ユメガタリ

銅鑼鳴 慧瓏

ユメガタリ

 春想う。故に、夏枯れる。きっと、夢をみていた。だからこそ月はひどく輝き、鋭器もそれに呼応するのだ。ああ天よ、私に悠久な春を——




 某日、僕はとある港町にやってきた。天高くに照る太陽はギラギラと輝いている。左を向くと堤防が、右を向けば山と力強い入道雲がそびえたっている。歩き続けると汗が出てくるのでタオルを常に右手で持って汗を拭く。装備はリュックのみで中には数日分の着替え用の洋服や本、ポータブルラジオ、スマートフォンの充電器程度である。別に僕はミニマリストなわけではないということを一応述べておこう。

 こうして左の堤防をなぞるようにして歩いていくと堤防へ登れる階段が見えてきた。せっかくだから、と階段を上り、堤防に座ってみる。

 天と海が混ざり合っていた。僕が幼少期のころ、夏休みの宿題の絵画を描いていたときに空と海の色の違いについて深く考えたのは正解だった。

 高校卒業後、僕が一人暮らしをするために家を探していたときにとある一軒家を見つけた。築三〇年の格安物件。ただ、一般に格安なものには必ず理由があるといわれている。今回の場合は「事故物件」だ。その家で起こったことを不動産屋から聞いたおかげで居住を諦めようとしたが駅やスーパーから近いこと、とにかく安いことを考えれば居住するしかないと思ってきた。そこで、不動産屋が数日だけ住んでみないか、と提案してきたのだ。

 ベージュ色の外壁に漆黒の屋根。少しなら植物を植えられそうな庭とそれを眺めるためのウッドデッキ。

 鍵を挿して恐る恐るドアを引く。玄関を見る。なにもない。当たり前だけど。最初の一歩。ドアを閉める。鍵をかける。しんとした空気から誰もいないだろうと確信する。ドアを開けると小さな空間があり、右にドアがあった。ドアを開けるとようやく広々としたリビング、右を見ると窓越しにウッドデッキが見えさらに奥にはドアがあり、左を見るとダイニングそしてその奥にはキッチンが広がっていた。ダイニングの左側をもっと進むとトイレがあり、それを無視してさらに進むと洗面台や風呂がある。また、それとは反対方向の、つまりウッドデッキの見える窓側にあったドアを見てみると洋室があり(寝室として使用するのが妥当だろう)、右側にまたドアがあった。そして、そのドアを開けると大きな窓と明らかに床のテイストが違う、異質な雰囲気を感じさせる部屋が広がっていた。

 一歩踏み出してみると左隅になにか異質なものがあることが分かった。ためらいながらもう一歩踏み出すと少し何かが分かったような気がした。僕は目を凝らすと漆黒の海、冷たさを感じない表情のない雨、壊れかけた雪だるま、誰か、壊れたギターが一瞬にして頭に入ってきて誰かの物語の一部が見えた。それは希望や葛藤が鮮明に分かるほどであった。

 そして、ただ一つの言葉を発していた。美しい、と——

 出逢ったのは抽象だった。手は動かず。足も動かず。貴方は誰とも聞けず、ただ茫然としていた。そんな僕に向けて抽象が最初に発した言葉。


「貴方も、貴方も……見えてしまったの」

 

 それはきっと異様に透き通った声だった。ひどく心が揺らいだ。しかし、それ以外は分からなかった。逃げるべきか、留まるべきか。


「どうせ貴方もいつかは——」


「もう一度だけ」


 抽象の話を遮って放った瞬間、抽象は、はっと驚いたようだった。そして、抽象はだんだんと輪郭がはっきりとしてきた。星空観察で、もやっとした光が星と認識できるような感覚を思い出す。結果、一分間ほどの転変は抽象を彼女と呼ぶことを可能にした。

 そんな彼女が、不可思議と神秘を混ぜたような少女が口を開く。


「貴方は選んだのね。私は雫」


 ブラックホールのように黒い暗い髪が腰まで垂れており、季節外れの白いワンピースを着た透き通った肌の少女。瞳にはまるで内側の心や感情を見られまいとするように白い霧のようなもので覆われている。しかし、それ以外の容姿の詳細は分からない。凝視し続けると透き通って彼女の後ろにある壁や床だけになってしまう。ただ、身長や口調などから推測するに、大学生の霊かなと思った。


