第12話 神様の嘘つき(後編)

【視点:万古音 舞椰】 


薄日が差し込んでは隠れる曇りがちの空だった。港から吹く風は油の混じった潮の匂い。少し離れた公園から吹く風は土と金木犀の匂い。吹きつける度に周囲の金属が微かに揺れた。まるで無言の警告を発しているかのようだった。


ボクは錆びついたシャッターの前に立っていた。手には紛れもなく3000万円の入ったアタッシュケース。下手にフワ・セイジを刺激してむっくを危険に晒すくらいなら、真正面から行くしかないと思った。深呼吸を一つ。大丈夫。ボクならきっと上手くやれる。


塗装の剥がれたインターホンを押すと、シャッターの向こうで鉄パイプが軋む物音がした。ひたひたと歩く足音がこちらへ向かってくる。無機質なインターホンから受話器をあげる音だけ聞こえた。お前から話せーーそう言うように。ボクは監視カメラを真っ直ぐ見つめて、アタッシュケースを見せながら言った。


「東 室九郎のバディ、万古音 舞椰だよ。3000万円を持ってきた。ここを開けてくれるかな?」


緊張感で押しつぶされそうになる中、カメラとモニター越しでボクたちは牽制し合っていた。フワ・セイジが重い口を開いた。


「一人か?」

「一人だよ。約束は守るさ」

「中身は本当に3000万円か?」

「本物だよ。なんなら今開けて見せるかい?」


ボクがアタッシュケースに手をかけようとすると、シャッターが擦れるように音を立ててその隙間を広げていった。膝くらいの高さでシャッターが止まると、インターホンから「入れ」とだけ声が聞こえてきた。


這いつくばるようにその隙間を滑り込む。シャッターを潜ると、埃、錆、血液、吐瀉物の混じった臭気が漂っていた。まだ立ち上がる前、変わり果てた姿で項垂れるむっくを視界が捉えた。両手は鉄柱に括り付けられ、頭は血まみれ。肩を上下させ呻く度に右足から噴き出し固まりかけた血も一緒に動く。胸がギュッとしまった。暗い倉庫の中で、怖かったね、むっく。今すぐにでも駆け寄りたかった。


その傍らに、痩せこけた男が一人立っていた。バサバサに乾いた清潔感のない金髪。無精髭。重厚感のある鋭いナイフを握り締め、もう片方の手の爪を齧っている。あぁ。ボクが強かったらなぁと今は心から思う。


「フワ・セイジだね。むっくにこんな事をして。絶対良い死に方しないよ…?」

「…金を見せろ。俺が本物だと確かめるまでそこを動くな」


ボクはアタッシュケースをフワ・セイジの足元を目掛けて放り投げた。ガタタンと大袈裟な音を響かせて床を滑っていく。フワ・セイジはそれを足でピタリと止めた。ボクの背後のシャッターを閉めたらその場にしゃがみ込み、金の確認を始めた。


緩んだ表情で何かを呟き始めるフワ・セイジの目はキョロキョロと忙しく、肩が小刻みに震えていた。暫くすると狂気混じりの視線がボクへ飛んでくる。


「確かに本物だ…お前、これどうやって集めた!?」

「アンタが求めた3000万円だよ。まずはむっくを解いてもらおうか」

「質問に答えろよぉおお!」


ゆらりと一歩一歩、ナイフを向けて歩み寄ってくる。まるで救いようのない奴なのに、その目はどこか行き場の無さを訴える"被害者感"が漂っていた。ボクに武器は無い。妖狐は戦闘向きじゃない。果てしない邪気を放つフワ・セイジを制圧することは難しい。時間を稼ぐことが何よりも大事だと理解していた。


「3000万円、大変だったんだから。いろんな人を騙して奪い取ったんだよ♪」

フワ・セイジは眉間に皺を寄せてこちらを睨み続けていた。

「むっく。これで二人揃って前科持ちになっちゃったね」

「前科持ち…?お前らみたいなもやし男がイキりやがって」

フワ・セイジがボクの顎元をナイフで掬い上げた。首すじに刻まれたむっくとの契りの紋章が露になる。

「くだらねぇタトゥー入れやがって。で、どうやって集めた?真剣に答えろ」

「あぁー。さっきのは半分嘘で半分本当。歌舞伎町にね。タケちゃんっていう…ちょっと顔のきく有権者のオジサンがいるんだよ。日頃から可愛がってもらってるのもあって。昨晩はちょっとハードなこともしたんだけども。隙を見てカードパクってずらかってきたってわけ」

