熱帯雨林のレッド・パール (いくら売りの少女バージョン)

安曇みなみ

 年の瀬の凍てつく空気が、少女の薄いコートを通して肌を刺す。

 大晦日の街は、家路を急ぐ人々の足早な喧騒に満ちているが、その流れは少女の前でよどみ、そして避けるように左右へと分かれていく。少女の前には、小さな折り畳みテーブル。その上には、プラスチックのカップに小分けにされた、手作りの「いくら丼」が申し訳程度に並んでいた。


「カップいくら丼、いかがですかー……」


 かじかんで思うように動かない唇から漏れる声は、誰の耳にも届かずに雑踏へ溶けて消える。父親が事業に失敗し、母親はパートの詰め込み過ぎで心を病み、小学生の妹は熱を出した。せめて、年越しそばに天ぷらぐらい乗せてあげたい。


 そんな時、冷凍庫の奥で発見したのは、亡くなった祖母からもらったいくらの醤油漬け。それをいくら丼にすれば、生活費の足しになるかもしれない。そう思って売りに来たものの、現実はあまりにも冷たかった。


 一時間、二時間。カップは一つも減らない。空腹と寒さで、意識が遠のきそうだ。その時、ふと、売れ残りのカップの一つが目に入った。醤油を吸って、宝石のように艶めく赤い粒。まるで、幸せな家庭の食卓に灯る暖かな光のように見えた。


「一つだけ……」


 罪悪感を覚えながら、少女は指で一粒つまみ、そっと口に含んだ。プチリ、と薄い皮が弾け、濃厚な塩気と旨味が舌に広がる。その瞬間、目の前の寒々とした風景が、陽炎のように揺らめいた。


 見えたのは、温かいこたつと、湯気の立つ鍋を囲む家族の姿だった。テレビからは年末の特番が流れ、笑い声が響いている。そう、これが私の欲しかったもの。素朴で、温かい幸せ。


 少女は無意識にもう一粒、口へ運んだ。プチリ。


 すると、古ぼけていたはずのこたつは、北欧デザインの真新しいダイニングテーブルに変わっていた。父親の腕には見慣れない高級腕時計が巻かれ、「ボーナスで買ったんだ」と自慢げに笑っている。母親はエステで磨き上げたような艶のある肌で微笑み、兄は最新のスマートフォンを片手に「このアプリ、マジでバズるぜ」と得意げだ。テーブルの上には、#おうちごはん #家族団らん とハッシュタグが浮かび上がって見えた。


 プチリ。さらにもう一粒。


 今度は、安っぽい建売の我が家ではない。窓の外に煌びやかな夜景が広がる、高層レストランの個室だった。目の前には、有名シェフが手がけたという芸術的なフレンチのフルコース。「来年の家族旅行はドバイにしようか」と父親が言い、母親は「インスタにアップしなくちゃ」とスマートフォンを構えている。シャンデリアの光が、彼女がいつの間にか身に着けているシルクのワンピースを照らしていた。#記念日ディナー #ラグジュアリー #港区グルメ の文字が脳裏を駆け巡る。


 プチリ、プチリ。食べる速度が速くなる。


 幻は加速する。彼女はランウェイを歩くトップモデルになり、無数のフラッシュを浴びていた。隣には、画面越しに見ていた完璧なルックスの俳優がいて、「君が一番きれいだよ」と囁く。スマートフォンの画面には、フォロワー数が天文学的な数字で増えていくのが見えた。鳴り止まない「いいね!」の通知音と、「〇〇しか勝たん!」「顔面国宝!」というコメントの洪水。いくらの赤い粒が、通知のハートマークに見えてくる。


 プライベートジェットの革張りのシート。タワーマンションの最上階から見下ろす世界。投げ銭が飛び交うライブ配信。指先一つで手に入る、ブランド品の数々。もっと、もっとたくさんの「いいね」を。もっと分かりやすい価値を。もっと嫉妬される私を。


 プチリ、プチリ、プチリ。


 少女は我を忘れ、最後の米粒まで掻き込むように、夢中でカップを空にした。


 プチリ。最後の音が、やけに大きく響いた。


 少女は見た。それは、一瞬の光景。少女はとうとう最年少の宇宙飛行士となり、月からフォロワーのリクエストに応えようとしている。XのCEOはこのアクセス増を見込んで、サーバーを3倍に増設し、衛星を打ち上げ、新たに海底ケーブルまで引いていた。


 しかし、次の瞬間、全ての幻は、シャボン玉のように弾けて消えた。


 目の前には、空っぽのプラスチックカップが一つ。そして、何も変わらない、寒々とした大晦日の路上があるだけだった。人々の流れは相変わらず彼女を避け、遠くから除夜の鐘の音が聞こえ始めた。どうしようもない空虚感だけが残り、少女は一瞬、膝から崩れ落ちそうになった。


 だが、違った。何かが、少女の中で根本的に変わっていた。あれは、ただの幻じゃない。あれはシミュレーションを超えた、完全なる人生そのもの体験だった。どうすれば視線を集められるか、どうすれば価値が生まれるか、どうすれば世界が自分を中心に回りだすか、その完璧なやり方と成功体験は、いまや脳の神経回路に焼きつき定着している。


 ただの幻なんかじゃない。脳が体験したことは、現実に体験したも同然。その全てを、あの赤い宝石は教えてくれたのだ!