「雫……信じていいのか?」


 雫の目を見る。床と雫の顔がチカチカと変わる。


「きっと貴方は大丈夫」


 自分に言い聞かせるように雫が言った。


「欲しいものがあるんですけど……」


 雫がさらに話す。勿論、僕の財布からだろう。しかし、幽霊に襲われてはもっての外なので僕はスマートフォンをポケットから出し、言われたものをメモアプリに箇条書きで書く。


「ごめんなさいね。でも、私は数年間ずっと暇だったの」


 僕は分かった。夜までには帰る、と言って外に出た。最寄り駅から大型ショッピングセンターに近い駅へ行けば買えそうなものばかりだった。

 夏にしても暑すぎる、青空の広がる日僕は汗を搔きながら歩く。不愉快ではあったものの、僕は生きているんだなと感じた。

 僕はおつかいリスト(雫から頼まれたものを箇条書きにしたもの)を見ながら楽器屋で楽器を見ているとき、あることを思った。それは、中古のギターを見たからであった。


 

 雫の要望の品を持って家へ帰る。ついでにフードコートで夕食を済ませたということもあり、空には星が煌めいていた。歩き続けると暗闇に目が慣れ、どんどん光が湧き出てきた。ここまで明るい夜は初めてだ。

 鍵を開けて中へ入ると、昼間とは違って家は「事故物件」であった。昼間の熱気が籠っているせいか、邪気が広がっているような気がする。外の澄んでいる空気と比べると天と地ほどの差がある。不気味な新品の白いカーテンを閉める。まるでこの家の傷跡を隠すように。

 部屋の明かりをつけ、エアコンを起動させても違和感が残る。そして、最も気がかりなのは雫がどの部屋にもいないということ。他の霊が襲ってきたらまずいではないか。そして、最も心配なのは眠気が襲ってきたということ。汗をかいたまま眠る訳にはいかないので(雫の件については諦めようと思う。)風呂に入る。ちゃんとボディソープとシャンプーを買って良かった。ただ、ボディソープやシャンプーを泡立てるときに沈黙が支配するのだけは避けておきたいので脱衣所でラジオを盛大に流しておいた。しかし、それが間違いだったようで、番組は怪談の夏だ、と言って怪談(階段であってほしかったが)話を語り始めやがった。

 手短に風呂を済ませ、リビングに行ったが、雫の姿は無い。昼間のことは夢だったのだろうか、と思いたくなるほどにリビングは静まり返っている。僕に持たれた銀のアンテナをぴんと立てたラジオの音を床や壁が吸収しているような感覚になる。ああ、狂ってしまったのか、僕は。

 しかし、睡魔というものは遠慮なく襲ってくる。僕は仕方なく床に転がり、明かりを消す。盛り塩を枕元に置きたかったが、処分に困るので買うのを止めた。あとで海に捨てればよいのでは、と思ったが事故物件に住んでいる人間が大量の塩を海に放り投げることこそが奇妙だと思った。

 そうこう考えているうちに深い海へと堕ちていった。



 音。楽器。ラジオ?僕は枕元にあるラジオに手を伸ばし、掴む。ラジオを顔の前に持っていく。音、これじゃない。ギター?僕はふと思う。

 開いているドアから柔らかいギタ―の音色を操り、弱々しい声で歌う雫が見えた。半月の光が窓を貫き、雫を優しく包み込んでいる。一人で弾き語りをしているか、はたまた遥か彼方の光へ届けようとしているのかというのは分からなかったが、僕と彼女の間に越えられない深い溝があることだけは分かった。

 しかし、まじまじと見ていると音はしだいに小さくなり、やがて聞こえなくなると同時に僕の視界に映ったのは月影に照らされた孤独な年季の入ったギターだけだった。

そして、その部屋の床は寝室に隣接している部屋だった。



 夜が明け、光が昇る。鳥の囀りは朗らかな朝を歓迎している。やがてセミのじりじりと鳴く音が聞こえる。

散歩してみるとたくさんのことに気づく。向日葵は火傷しそうなほどに太陽を見つめ続ける。 そして、海に来た。波が押し寄せては引いていく。陽は大海原を輝かせ、風は夏を運ぶ。振り返ると砂浜についた足跡がくっきりと残っている。夏が生きている、そんな感じがした。

帰宅すると、雫がリビングにて床に寝転んでくつろいでおり、幽霊って自由だな、と思った。特にすることがないのでラジオをつける。周波数を変えると朝のニュースやラジオ体操(まだこんな時間なのか、と改めて気づいた)、クラシック音楽、英語授業などなど。ラジオはまさに多様性であった。結局、英語授業の番組に周波数を合わせた。