「ほぉ…その男前、ちゃんと有効活用してきたってわけだな。使えるじゃないか」


嘘には、ほんの1、2割でいいから本当の情報を混ぜること。妖狐なら全員が受ける義務教育だった。


「ちょっとこっちへ来い」

フワセイジのナイフが首元へ一層圧をかけた。少しでも余計な動きをしたら頸動脈が裂ける距離感。心臓が早鐘のように打ち続ける。

「あの〜…むっくを放すのが先じゃないの?」

「いいから来いっつってんだろうがぁあ!」

怒声が飛ぶ。冷たい刃先がボクの皮膚を少し裂いた。むっく、こんなに痛いんだねぇ。時間が経つとどんどん痛くなるんだろうな。


「やめろ…」

むっくの体が小さく跳ね、唇から殆ど息みたいな声が漏れていた。今は何もできない。どっちみち、むっく一人置いて此処を離れる選択肢はボクの中には無かった。フワ・セイジが踵を返しむっくの方へ向かおうとした時、ボクは言われるがままに平伏の意志をしめした。


***


むっくから少し離れた鉄柱に、ボクの両腕も拘束された。乱雑に毛先のほつれた縄がボクの肌に食い込み、血の巡りが悪くなる。痛みも去ることながら、先の見えない不安が焦燥へと変わり、心音を高めていく。


フワ・セイジはかがみ込み、ボクと視線の高さを合わせて言った。


「お前…そんなに大きな金を集める方法があるなら、俺と組まねぇか?お前も良い思いできるように色々な人を紹介してやるよ」

「…この状況で、アンタを信用できると思うのかい?せいぜいその3000万円、大切に使いなよ」


フワ・セイジの手がボクの髪を掴み、柱に2、3度打ちつけた。


「調子乗ってんじゃねぇぞ。考え直す時間をやるからそこで這ってろ」

痛かった。だけど上手く行ったと思った。フワ・セイジの死期は明日の夜に必ずやってくる。それまで時間さえもらえればこの場を切り抜けられるはずだった。


「提案ありがとう…丸二日くれたらと〜っても前向きに考えるとーー」

「1時間以内だ。答えによっちゃ、二人とも仲良くバラして海の餌だ」


時間がない。何か思いつけ。何か柵をーー。ボクは無い頭を捻って考えた。おそらく、むっくの妖力はほとんど残っていない。一番負担をかけずにできるテレパシーがやっとだろう。まずはその状況をどうにか打破するところからーー。今こそ、何としてでもボクがむっくを助ける番なんだ。


***


時々、遠くの方で大型トラックや貨物車の走りすぎる音が聞こえた。誰も今、こんなボロ倉庫で二人の男が縛られ命の選択を迫られているなど思いもしないだろう。少しは時間計算の足しになるかと思って外の音に耳を澄ませてみたけれどダメだった。何分くらい経ったのか検討も付かない。


フワ・セイジは夢中で金を数えている。たった一時間だけど、決断まで考える猶予をくれたのは本当のようだった。


「なんでママは何も面白くないのに笑っているの?」

「舞椰が舞椰のままで、そこにいるからよ」


こんなタイミングでなぜかママの顔を思い出した。アイツのお金を数える指の動きが似ていたからだろう。


あの頃のママは優しかった。ボクの父親が蒸発した頃からか、ママの部屋には毎朝違う男がいるようになった。ボクのお父さんになる人かもしれない。そう思って部屋へ会いに行く度にすごい形相のママに何度も追い出された。その頃から頻繁に引っ越すようになって、義務教育校だけでも8回は転校した。気がつけば、既にできあがったコミュニティに飛び込んでは順応することにばかり長けていた。笑顔で中身のない会話を続けていれば、ひとまず人間関係で躓くことはないのだから。