 空虚感は、一瞬で飢餓感に変わった。もっと、あの世界の光を。


 少女はゆっくりと立ち上がった。俯き、凍えていた少女はもういない。背筋はピンと伸び、その瞳は、獲物を見つけた肉食獣のように爛々と輝いていた。幻の中で幾度となく向けられた、羨望と嫉妬の眼差し。あの視線を浴びる悦びを、身体が、脳が、鮮明に記憶している。


 残りのカップは9つ。これは、ただの売れ残りではない。これは、新世界への入場チケットなのだ。


 少女はテーブルを畳み、一つのカップを手に取ると、迷いなく夜の街へと歩き出した。向かう先は、きらびやかなネオンがまたたく、この街で最も排他的なエリア。目的のビルを見つけると、そのエントランスには、いかにも屈強そうな黒服の男が二人、仁王像のように立ちはだかっていた。芸能人や業界人が集うという、完全会員制のクラブだ。


 場違いな少女の姿に、黒服の一人が侮蔑の視線もくれずに手を広げ、行く手を阻む。


「お嬢ちゃん、ここはガキの来るところじゃない。とっととお家に帰りな」


 しかし、少女は怯むどころか、ゆっくりと笑みを浮かべたのだ。

 それは、幻の中で何百万人ものフォロワーを前にした時と同じ、人を惹きつける、圧倒的な自身に満ちた振る舞い!

 ああ、凄まじいまでのオーラ! オーラ!


「そう? あなたたち、プロなのでしょ? 帰らせていいかどうかの区別ぐらい、つくんじゃなくって?」


 そう。黒服たちもまたプロだったのだ。

 フォロワー1億人を超えるものだけが持つという本物のオーラ、それを見逃すことはなかった。

 黒服は無言で道を開けた。


****


 重厚な扉の向こうは、幻で見た世界そのものだった。重低音が腹に響き、甘い香水の匂いが鼻をつく。誰もが自分を良く見せることに必死な、虚栄心が渦巻く空間。少女にとって、そこは最高の狩場だった。


 少女はフロアを見渡し、ターゲットを即座に定めた。SNSでの過激な発言で何度も炎上しては、それを燃料にさらに知名度を上げる、スキャンダルまみれの若手俳優だ。彼は今、取り巻きに囲まれ、退屈そうにシャンパングラスを傾けている。


 少女は物怖じすることなく、その輪に割って入った。


「あなた、今の自分に満足してる?」


 突然現れた少女に、俳優は訝しげな目を向けた。

「はあ? どこのガキだよ、お前」


「あなたの投稿、いつも見てる。もっと刺激が欲しいんでしょ? もっと『いいね』が、もっと誰も見たことのない『バズ』が欲しいんでしょ?」


 少女は俳優の目を見つめ、そっとカップを差し出した。


「これを一粒、食べてみて。あなたのフォロワーが、世界が、ひっくり返るような体験をさせてあげる」


 その狂気すら感じる瞳に、俳優は引き込まれていた。周りが止めるのも聞かず、彼は面白半分といった表情で、プラスチックの匙でいくらを一粒すくい、口へと運んだ。


 次の瞬間、俳優の目は大きく見開かれ、その場に崩れ落ちた。全身はけいれんし、虚空に向かって何かを掴むように手を伸ばしている。その表情は苦痛ではなく、純粋な狂喜と恍惚に満ちていた。


「すごい……! 見える……! フォロワーが……1億人……! ハリウッドから……オファーが……! 世界が……俺を求めてる……!」


 彼の奇行に、フロアは騒然となる。誰もがスマートフォンを向け、目の前の異常事態を記録しようと必死だ。最高のコンテンツ。最高のデモンストレーション。少女は混乱の中心で、冷静に次の手を考えていた。


(ただの「いくら」ではダメ。価値を最大化するには「物語」が必要だ。幻の中で学んだじゃないか。人はモノではなく、希少性とストーリーにお金を払うのだと)


 北海道産? ありきたりすぎる。もっと意外性のある、神秘的なバックグラウンドが必要だ。人々が聞いたこともないような、それでいて心を掻き立てる場所……。


(そうだ、日本の真裏。南米、フランス領ギアナ。その首都はカイエンヌ。熱帯雨林の奥深くで、先住民が満月の夜にだけ採取する、奇跡の赤い宝石。これなら売れる)


 ネーミングも重要だ。安っぽい名前では価値が下がる。宝石の名を冠しよう。


 床に這いつくばったまま、俳優が最後の力を振り絞るように少女を見上げた。

「こいつは……一体……なんなんだ?」


 その問いは、最高の売り文句を披露する合図だった。少女は周囲の誰もに聞こえるよう、今しがた作り上げたばかりの物語を、さも古くからの伝承であるかのように語り始めた。


「これは、日本の裏側、ギアナの首都カイエンヌの熱帯雨林の奥深くで、満月の光を浴びた夜にだけ採取される奇跡の果実。現地ではこう呼ばれているわ──『熱帯雨林のレッド・パール』ってね」


 その言葉は、フロアの喧騒を一瞬で静まらせた。少女は残りのカップをゆっくりと掲げ、恐怖と好奇、そして何よりも強い欲望の光を宿した群衆の目を見渡した。そして、悪魔のように微笑んだ。


「さあ、この奇跡を次に試したい方はどなた?……そうね、初めてのお客様ばかりだから、特別に。今なら、一粒たったの10万でいいわ」

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熱帯雨林のレッド・パール (いくら売りの少女バージョン) 安曇みなみ @pixbitpoi

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