 ダンディーなネイティブパーソナリティが仮定法の話をし始め、私が鳥だったら、私が若かったら、というのを英語で伝えてみせた。彼は畏怖がどうのこうのと言った。雫に訊いてみると「イフ」と言われてしまった。



 暗黒とバイオリンの音。僕は宵ほどからずっと寝ていたようだ。昨日と同じ部屋をそっと見てみる。やはり、いた。まるで昨日からずっと動かないでいたのかと疑うほどに昨日と同じように同じ曲を歌っていた。雫は繰り返し続ける、ということだけは確からしかった。しかし、それは彼女が幸せなのか、はたまた悪夢に縛られているのかは分からなかった。



 起きてカーテンを開けると外の様子がうかがえた。曇った朝はどうやら眠気を含んでいるようで、僕に再び寝るように促した。要はアンコールだ。僕は朝食すら取らずにもう一度眠りに入った。



 語りの子は弦を弾き始めた。ゆったりとしたメロディーはどこか幻想と哀愁をのせていた。やがて口を開くと物語が始まった。

 それは、ある少女の物語だった。孤独や不安を抱えている少女は天を見上げ、星々に願う。静寂な街の中、ただひたすらに願う。魔法が欲しい、と。しかし、少女は幻想に包まれることはなかった。陽が昇り、同じような日常を悟った少女はただ無力を嘆くだけであった。求めている物はすぐそこなのに、伸ばした手は空振りするばかり。身を委ねたかった、夢に。少女の願いはただそれだけであった——

雫は我が事のように歌った。孤独や不安、虚無、そして、尽きることのない葛藤を抱えていたようだった。アウトロが終わると、奏でたメロディーは閑静な街へ消え、虫の音だけが響き続けた。   

 夜は続く。月は変わらず輝き続け、空には果てのない暗澹たる世界が広がっていた。

 少女はその後も歌い続けた。僕はずっとそばで聴いていた。なんと淡い世界だったか、少女の奏でる音の全てが美しかった。ただ茫然と聴いていた。

 僕は暁を迎えたころ、日が日常を連れて昇るころ、ようやく思えた気がした。少女は生きているのだ、と。



  僕は空が青く染まるまでには寝ていたようで、僕が起きたときには太陽は既に天高くに位置しており、僕らを見下ろしていた。



 翌日の夜、僕は新しい環境でぐっすり眠れないせいで午前二時を迎えていた。いつものように音はしないな、と疑問に思ってこっそりのぞいてみる。開いていたドアから見てみる。

 たしかに雫はいた。しかし、彼女は弾き語りする以前にギターを持ってすらいなかった。よく見ると彼女の前にギターがあるのが分かった。彼女は窓を見続けていた。窓の向こうには三日月のようなか細い月と雲。しかし、段々見続けていると三日月は暗黒を含んだ雲に侵されていき、光はすっぽりと暗黒の手の中に隠れてしまった。雫は呆然と見続けた。漠然とした闇に蝕まれていく月を。きっと、僕たちはそんな運命だった。振り返ると闇が襲ってきて、喰われてしまう、そんな運命だった。    しかし、残酷なことに、日常では見えているはずのものは見えなかった。もしかしたら、見ないことこそが、目を背けることこそが日常だったのかもしれない。ただ、  その時は深く考えることはできなかった。



 僕はこの家に住むことを決め、やがて仕事を見つけた。その頃にはいつの間にか雫を日常と呼んでいたのだった。仕事は朝早くから夜遅くまで続き、パティをバンズが挟むように前後はつり革につかまりながら揺れた。

 休日の午前中は夢に吸収され、目を開けるのは昼間だった。雫が心配そうにしていたがそのたびに自転に酔ったんだよ、と答えた。そうするといつも雫は何か言いそうにしていた。



 そして、時針は昨日を捨て、始まりを告げようとしていた。つまり、お盆に入ろうとしていた。

 だからといって僕は何かするわけでもなく、逆にまとまった休日を満喫しようとしていた。

 僕は三つの空き缶をどかして冷蔵庫から酒を取り出し、ラジオを聴きながら闇に浸りながら椅子に座って飲み続けた。

 ちょうど量が少なくなってきたとき、あっと手が滑って缶の奏でる音と共に酒が零れた。どこからか雫がこっちに近寄って零れたものを見て心配していたが、酒は彼女を映すのを拒んだ。