「ねぇママ」

ある日、勇気を出してママに聞いてみた。その時のママは塗った口紅を馴染ませながら、スパンコールの敷き詰められたドレスに袖を通していた。振り向くことはせず、化粧台の鏡の中のボクに向かって「何?」とだけ相槌を打った。

「ボクはボクのままで、ここにいて良いんだよね…?」

「舞椰、あなたの番は終わりよ。いい加減にしなさい」

親の言うことがコロコロ変わると、子どもは我を見失ってしまうのだと知った。ボクがそのままで良いと言ったのはママだったのに。

「もう寝室には入って来ちゃダメ。ノックも禁止。考えたら分かるでしょ?もう少し、お利口な静流ちゃんを見習って考えて動いてね」

ーーそれがボクからママへの最後のSOSとなった。


引っ越す度に友達関係、共通の話題、流行り、部活、勉強の内容が変わってしまう。折角積み上げたものが何度もイチからやり直しになる。そんな虚しい感覚がうんざりだった。


何度か欲しいものを神頼みしたことはある。だけどどれも叶えてくれなかった。どこにもいなかった。だから「神様の嘘つき!」っていつも思うようにしている。そうすれば些細なことではショック受けずに笑っていられるじゃん。


そんな中、ボクはボクさえいればどこでも楽しめる「歌」と出会った。ボクは歌と生きていく。「歌で」じゃない、歌と生きていく。売れたら嬉しいけど売れることはマストじゃない。だって歌っている時だけはボクはーー


「……てめぇ、何泣いてんだよ。妙なこと考えんなよ?」

「ん?ーーあ、あれ?」


気がつけば、涙が頬を伝っていた。やけにご丁寧にゆったり流れる走馬灯だった。フワ・セイジはまた視線を落として忙しそうにお金を数え上げに戻った。


***


(…むっく、聞こえる?)

ボクは、むっくに話しかけたくてテレパシーを送った。

(…あぁ)

(ヘマしてごめんね。ボクまで捕まっちゃって)

(こっちの台詞だよ。欲出してつまんねーことに巻き込んじまった。悪かった)


むっくはテレパシーでの会話をフワ・セイジに悟られぬよう、項垂れっぱなしで微動だにしない。


(初めて会った時のこと、覚えてる?)

(…ん?あぁ。スーパーから出てきたら舞椰が話しかけてきたな)

(違うよ。その何年も前にボクたちは会っていたんだよ)

(…どういうことだよ?)


むっくの吐息が少し荒くなった。テレパシーは少しずつ妖力を消化するスキルだった。むっくに負担をかけない為に、しばらく一方的に話すことにした。


(歌舞伎町の公園の近くで歌っていたんだ。誰も聞いていなかった。それでも構わなかった。そこにヒリヒリした若い男女のグループが来てね。ボクがお構い無しに超ハッピーなラブソングを歌っていたもんだから、裏路地に連れられて袋叩きに遭ってしまって。最後に投げられた酒の空き瓶がたまたま頭にクリーンヒットしちゃってさ)

(…そんなことあったか…?)

(まぁまぁ。んで、誰一人救急車も呼ばずにその場を離れちゃって。その場で倒れていたら雨まで降り出しちゃって。あーこのままカラスにでも食べられちゃうのかなって意識が朦朧とし始めた時に、東 室九郎ーーキミは現れた。「残念ですが、死神です」ってやつあの頃から言ってたんだよ)


むっくは記憶を遡ることすら大変そうで、肩の動きを抑えられなくなっていた。そろそろ限界なのかもしれない。


(その時に初めてボクは誰かに歌声を聞かせたんだ。当時は白塗りメイクで歌っていたんだ。しかも思い返せば肉体じゃなくて魂で歌っていたんだろうね。むっくがその時の歌を覚えているはずないか♪ でもずっと聞いてくれたんだよ)

(白塗りなんかしてんじゃねぇよ、それじゃお前だって分かんねぇだろ…)

