第11話 神様の嘘つき(前編)

俺が姿を現したその刹那、サバイバルナイフが光を弾き、首元を押し当てた。あまりに突然の出来事に俺は動転しバランスを崩した。スローモーションで再生される世界の中、その男だけがリアルスピードで飛び込んでくるようだった。


無骨な手で掴まれた頭が遠心力まかせに柱に打ち付けられ、突出したナットの角をかすめた。俺が翼を開くより僅かに早く、男は俺の上体に躊躇なく跨ってくる。頬骨の強調された、痩せこけた顔が叫びをあげ、大粒の唾が飛ん出来て俺の顔面を濡らした。噴き出す脂汗からその焦燥が伺えた。


「お前、今の、見てたかーー!?」

「…見て…ない…」

たった4文字の返事で精一杯だった。

「どこから湧いて出た?こんな廃倉庫…シャッターも締め切ってんのに」

「…」


生温かさと共に血流すし、冷たくなる頭部。脈打つ度に激しい痛みが走る首筋。俺は向けられた刃の切っ先に抗えないまま、意識が遠のいた。


***


鈍いしびれで眼が覚めると、両腕は角張った鉄柱に拘束されていた。肩から先の感覚が薄れている。電気は点かないのか点けていないのか。頭上の遥か高い位置に着いた窓からかろうじて差し込む西陽だけが灯りだった。イヤな汗で背中が滲んでいる。コンクリートの床が冷たい。寝ていると身体の熱がどんどん奪われてしまう。俺は辺りにあの男がいないことを確認してから、ゆっくりと身を捩って上体を起こした。ズキリと頭部が痛む。重力に身を任せ、そのまま柱に首を預けた。


壁の遥か遠くから海の音と、たまに大型の貨物トラックが出入りする音が微かに聞こえ。湾岸の工業地帯だろうか。自宅で確認したタブレットでは行き先に【神奈川県】とだけ書かれていた。リープするまでどこに着くか分からない弊害が早速出ている。まぁ危険を察知されるとどの死神も来なくなるから当然のシステムかと思い諦めた。錆びた鉄の匂いと潮の香りが鼻を突く。壁の一部は剥がれ落ち、天井の梁には煤と埃がびっしり付着している。頭からの出血を少しでも止める為、頭を鉄に押し付けた。見上げた屋根裏は老朽化が激しく腐食が進んでいる。どこかしこでネズミの足音が聞こえる度に軋む音が不吉に響いた。


頭の流血が思いの他ひどく、その血のせいでぬるりと頭がズレた。気を抜くと視界が狭まり、思考が霧の中へ沈みそうになる。殴られ、傷つけられること。肉体ではなく、心ごとベッコリ凹むような感覚。久しく経験していなかった痛みが蘇った。


父の背中、母の横顔、妹の笑い声。やけに鮮明だ。親から手を上げられる俺を弟は遠巻きから観察していた。悪い人たちではなかった。ただ、もう少し俺の話に耳を傾けてほしかっただけ。どうしたら褒められるかばかりを考えて、ポイント稼ぎに明け暮れた結果、今俺はこんな場所にいる。そういえば半年前、留置所でも同じようなことを考えた。あの時は、独りであることに心細さなんて感じなかった。誰かさんたちのせいで弱くなったもんだ。滑稽なのに全く笑う気になれなかった。


***


(むっく、大丈夫?)

脳に直接届く不安気な声は、舞椰がテレパシーの射程距離内まで帰ってきたことを伝えた。


(チカに付箋、置いてきたよ!「遅くなる」って)

(…サンキュー…「遅くなる」か。全くその通りになったな)

(良かったの?呼ばなくて)

(千風をあんな奴に会わせるワケにはいかねぇだろ…)


舞椰とのテレパシーが一瞬途切れる。頭部損傷による弊害かもしれない。


(それで、何か分かったことはあったか?)