 僕はあっと思って目をこすり、座ったまま缶を拾った。

 ラジオの時報が鳴った。やっとかと思いつつ僕はもう一缶を求めて立ち上がった。

 一歩踏み出したとき、足がなにか液体に触れ、滑った。体が前に前にと傾き、目をつむることしかできなかった。

 触れたのは二本の腕だった。ただ、一番奇妙だったのは雫の困惑する声だった。

 とりあえず僕は椅子に座った。彼女は自身の手のひらをグーパーさせている手をしげしげと見た。暗くて表情までは見えなかった。が、自身腕や足などをつかむ様子だけは捉えられた。

 僕は不思議だと思ってなにも理由を知らないであろう雫に尋ねた。


「もう一度——」


 彼女は続きを言いたそうだったが足を崩して嗚咽した。僕はさすがに追及したくなったが、雫は「虫の居所が悪かったの」と言ってギターのある部屋へと行った。さすがに追うことははばかられるのでソファーで横になって目を閉じた。



 目を開けると強力な光に襲われて目を閉じた。太陽が僕の隣にあるくらい眩しかった。僕は気のせいだと思えない一方で目を開けなければ何もできないじゃないかと思った。結局、うつ伏せになって目を手で覆いながら恐る恐る目を開いてみた。

 手から光が漏れながらも一分もすると慣れ始め、いよいよ起き上がって手をどけた。

 僕が見たのは靄に包まれた部屋であった。



 それは見間違えなどではなく、明らかに異常なものだった。雫がこっちに来た。一メートルもない距離で雫が僕と目を合わせたとき、彼女は明らかに表情を変えたようだった。僕は彼女をまじまじと見ると、彼女の瞳が透き通っているのが分かった。 彼女の手は僕の頬を触った。


「やっぱり……」


 彼女はそう言った後、ベッドで安静にしておいてほしい、と言って僕の手をゆっくりと引きながら寝室へ向かった。


「ごめんなさい。ご飯は私が作ってみせる。それと、夜に話したい事があるの」


 そう言って彼女はリビングへ向かった。


 数十分後、ドアを叩く音がした。どうぞ、と僕が言うと彼女は朝食だろうかパンとみそ汁、そしてポータブルラジオをベッドの隣の机に置いて「ごめんなさい」と言って部屋を出た。かなりおかしいコンビだが、実際、冷蔵庫にはそのくらいしかなかったのだ。

 味は良くも悪くもない。焼いたものにバターをつけたものとインスタントだからだろうか。工夫するところも、失敗するところもないからだろうか。

 僕は食べ終わったので食器を片付けようかと食器を持ってドアを開けたのだが、「ちょっと待って」と彼女が言いながら足音がこっちに寄ってきて僕の持っている物を取り、私がやるから貴方はいいのよ、と言った。僕はよく分からなかったが、ありがとうと言って寝室に戻ってラジオを流した。

 雫は僕が何も言わなくても飲み物だったり食事だったりを持ってきた。昼食はカレーライス、夕食はエビフライやイカフライだった。昼食のカレーはカレースープといっていいほどさらさらしたもので、雫は僕が食べる前に失敗しましたと言った。だが、それ以外には大丈夫であった。それとは対照的に夕食はほっぺたが落ちるほどのおいしさだった。ただ、彼女が出るときには必ず「ごめんなさい」と言ったことだけは気になった。

 ラジオから九時の時報が鳴り、交響曲第5番 ハ短調 作品六十七が流出したとき、彼女が丁度ドアを叩いた。僕はラジオを消してどうぞと言った。

 彼女はドアを閉め、ドアの近くで立ったまま話し始めた。ベッドに座っていた僕は彼女をこちらへ誘った。彼女が一番苦しいのだから。

 彼女は最初のうちは断っていたが、やがて僕の隣へ座った。

 そして、彼女は語り始めた。明けない夜のことを。




 私はちょうど運が良くて宝くじを当ててみせた。そして、この家が建った。

 そして、ある日、靄は私を遮りながらもあるところへ行った。そこは暗黒を吸収したせいか、墨汁のようだった。私は初めて夜を触った。冷酷だった。最後に飲み込むだろう物を口に流し込んだ。

 そして、私は砂浜で目を覚ました。——亡霊として。



 私は霊になってから彷徨い続けた。陽が出ているときは日陰で過ごし、日光を避けた。夜になると街へ出かけ、蝉の声、向日葵が向く方向のすら頼れず、ただ星影を背に受けながら足裏にコンクリートの無表情を感じながら巡った。やがて太陽が支配している間は眠り、私は静寂が訪れてから活動するようになった。ただ、雨の日ばかりは異なっていた。雨の降る夜は雨音が哀愁を連れ、やがて私の足は哀愁に浸った。私は果てのない暗闇を眺め、止むのを待ち続けるだけだった。例外なしに雨の夜はそのような過ごし方をした。


