第9話 約束は突然に

「死神ナンバー696 東 室九郎だ。閻魔堂に用がある」

「東さん、お待ちしておりました。どうぞ中へ」


相変わらずアナログすぎる冥界のセキュリティゲートを潜った。現場の死神なんて、アーカイブセンターに魂の納品だけして帰ることが多いから、直接大閻魔のいる閻魔堂へ向かうこのルートは新鮮だった。何やら相談したいことがあるという。おいそれと言うことを聞いてくれる都合の良い手下の死神なら他に沢山いるだろうに、どうしてわざわざフリーランスの俺に?なんだか嫌な予感がしたが、丁度俺からも大閻魔に話したいことがあった。


閻魔堂に近づくに連れて瘴気が強まる。大閻魔が何日も出ずっぱりで仕事を捌いている証拠だ。誰よりも働くのは勝手だがそれに司命たちやアーカイブセンターの職員を振り回すのはいかがなものか。そんなことを考えていた。


閻魔堂に辿り着くと側近の司命が駆け寄って来た。何かに恐るように声を潜めている。

「お待ちしておりました…。ご用件はメールで相談した通りでございます。条件面は大閻魔様と直接交渉という形で…」

「あぁ。分かってる。」


分厚い銅鉄の扉を開いた。大閻魔がいつにも増して不機嫌そうな面を、積み上がった書類の隙間から覗かせていた。このペーパーレス時代に紙に判子という伝統スタイルが残るのは「重要な情報をデータで管理すると削除された時に責任の所在が分からなくなるから」らしい。だからと言ってクラウドに格納するのも憚られる重要な個人情報のかたまりでもあった。大閻魔もいろいろ大変だなぁ、と、その点は同情する。


しかし、それとこれとは話が別。早速本題に入ろうとテーブルに腰をかけた。すでに熱い茶が出ていた。こういうところはキッチリしているから冥界の連中は憎みきれない。


「東 室九郎よ、…最近随分と、アヤカシたちと仲が良さそうじゃないか。こっちは格納済みの魂が暴れたり逃げたりして大忙しだってのによぉ?」

「俺に当たんなよ。んでアヤカシは一人な。妖狐と、もう一人は動画配信者の女だから」

「ほぅ…死神が人間とつるんでいるなんて情報は入っていなかったが…まぁいい」

「ってか何だアンタ!業務報告は逐一するで同意だけど、プライベートまで詮索すんのやめろよ。コンプラかちこむぞ!」

「うるさい!冥界にコンプライアンス課など設けとらぁん!」

「それが問題だっての!」


まぁまぁと司命たちが割って入る。ひとまず茶を飲んだ。大閻魔の趣味の悪い冗談でアルコールが仕込まれていないか、バレないように嗅いで確認した。今日は俺の人生が変わる大切な話し合いになる予感がした。


「時に東 室九郎よ…このワシの忙しさを見て助けてあげたいとは思わんか?」

「大体話は聞いてるけどよ…自業自得じゃねぇか?あんな安かろう悪かろうな死神にばかりやらせて、結局自分の業務量が増えてるんじゃねーか」

「ぐぬぬ…」

俺は続けた。刺せ。大閻魔の抱える課題を突くなら今だ。

「そうそう、一度父島で見かけた奴がいたけどよ…なんであんなアシスタントレベルのやつに一人でやらせてんだよ。話しかけてきた一言目で大体分かる。あいつも魂と事故るタイプだよ。失礼だもん。普通に」

「悔しいがお前の言う通りだ…アイツもあの後すぐに魂のクレームをもらっている…これでは外部に発注する理由がないんだよ。…そこでだ!」

「そこで?」

「東 室九郎、お前の納品する魂は、どんなトリックを使っているかは知らんが格納後の行儀が非常〜に良い!」

「はぁ」

「脅威のクレーム率0%だと聞いている。アーカイブセンターからも司命からもお前の丁寧な仕事っぷりには大変感謝している。良い子にしている魂にはすぐに次のハコを当てがってやろうという気にもなるものだ。しかーし!」

