第6話 太田原千風
「はい、それは認識しております」
今、目の前に座る女は、命が惜しくないのだろうか。初めて死神の業務を部外者に見られてしまった。舞椰がワケの分からない特殊スキルに『契り』の特典を使ったせいですっかり動揺していた。
身長は150センチ前半。小柄だが顔のパーツはハッキリとしていて、どこか大人びている。一眼レフカメラを首からストラップでぶら下げているのは、いつでもネタを撮り逃さないようにだろうか。
「あの、太田原さん。」
「千風(ちかぜ)で構いません。というか、千風で。苗字呼びにあまりいい思い出ないんで」
「はぁ」
言われるがままに自宅に案内してしまった。最近、どうも俺は距離感のおかしな連中を寄せ付けてしまう。その一人目がキッチンで夕飯の準備をしながらキャンキャンとテレパシーで鳴いていた。
(そいつヤバい匂いビンビン!ボクさんの妖狐の勘が言ってる!)
本人の説明によれば、太田原千風は丸の内にある大手生命保険会社の事務職員。朝9時から午後5時の定時勤務。妖狐の勘に頼らずとも、この女がまともなタマではないのは十分伝わっていた。俺はその首にぶら下がったままのカメラと鞄のスマホに録画スイッチが入っていないことを確認してから本題へ入った。
「内緒にして欲しければ一緒に暮らせと言ったが、あれはどういう意味ですか?」
「ん?言葉の意味そのまんまだけど」
「俺が死神だと本当に信じるのか?」
「うん。だってこの目で見たし」
そう言うと、千風は慣れた段取りでリュックからクリアファイルを取り出した。ご丁寧に印鑑まで一緒に。
「NDAを結びましょう」
「NDAってなぁに?」
舞椰の声がキッチンから届いた。
「え?秘密保持契約のこと…」
「ほえー」
「こういう突発的な時のための汎用的な雛形だから、結構手書きで加筆しないとダメだけど…あら、こういうのは死神の世界には無いのかしら」
NDA。最近買ったビジネス本で見た言葉だった。請求書の出し方を覚えたばかりの俺が知る由もない。たじろぐ俺を見て千風は補足した。
「これはね、お互いの情報の不正利用や漏洩を防ぐために締結する契約書。契約違反があった場合には損害賠償で補うの。どうかしら」
化け狐がいつにも増して脳内にズケズケ踏み込んでくる。よほど警戒しているのが見てとれた。
(こっちは大閻魔に消滅させられるリスクがあるんだから、いくら積まれたってこんな契約結んじゃダメだよ!)
(…今言ったそのリスク、絶対この女にバレるなよ。俺たちの立場がどんどん弱くなる)
(あっ、そっか。あぶなかったー)
キッチンから飛んでくるスパイスの香りがやっと安定した。そう、正直どんな補償も俺には無意味だった。だったら仲間に取り込んで行動を管理するしかなかった。もう映像データはデバイスに限らずクラウドで自動転送されている可能性もあるのだから。
「1つ、書き加えたい条件がある」
俺は胡座を正座に変えた。特に意味はない。
「千風は、俺か舞椰どちらかと一緒に居る時しか通信デバイスを触らない。当然、連絡先も共有しない。このルールを付け加えてほしい」
「あら、用心深いのね。いいわーー主に出勤中、お風呂、手洗い…一人でお留守番中の時も。外と連絡が取れないように通信デバイスには触れないわ」
背に腹は変えられない。必要に迫られたらいつでも軟禁できる距離にこの女を置くしかなかった。キッチンからガチャンと食器が落ちる音がした。
「むっく、本当にこの女と一緒に暮らすの!?一人暮らし用の1Kマンションにズケズケ上がり込もうなんて常識なさすぎない!?何を企んでるの、この女狐(めぎつね)!」
「お前が言うなよ」
「狐はあんただけでしょう」
キッチンに立ちハンカチを食いしばる舞椰を横目に、契約書に必要事項を記入し複製した。印鑑と割り印を捺して互いが一部ずつ所持した。舞椰の言う通り「何を企んでいるのか」がまだ分からない。ただ非現実の存在を見つけた好奇心でここまでやるとは到底思えなかった。
「はい、もやし鍋。スープはピリ辛味噌ベースです!」
舞椰の作るめしから、ついに麺が消えた。千風は不思議そうに暫くその鍋を見つめていた。
***
「死にそうな人が、どうやって分かるの?」
「頭上に終息時計と呼ばれるカウントダウンが見える」
「その者のもとへは、どのように駆けつける?」
「ソウル・リープ」
「何に対して報酬が発生する?」
