぎ」

「……それは褒め言葉か、それとも貶しているのか?」

「褒め言葉です。紡久さんがかわいくて、やばい、俺もうこんなです」

 同じ柄の甚平を着ている信大が自身の股間を指さす。そこはいつの間に大きくしたのか、既に布を盛り上げていた。見慣れた紡久のものより大きそうだ。紡久よりいくらか背が高く、体格も信大の方が大きいのだからそれも当たり前だ。

「中も見ますか?」

 嬉しそうに頬を赤く染めて言い、紡久の答えも待たず信大は立ち上がり甚平を脱ぐ。その下に着ているものも躊躇なく脱ぎ、それを適当に畳の上へ放った。現れた信大のそれは思った通り紡久のものよりずっと大きく、筋張っていた。

「……いいな」

 人のものをじっと見ては悪いと思うのに目が離せない。男としてかっこいい。

 何も言えずに仰向けになっていると、機嫌の良さそうな信大がまた覆いかぶさってくる。紡久の身に纏っているものは甚平の上着を羽織るのみだ。

「ここ、解しますね」

 ここと言って信大が紡久の股の奥へ指を当てる。自分でも触らない秘めたそこに信大の意思を感じて腰が跳ねた。

「そ、そんな所どうするんだ」

「ああ、知らないんですね。男同士だとここを使うんですよ」

 我ながら弱気な声を出してしまったが、信大は気にした様子もなく教えてくれる。紡久の不安を読み取っているだろうに、しかし当てられた指の腹でそこをむにむにと触っていた。

 変な感じだ。そこで信大を受け入れるのだと知っても、嫌じゃないし怖くもない。だがたった今、見せられた信大のそれが本当にここに入るのかと疑問が浮かぶ。こんなところで、信大を気持ち良くできるのだろうか。

「ん……、あっ」

 どれくらいの長い間、そうしているだろうか。信大はずっと片手で秘めたそこを弄りながら、紡久の肌に口づける。前に森で拾った自分の鞄の中から何かを取り出し、道具として使っているが紡久にはそれが何なのかさえ分からない。それを使いながら、信大は紡久の中へ指を一本、潜めていた。

「っ……、っ……、んああっ」

 腰が大きく飛び上がる。信大の指が中のある一点に触れるだけでそこに人生で感じたことのない痺れが生まれ、大きな声が溢れてしまう。じん、と中が痺れてたまらなく気持ちが良い。そして薄っすらと汗ばんだ肌にまた信大が吸い付いた。

「そろそろ二本目、入れますね」

 信大は自分のすることを逐一、教えてくれる。だが紡久にはもう、どうして自分がそうなってしまうのかが分からない。指をもう一本増やすことでどんな快感を得られるのか、少しの期待さえあった。

 宣言通り信大の指が増える。それまでとは比べものにならないほどの圧迫感があったが、紡久は大きく呼吸を繰り返し耐えた。そこで彼を受け入れるのだ、紡久だってはやく信大が欲しい。

「はあっ、はあっ……、はああんっ」

 また信大の指が一点をつつく。堪らない刺激に紡久は腰を揺らした。

「痛くないですか、紡久さん?」

 へその辺りを舐めていた信大が視線だけこちらへ向け、心配そうな声で聞く。異物感はあるが痛みは全くない。呼吸をするので精一杯の紡久は大きく首を横に振った。

「よかった、もう少し解しますよ。俺の指が四本、入るまで」

 その数字に驚く。既に入った二本だけでもうそこはぱんぱんだ。それも、それだけ入れるのに信大が解すと言った意味を紡久はここでやっと理解する。しっかり解さないとそこで信大を受け入れられないのだ。

