第十七話 儀式成就

「やめなさい!」

 叫びと同時に黒い影が飛んだ。ルヴィナチワだった。外套を翻し、領主とローザの間に滑り込む。その動きには迷いがない。

「ルヴィ!」

 ストラシュが叫んだ。杖を握りしめ、泥の中を進もうとする。足が滑る。

「どけ、魔女めが!」

 領主の怒号。剣が月光を浴びて煌めく。だがルヴィナチワは落ち着いて両手を広げた。何かを呟く。古い言葉。東の言葉。

 瞬間。

 光が弾けた。

 青白い光が魔女の両の掌から溢れ出し、降り注ぐ星々のように煌めく。それはすぐに広場を満たし、村人が、兵士が、馬が、飲み込まれていく。

「うわっ!」

「な、何だこれは!」

 叫び声。武器を取ろうとした手が動かない。逃げようとした足が止まる。青白い光が見えない糸となって、広場の全てを縛り上げていく。

 篝火の炎が青に変わる。世界が幻想的な、そして不気味な光に包まれる。

「カァ! カァ!」

 カラスが激しく鳴いた。羽を広げ、主人を守ろうとする。

「ルヴィ、やはりその魔法を使ってくれると思ったぞ!」

 だがすぐにまだ危機が去っていないことを察すると、ストラシュは走った。いや、飛んだというべきか……。片足の筋肉が悲鳴を上げるくらいに。

 なぜなら。

 領主が動いたから。

 青白い光の中、領主の兵士たちは粘つくゼリーの中に固められたように動けない。武器を振るうなんて望むべくもない。

 しかし領主ウルフリクは違った。青い光は彼の鎧を滑り落ち、その身体を拘束できなかったのだ。

「なっ!?」

 ルヴィナチワが驚きの声を上げる。ウルフリクは笑った。

「ハハ! 私がゴブリンやオークだけ狩ってきたと思うか?」

 領主の声が、凍てついた広場に響く。

「東の民の魔女など何匹も仕留めてきたわ!」

 剣を魔女に向ける。刃に刻まれた文字が淡く光る。対魔法の刻印だ。

「魔法に抗する装備は用意がある!」

 一歩。また一歩。剣の切っ先が魔女の喉元へ迫る。

「やめろ!」

 ストラシュが叫んだ。杖を突き、泥を蹴る。片足で跳ぶ。なかば転げ回るように。だが間に合わない。

 剣が振り上げられる。きらりと先端が光り、魔法の発動に集中して動けないルヴィナチワを向いた。

 ストラシュが投げた杖が回転しながら宙を飛び、領主の剣を持つ手に向かう。

 カン!

 乾いた音。杖が剣のつかに当たり、剣の軌道がわずかにずれた。

「ぬう!?」

 領主がうめく。しかし作れた隙は一瞬だ。ストラシュは倒れた。支えを失い、泥の中に崩れ落ちる。

「ストラシュ様!」

 飛ばされた杖は、ルヴィナチワが受け取っていた。彼女は杖を握りしめ、そして投げた。

「受け取って!」

 杖がストラシュの手に吸い込まれるように投げ渡される。泥に汚れた指がそれをしっかり掴む。 ストラシュは立ち上がった。片足で。杖を地面に突き立て、全身の筋肉を使って身体を起こす。膝は震えている。左足の傷口が疼く。だが構わない。

 領主が再び剣を振り上げた。

「遅い! 死ね!」

 ウルフリクの哄笑。刃が閃き、ルヴィナチワに向かう。

 しかしストラシュは動いた。

 泥を蹴って宙を舞う。信じられない速度で。信じられない軌道で。  領主と魔女の間に、滑り込む。

 カァン!