「しかし?」

俺は続きを促した。このまま需要を引き出して全部喋らせる。大丈夫、上手く行っている。ただのイチ魂狩りから一歩出るには、ここが肝だ。

「圧倒的に数が足りん!お前、もっと働けよアホ!あのベスト・グリムリーパー賞を受賞した頃の都合よく狂った…あぁ、勤勉で意欲的だったお前はどこへ行ってしまったんだ!?」


トラブル続きで忙殺される中、つい本音を漏らした大閻魔の話を聞いて、ふんぎりがついた。アンタはずっとめちゃくちゃだった。それでも仕事面においてだけ言えば、アンタを恩人だと思っていた。それでも、限られた時間と体力をプレイヤーたちが差し出して、限られた金塊をぶん取り合うゲームに、俺は足を突っ込んだ。今思えばアンタの配下にいた頃の方がお気楽だったかもしれない。今は案件の単価、利益率、タイパ、税金の計算など、慣れない勘定をしながら自分の足で立って、このどうしようもない社会を生きようとしている。お金の話は、善悪の話でも、キレイ・汚いの話でもない。そして、心のそろばんを弾く行為からも決して目を逸らしてはいけないと、教えてくれた人がいた。


誰かから褒めてもらうこと。それは気持ちよくて身体中を駆け巡るまるで麻薬だ。ポイント稼ぎのどツボにハマると、それはやがて脳の正常な判断を奪う。俺は今、時間を共に過ごし、体力を共に費やしたい人が明確にいる。


「悪いが、俺はフリーランスの死神。もうアンタの生産性を上げるだけのコマじゃねぇよ」

「あ?」

「俺は働きたい時に、働きたいだけ、働きたいやつと働く。俺の人生の責任をとってくれるのは俺しかいないんだ」

「お前ここまで育ててもらったワシに楯突く気か!?」


大閻魔がここまで取り乱すのは初めてだ。深呼吸をする。これで最後にしよう。もしもダメなら、俺はあの寺で彼岸花の水やりの仕事でもするさ。そう言い聞かせながら、俺は大閻魔にもう一度だけチャンスを与えてみることにした。互いが互いを必要とし合っているうちは、繋がっていられるよなぁーー大閻魔よ。


「育ててくれたことに関しては感謝しているさ。だからーーこれからは、大閻魔が心から『ありがとう』と言ってくれる重要な案件を中心にチャレンジしたいんです」


大閻魔の瞳が少女漫画のそれみたいに輝いていた。司命も、アーカイブセンターの職員も深く胸を撫で下ろしている。


***


その交渉はやけにあっけなく終わった。大閻魔のことだからギャラの交渉には全く応じてくれない可能性も踏んでいただけに、肩透かしをくらったような気持ちになった。


「なぁ、大閻魔よ」

「あ?まだ何かあんのか」


俺はそういえば、と思い立ちデスクに戻ろうとする大閻魔に問うた。何だか、近い将来、それを使う機会がある気がしたからーー。


「バディ制度の資料に記されていた最後の特典「非科学的な力」ってやつ。ありゃ何なんだ?使える力の正体くらい把握しておきたいんだが」

「何って、バディを危険から守るための力だって手引きに書いてあるだろう」


中身を教える気はないようだった。こういう時は大体、知られるとマズい何かが大閻魔にある。

「じゃあ、質問を変えるよ、死神が非科学的な力を使うと大閻魔には何かメリットが発生するのか?そこが分からねぇうちは怖くて使えたもんじゃない。それに得体のしれない副作用があるかもしれないし。どうせそういうオチだろ?」

「フリーランスになったこの短期間でよくぞまぁそこまで可愛げがなくなったものだよ…。本当に必要に迫られた時は、力を使うデメリットやリスクのことなんて考えられないものだ。だから伝える必要なんてない。使いたきゃ使え。怖いなら使うな。以上」