 ふと、信大が体勢を変える。紡久の股の間に身体を入れたまま、顔を下へずらしていく。二本の指が引いたのがわかった。

「信大?」

 続けて解すのだと思っていただけに信大の行動に違和感を得る。紡久はただ彼の行動を目で追った。

「少し休憩です」

 にこ、と笑いそんな事を言いながらも信大の舌が痣の無くなった肌色の股の内側を舐める。そんな肌の弱い場所を舐められるとは思わず紡久のそこが逃げた。

「んっ、んんんっ」

 快感から逃げる紡久の腰を抑えつけ、信大が前で揺れていたそれを咥える。後ろを解す間に少し萎えていたそれは、信大の口腔と舌で一気に持ち直した。

「ああんっ、まっ……気持ちい、いいっ」

 性交自体が初めてなのだ、そこを口で舐められるのも初めてだった。温かく湿った舌で下から先端へ舐め上げられる、それだけで果てそうだ。もう我慢が持たない、出る、という直前で信大が唇を離す。迫り来る快感の波が行き場を失くして腰の辺りで蹲った。

「ああっ、信大っ」

「ごめん紡久さん、後ですっごい気持ちよくしてあげるから」

 謝っているのに信大はにやにやと笑っている。今すぐに達したいのにこの一瞬だけは彼が恨めしかった。

 それから信大はやはり宣言通り後ろに指を四本入れるまで丁寧にそこを慣らした。本当に逐一やることを言うので、自分には見えていない事が分かるというのは恥ずかしいものだと知った。性交とは皆そういうものなのか。しかし、息が持たない。信大のする事にいちいち反応させられて紡久の体力はもう限界だった。

「はあ……っ、紡久さん、挿れるよ。ゴムなくてごめんだけど」

 指を引いたそこへ、信大のものが当たる。大きく開かされた自分の股に羞恥心を隠せないが、紡久は黙って頷いた。

 目を閉じず信大を見つめる。初めよりも余裕の出てきた紡久は、性交の時の信大の様子を観察できるまでになっており、愛しい相手の感じる顔も見たいと目論んでいた。

「信大、手を……」

 右手を伸ばせば、それを見た信大が左手を出しがっちりと手を繋ぐ。その直後、間を置かずに信大のものが先を進めた。

「っ……んあっ」

 それは予想に反して信大の指四本よりも圧迫感が強い。それと同時に中の壁を擦られる感覚が腰の内側をむずむずとくすぐった。

「あっ、ああっ、信大っ、信大っ!」

 繋いだ手に力が篭る。頭が泡立つ。十分にゆっくりと進めてくれている信大がもどかしい。壁を信大に擦られているだけなのに、前がむず痒い。信大に与えられる初めての感覚が紡久の全身を包んでいた。