 甲高い音が響いた。

 木製の杖が、鋼鉄の剣を受け止めていた。

「なっ……!」

 領主が目を見開く。杖は折れなかった。

「ぬうぅ!?」

 剣が叩かれる。領主の腕が跳ね上がる。まるで岩にでもぶつかったかのように。あと少しで取り落としてしまうくらいに手首を捻ってしまう。

「なんという圧力……っ!」

 領主の顔に笑みが浮かぶ。それは歴戦の武人が好敵手を前にした時の、感情とは別の反応だった。

 再び彼が打ち込む。

 それをストラシュが受け流す。

 その捌きは流麗だった。片足で立ちながら、杖を回転させ、領主の剣を軌道から逸らす。角度を計算し、力の流れを読み、最小限の力で最大限の効果を生む。そして隙あらば強力な一撃を叩き込んで剣を叩き落とそうとする。

 これは剣術だった。いや、それ以上の何かだった。 片足でしか成し得ない、究極の我流。

「おのれ……この魔女を守りたいなら生かしてやる!」

 領主が吼える。剣を振り下ろす。横に薙ぐ。突く。だがストラシュの杖がその全てを受け止め、流し、弾く。

「だが森へ追放だ! これ以上この村をかき乱すな!」

 領主の言葉は村の広場全体に言って聞かせるようだった。村人たちが反論する。

「何を! 領主であっても勝手は許さんぞ!」

 男も女も、ルヴィナチワの魔法で動けないまでも、口だけは動かし続ける。

「神父様を! グレゴール様を連れてこい! 言い負かしてくれるだろうさ!」

「ハハハ!」

 領主ウルフリクは笑った。嘲るように。

「勇者殿! あれが村人の姿だ!」

 その言葉と同時に、領主の剣が閃いた。横薙ぎの一撃。だがストラシュは杖を地に突き、片足で身体を持ち上げる。剣が虚空を切り裂く音がする。着地と同時に、今度は突きが来る。ストラシュは上半身を捻り、剣先を紙一重で躱す。 領主の剣撃は速い。重い。しかも言葉は途切れない。

「人に縋ることしかできない哀れな生き物だ! 普段なら私や神父の言うことを聞くが、勇者殿とこの魔女が来てから全てがおかしくなった!」

 ルヴィナチワも苦しげな表情をする。それは拘束魔法を維持する集中のせいだけではないはずだった。

「ウルフリク、黙れ!」

 片足を軸に、ストラシュの身体が旋回する。これは魔界で学んだ技術だった。武器など選べない戦場で、何でも武器に変える技術。そして片足だからこそ研ぎ澄まされた読めない動き。

「はああぁっ!」

 杖が唸りを上げ、領主を押し返す。

 魔法の光のモヤで動けないでいる村人たちの目に光が戻る。

「勇者様……」

 小さな声。それは祈りのようだった。

「勇者様が……戦っておられる……」

 信仰。それは失われたはずのものだった。魔界への恐怖によって分断され砕け散ったはずのものだった。だが今、村人たちの心に再び灯り始める。小さな炎が。

 杖が唸る。領主の剣がキィンと響き、何度も取り落としそうになる。

「うおおおお!!」

「はああああ!!」

 領主が吼え、ストラシュが受ける。片足で、しかし確実に。

 村人たちが声を上げ始める。青白い光に縛られたまま、彼らは叫ぶ。

「勇者様!」

 一度は引き裂かれたはずの勇者への信仰が、再び。

「黙れ!」  領主ウルフリクが叫んだ。剣を大きく振るい、ストラシュに斬りかかる。ストラシュは片足で飛びそれを避け、杖を突いて一旦休む。お互いに息が切れつつあった。領主ウルフリクはストラシュに向けて剣の切先を向け牽制しながら、周りの村人たちを睨みつける。

「貴様ら、よくも恥知らずなことが言えるものだな!」

 村人たちが息を呑む。

「この男を生贄に捧げようとしていたのは誰だ!? 儀式だと称して!」

 言葉が広場を凍りつかせる。

「さあ、勇者殿!」

 ウルフリクが剣を構えたまま、ストラシュに向き直る。

「そういうことだ! 貴公を崇めるこの連中は、つい先程まで貴公を生贄にしようとしていたのだぞ!」

 杖でバランスをとるストラシュの手が、わずかに震える。 ルヴィナチワも顔を伏せる。魔法の光の中浮かぶその白い顔に、苦痛とも悲哀とも取れる影が落ちていた。唇を噛み締め、目を閉じる。彼女もまた知っているのだ。人間の二面性を。信仰と恐怖。愛と憎しみ。救済と排除。それらが表裏一体であることを。光が揺らいだ。魔女の精神の揺らぎに呼応するかのように。