「魂を冥界にアテンドして納品」
「なぜ死者ではなく生前の人間の魂を扱う?」
「本来死神は死者を訪問するものだが、死者リストは冥界の機密情報なのでフリーランスの俺は見られない」
「確定した死期が変動する可能性は?」
「未来を掴む強い意志により延びることは稀にある。死神が意図して変動させることは御法度」
「死因は分かる?」
「開示されない」
うーん、と千風はここで一つ間を置いた。何かを確かめるように。
「…死神モードは誰なら見える?」
「終息時計が作動中でない人間は見えない」
「逆に、終息時間が作動中の人間とアヤカシのみから見えると?」
「そうだ」
千風が頭の中で立てた仮説に向かって、また質問にギアが入る。
「終息時計は何時間前から見える?」
「数分前から見える人も、数日前から見える人もいる」
「本当にそれだけ?」
「数ヶ月前から見えるケースもあるかもしれないが、様々な出来事が間に挟まる為、そんなに手前から見えるのはレアケース」
「他に知らせておくべき情報は?」
「アホの狐のせいで死神の大鎌が封印され、死神本来の魂狩りができない状態に陥った。そのクソダサい一部始終が千風のカメラに収められているという状況」
千風の質問は鋭く、死神の世界に矛盾や綻びがないと確かめるかのようだった。話すつもりのなかった事まで話すって、こういう気持ちか。許されない恋に溺れたマルヤマ・リカや、サラリーマン時代に一線を超えたキタモリ・タツヤの顔を思い出していた。
「質問の仕方が記者って感じだねぇ」
結局もやし鍋に一口もつけなかった千風に、舞椰は口を尖らせている。北海道の旭川市出身。国立大学へ進学し、メディアに関わる研究をしてきたそうだ。
「今の保険会社は二社目で、前職は大都市新聞の社会部記者だったわ」
「大都市新聞!?」
正義を追い求め、世の中で起こる不条理をとことん追求する。その一貫した報道姿勢が購読者から支持を得る大手の新聞社だった。ネットニュースとの相性が良く、経営が低迷する紙媒体の中では抜きん出て業績が良いと聞く。
「そんな有名新聞社の記者職、どうしてやめちゃったのー?」
「過度な詮索とみなし、非対応とします」
「なんだよケチー!不信感〜!」
舞椰の言葉に反応し、千風はノートパソコンを鞄から取り出した。動画配信プラットフォームを開いて、『千の風ニュース』と題されたチャンネルを見せる。
「私が運用しているチャンネルよ」
「せんのかぜ…ニュースぅ?」
間抜けな声でその名を読み上げる舞椰をどけて、俺は画面を覗き込んだ。そこには、真相不明の凶悪事件。暴力団の会話盗聴ルポ。高速道路を逆走する車が事故する動画。指名手配中の逃亡犯の目撃情報の募集まで。プラットフォームの規制ギリギリの動画が世のあらゆる不条理に牙を剥いていた。
動画には『千はこう見る』という演出テロップが随所に入っていた。加害者をとことん追い込むように。あるいは民意を焚き付け団結を促すように。それは煽るような言葉で統一されていた。
「登録者数28.4万人!?ちょっとした有名人じゃん!」
パソコンをほぼ真上から覗き込む舞椰が大声を上げた。千風が俺たちに近づいた理由は、このチャンネルのためなのだろうか。
「そう。きっと今、室九郎さんが考えている通りです」
俺たちの中に渦巻く疑問を先回りして、千風が話しだす。
「人の生き死にって、再生回数が簡単に取れるから。私は出来る限りあなたと行動を共にしてずっとカメラを回したい。ネットに落ちたニュース動画の転載よりも、自分が現場で撮った映像の方が臨場感があるじゃない」
「再生回数…臨場感…」
話に追いつくのがやっとだった。人間の魂の行方を動画の再生回数に結びつけるなんて考えたことも無かったから。
「私は顔も本名を明かさずにこのチャンネルの「中の人」をやってるわ。正直いろいろなヤバい連中の恨みも買っている。秘密をバラされたらマズいのはこちらも同じってわけ。少しは信用してもらえるかしら」
あの秘密保持契約は、千風が命を差し出すつもりで書いたものだった。
「こんなチャンネルでも社会をより良くしたくて取り組んでいる自負はあるのよ。同行させてもらって撮れた動画の収益の50%はこの家の生活費にしてくれて構わない」
