第10話 ミルクジェラート
【視点:太田原 千風】
「遠方。遅くなる。」
玄関裏の付箋には、ヘタクソで丸い文字が書かれていた。「なんだ」と肩を落としていても仕方がないので、早速キッチンへ向かった。珍しく早い時間から夕飯の準備ができる。そう思うことにした。
仕事帰りに寄ったスーパーでカボチャと牛蒡が安く手に入った。今日はカボチャの煮物ときんぴらごぼうだ。スパイス料理がないと舞椰くんが煩いから、茄子を使った無水カレーも頑張って準備しよう。帰りに間に合うだろうか。窓から差し込む光はすでにオレンジ色。今年もまた、少しずつ日が短くなっていく。部屋に広がる静けさに、ちょっとソワソワした。今日は二人に報告したいことがあったから。
室九郎さんはリープで現場へひとっ飛びだし、舞椰くんは召喚スキルで呼んでもらえる。考えれば考えるほど私だけ蚊帳の外にいる気がしてつまらなくなった。三人で会社を作って社長になったら絶対に私が行ける現場しか許さないルールにしようと思う。もちろん冗談だ。
私は、室九郎さんと舞椰くんが居ない時に通信デバイスを使わないルールをずっと守ってきた。最初は不便かなと思ったけど、スマホを手放す時間も案外悪くはなかった。ただ家に帰るまで二人がどこにいるか分からないから、こういう付箋の書かれ方はおざなりにされた気がして少し寂しい。
かぼちゃ、れんこん、茄子、きのこ、さつまいも。鍋の中でダンスする野菜を見つめながら、これを食べてくれる二人の顔を思い浮かべた。料理は食べてもらって初めて完成する。それを教えてくれたのは父でも母でも親族でもなく、死神と化けギツネだった。アヤカシの笑顔を想像することが、私のレシピのSTEP1となった。
クミンとクローブを焦がさないように気をつけながら玉ねぎを炒める。香ばしい琥珀色に変わる頃、部屋にスパイスの香りが広がって心を落ち着かせた。
鍋の火を弱めたら、バルコニーに出る。秋の風がひやっと肌を刺した。ほのかに風に揺れる洗濯物を一枚ずつハンガーから外しては腕に抱える。几帳面なのか、ただ面倒くさいのか、室九郎さんはいつも同じブランドの黒いシャツを着ている。袖の長さが違ったり、生地が違ったり、襟があったり無かったりする。本人なりのこだわりがあるようだけど「あの服どこ?」って聞かれても私にはよく分からなかった。
一方、舞椰くんは視界を賑やかすカラフルでビビッドな色味のお洋服を好んで身につける。7秒で身支度が済んでしまう室九郎さんとは対照に、毎朝クローゼットの中身と睨めっこして、その日の気分に合わせて慎重に服を選ぶ。
私といえば、撮影時の動きやすさと紫外線予防を重視した実用的で地味な色の服ばかり。母の形見のギンガムチェックのワンピースだけが私の勝負服となった。バルコニーでくたびれた下着を手に取り、そろそろ可愛いのも持っておかないとね、などと思った。特に誰に見せるわけでもない。
時計の針が一歩ずつ世を夜へ近づける。報告したいことがある時に誰かの帰りを待つのはこんなにも長いのか。私は食事の準備に集中した。出来立てのカレーを味わってほしかったけど、仕事柄不規則だしこういう日もあるかと割り切った。
時計を見ると、もう22時を過ぎていた。途中、冷凍庫からミルクジェラートを取り出して食べたけれど、流石に待ちきれなくて一人でご飯も食べた。力を入れた料理だっただけに虚無感も一入。スプーンが皿に触れる音が響いてとても気になる。
遅くなるって、具体的に何時を指すのだろう。カレーは二日目が一番美味しいというから、まぁ良いのだけど。私はふと、室九郎さんがいつも座るローテーブルの席で胡座をかいてみた。ベッドの縁につい肘を置いてしまう理由が分かった。窓を背にして座るから背中は外気でひんやりとした。夏、本当は西陽で暑かったかもしれない。
二人のベッドの真ん中に横たわってみた。同じシャンプーなのに二人分の匂いだと分かる。私は誕生日にお願いして一度だけ室九郎さんと一緒に眠らせてもらった。背中を向けて眠ったから寝顔は見られなかったはずだ。昔両親に千風は寝る時に両目が開くと笑いながら教わって以来、寝顔にコンプレックスを抱えていた。だけどあの夜室九郎さんの寝顔を見た時に、両親のアレは愛情表現だった可能性があると知った。
ここで暮らすと押しかけた頃の私では考えられないけれど、あの添い寝が私の精一杯のわがままになっていた。チャンネルを運用する熱量はどんどん高まるのに、変なところが臆病になっていく。ここに来てちょうど、半年が経った。
***
動画の編集がしたいのに、デスクの上に舞椰くんのCD-Rが散らばっていた。どうして舞椰くんは未完成の作品をあちこちに置いて放置できるのか。私には理解しがたかった。
手に取ったディスクには【神様の嘘つき!】と記されていた。…これは曲名?舞椰くんの特異な感性が刻まれたそこら中のCD-Rをかき集める。キャスター棚の裏まで手を伸ばすと、ディスクとは違う何か、硬い質感の紙に触れた。引き抜いたそれは見慣れない行政通知。宛名は室九郎さん。開いた封筒の中には「過料納付命令書」の文字があり、罰金の支払い義務の通知だと分かった。今の室九郎さんにとって決して小さくないその額面を見つめた。胸の奥がギュッと縮んだ。