「ルヴィ! 魔法に集中するんだ!」


 ストラシュが叫ぶように声をかけると、彼女はハッとした顔になる。両手の光の流れが安定し、緩みつつあった村人や兵士の拘束が回復する。


「身勝手なものだよな、勇者殿」

 領主が嘲笑う。

「都合よく持ち上げ、都合よく見捨て、都合よくまた縋る。それでも貴公は戦うのか? こんな連中のために?」

 沈黙。村人たちはただ叫ぶ。

 勇者様、勇者様、勇者様……。

 ストラシュはゆっくりと杖を構え直した。

「……知っていた」

 静かな声。

「いや、察していたさ」  村人たちは聞きもせず、儀式に関わったものも反対するものも、今は勇者を応援することに躍起になっている。

「村と森の民の企ても、儀式の真意も、俺がどうなるかも」

「ストラシュ様……っ!」

 ルヴィナチワが思わず声をかけるが、ストラシュはただ領主を見据える。

「でも、それでいいんだ。彼らは生きようとしているだけだ」

 杖を握る手に力が入る。

「魔界の恐怖に溺れる中、生き延びるために、藁にでも縋ろうとしているだけだ。その藁が俺だというのなら、それでいい」

「馬鹿な……!」

 領主が吼える。

「貴公のことなんか全く考えていない連中だぞ!?」

「それでも」

 ストラシュの声は揺るがない。

「俺は勇者だ。魔界に立ち向かい、魔王を討つ者だ。それが俺の使命だった」

 杖を突き立てる。

「そして今はただのカカシだ。藁でできた人形だ。カラスを追い払うこともできない畑にただ立っている者。カラスに導かれても歩いていくことができない者。しかしそれに人々が縋ろうというのなら、片足でも立っていよう」

 そこでストラシュは彼の愛する相棒を見る。魔女ルヴィナチワの顔はさらに俯き、とんがり帽子の下で表情は見えなかった。ストラシュは領主へと目線を戻し、声を張り上げる。

「だから儀式に協力する! 俺が魔界に立ち向かう力になれるなら、それでいい!」

「ぬう!」

 ウルフリクが歯噛みする。彼がここで舌戦を仕掛けたのは無論村人の前で勇者を言い負かすことでその後の統治をやりやすくするためだった。だが当てが外れてしまった。そして剣を振り上げた。

「森の魔術にも! 宗教的熱狂にも! 好きにはさせん!」

 領主が踏み込む。刃が閃く。ストラシュが杖で受ける。

 カァン!

「村のみんなは助かりたいだけなんだ!」

 ストラシュが叫ぶ。杖を押し返す。

「貴様は民を迷わせる!」

 ウルフリクが連続で剣を振るう。

「勇者だの魔術儀式だの、迷惑なことだ! この地に混乱をもたらすだけだ!」   カン、カン、カン!

 杖が全てを受け止める。そして。

「はっ!」

 ストラシュが動いた。

 片足で跳躍。杖を振り下ろす。領主が剣で受けるが、その技術の前では不十分だった。

 杖が剣を弾く。

「これのどこがカカシの剣だ!」

 領主が悲鳴を上げる。

「くうっ!?」

 バランスが崩れる。剣を持つ手が上がりすぎた。脇腹が開く。

 好機。

 ストラシュは杖を振り抜いた。狙いは頭部。渾身の一撃。

 ゴッ!

 鈍い音だった。兜の上から杖が領主の頭を打った。

「領主様!」

 それまで静観して魔法の力が緩む隙を窺っていた兵士たちが思わず声を上げた。「がっ……!」

 ウルフリクの身体がよろめく。膝が折れる。だがストラシュは止まらなかった。領主の身体が前のめりに傾いた、その刹那。杖を引き戻し、下から掬い上げるように振り上げる。

 ストラシュの杖の先端が領主の顎を捉えた。

 兜の顎当ての下、生身の顔面を掠めた振りは、衝撃を頭蓋内部に伝えた。脳が揺さぶられ、ウルフリクの目が虚ろになった。意識が途切れる。身体から力が抜け、人形の糸が切れたようにガクッと落ちていく。