「う……っ、紡久さん力抜いて」

「わ、分からない、どうやるんだ」

 分からないなりに繋いだ手の力を抜くと、離れそうになった手を追いかけて信大がそれを掴む。進行を止めた信大のそれに、奥まで入ったのがわかった。

 ずっとにこにこと笑っていた信大が苦しそうに眉を寄せている。気持ちが良くないのだろうかと心配になり、紡久も彼の手を握り返した。

「いいよ、もう少しだから」

「……?」

 汗を垂らして笑い、すぐにまた眉間に皺を寄せた信大の言葉の意味を理解できずただ彼を見返す。すると一度止まっていたそれが再び奥を目掛けて進み始めた。

「あっ、や、まだ……っ?」

 もう全て飲み込んだとばかり思っていたのに、騙された気分だ。それにしても信大が長い。まだまだ奥へ入ってくる感覚に悶えて、紡久は背を仰け反った。

 大きな声が出る。恥ずかしいのに我慢のならない声が上がる。信大と手を繋いだまま何ともなしに畳の床へ視線をやると、そこに小物妖怪が二体、座ってこちらを見ていた。

「……っ、見るな、お前たちは向こうへ行け」

「紡久さん? 側に妖怪か何かいるんですか」

 奥を突いて動きを止めた信大が不思議そうにこちらを見下ろす。困った顔をつくり、紡久は頷いた。こんな時は妖怪の見えない信大が羨ましい。

「まあ良いじゃないですか、その妖怪に害はないんでしょ」

 そういう問題ではない。しかしこの状態では紡久にできることも無い。また彼らへ視線をやる。妖怪たちに見られながらも紡久は諦めるしかなかった。

「動きますよ」

 囁き、信大が腰を奥へと突きつける。また仰け反った紡久から大きな喘ぎ声が漏れた。

 達せない、と頭の奥で紡久は嘆く。信大と繋がり気持ちが良いのに達せない。信大はそろそろだろうか。紡久はもうとうに限界を超えている。

「ああんっ、出したい、のにっ」

 手を繋いだまま信大へ訴えると、腰を打ち付けたまま彼が紡久の前を触る。手で形を作り上下に擦られれば間も置かずに呆気なく紡久が果てた。

「あああっ」

 快感の荒波に溺れ背中を反る。次の瞬間、信大が勢いよく自身のものを引き抜き紡久同様に白濁を吐き出した。

「はあ、はあ……」

 畳に仰向けになり息を整える紡久の隣へ信大も横になり、口で荒い呼吸をしている。男同士だが紡久で気持ち良くなってくれただろうか。少しの不安が胸に込み上げ、紡久はそっと彼の頬に指の背を当てる。まだ落ち着かない呼吸のまま信大が視線を寄越した。

「信大が好きだ」

 例え紡久の身体で気持ち良くなれないとしても、信大はもう紡久のものだ。こうして肌を重ねるというのはそういう事だ。紡久の心と身体の全てが信大のものになってしまったのだ。

 ふっ、と頬に気恥ずかしさを少しだけ乗せて、紡久は今の気持ちを告げる。何も恥ずかしがることなどない。人として同じ寿命の元、人を愛せるようになったのだ。

「俺も紡久さんが好きです」

 待っていた答えを、頬を染めた信大がくれる。これ以上に欲しい言葉などない。

「紡久~、腹へった~」

「白米! 白米!」

 側で見ていた妖怪たちが話しかけてくる。このところは毎日、食事を作っては白米を分けてやっていたので、それで「白米」なのだろう。うまければ何でもよくて、別に白米が食べたいわけでもないのだ。

「そうだな、朝飯にしよう。信大が茹でてくれた栗がある」

 起き上がり、妖怪たちへ答えてやる。「やった~」と言いながら二体が畳の上で踊り始めた。いつもよりも妖怪の頭数が少ないのが残念だ。

「そうだ信大、怪我の手当てをしよう」

「はい」

 先に立ち上がり手ぬぐいを取って戻って来た信大に自分たちで汚した白濁のついた腹を拭いてもらう。

手当てと言ってもこの家に救急箱は無く、絆創膏も無いので出来る事は限られる。庭に湧き出る聖水が残っていればと見てみると、窪みに溜めていた聖水までもが既に乾き切っていた。あの時、土地は死んだのだ。つまりそういう事だろう。





 午後になり、信大が見た事のない板でその場に居ない誰かと話していた。畑から戻った紡久は一人で会話をする信大を土間からただ眺めている。自分には見えない妖怪と話す紡久も信大にはこういう風に見えていたのかも知れない。

「遅くなってごめんなさい。遭難はしてない、俺は無事だよ」

「今? 群馬の山の中」

「信二、学校行ってるのか。偉いじゃん」

「もう少ししたら帰るよ」

 そんな信大の声が聞こえてきて、紡久ははっとした。

 信大はもうすぐ自分の家へ帰る。それは当たり前の事だ。どうして此処でふたりで暮らしていけると思ったのだろう。此処は紡久の家であって、信大の家は他にあるのだ。

 底知れぬ寂しさが胸に広がっていく。身体を重ね契りを結んだも当然なのだから、一生を共にするのだと思い込んでいた。そう思っていたのは紡久だけだったのかも知れない。信大には自分の土地での生活があるはずなのだ。