(うん。警視庁に潜入して調べてきたよ。あいつ、重要指名手配班に指定されている激ヤバ野郎だったんだねぇ…)

(クソッ…大閻魔のやつ、やけにすんなりギャラ交渉に応じたと思ったら…こんな案件渡して来やがったか…)

(大閻魔さんのシフティング、とことんブラックだよねぇ)


依然、笑えない状況は続いていた。それでも舞椰の声を聞くと、さっきまで跳ね上がっていた鼓動が少し落ち着いたのが分かる。冷静さを取り戻しながら、俺は次の策を考えた。しかし、あんな凶器をもった人間に舞椰を対峙させるわけにはいかなかった。妖狐の変化スキルは身体能力まで高めるものではなかった。もちろん千風も戦力としてカウントはできない。


(死神モードですり抜けられないの?)

(あれは終息時計を持たない無関係な人間から見えなくする為の能力…壁をすり抜けたり拘束具を透過したりできるスキルじゃないから…一度拘束されたらこのザマだよ)

(姿を現した瞬間に殴りかかってくるなんて思わないもんねぇ)

(あぁーーで、こいつの情報は?)

(確か…麻薬密売・取引、殺人、強盗…最近は組織犯罪に手を貸してるっぽい。役満だねぇ)

(死神だと名乗っても平然としていた…さしずめ薬で見える幻覚か何かだと思っているのか?)

(あー、その可能性は高いねぇ。さっきも陰で打ち込んでいるのを見たし)

(何でもいい…突破口に繋がるヒントは?)

(うーん。補足情報としては、こいつが組織犯罪に手を貸し始めた理由は、知らずにヤバい集団から割とデカい金借りちゃって、今不利な立場にあるから…みたいだねぇ)

(金…か)


聞けば聞くほど、まともな交渉は見込めそうにないと悟ったーーその時、廃倉庫の裏の扉からガラスの破片を踏み割る乾いた音がした。フワ・セイジだった。上体を起こした俺に気がついてひしひしと背後から近づいている。


(舞椰、ヤツが戻ってきた。隠れてろ…!)

(うん、さっき陰でてんとう虫に化けたから大丈夫だと思う!)


身一つ。誰にも頼れない絶望的な状況。フワ・セイジが俺の目の前にかがみ込んで言った。


「お前さぁ…家族とか友達とかいる?金持ってこれそうなヤツ」


身長187センチほど。鋭く痩せた輪郭。金髪。三白眼。奥二重の奥に光を失った真っ黒な眼。どうしようもない焦燥感がひしひしと伝わってくる。


「3000万円要るんだよ。明後日までに。じゃねぇと消されちまうんだ」


【01:22:57:15】1日と22時間57分15秒。


目の前にいる人間の形をした暴力はおよそ2日後にこの世を去る。その金の準備が関係しているのか、それとも他の理由があるのか。俺には原因までは分からなかった。


あと2日間凌ぎきる。軍事力でフワ・セイジを凌駕することも、死神としてフワ・セイジの死期に大きく干渉することもできなかった。


どんな手を使っても、ただ、やりすごす。それしかないように思えた。


フワ・セイジが俺のローブのポケットを弄り、スマホを探り当て取り出した。西陽は沈み、月灯りの朧げな光だけが視覚の頼りだった。スマホの液晶画面から放たれるブルーライトが連続殺人犯の顔を蒼白く照らしていた。


「てめぇ……親とも連絡取ってねぇのかよ?」


苛立ちを孕む声が、頭上から落ちてくる。フワ・セイジが俺のスマホを無遠慮に操作していた。パスコードを教えるまで少しでも時間が稼げないか淡い期待を抱いた。しかし、その場凌ぎで振った話題は1分も持たなかった。フワ・セイジは、俺のスマホの電話帳やメッセージアプリを開いては、しきりに眉をひそめる。俺のスマホにまともな「ともだち」なんて殆どいなかった。


親と話さなくなった。役所勤めで表彰台に上がった息子も今や野良のフリーランス。我が子が期待通りの大人に仕上がらなかった罪悪感からか、連絡は疎遠になっていた。弟は俺の失敗を見たのか人間になる道を選んだと聞くし、妹は外国の死神を担当している。今どの国にいるかも分からない。