 彼はついに泥の中に倒れ伏した。静寂が一瞬、広場を支配した。篝火のパチパチいう音だけがその場にあった。

「領主様が!」

 兵士たちが叫ぶ。しかし青白い光に縛られたままだ。

 ストラシュは息を吐いた。勝った。

 その時。

「がっ……はっ……」

 ストラシュの口から血が溢れる。腹部に鈍い痛みが走る。いや、痛みではない。熱だ。濡れているようにも感じる。手をやって見てみると、手のひらが一面に真っ赤になっていた。

(まずい)

 外套が赤く染まっている。腹の左側、肋骨の下あたり。

「……あ」

 ストラシュの喉から掠れた声が漏れる。いつ、やられた? 最後の一撃を叩き込んだ時か。いや、その前か。連撃を受け流していた時に?記憶を辿ろうとするが、戦闘の興奮で感覚が麻痺していたのだ。いつ刃が肉を裂いたのか、分からない。ただ今、温かい液体が腹部から流れ落ち、泥の中へと滴り落ちている。

「くっそ、鎧があれば防げたんだがな……」

 ぽた、ぽた、と。静かな音だった。泥の上に血が垂れる男は。

「ストラシュ様!」

 ルヴィナチワの叫び声が聞こえた。遠くから聞こえるようだった。耳鳴りがしている。視界の端が暗くなり始める。杖に縋るのももう限界だった。片足で立ち続けるための支えが、突然重く感じられる。

「ストラシュ様っ!!」

 ルヴィナチワの声がさらに大きくなり、魔法の青い光が消え去った。バシャンと音を立ててストラシュは泥の中に倒れた。そしてその意識もまた、ぬるくねっとりした闇の中へと沈んでいく。

 喧騒が遠くに聞こえる。動き出した領主の配下たちが剣を振るう。村人たちが農具で応戦する。数では倍以上だったが、練度が違いすぎる。だがストラシュをいっとき守ることはできるようだ。

「ストラシュ様! ストラシュ様!」

(ルヴィ……)

 意識が混濁する。誰かの手が、失われたはずの左足首を掴んでいる。存在しないはずの場所から、激しい痛みが駆け巡る。

 魔界の記憶がフラッシュバックした。暗い洞窟。足首を食い破る牙。肉が裂け、骨が砕ける音。あの時の恐怖、痛み、絶望が、鮮烈に戻ってくる。

「あ……ああ……」

 呼吸が乱れ、心臓が爆発しそうに跳ね上がる。全身から冷や汗が噴き出す。発作だ。

「い……やだ……」

 震える懇願の声が漏れる。それは誰に向けられたものか。村人たちは怪訝そうに彼を見つめるが、ストラシュの目には、ただ暗闇と牙と血の匂いしかない。

「やめ……やめて……くれ……」

 意識が急速に闇へと沈んでいく。その頭上で、カラスが甲高く、絶望的に鳴いた。

 カラスが森へと飛び立ち、やがて群れを率いて戻ってくる。その黒い影の下で、村人たちは痙攣とうめき声を漏らすストラシュを、その怪我を意に介することなく引きずる。

「どきなさい!」

 ルヴィナチワが声だった。もう彼には周りの様子を正確に把握することができない。耳だけが明瞭に声を拾う。カラスが頭上で激しく羽ばたく音がする。

「魔女様!?」

「さあ、魔女様! 儀式をしましょう! すぐに!」

「黙りなさい!」

 魔女の声は激しく震えていた。ルヴィナチワが傍らに膝をつくのを感じる。痙攣するストラシュの冷たい手を取る。

「私も……」

 ルヴィナチワは彼の手をギュッと握り、体に押し当てた。その柔らかい感触が、ストラシュの意識する全てになった。

「私も、あなたと苦しみを共にします」

 彼の手の甲に何かが滴る。涙だろうか。

「愛してます」

 それは、彼女が初めて口にした本心だった。ずっと胸に秘めていた、純粋な、そして抑圧された言葉。

「ル……ヴィ……」

 ストラシュの唇がかろうじてその二音だけ吐き出した。ルヴィナチワは言葉を続けた。

「ずっと……ずっと愛してました」

 村人たちと兵士たちの怒声の中、彼女の声だけが言葉として聞こえる。

「あなたは……どうしてそんなに簡単に自分を投げ出せるの?」

 ルヴィナチワの声が嗚咽に変わる。

「魔界でも、この村でも。いつもあなたは自分を犠牲にする。なぜ、自分を大切にしないの?」

 握った手に力がこもる。

「あなたのそばにいると……後ろめたかった」

 それは彼女の最も深い懺悔だった。

「あなたが誰かのために戦う英雄であるのに、私はただ、生き延びることしか考えていなかったから」

 涙がストラシュの手に落ち続ける。

「だから、あなたが足を失って、無気力なカカシになっていくのを見た時、ようやく対等になれたと思った。あなたのお世話をして、支えて、ようやく私もあなたの隣に立てると思った。あなたが勇者に戻らないなら、私はあなたと一緒に朽ちていけると思った」