「紡久さん。俺一旦、東京に帰るけど、またすぐ戻ってくるね」

「……戻ってくる?」

 話を終えたらしい信大が紡久のいる土間へと来て言う。信大は自分の家に帰り、もう会わないのだという紡久の解釈は違ったらしい。

「紡久さんが普通の人になったなら、ここで一人の生活は危険だと思うんだ。もし紡久さんが良ければだけど、どこかでアパートでも借りて一緒に住もう」

「私が此処を離れるのか?」

 信大の言う事の半分は理解ができないが、下山しどこかでふたりで暮らそう、と言われたのは分かる。だが紡久はこの家での昔ながらの生活しか知らないし、「ぱんつ」も使わない。若者の多い街で現代の人々と同じ暮らしが出来るのか、不安に思う事はたくさんある。それでも紡久の胸に浮かぶ答えはひとつだ。

「少し時間をくれ。土地を離れる準備がいる。その後ならどこへでも、信大に着いて行こう」

「やった! 紡久さん大好き!」

「わっ」

 抱き締められ、持ち上げられる。信大の強い力でくるくると回る。大人になってから抱っこをされるとは思わず怖くて狼狽えたが、信大が嬉しそうなのでまあ良いかと好きにさせた。

 それから三日後の朝に信大は一度、東京の家へ帰った。長く家を空けて家族が心配しているそうだ。此処へ戻ってくるのにひと月はかかるらしいが、その間にふたりで住む家を見つけるなど準備をしてくれる。紡久もその間にやる事を済ませよう。

 半妖の紡久にとってひと月などあっという間だが、人になった紡久には長いだろうか、それとも意外と短く感じるだろうか。信大は本当にひと月で帰ってくるだろうか。ひと月の約束を破ったりしないだろうか。ひと月経ったら信大が心変わりしないだろうか。それは紡久も同じで、今は信大と街で暮らそうと思えるが、その時になって怖気づき嫌になったりしないだろうか。不安を思えばきりがない。

 だが今は信大の「戻ってくる」という言葉をただ信じて、やる事をしよう。

 紡久はここ生家で数日かけて藁を編む。切れてしまった御神木のしめ縄を新しくするのだ。あの木にはもう土地神は宿っていない。だがあの木には紡久の百四十年分の思いが詰まっている。思い入れのあるケヤキなのだ。

 藁を編む途中で親指の腹を少し切ってしまった。これまではどんな怪我も瞬く間に治る半妖だったが、なんと傷は直ぐには治らず痛みが半日も続いた。これが人の痛みなのだと嬉しくなった。今度、最寄りの集落の店で絆創膏を買おうと紡久は心を躍らせたのだ。

 人になった実感は他にもいくつかある。これまで気の向いた時に数日に一度、茶碗一杯の玄米で満たしていた腹が全く満たされなくなった。日に二度は茶碗大盛二杯の飯を食わないと腹が減って腹が減って仕方がないのだ。しかも人の欲は底知れないと聞くがそれは本当のようで、やはり信大が恋しい。これまでは自慰など本当にたまにしかしなかったのに、信大に触れられたあの日からあの体温が忘れられないのだ。今でも身体に残る信大の温もりを思い出しながら、紡久は彼の帰る時を待ち望みに指折り数えながら冬先の山の家の中で自分の布団に包まっていた。

 この生家を紡久の終の住処としていた。どのみちこの土地に縛られ山を出られない身だったからどこかへ行きたいなどと考えたのは若かりし頃までだ。この山には馴染みの妖怪も多い。毎日は姿を見せなくともたまに紡久へ会いに来てくれる個体もいた。紡久が土地を離れたら妖怪たちも寂しがるだろうか。

 たまには此処へ帰って来よう。街の暮らしに飽きたならまた此処に住んでもいい。だがしばらくは信大と街で暮らしてみよう。きっと知らない事だらけだが優しい信大が教えてくれるばずだ。

 土地を離れても持って行くものは沢山ある。この棲み慣れた不便で愛しい生家から大好きな信大と共に、ここを巣立つのだ。




おわり


最後までお読みいただきありがとうございました!!


(しあわせ千歳)








 







 

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終の先の住処 しあわせ千歳 @HITOMI_HAYASHI

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