重い扉を閉ざすと、司命が見送りに来てくれた。


「室九郎さん。出過ぎた真似かもしれませんが…今日の交渉を見る限り、これから大きな危険を伴う案件も次第に増えるかと思います。どうかくれぐれもご注意を…」

「分かってるよ。心配しすぎだって」

「死神は人生の一大決心に立ち会う仕事です。多くの人から恐れられるイメージゆえ会話のイニシアチブを握れることは多いですが、そもそも戦闘向きのスキルではありません。頭のネジがはずれた人間と対峙する時はくれぐれも細心の注意を払ってくださいね」


健全な打合せは「はい」と返事するだけではなく、出席した全員がハッピーになれる意見を口に出す場所なのだと、俺はこの日に知った。ずっと奴隷だったんだ。この日俺はやっと個人事業主になれた気がした。


「あぁ、ありがとう。またいつでも相談してください」

俺は黒い翼を開いて自宅へと戻った。季節外れの海に用があった。


***


「だ、誰ですか!? いや誰かは分かるのですが」


家に帰った俺は、思わず下手くそなファイティングポーズを取って叫んでいた。部屋に立ち目を伏せるスラリとした女性。艶やかなロングの黒髪から覗いた瞳は朱い。真っ白な生地に紅蓮色の差し色が入った幻想的な着物を身に纏っている。玄関からでも分かる異質なオーラを放っていた。俺はこの人を知っている。今の日本を代表する大女優がなぜか着物姿で俺たちの部屋の中にいる。


「あら、知ってもろてるの。有難いねぇ♪」

その女性は千風の動画編集デスクの前に立っていた。舞椰のCD-Rがそこに散らかっていて二人は小競り合いをしていた。例の大女優はなぜか舞椰のCD-Rを愛おしそうに指でなぞり、記されたメモ書きに優しい笑顔で呟いた。


「やっとええ歌、書けるようになったんねぇ」


聞かなくても分かるよ、という台詞が鉤括弧付きで後ろに添えられている気がした。その女性が顔を上げて視線をこちらにやった次の瞬間、俺はもう間を詰められていて、玄関扉についたその細く白い腕に包囲されていた。やっと彼女が人間ではないのだと悟った。アヤカシだ。S級クラス、もしくはそれ以上のーー。


「キミやねぇ、うちの弟が惚れ込んだっちゅー死神さんは」

大女優の顔が近づいてくる。この強引な間の詰め方をする奴を俺は他に知っていた。舞椰にお姉さんがいるのは聞いていた。心臓が跳ねて上手く息ができなかった。


「あの…ここ俺の家…なんですけど」


情けないけれど、俺が絞り出せる精一杯の言葉がそれだった。いざとなったら俺のことなど一瞬で捻り殺せる圧倒的な妖力の差がビリビリと身体中に伝わってくる。9月ももうすぐ下旬に差し掛かろうとしていた。国際平和デーが聞いて呆れる。暑くもないのに脂汗が吹き出して止まらなかった。


「舞椰の姉の万古音 静流(しずる)です。静流でええからね」

「東 室九郎です。…今日は何のご用で?」

「ちょっとね。それにしても見たことないものばかりでワクワクするねぇ」


この会話の噛み合わなさ。舞椰のお姉さんと見て間違いないだろう。静流さんは3人の男女が身を寄せ合い暮らす風変わりな1Kを遠い国の文化的スポットに訪れたかのように見渡していた。妖狐ってやつは皆、用事さえあれば人の家に勝手に入って良いと考えているのだろうか。


「あらー、お肉を小分けに冷凍!?えらいビンボ…ちゃんとしてはるんやねぇ。歯ブラシも3つ並んではしたな…可愛いねぇ。お洗濯物は…あら、もう少し男の人が喜ぶの付けてもええんちゃうやろか」

「あぁっ、そこは絶対に触るなって言われていますのでーー」


静流さんは手に触れたそれを謝りながらポイと手放す。普通に考えたら不法侵入罪だけど、得体の知れない周囲がもみ消してくれるような、人間の作った法律の手の届かない場所にいる、そんな存在な気がした。


「…舞椰ちゃんに会いに来たんやけど、お留守みたいやねぇ。大好きな歌に専念できてるんかと思ったらなんや仕事で忙しくしてるみたいやし…」


静流は突然その目を細め、俺の目の奥を覗き込むように口を開いた。


「なんでも最近は冥界の閻魔堂を出入りしてるって聞いたもんでねぇ。どうしてあの舞椰ちゃんがあんな物騒…おエライさんのいる重要な場所にご用なんかと思ってな?」


最近舞椰が歌を歌えていないのは俺のせいだった。最近安価の案件をハシゴして稼ぐ自転車操業にハマってしまっていたから。


「オカンにも顔だせ言うてるのに来んし、あの親不孝の弟がどないしてんのかなと思って観に来たんですわ。ほな今日はここらでお暇しよかな」


緊張状態の解けない俺の隣を通り過ぎ、静流は玄関へ向かった。舞椰のように虫でもなってダクトから飛んでいくのかと思ったが、俺の目の前でそれはしなかった。俺は静流の一言が気になって引き止めていた。


「あの、親不孝も…撤回してあげてください」

「…え?」

「舞椰くんの居場所は、そこにあるんですか?俺には…その…舞椰がこれまで大切にしてくれた人に不義理をするような奴には見えないんです」

玄関にかけかけた手を止めて、静流は微笑みながら振り返り俺を見た…その刹那、バケモノのように膨らんだ右腕が俺の顎を掴み、ぐいっと引きこんだ。俺は玄関のドアに打ち付けられそのまま首を絞められた。

「えらい肝の据わらはった子やなぁ…」

俺は気管を塞ぐ硬い手を開こうとするがビクともしない。

「なんやキミ…卑屈で小言が多い…何も出来ん癖にプライドだけ一丁前に高くて…アヤカシの鑑みたいな子やねぇ。そのまま冥界のエライ人になってくれたら…またいつかどこかで会えるかもしれへんねぇ♪そん時はよろしゅう…」


静流は玄関先に誰も居ないのを確認するとパッと季節外れの綿毛になって飛んで行った。ガチャリとドアが閉まる。俺はその場にペタリと座り込んだ。その圧倒的な力の差に震えが止まらなかった。舞椰はずっとあんなのと比較されながら生きてきたのかと考えていた。


そして、自宅に上がり込んだ見知らぬ者に制圧される恐怖と屈辱を初めて知った。俺は千風の顔を思い出していた。程なくして背中の扉が空き、俺はそのまま力なく倒れた。まだ汗だくで息は整わない。会社から帰ってきた千風が不思議そうに俺を見下ろした。かけるべき言葉を探したが見つからなかった。


ベッドに放られた自分の下着を見つけ、千風が俺に痛烈な張り手をお見舞いしたのはその数秒後のことだった。


***


太陽がやわらかく照り付け、三つの影を淡く砂浜に伸ばした。波が寄せては返し、その度に光の粒子を足元で弾き飛ばす。ウェットスーツ姿でサーフボードに漂う大人たち。波打ち際で貝を集める少女。石段にはシャツを脱いで寝そべるスキンヘッドの男。名残惜しげに響く蝉の声は、もうまばら。通り過ぎた夏を惜しみながらも受け容れようとする者たちがそこに集まっていた。