 声が歪んでいく。

「でも……」

 カァ、カァ!

 カラスが警告するように激しく鳴いた。

「一緒に行きましょう」

 ルヴィナチワの手がストラシュの頬に触れる。いや、それを両手で支え、そして唇に何かが触れ、何かが流れ込んでくる。苦く、芳醇な薬の香りだった。

 ストラシュの喉が動き、薬を飲み込む。

「カァ……」

 カラスが悲痛に鳴く。

 二人の呼吸が同期する。

 そして、愛の告白と共に、彼らは闇に落ちていった。


*****


 三ヶ月が過ぎた。

 森の小屋に、柔らかな春の陽光が差し込んでいる。窓から見える木々は生命溢れる緑に色づき、穏やかな午後を告げている。

 ベッドの上で、ストラシュは横たわっていた。

 腕を動かそうとする。指先が微かに震えるだけだ。かつては剣を振るい、仲間を支え、魔界の怪物と渡り合った筋肉は、今や骨に張り付いた皮のようにしなび、力を失っている。

 立とうとすれば立てる。ルヴィが支えてくれれば。杖に縋れば。だが立ったところで、それは立っているというより「立たされている」だけだ。片足のカカシが支柱に括りつけられて、風に揺れながら畑に立っているように。行きたい場所へ歩くことなど、もうできない。

 それよりも辛いのは、内側だった。

 腹の奥で、何かが蠢いている。

 ドクン……ドクン……と。自分の心臓とは違うリズムで。重く、粘つくような脈動。それは魔界だ。封じ込められた魔界が、彼の内臓の隙間で、血管の中で、骨の髄で、息をしている。生きている。成長しようともがいている。

 時折、激しく膨れ上がる。胃が裏返るような吐き気。臓腑が引き裂かれるような痛み。脳髄に爪を立てられるような——

 そしてその瞬間、あの日が戻ってくる。

 魔界の洞窟。闇。何かが足首を掴む。牙が食い込む。骨が砕ける音。肉が引き裂かれる感触。熱い血が噴き出し、冷たい地面に流れ落ち——

「はっ、ああっ、あ、あ——」

 呼吸が乱れる。汗が噴き出す。存在しないはずの左足が、激痛で叫んでいる。切り落とされた神経が、まだ繋がっていると錯覚し、地獄からの信号を送り続ける。

 目を開ける。天井が見える。木目が渦を巻いている。いや、違う。渦を巻いているのは視界だ。木目は動いていない。動いているのは自分の意識——

 目を閉じる。

 暗闇の中に、肉の壁が現れる。脈打つ赤黒い表皮。血管が浮き上がり、粘液が滴り、そこに仲間たちの顔が埋め込まれている。ローラン、ミーナ、セバスチャン——

「いや、やめ、やめてくれ——」

 目を開ける。天井。木目。春の光。

 目を閉じる。魔界。牙。血。

 開ける。閉じる。開ける。閉じる。

 どちらが現実なのか、もうわからない。

 一日のほとんどが、こうだ。悪夢と発作の狭間で、かろうじて呼吸を続ける。意識が途切れそうになる。いっそ途切れてしまえばいいのに、魔界が彼を生かし続ける。封印の器は、壊れてはいけないから。