室九郎さんは、人の話を、絶対に最後まで聞く人だった。誰にも悟られないように熱くて寒い窓側に座る人でもある。ねぇーーこの世は、やさしさのヘタクソな人から順番に壊れていってしまうね。
***
その時だった。気にも留めていなかったスマホとパソコンの両方が同時に通知音を叩く。その音は一度や二度のみならず、何度も何度も不規則に、不協和音を奏でながら部屋中に鳴り響いた。慌ててスマホを手に取った。投稿がバズった時の反応とは何かが違う。だって私は今日まだ動画を投稿していない。とっくに忘れていた何ヵ月も何年も前の投稿が何かの拍子で一人歩きして、異常な数のコメントの集めていた。その声はやがて最近の投稿欄をも侵食しだすーー。
炎上ーー。
《お巡りさんこの人です》
《なんかうさん臭いと思ったんだよな》
《点と点が繋がって鳥肌なんだが》
《お前が黒幕だったか》
身に覚えのない因縁をつけるコメントが急増加していた。数々の事件事故にカメラが偶然立ち会えている、その辻褄の合わなさを指摘されたことで炎上は始まった。
一斉に起こる手のひら返し。昨日までのフォロワーが今日の敵と化した。知らない匿名アカウントから罵声が飛んだ。勝手な憶測でマジギレする人。状況や前提を確認せず事件を語る人。ただ次の攻撃対象を探していただけの人。まともな教育を受けているとは到底思えないーーどうしようもない人たちが私たちの努力の跡を踏みにじる。やめろ。これはアンタたちのような低俗な人間が汚い手で触れて良いものじゃない。
炎上の火が葛飾区の当て逃げ事件の動画にも移った。オクモト・ミホの遺族は全員病室で涙していた。事件後に自首したサカイ・ユキは現在親戚の協力を得ながらもう一度四児を母として迎える為に必死に罪を償っている。そこに《こいつ絶対に遺族とグルだよ》という滅茶苦茶なコメントがついた時、私は意味不明のあまり、さっき食べたばかりの夕食を全て戻してしまった。
とりあえずフローリングを拭いた。頭はフル回転しているのに何も考えられなかった。恐ろしく矛盾した状況なのに、デバイスの電源を切る気にはなれない。だってどんな情報が更新されるか分かったもんじゃーー
「あっーー」
心臓が跳ねながら膨らみだす。息の仕方が分からなくなった。
《特定できました。太田原千風。画像はこちら》
《意外と可愛くて草。ヌケるw ってかもうヌイたw》
《うちの保険会社の子や…話した事ないけど》
《本当にこの人?近くのスーパーでよく見る》
《ワイの大学時代のゼミ長やんww 教授と寝てたってマ?》
《おおたわラジオは草w あー人生詰んだな》
室九郎さんと舞椰くんにただただ申し訳なくて、トイレマットの上で長い夜を過ごした。体液が抜け切った私は願うことしかできず、真っ暗なトイレに鍵をかけて隠れていたんだ。
***
カーテンとカーテンの隙間からか細い陽射しが入るのも嫌で、洗濯バサミで止めた。まだ二人が帰ってこない。ほぼ一睡もできなかったのに不思議と眠くない。頭が正常に動いていないと分かるのに考えることをやめない。眼球が少し溶けたんじゃないかと思うくらい両目の周りに熱がこもる。ジェラートの空の容器だけが4つも積み上がった。
室九郎さんも舞椰くんも連絡先を知らない。私たちを繋ぐ秘密保持契約が、今はこんなにも憎い。もしかして私が炎上したからもう会ってくれない?地元の小学校の集合写真も流出していた。誰が何の為に発信しているのかもはや分からない。もはや何の得も無いだろうに。そうか、暇なんだーー。見せ物ビジネスがそういう人たちの為にあった事を奇しくもこんな形で思い出し、初心に還らされた。
「いや〜、完全に黒と言えますね。これは連続殺人鬼と、迷惑系動画クリエイターと、大ペテン師が手を組んでいないと説明がつかないでしょ、逆に!」
炎上ネタばかりを取り扱う音声配信者が意気揚々と話し、コメントを書きこむ信者たちの信仰を深めていく。室九郎さんと、舞椰くんと、日々駆け回り積み上げた大切な私の居場所が下世話なカラスに食いつぶされていった。
SNSのダイレクトメッセージが数百件は未読で溜まっていた。明らかな誹謗中傷は無視しながら、自分にとって必要かもしれない情報だけを選び取り、開封していく。その中の1つに、身の毛のよだつような内容があった。ずっと欲しかった情報でもあった。
「こんにちは。北海道旭川市のXX小学校の同級生だった者です。ずっと『千の風チャンネル』を見ていました。こんなに影響力のある存在になっていたと聞いてビックリしました。ご家族を全員失ってしまったあの痛々しい事件ーーずっと犯人不明でしたが、似たような手口の犯行が最近関東近郊で相次いでいると聞きました。この人です→」
送られてきたのは、金髪のツーブロック、痩せ型の男の写真。名前は「フワ・セイジ」という。
情報は有難い。ただ、手口が似ているだけで同一人物と決めつけるのは早合点だ。って、あれ?