舞椰とはテレパシーを使えるし、千風とは通信デバイスで連絡をとったことがない。俺は二人とそんな「約束」で繋がっていた。


「ろくに友達がいなくて検討はずれだったかな」

俺はフワ・セイジが激昂しないよう、なだめるように呟いた。俺のスマホには実用的なアプリしか入っていない。ゲームにも課金しなければ、マッチングアプリもやらない。チャット機能の具わるAIアプリは最近ダウンロードした。源泉徴収の計算の仕方が分からなかった時に試しに使ったきりだった。


「本当、つまんねースマホだなぁ。遊びのねぇ人生だったろ」

「仕事が遊びみたいなものだったのでね…」

フワ・セイジの煽りは、俺が正直に答えるだけで虚無と化した。意味ばかりを追いかけてきた面白みのない人生だった。


「宅配サービスの履歴も袋麺ばかりだしよぉ。お前、マジで金なさそうだなーー写真には何か写ってねーか?…って、またつまんねー写真ばっかりだなぁおい」


俺の味気ない画像フォルダはフワ・セイジの苛立ちを増幅させた。SNS映えする人生とは無縁だった。マカロンを食べたことも、トイプードルを抱いたことも、異業種交流会でスパークリングワインを飲んだこともない。仕事へ行き、帰り、ラーメンを食い、翌日の仕事に寝坊しないようアラームをかけて、眠る。そんな日々の繰り返しだった。そんな毎日がある日、音を立てて終わって人生が思いもよらぬ方向へと変わったんだ。


フワ・セイジがスクロールする指を止めた。翻して見せて画面には、海で会社を作ろうと話した日の写真が表示されていた。


「コイツら、使えそうじゃねぇか。このイケメンの男。…女も悪くねぇ。ちゃんと身なりを整えたら高く売れそうだ」


思わず心臓が跳ね上がった。自分自身がここまで傷つけられても、取り乱せなかったというのに。


「そいつは売れない歌い手だ。絶対にアンタの望む金額なんか持ってねぇよ」

「チッ、ヒモ野郎かよ」

(おーい!ヒモ野郎とは何だ!)

その時、脳内に甲高い叫び声が届いた。舞椰はまだこの廃倉庫周辺のどこかにいた。


「じゃあ、この女連れてこい。大久保あたりで売り飛ばしゃそこそこの金になるだろう」

思わず唾を呑んだ。想像しただけで嘔吐しそうになる。二人の話になってから心の平穏を保つことが難しかった。平然を装って言葉を紡ぐ。

「そいつは…ネットでは有名なニュース配信者だから。暴露系もやるからな、深く関わらない方が身の為だと思うぞ」

フワ・セイジが目を見張り、俺とスマホを交互に見た。


「えっと…『暴露系…配信者…女…』検索…」

千風は顔も本名も性別も公表していない。ネットでどう検索しても無駄だと思った。しかし、フワ・セイジの低く濁る笑い声が倉庫内に反響した。

「『千の風チャンネル』ーーコイツ、今めちゃくちゃ炎上してるじゃねぇか!アハハハハ!」

「(え?)」

俺と舞椰のリアクションが重なった。フワ・セイジの指先は高速でタップとスクロールを繰り返し、加速する。


「殺人鬼と、ペテン師と、迷惑配信者の3人組疑惑だとよ!なんだよお前ら、あんな青春みたいな写真撮ってるわりに…汚ねぇことやって動画収益がっつり入ってんじゃねぇのか?」


フワ・セイジの言っている意味が分からず、困惑した。ペテン?迷惑配信?身に覚えがない頭の中に言葉が並んだ。


(あ〜、ボクさんたちのことっぽいね…今見たけど千の風チャンネルがめちゃくちゃ叩かれてるし、千風の本名も顔も晒されてる‥目撃情報のあるスーパーや商店街まで…もしかしたら家も…)