 

 ある日、雪が降った。それは、唐突のことだった。私が屍と呼ばれてから初めて降った雪だった。

 手を伸ばしてみると天からの贈り物はわたしの手のひらでさえ貫き、やがて地に着いた。

 残酷だった。私の踏み出した足は雪を感じさせずにごつごつとした感触だけを認めるしかなかった。踏み出した足を引くと足跡すら刻めないことを知った。そして、零れた雫も闇の中に消えていった。



 やがて、闇は薄れても息苦しさは変わらなかったのは、天からの支配に変わって地面から雪が侵食していたからであった。白景色となった街は朝を迎えても静寂を貫いていた。

 公園からはゆうやけこやけが流れ、子に帰るように促していた。雪遊びをしていた小学生たちはしだいに公園を離れ、残ったのは雪が取っ払われたブランコと綻びた雪だるまだけだった。

 さらに闇が深くなると、降る雪はとうとう形を崩し始めた。それが分かったのは雪だるまの目に落ちた一粒のものがごつごつの頬をつたったからである。それだけはもう溶けるらしい。

 私はかつて住んでいた家へ行くことにした。


 

 私の家はまだ確かにそこにあった。しかも、誰かが住んでいるようだった。それは郵便受けの口が封筒を加えていたからだ。

 私は待つべきだ、と思った。

 顔の知らない待ち人が来たのは魔法が解けて哀愁が支配した頃だった。車が駐車場に止められる。エンジンが切られ、ドアの開く音がする。

 目の前に待ち人が現れたとき、確かに目が合った。そして、時間が止まった。

 彼女は私を家に招いた。そこはたしかに私の家であった。

 彼女は三十代後半のように見える。リョウコと名乗った。背は私より高く、背はすらっとしていた。彼女は料理を作りたいから待ってて、と言った。私は適当にソファーに腰掛けた。


「私ね、貴方のことが分かる気がするの」


 彼女はダイニングテーブルにあるキムチ鍋をひとりでむさぼりながら言った。


「貴方、既に死んだことあるでしょう。貴方の目を見てそう思った」


 私は驚いた。心臓が揺らいだ。


「辛いの?」


 私は尋ねた。


「貴方は?」


「辛くないよ。だって——」


 彼女は私の答えを受けてこう言った。

「私は貴方みたい」

 勿論、彼女は仕事をしているのでほとんどは家にいなかったが、帰ってきた後や休日は話をして過ごした。休日になると彼女はギターをいじくった。私は常に隣で聴いた。とても穏やかな日常だった。

 お盆がやってくる頃になると、彼女は目の下に深いくまをつけていた。ひどく疲弊している様子を見た私は「大丈夫?」と尋ねたが、彼女の答えはいつも「そろそろお盆だから。そろそろまとまった休みが来るから」と言った。

 そのとき、私は本当の意味に気づいていなかった。



 翌日、彼女の目は白くなっていた。彼女は目が見えにくいと訴えた。そして、私の靄は完全に消えていた。つまり、そういうことだった。

 その夜、彼女は目を瞑りながらギターを弾いた。その後、せっかくだからと私にギターを教えた。私は数十年ぶりだと思いながら懐かしむようにギターを持った。そして、遠くへ行った記憶を探すように夜を過ごした。

 お盆に入ると彼女はやることがないのか、ひたすら私にギターを教えた。やがて日が暮れるとそれぞれで曲を披露しあった。



 気が付けばお盆は終わろうとしていた。

 夜中に私は目を覚ました。私はトイレに行った後、歯磨きを忘れていたことに気づき、洗面台に寄った。歯を磨き終わった後、私は何故か歯間ブラシが家にあるのか気になった。洗面台の鏡の扉裏を探すと、あるものがあった。私は息をのんだ。それは私が最期に口に入れたものであった。