「『見ていました』ーー?」
過去形の文面に鳥肌が立ち、チャンネルにログインした。その動画プラットフォームは、何年間も貢献してきたクリエイターに対する内容とは思えない殺風景な画面で私にメッセージを伝えていた。
『【千の風チャンネル】は、コミュニティガイドライン違反及び犯罪行為の疑いが通報された為、現在アカウントが凍結されています』
何年間という期間、寝る間も惜しまずに編集画面に向かった日々が走馬灯のように蘇った。眠たくても、熱が出ても、背骨を痛めても、ずっと頑張ってきたんだよーー。足腰に力が入らず崩れて右膝を強く打った。起き上がりたいのに腰まわりの感覚がどこかに飛んでおり、そのままだらしなく私は失禁した。なんだか情けなくて、涙を流しながら下着を履き替えた。昨日からずっと自分の体じゃないみたいだった。
下着と部屋着のズボンを洗濯機に突っ込んだ。その折に、玄関に貼ったままの付箋にもう一度視線を向けた。なんだろう。ずっと見落としてきた違和感がある気がする。私はじっとその付箋を覗き込んだ。
やけに丸みがかったこの文字は、部屋に散らばったCD-Rのメモ書きと同じ筆跡だった。この付箋は舞椰くんが書いたものだ。いつも室九郎さんが書いていたのに今日に限ってどうして?
近ければ住所を書き、遠い場合は帰り時間の目安を書いてくれた。ではなぜわざわざ舞椰くんが付箋を書いて貼ったのかーー。
『遠方。遅くなる。』
「まさかーー」
おそらく、二人は遠くになどいない。おそらく関東近郊のリープ先から何かしらの理由で舞椰くんだけがわざわざ家へ引き返し、付箋をコレに張り替えたんだ。私は小さく一言「ごめんなさい」と詫びて室九郎さんのタブレットの電源を入れた。パスワードは、インボイスの請求書テンプレを作ってあげた時から変えてはいないと知っていた。
二人の居場所を知りたい。その一心で"リスト"を開いた。気が遠くなる数の人間がスプレッドシートにびっしりと並んでいた。その中に一人だけ網掛けされた者がいる。室九郎さんの為に誰かが作為的に用意したみたいに見えた。フワ・セイジ。ご丁寧に顔写真まで添えられているけれど肝心の住所が分からなかった。【神奈川県】では広すぎるよ!その刹那ーー。
私の心の叫びに反応するかのように、住所を示すセルだけが文字化けを起こしフワ・セイジの居場所を示した。【神奈川県横浜市△△区XX-XX-XX】まるでどうにもならない現実に強く反発するかのように。あるいは神様の見えざる手にでも誘われているかのようにーー。
大切な人を奪われる経験なら、もうとっくに詰んだ。これ以上それから学ぶことなど無かった。今はこの住所を信じるしかない。私は椅子にかけていたリュックにキッチン用具を一つ追加して外へ飛び出した。
公園、商店街、業務スーパー。この街が大好きだった。最後になるかもしれない景色。惜しむ間も無く駆け抜ける。十字路、あまりに急ぐ私を見て焼き芋トラックが道を譲った。焼き芋屋にしてはやけに若い風貌の男が「どうぞ」と軍手をつけたその手で私の行く先を示した。
大通りでタクシーに飛び乗った。
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