魂に寄り添う業務。不条理を許さない心。それらがガッチリ固く手を結んでエコシステムを形成する。目を弾くサムネイルがびっしりと投稿ページに並んでいた。人間界のどうしようもない現実が下世話に彩られ、怨念や執着にも似た何かを放っている。
心不全による急死だったにもかかわらず、身辺整理が完璧に済まされていた者。絶対に書いたはずの財産分与の遺書が見当たらない者。パソコンの中のデータがまるっと消えていた者。長らく行方不明だったはずの遺体が突然あっけなく見つかった者。
「あー、これはXでトレンド入りしたやつ。これはヤフートップだったかな」
死をめぐる不可解な事象を「千の風」は意味ありげに投げかける。そこに熱狂的なファンが乗っかり激論を繰り広げる。アンチと呼ばれる者もいた。それと歪み合い弁論に明け暮れる者も。千風のニュース動画は、死をめぐる不思議な物語として視聴者により脚色され、都市伝説としてSNSに蔓延る住人たちへ布教される。
「じゃ…暮らし、始めますか」
「え?」
千風は席を立つと当然のように全員分の食器をキッチンシンクへ運びだした。
「舞椰は座ってて。むくちゃんは一度ゆっくり寝ること」
「いきなり呼び捨てかよ…って、は?…むくちゃん!?」
未使用のスポンジの在処を聞きながら髪をまとめる千風のうなじに、小さなダイスのタトゥーを見つけた。食器を洗う手際が良く、舞椰が関心している。
俺はデスク下のキャスターからスペアキーを取り出し、千風に手渡した。その手がかすかに触れたのを舞椰が歯軋りしながら見ていた。
***
「住所X-X-X。北区と足立区の境にある土手。現地に着いたら、舞椰の指示に従ってください」
通信デバイスを持たない千風が仕事から帰るのは夕方5時過ぎだった。俺は付箋にメモを記し、玄関ドアの内側に貼ったらソウル・リープで現場へ向かう。隠れられそうな物陰に舞椰を召喚して仕事を始めた。千風が到着するのは夕方6時頃になる。
頭上に終息時計を漂わせていたのは、背骨の曲がった肌着姿のお爺さんだった。4月になりたての季節では異様に薄着だと言わざるを得ない。カートを押して散歩する姿が荒川を反射する夕日に照らされていた。お爺さんは土手の傾斜に座るとパンくずを撒き始める。たちまちに十羽、二十羽と鳩が飛んできてお爺さんを囲んだ。羨望の眼差しを送る子どもたちと、表情を曇らせる母親たち。お爺さんは周りの視線を気にもせずパンをちぎり続けた。俺は老爺にだけ見える死神の姿で歩み寄る。鳩たち肉眼では見えない俺を感じて一斉に飛び舞った。
「あーあ、鳩が行っちゃったよ」
「フジイ・ケイジロウさんですね。残念ですが、死神です」
黒ブチ眼鏡の奥で瞳孔が開いた。顎のラインが全て隠れるほど伸びた白い髭。掛け違えた淡い檸檬色のシャツのボタン。
「何でボクのことを知ってるの?過去の年金の不正受給がバレちゃった?」
「俺はあなたの過去の行いに何かを言及しにきたわけではありませんよ」
「お役人さんじゃないのね。安心したよ」
フジイ・ケイジロウはそう言うと隣のスペースをパンパンと叩いてみせた。土手は日中のにわか雨でしっかりと濡れていた。既にフジイ・ケイジロウの尻には泥が染み込んでいるはずだ。数秒検討した後、そのまま立ち話を続けさせてもらった。
「死神さんだっけ。こんな爺の魂、きっと美味しくないよ?」
「食べるわけではありませんよ。それに、肉体と分離させてからでないと冥界へは連れていけません。今日はほんのご挨拶です」
「そう。キョウスケくんからの差金かと思ってワクワクしたのに」
「キョウスケくん?」
「うん。キョウスケくん。ボクは天涯孤独でね。大阪の宗右衛門町にある小さなスナックでよく飲んでいたんだよ」
「へぇ」
「親友だと思っている。数年前にキョウスケくんが天国へ先立って以来、大阪のアパートにも居られなくなってね」
「ほぉ」
「実家がある北区へ逆戻り。家に居てもやることないし、ここで鳩に話しかけるのがお仕事さ」
「はぁ」
「スナックのママも親友でね。娘さんも美人で…」
フジイ・ケイジロウは悪人ではない。ただ、会話が一方的で果てしなく長い。相手に何が伝わっていて、伝わっていなくて、何に興味を示して、示していないのかが分からない。長い人生をかけて養われたはずの感覚に乏しかった。フジイ・ケイジロウの取り止めのない話をしばらく聞きながら、俺はなぜだか、厳しかった父と母の存在を思い出していた。その時だった。
「えっ!むくちゃんって昔、そんなすごい死神だったの?どうして今あんな地味な働き方してんの」