むっくからテレパシーの返事がきた。とても温かかった。

(死神が死にかけの魂をみすみす見逃すワケはねぇよ。その死神が未熟だったか…舞椰のまだ生きたい気持ちが強すぎて面倒臭がられたんだろうよ。舞椰が自分で掴み取った起死回生だ。誰のお陰でもない)

(ボクさん、これからは公園でも裏路地でもなく、ちゃんとステージで歌いたいって思っちゃったんだよね)


アヤカシで良かった。死神の記憶が消えずに済んだから。むっくと喋ると生きる気力が湧いてくる。むっくも同じ気持ちだと嬉しいんだけど。ボクは決意を固めて、ある賭けに出ることにした。


(ねぇ、むっく、問題です)

(…なんなんだよ)

(ボクさんたちって、助かる可能性どれくらいあると思う?)

むっくは絶望的な状況を再認識し、肩を落とした。

(絶対に0%だろうな)

ボクの契りの紋章が疼いた。未来に絶対なんてない。それでもむっくに問いかけ続けた。それがボクに今できることだった。

(チカのやつ、助けにきてくれると思う?)

(千風は来ねぇだろ。付箋貼ってきたんだろ)

(ちなみに、むっくの妖力ってあとどれくらい持つの?)

(もう殆ど残ってねぇな。きっとテレパシーももうすぐ切れる)

(…どうせ死ぬなら一緒がいいね)

(そうかもな)


手は尽くした。もうすぐ決断の時間がやってくる。あとは祈るしかないーーと思ったその時だった。


(舞椰…)

むっくが残りの妖力を振り絞りテレパシーを送ってきた。妖力が僅かばかりだけど回復したのが分かる。

(お前って…例えば、てんとう虫にでも化けて、ここから出ていくことも出来るのか?)

ボクは高い場所にあるガラス窓を見上げた。逃げ出すには十分な隙間が空いていた。

(うん、大丈夫だよ。どうして?)

静かに保っていた均衡が崩れ始めた。世の理(ことわり)が変わっていく。キーマンとなるのは、いつだってあの人物だった。

(オオタワラ・チカゼーー千風の死期が近い。俺、行かなきゃ)

(え、むっくーー)

(召喚をかけるほどの妖力は残ってない。舞椰、生きて外に出ろよ)

そう言うと、むっくは鉄柱に括り付けた麻縄と、コンクリートに染みついた血痕が置き去りにして姿を消した。ーーその時。


「おらぁ、時間だぁ!決めろぉ!」


金を数え切ったフワ・セイジがバタンとアタッシュケースを閉じて顔を上げた。次の瞬間、驚愕の表情を見せて固まり、その怒りは頂点に達した。空気が切り裂けるような甲高い叫び。ビリビリと肌を切り付けるかまいたちみたいだった。


「あの黒服もやし、どこ行きやがったああああ!!」


フワ・セイジは、むっくがいた場所を何度も蹴りつける。コンクリートが鈍い轟音を立てて鳴り響いた。フワ・セイジの額から汗が滴り、顔面が蒼白になっていった。


「お前が逃したのか…?どうしてくれんだよ…」

変化スキルは、人間が目を離した一瞬の時じゃないと使えない。どうにか気を逸らさせるチャンスを伺った。しかしフワ・セイジの両眼は完全にボクをロックオンしている。1ミリもよそ見なんてしない。多分もう殺す気だ。


「あとは頼んだよ、我らがCEOさんーー」

「何を言ってやがるうう!」


この賭けに負ければボクたちは前に進めない。ボクは逃げも隠れもしない。この汚い嘘と嘘の化かし合い、絶対に制してみせるーー。


「5分だけでいい、話を聞いてくれ!」

「うるせぇ、もう殺す!」

「その金を2倍ーーいや3倍に増やす方法があるんだ。それもたったの一週間で!」

「あぁ!?」


ここで間違えるな。主導権を渡すな。この物語の主導権はボクにある。これまでも。これからもずっとーー。


「聞かせろよ。逃げたアイツを始末するのはその後だ」

差し出したこの命…ついに使い切る時が来た。

やっと見つけた永遠の居場所ーーむっくは必ずボクが守るんだ。

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