「なんで舞椰が付いてくるのよ!むくちゃんが休むに休めないでしょう」

「元はといえば、チカの配信や動画チェックが増えて忙しくなったんですけど」

「私のは収入で還元されてるからいいでしょ!舞椰こそ最近の週末はどこをほっつき歩いてー」

「まぁまぁ。二人ともそれぞれ助かってるよ」


冥界から共有される"終息予定者リスト"が大幅に更新されていた。【処理難易度】とそれに見合った【手当金】が新しく開示されていた。本当は残り時間と行き先の項目も増やしてほしかったのだが、それはまた今度大きな結果を出した後に求めればいい。ひとまず、俺にとっては大きな一歩だった。


舞椰と千風の争論の声は波の向こうへと届く。サーファーたちが心配げにこちらをチラリと見た。「いつものことですので」と俺は会釈のジェスチャーで伝える。彼らはすぐに視線を波に戻してボードを抱えたまま海へ走り出した。砂浜の風はすでに少し涼しかった。海の向こうに見える島影は、控えめな陽炎の中でゆったりと揺れていた。


***


ジンジャーエール、ビール、レモンサワー。駅前のコンビニで買った飲み物を袋から取り出す。このメンバーで酒の場を持ったのは初めてだ。舞椰は嘉都久さんのバーでたまに飲むらしいけど、俺の前では気を遣って飲まない。酒自体が悪いわけじゃないと分かっていても、年末の一件以来どうしても飲む気にはなれなかった。


俺は手元のビニール袋を開き視線を落とした。缶を選んで二人に手渡そうとした。ほんの1分目を離した隙に、二人はもう次の議題を見つけていた。


「その時々で歌いたいことを歌って何が悪いんだよ!」

「リスナーが混乱するでしょう。せっかく一曲聞いて良いなと思って他の曲も聴いたら『アレ?』ってなるんだから」

かつてその声は煩かった。波の音を背に言い合う二人の姿が、今はこの目には眩しく映る。

「じゃあ売れなくていい!」

「なら最初から相談してくんな!」


誰かの魂を24時間稼働のベルトコンベアーに載せるように冥界へ送り続けた日々があった。それを打ち止めたのもまた、年末の一件だった。今の俺が大鎌を握れたとしても、同じことをやる勇気はきっと無い。


「「ねぇ、むっく(むくちゃん)はどう思う!?」」

舞椰と千風が声を揃えてこちらを睨んだ。

「成功と幸せって無関係なんだなって思った」

「「話、聞いてた!?」」

舞椰と千風の音声配信の時のような夫婦漫才に、最近はより一層磨きがかかっていた。


3つの手。それらが近づいて缶とペットボトルがゴンとやや鈍い音を立てた。風が吹き抜けて、椰子が揺れた。閉ざされた密室から足掻き出た俺が辿り着いたのは、どこまでもありきたりで、全てを包み込むような海だった。

「むくちゃんと舞椰と居ると、この名を残す使命がどうでも良くなってしまいそう」

千風の足元を小波が洗い、白い泡はすぐに消えた。

「今歌いたい歌を歌えばいい、ってね♪」

舞椰の声に千風が顔をあげた。

「過去は原動力さ。足枷にしちゃ勿体無い」

そういう舞椰は、一口付けた缶ビールをこちらに差し出し、悪戯な眼差しで言った。


「むっくはもう大丈夫だよ。ボクさんが保証する」


その言葉と共に渡された缶は、信頼だけを頼りに交わす形無き契約書のようだった。少し緊張しながら缶に一口つける。生産性に欠ける、爽やかで懐かしい苦味が口の中で広がった。