「バカ、声が大きい!」
「あ、やばっーー」
荒川に掛かる大橋の麓から日傘を差す男女のくだらない小競り合いが聞こえた。フジイ・ケイジロウの脳内から俺の記憶を消す前に、死期が5日後に迫っていることを伝えた。老爺はちぎったパンの半分をこちらに差し出しながら笑顔で言った。
「5日後もキミを指名しようかな」
「宗右衛門町のママじゃないんですから。では、良き余生を」
***
帰り道、千風らと3人でスーパーに寄った。エキストラバージンのオリーブオイル、聞き馴染みのない名の香辛料、味噌を濾しやすい形のオタマ、色違いのランチョンマット3枚。男の二人暮らしには無縁だったモノたちが次々にカートへ放り込まれていく。
「私が好きで買うだけだから、お金のことは気にしないでね」
千風はそう言いながら舞椰をカート係にしてあちこちへ無遠慮に連れ回す。今夜以降、キッチンが千風のテリトリーになることは明白だった。
ブロッコリーのアヒージョ、お手製のマヨネーズを添えた男爵芋コロッケ、鶏の炊き込みご飯。これまで毎日即席麺を作ってくれた舞椰の手前もあり、リアクションの加減が難しかった。三人で手を合わせていただきますと言った。ほろほろのブロッコリーは先端が高熱でザクザクに揚がり、未経験の食感が口の中で踊った。お手製のマヨネーズはオリーブオイルのエグみが少し強い。炊き込みご飯は少し甘めのベースで柔らかい味付けに仕上がっている。舞椰も俺もおかわりをした。
「次にバズ動画の収益が出たら、圧力鍋を置きましょうね」
「あ、はい」
「あと、洗濯物には絶対に触らないこと。寝顔を見ることも許容しません」
「分かりました」
千風は手早く食器をシンクへ運び一先ず水に浸けたら、舞椰のデスクにパソコン機器を並べて電源に差し込んだ。コンデンサーマイクや外付け液晶モニターらの周辺機器も見る見る繋がれて陣取る。千風専用の編集プロダクションが完成した。
「そこ、ボクさんのデスクなのに!」
「あんた別にデスク必要ないでしょ。しっしっ」
「むっく、やっぱりこの女、追放しよう!?」
舞椰と千風の小競るような掛け合いが部屋を包みこむ。千風はベスト・グリムリーパー賞の盾が埃まみれなのに気付いてそれを取り払った。栄光ではなく、戒めのトロフィーがその輝きを取り戻そうとしていた。
***
「二日前に仕入れた素材、今日中にアップしちゃいたいの」
千風のパソコンが立ち上がると、複雑なブロック積みゲームのような動画編集画面が立ち上がった。外国のコンビニ強盗犯が発泡しながらレジの有り金を盗んで逃亡していった。バラエティの衝撃映像特集ではアルバイトが反撃して犯人を取り押さえたり、犯人が跨がったバイクが発火してのたうち回ったり、安心して見られる「オチ」が準備されている。しかし、世の中を出回る事件現場の生素材はどうしようもなくリアルだった。銃声が4発響き渡り、震える店員は精一杯の力で両手をあげて立ち尽くす。レジの現金はスムーズに鞄へ移され、自動ドアは問題なく開き、バイクに乗った犯人はどんどん見えなくなった。手をあげていたアルバイトは過呼吸となり、必死に息を整えながらも、やっとこのタイミングで通報ボタンを押していた。
「こういう不条理を生み出す輩を、とことん追い込む為にこのチャンネルは存在する。私にはもっと発信力が要る。世界中が注目するようなジャーナリズムプラットフォームにしてみせる」
俺は千風が宿す炎の根源がどこにあるのか注意深く見ていた。
「うげ〜、細かい作業だねぇ!大変でしょう?」
「動画って、すごくコスパ悪いのよ。徹夜とか当たり前だし。16:9のモニターに映るものしか伝えられない究極に物理的な作業だし。『待ち伏せなんて性根が悪い』とか『なぜそこにいたあなたは手を差し伸べなかったんですか』とかコメント欄に書き込まれるし。それでもね、脳裏に焼きつくような、一生忘れられないような視覚に訴える発信方法が私はいいのよ。じゃないと世界が変わらないーー」
舞椰はずっと編集画面を見つめていた。きめ細かな作業の跡を噛み締めるように瞳で追っている。
「分かる気がする…」
「ん?」
千風が背を向けたまま答えた。
「視界の中に居てくれなきゃ、その存在は世界から居ないのと同じなんだよね」
舞椰がいつにない静かなトーンで呟き、千風はチェアーをくるりを回した。