舞椰がスマホで調べた情報をリアルタイムで共有してくれた。千風は大丈夫だろうか。


「最近のネット厨はすげぇな!出身の小学校や家族構成までみっちりまとめてやがる。一体どこの暇人がーーあ?」


フワ・セイジの手が完全に止まった。舞椰も同じ情報に辿りついたようでテレパシーがオフになる。


「こいつ…旭川市殺人事件の生き残り…?おいおい、こりゃぁどういうことだよ」


フワ・セイジの右脚の爪先が俺のみぞおちを抉った。俺は堪えきれず吐瀉物を撒き散らし、その場で悶える。頭部の流血も相まって意識が大幅に薄れそうだ。息を荒げ体制を立て直そうとした次の瞬間、右足のふくらはぎに鋭利な痛みが走った。声にならない叫び声が廃墟の中で響き渡った。ドクドクと脈を打ち、とめどない量の血が流れる。コンクリート上に血生臭い臭気が広がっていく。


「お友達の復讐をしにきたってわけか。やってくれるじゃねぇか」


フワ・セイジが俺にナイフを向けてゆっくりとあゆみを寄せた。

これは大閻魔が仕組んだ偶然の悪戯か?だとしたら笑えない。

いやーー俺たちが俺たちである以上。フワ・セイジが千風の家族を襲った本人で今も尚愚行を続ける以上。千風がその事件を機に不特定多数の人間に晒される存在となった以上。早かれ遅かれきっとこうなる運命だった。

3000万円なんて大金を一晩で用意するなんてまず不可能だ。

万策尽きたと思った。その時だった。


「聞け、フワ・セイジ!」

「あん?誰だ?」


舞椰の肉声が建物内に反響した。テレパシーではなかった。空気の震えに呼応してガラス窓の鉄枠がガタガタ音を鳴らした。姿は見えなかった。


「そこにいる者の相棒だ!3000万円、明日までに必ず準備する!」

「何だと…本当だろうな?」

「あぁ、だから絶対にその者にこれ以上危害を加えないと約束しろ!」


フワ・セイジはしばらく考えてから、天に向かって言った。

「警察は呼ぶな。不穏な動きを察知し次第、このナイフでコイツの首は掻っ切るからな」

「分かった。約束する。人命最優先だ。警察は呼ばない。ボクさんたちも諸事情により警察から取り調べを受けるのはちょっと苦手なんだよ」

「なんだよ…同士じゃねぇか。朝10時まで待つ。必ず来い」

「分かった。ちなみにこれは忠告だけど…」


窓から差し込む月光が途切れた。頭上、遥か上に位置するガラス窓の向こうに巨大なバケモノの影が見えた。シルエットが月夜に照らされて外郭だけを映し出している。


「むっくに指一本でも触れてみ?いっちば〜んエグい方法でいてこましたるからねぇ?♪」


「ひっ!?」

「男と男の約束よ…?♪」

フワ・セイジは腰を抜かしてサバイバルナイフと共に床に弾けた。その言葉を最後にバケモノの声は止み、月光と静寂が還ってきた。舞椰とのテレパシーが繋がらない、長く孤独な夜が始まった。


その時、絶望的状況の中で、一件の機械的な通知音が入った。


【00:12:04:49】


焼き芋トラック運転手のウラゾエ・ユウジのように。あるいは荒川の土手で出会ったフジイ・ケイジロウのように。死神に触れた事がある者のカウントダウンが始まると通知が入る。


一度だけ、深く触れたことがあった。その感覚が今でも指先に残っている。


オオタワラ・チカゼ。


背筋が凍った。死因は分からない。肉体の損傷が激しく、リープできるだけの妖力は残っていない。俺は千風のもとへ飛ぶことができなかった。半日後、翌朝10時頃、何らかの理由で千風が死ぬ。この救いのない状況を大閻魔も見て大笑いしているのだろうか。大閻魔ーー。


そうだ。

ーヒカガクテキナチカラー


舞椰との「契り」で俺が得た最後のスキルが何なのか。この時、俺はまだ知らなかった。

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