 朝になると彼女はギターに触れずに部屋の片づけや清掃を行った。そして、夕方になるとようやくギターに触れ、存分に楽しんでいた。

 そして、彼女は夜になると外出しようとした。

 私は必至になって彼女を止めた。彼女は行くべきところがあると言った。

 私はギターを持って、聴いてほしいと言った。彼女は諦めて私の提案を受け入れた。

 最初はいつの日かの記憶を取り戻したように弾いていたのだが、段々私は弾きづらさを感じてきた。最初は涙かと思っていたが、ようやく分かった。私の靄が戻り始めているのだ。私はそう思った刹那、手が止まった。私はすぐにダイニングのはずれにある固定電話に手を伸ばし、受話器を取ってボタンを三つ押した。後ろから彼女が私の肩をがっと掴み、受話器を戻した。私はもう一度玄関に繋がるドアにへばりついた。彼女は私を剝がそうとしながら怒りと悲しみを混ぜて「何故?」と言った。 私は何も答えられなかった。それを続けているうちに外からサイレンが聞こえてきた。私は玄関へ出て鍵をかけた。そして、何人かが入ってきた。しかし、彼らは私を 無視してリビングへ向かった。私もリビングへ向かった。彼女は彼らに向かって物を投げつけた。床に叩きつけられたときのコンとうい音、それが最期に奏でたものだった。

 そして、追い詰められた彼女は数人に看取られた。




 僕がすべき事は決まっていた。靄を断つなら。

 しかし、それは残酷だった。僕は雫になにか他の方法はないのかと訊いた。しかし、雫は答えられなかった。僕は雫の意向を訊いた。


「終わらせてほしい」


 と、消えそうな弱々しい声で言った。

 このことについて明確なのは選択をしなければいけないということだった。



 僕は悩み続けた。食事のたびにやってくる雫を見ると余計に心が苦しくなった。しかし、それでも世界は廻り続けた。

 焦燥は僕の夢にも干渉した。ある日は何もしてやれず、人の子との出会いを繰り返す夢や苦しみ、藻掻きながら消えていく夢などが僕を襲い、やっと海底から足掻いて顔を出したかと思うと強力な光線が僕を痛いほど現実に戻した。

 そして、心配そうに足音が寄ってくるのだ。



 ある日、雫は神社に行こう、と提案した。

 僕は頷くことしかできなかった。

 その日の夜に僕らは近所の神社へ行ってみた。

 雫が夜に行くと言ったのは僕が太陽の支配しているときに行くのは困難であろうと思ったからかもしれない。僕は雫に支えられながら歩いた。雫は天を眺めたようで「格別に澄んでいるね」と言った。僕は少し遅れて「ああ、そうだね」と空を見上げずに言った。雫は違和感を覚えたようで顔をこっちに向けて気づき、「ごめんなさい」と歯を噛みながら言い、顔を伏せた。僕は顔を曇らせていたのかもしれない。 僕の上に広がる雲のように。


「いつも春には桜が咲いて舞うの。まるで蚊柱みたいに」


 神社に着いたとき、雫は言った。


「蚊柱は残酷だなあ」


 僕は言った。

 朱色の鳥居と敷地を囲む桜の樹。お世辞にも大きいとは言えなさそうな規模だった。


「ここには伝説があるの。憑りつかれた人が飲むと除霊される聖水があるって」


「きっとしょっぱいんだろうな」


 僕は返した。

 雫は黙々と聖水を汲んだ。ようやく終わりが見えたのだ。終わりが見えてしまったのだ。

 その後、僕たちはお賽銭箱にお賽銭を入れて願った。五円玉が一枚しかなかったが、雫は「私は十円玉がいいな」と言った。雫が何を願ったのかは分からなかったが僕は晴れますように、と願った。




「終わりにしよう」


 彼女が言った。

 この頃はUターンラッシュで高速道路がパンパンになる時期だった。

 雫は夜がいい、と言った。

 僕は分かった、としか言えなかった。



 雫が選んだのは誰もいない深夜の海だった。


「私の終わりの場所であって、終わりの場所なの」


 堤防の上に立っている雫が言った。僕は横に座りながら雫の顔を見た。ああ、もう終わってしまうのだろうか。雫は遂にペットボトルの蓋を開け始める。

 僕は立って見つめた。そして、そっと触れたものは春風のようだった。雫はとうとうがぶりと一気に飲んで目指す場所へと体を向けた。そして、顔を僕へ向けた。


「人の語る夢は美しいと思う?」


 僕は首を振った。

 雫はありがとう、と言って再び顔を大海原へと向けた。

陸風が吹きつく中、そこへ思いっきりジャンプして、消えた。

 一滴すら残らずに散った。彼女が消えるとともに靄が晴れ、現れたのは満天の星空と——半月だった。



 故に、人の夢は儚いのであった。

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ユメガタリ 銅鑼鳴 慧瓏 @doranari_eru

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