「春から3人で会社を作るの。私には見えるわよ。どう?」

千風が唐突に、未来の話を持ちかけた。


「社長はむっく!ボクさんはベタ付きの秘書!千風は事務処理よろしく!」

舞椰がおもいつきで調子良く応える。

「算数のできない社長なんて変よ。CEOは私。むくちゃんは現場統括。舞椰はリサーチと雑用。夜中は猛犬に化けて警備ね」

千風は頭の中で練っていた構想を淡々と話した。久々の苦味にまだ面食らっていた俺を二人は覗き込んだ。何か言わなければと思って間を埋める。


「か、会社名は…どうしようか?」

俺の場凌ぎの問いが、さっきから逆光気味の二人に届く。

「むくまいカンパニー一択でしょ♪」

「私のエッセンスも入れろし!」

走って逃げる舞椰を千風が追いかけて飛び蹴りした。ちょっと溢れたレモンサワーの水滴を波が無かったことする。一度も夢が叶ったことのない人生だった。今から「やりたいこと」など見つけてしまっても大丈夫なのだろうか。考える暇など与えまいと、息を切らして帰った千風が言った。


「なんだ、むくちゃん、ちゃんと笑えるのね」


心なしか千風の頬が赤い。久しぶりのアルコールのせいか、夕日のせいかーー。

ビーチに砂だらけで転がる舞椰に小さなヤドカリがよじ登っていた。

俺たちはそこへ一緒に駆け寄って、一枚だけ写真を撮った。


***


月は丸い。空気はひんやりとして、湿気とともに土の匂いが漂う。街灯の光が目の前に一つまた一つと灯り、道を歩く度にその影が長さを変えながら揺れた。舞椰の背中で、千風がスースーと寝息を立てていた。1.5倍くらいに膨らませた広背筋は心地よさげな安定感を感じさせた。


「サイズが大きく変化するだけで、力まで強くなるわけじゃないんだけど…チカの奴、まさか1杯でダメになるとはね〜」


千風の肌にポツリポツリと疾患が見えた。本当に日光に弱いんだなと思った。そういえば途中からいつもの日傘を指していなかった。千風の細い髪を風がなびかせ、月の光がそれに煌めきを与えていた。


「寝てるのに、うなされてない千風って、初めてかも」

「歯軋りがすごいもんな。絶対にブランケットで顔は隠してるけど」


夢ができた。俺は舞椰にまっすぐ問いかける。今日ふと出た会社設立の話だった。


「会社にしたら、舞椰が歌える時間が減っちゃうかも」

「大丈夫、どうにかなるよ〜♪」

「そんなに簡単なことじゃないと思うんだが」

「むっくがむっくのままなら何とかなるさ♪」

「どういう意味だよそれ」

白い鉄柵の中にいた頃、俺は正反対のことを考えていたはずだ。

「これからも3人で一緒にいたい」

「そっか♪」

化け狐は柄にもなく真剣な表情になる。

「むっくの願い、しかと聞き入れたよ」


舞椰は朱い瞳で空の切れ目を見上げた。偶然だろうか。視線の先は、ちょうど月が邪魔で見えないけれど冥界の入り口がある方角だった。静流の言葉を思い出す。最近どうして舞椰は冥界を出入りしているのだろう。その時だった。


「私には…見えるわよ」

舞椰の背中から、小さな呟きが聞こえた。

「我らのCEOが、まだ言ってらぁ」


千風のカミングアウトにも聞こえる寝言は潮風に乗り、夜空に溶けていった。月の模様まではっきりと見えてしまいそうな、まるで何も隠せない夜だった。


***


淀む重い空気。錆びた金属と湿ったコンクリートの匂い。拘束された両手首はの冷たい鉄柱へ括り付けられた。


「動くなよ?お前どこの差し金だ…?」


その声は低く廃倉庫内に響き渡り、血痕の付着したサバイバルナイフが喉元をなぞった。頭部の出血がひどく、意識が朦朧とする。ボヤける視界が捉えたのは目が血走り、荒く不規則に呼吸する男だった。周辺にいる舞椰にテレパシーを送った。頭部を損傷したせいか、言葉が途切れて上手く伝わらない。その代わりに彼岸花を撫でる惚れた女の顔ばかりが浮かぶ。


俺は、ここで死ぬのか。

——舞椰…聞こえるか。千風には言うな。完全にハメられた…。

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