 時折、霧が晴れる瞬間がある。

 ほんの少しの間だけ、痛みが引き、悪夢が遠のき、自分が自分であることを思い出せる時間。狂気の波が引いて、正気の砂浜が現れる、束の間の干潮。

 今が、その時だった。

 ストラシュは天井を見つめながら、ゆっくりと呼吸を整えた。ルヴィが来る。もうすぐ来るはずだ。話せる。今なら、話せる——

「勇者様」

 扉が開いて、ルヴィナチワが入ってきた。両手に盆を持っている。

 彼女の腹は大きく膨らんでいた。妊娠していた。新しい命がそこにある。

「食事をお持ちしました」

 ルヴィナチワはベッドの脇に盆を置く。彼女は彼の背中に手を回し、ゆっくりと上体を起こさせた。

「すまない……」

「謝らないでください」

 彼女は微笑む。穏やかだが、どこか深い悲しみを湛えた笑み。

 窓の外から、カァ、カァとカラスの鳴き声が聞こえる。屋根の上に、いつもと変わらず佇む。真実を知る唯一の証人として。

 村では、英雄的な物語が語られていた。勇者ストラシュは自ら魔界に突入し、魔王を討ち、魔界を封印した、と。

 虚構の物語。村人たちは、自分たちが勇者を生贄に捧げたのではなく、勇者が自ら犠牲になったのだと信じることで、罪悪感から逃れていた。

 魔界は消えていない。ただ、ストラシュとルヴィナチワの体内に封じられ、この世界から隠されただけ。

 封印は永遠ではない。ストラシュが死ねば、魔界はルヴィナチワに移る。そして彼女が死ねば――お腹の子に受け継がれる。

 永遠に続く、血統に刻まれた宿命(呪い)。

「なあ、ルヴィ」

 ストラシュが口を開いた。

「何でしょう」

「お前、昔……俺がなぜ自分を捨てられるのかって聞いたな」

 ルヴィナチワの手が止まる。

「答えようか。今なら話せる」

 ストラシュは窓の外の黄色い木々を見た。

「俺は庶子だったんだ」

 静かな声。

「父はそれを隠して、俺に家督を継がせようとした。嫡男を差し置いて、死ぬほど厳しく教育を受けた。本来の跡継ぎからも色々された。辛かったよ。俺はあのくだらない跡目争いから逃げたかったんだ」

 彼は自嘲的な笑みを浮かべた。

「だが教会から勇者に選定された時は飛び上がって喜んだものさ。教皇の力で、俺の運命を決めてもらえるからな。俺は自分の意思なんか抱いたことはなかったんだ。いつも誰かに決められてきた。父に、教会に、そして……村に」

 ストラシュはルヴィナチワを見た。

「ルヴィ。お前が、俺に最高の場所を用意してくれた。もう何も決めなくていい。ただ、ここにいればいい」

「ストラシュ様……」

「ありがとう」

 心からの感謝だった。

 ルヴィナチワの目に涙が滲む。

「勇者様、いえ、ストラシュ様」

 彼女は彼の手を取った。

「愛しておりますよ。そして尊敬しております」

「ずっとそばにいてくれるか」

「ええ、死ぬまで」

 迷いのない、永遠の愛の誓い。

「その子の名は、どうしようか?」

 ストラシュは彼女の腹を見た。

 彼女は腹に手を当てた。

「新たな封印のための子ですもの。何代も何代も続く、立派な血統の始まりです」

 風が吹く。カラスが鳴く。

「……これは幸せだと思うか?」

 ストラシュが問う。

 ルヴィナチワは答えなかった。

「すみません、勇者様。私は……あなたの足元にも及ばない。私にできるのは……」

 盆を持ち上げて立ち上がる。

「ゆっくりお休みください」

「なあ、ルヴィ」

 ストラシュは囁く。

「これは復讐なのか?」

 魔女は答えずに部屋を出ていく。扉が静かに閉まる。

 穏やかな部屋に、白い光と涼やかな風が吹き込む。

 ストラシュは一人、ベッドに横たわる。目を閉じると、すぐに悪夢が始まる。暗闇、牙、血、魔界。

 毎晩、同じ悪夢に苦しめられる。逃れられない。死ぬこともできない。魔界が、彼を封印の器として生かし続けるから。

 屋根の上で、カラスが鳴いた。

 カァ、カァ。

 全てを知る黒い鳥。真実の証人。

 それは、これから何代も続く、呪われた血統と、永遠の苦しみを見つめている。

 そして誰も語らない、本当の物語を。

 勇者は、いよいよ生きた案山子となったのだ。

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カカシ勇者とカラス魔女 北條カズマレ @Tangsten_animal

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