「私たち案外、気が合うかもね」
「いつかボクさんのミュージックビデオも作ってね」
「いいけど。私、高いわよ」
千風に飛びかかる舞椰を腕ひしぎ十時固めで抑えた。千風が口を手で抑えながらフフと笑う。俺たちはそのまま眠った。
***
生温かい春一番が窓から吹きつけたのは、数日経ってからのことだった。テレビをつけると、現役女子大生のニュースキャスターが原稿通りに桜前線の訪れを告げていた。
行き先のメモを書き、玄関ドアの内側に貼る日々。千風は仕事から家に帰ってメモを確認し続けた。現場へすぐに駆けつけては、物陰から舞椰の隣でカメラを回した。遠方のケースを除いて、全てやってきた。不法侵入などの違法行為はしない。損壊した肉体をアップで撮らない。死者本人の尊厳や遺族の気持ちに十分配慮した撮影を行うこと。千風は人間界の理を保つ為のルールをしっかり守っていた。
登録者が増える度、コメントが寄せられる度、SNSでトレンドが生まれる度、千風はすぐにスマホを取り出して几帳面にメモを取っていた。
《千様は、この事件をどう見ますか?》
千風は即レスを打ち込んだ。
「動画の内容と無関係のコメントをよこす奴は、放っておけばいいのに」
舞椰はよく千風の隣にいる。チャンネルの同行に興味津々だった。
「リテラシーのないファンも、デリカシーのないファンも、ファンはファン。全員を味方につけることでブランディングはより強固なものになる。「千の風」が更なる高みへいくには、まだまだこういうしょぼいユーザーやアンチのコメントも拾って行かないとね」
「しょぼいユーザーて!チカ、お口チャック〜!」
《千様の新作アップきたこれ!》
《まさか4ぬ瞬間が撮れちゃっているのでは…》
《↓この人の最期について、私がどうこう言うことではありませんが…》
千風の発信は視聴した者の手によって見る見るネットの海原で波紋を呼び広がっていった。
夜中、ふと目が醒めると千風が囁き声で音声配信を行っていた。これも登録者たちと交流を図る大切な作業だという。音を出さないようにゆっくりベッドから起き上がる。寝相でくっついてきた舞椰のせいで左腕の血流が止まって壊死しそうだ。
「あっ、みんな待ってね。ちょっとお手洗いへ!」
千風がコンデンサーマイクをミュートにして振り返った。
「ごめん。起こしちゃった?」
イヤホンを外しながら振り返る千風は、パソコンのブルーライトに照らされて後光がさしているみたいだった。いつも俺たちよりも遅い時間に眠り、俺たちよりも早い時間に起きて丸の内の会社へ向かう。そのバイタリティーはどこから湧いてくるのだと心底関心しながら、仮眠から目覚めた俺は言う。
「ううん。『通知』があって」
「通知?ーーあっ、日付変わって今日だったね」
人が生涯を終えるのに朝も昼も夜もない。俺は黒のパーカーをガバッとかぶって髪を手櫛で直しながらリープの準備に入った。その姿を見て千風が薄ら笑いを浮かべているのが見えた。
「なんだよ、寝癖でも残ってるか?」
「ううん。死神にも指名制度があるんだなぁって。おかしくて」
情なんてこの仕事ではノイズでしかない。一度手が触れた人間の死期通知をONにしているのは死後の魂を効率よく回る為。ただそれだけ。フジイ・ケイジロウの為に夜中に起きる理由なんてそれ以上にないんだ。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
ソウル・リープでたどり着いたのは、数分前までフジイ・ケイジロウだった肉体の枕元だった。部屋はしっかりと密閉されているはずなのに、どこからともなく春風が吹き入ってくる。つい先月までの凍てつく風の冷たさを思い出し、俺は手を合わせていた。
「よぉ爺さん。今日はやけに口数が少ないな」
「やぁ。早く会いたかったよ。キョウスケくん…待ってくれているかな」
「あぁ。待っているさ、きっと」
フジイ・ケイジロウの魂は自ら肉体から離れ、一切の抵抗なく冥界へ身を委ねた。その時俺は、千風がライブ配信で囁いていた言葉を思い出していた。
「ねぇみんなーー今この世を生きる人間ってさ、生きてるっていうより、ただ偶然、まだ死んでいないだけーーそんな人がとっても多いと思わない?」
俺が目を開いたのは、その後のことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます