第5話 望まざる出会い

【視点:万古音 舞椰】


「Abyss MOON」の鍵は施錠付きの郵便受けに入っていた。今日は風邪をひいた嘉都久さんの代わりにお店を開き、とあるバンドのホワイトデーイベントにボクが立ち会う。嘉都久さんは気前よく時給1800円を提示してくれた。


数日前、むっくがフリーランスになって初めての収入が入ったけれど、正直男二人で暮らす為の収入には到底届かなかった。ボクがバディになってからの給料は再来週入る。それまでどうにか生活費を工面しないとね。


午後1時を回る頃、主催のバンドメンバー5人組がまばらに入店して支度を始めた。「景気付けで飲むか!」そう言ってギターボーカルのリーダーがカウンターに肘をつくが、ステージで楽器をいじる男たちは「パス」と一蹴した。紅一点となるキーボードの女が電子タバコを咥えながらスマホの充電器を求めてカウンター内へ入ってきた。


「あー大丈夫大丈夫。嘉都久さんとはよく飲む仲だからさ」

女は棚を漁りながら言った。

「お兄さんカッコいいね。この後打ち上げどう?」

「お誘いありがとうございます。生憎ボクさん、夜は用事があって…」

「ボク"さん"?変な呼び方するのね」

「自分をアゲる為に、さん付けにしてて〜」

「お兄さん面白いね。充電が済んだら連絡先、交換しようよ」


キーボードの女は洋楽のジャケ写のデザインが施されたゆるゆるのTシャツに、大げさなダメージのショートパンツ。そこから伸びる足は心配になるほど細い。ウルフカット。数えきれないピアス。自分を特別だと信じてやまない雰囲気をどこかしこから醸し出す。


「イケメンのお兄さん、ウチのバンドメンバー食わないでちょーだいね」

総スカンのリーダーがタバコを灰皿にグリグリ当てて消していた。

「たまにここで歌ってる、舞椰って人だよね?」

ボクは灰皿を取り替えながら笑顔を作った。

「ぬるいポップスなんて歌っていないでさ、顔良いんだからビジュアル系のメイクとかやったらいいのに、勿体ない」

「そんなそんな、ボクさん、ポップスが好きなんでーー」

「好きなことで稼げるほど甘くないのよ。世界観、世界観!」

「ははぁ。よく分からなくて」

男は、ボクの応対が気に食わない様子で、火をつけたばかりのタバコを消した。

「顔だけで客呼んでるカラオケ野郎がーー」

「あっ、お客さんが並び始めていますね〜♪」


妖狐の血が半分流れるボクは表情を作るのが人よりもちょっと長けていた。当然、他の人と同じようにストレスはかかるのだけど。


強調された涙袋。仕上がった地雷メイク。フリルだらけのゴシックな洋服。ボクのファンとはまた違う客層がオープンと同時に雪崩れこむ。入場料+1ドリンクの料金を受け取り、チケットを手渡した。テーブルと椅子は全て折りたたんでのオールスタンディング。70名のお客が身を寄せ合うと、キツい芳香剤をかき混ぜたような空間が出来上がった。


バンドメンバーたちはライブが始まる前から物販スペースを作り、握手、トーク、チェキ撮影を積極的に行っていた。CDを10枚買った人は指名のメンバーとハグしてチェキを取れるシステムだった。


刺激をさらに強い刺激で覆い被せるような音楽が店内に響き渡った。曲と曲の間のMCは新興宗教の演説みたいだった。同じ色のタオルを首に巻いたファンたちが取っ組み合いの喧嘩を始めた。おいおい喧嘩なんてするなよ、とステージから注意喚起するボーカルが満足気な表情を浮かべる。ライブ後に開いた二度目の物販で、最後の最後にお姫様抱っこでチェキを撮るファンがいた。いくら積んだのか想像もできない。似たような顔のファンたちが「ふざけんな」と捨て台詞を吐いて店を出て行った。


***


店を出て鍵をしめると、キーボードの女がガードレールに腰を掛けていた。

「あら。キーボードの人。打ち上げはいいんですか?」

「名前で呼んでよ。打ち上げは男4人で行かせたわ」

ボクはふんふんと頷きながら嘉都久さんに勤務終了報告を入れる。

「二次会はお気に入りのファンだけ呼び出して会員制のバーでよろしくやるのよ。競争心を煽れば物販に繋がるから好きにやれって感じだけど。私、トラブルはごめんだからさ」


ボクはスニーカーの爪先がめくれていることに気がついた。今日のバイト代で靴は買えるけど、それよりもむっくに野菜を食べてほしい気持ちが遥かに勝った。


「って、ねぇ!聞いてる?」

「あのさぁ、今日やってたあの音楽って楽しいの?」

「楽しいっていうかーーえ?もしかして喧嘩売ってる?」

「ううん、素晴らしかったよ!んじゃボクさんは用事あるからこれでーー」

小走りで川崎駅を目指す。キーボードが追いかけてきた。小道に入ってすぐ、今日見た地雷メイクのファンたちを全部足して割ったような姿になった。踵を返して大通りへ戻る途中、QR読み取りカメラを開きながら走るキーボードとすれ違った。そのまま走って見えなくなった。


***


新宿の商業施設には男女共同トイレが多い。鏡の前で変化を解いた。オリジナルの舞椰の目元に薄くラメを足し、髪先はウェーブを入れて遊ぶ。体の筋肉量は1.2倍くらいに増やし、身長は2センチほど伸ばした。反吐が出そうだ。2時間も持たないかも。それでもむっくとの生活費の為ーーそう言い聞かせ、指定された時間に間に合うように新宿二丁目へ向かう。


待ち合わせた高級火鍋店は赤を貴重に、所々金色の柱をあしらっていた。待ち人は既に個室で待っていると店員が告げた。黒い扉を横にスライドさせると、待ち人が手を振った。タケノリと名乗るベンチャー企業の経営者だった。タケノリだったか正直自信がない。タケなんとか。覚えたい人の名前しか覚えられないのはボクの欠点だと思うのに直らない。


「マイちゃん、こっちこっち」

「タケくん!会いたかったよ〜!」


手でポンポンと隣の席を叩き、横並びで座るよう促された。

「向かいじゃなくて、隣…?」

「いいのいいの、マイちゃんは特別席だから!ん、首元にタトゥー入れたの?何かの呪文みたいでセクシーだねぇ」

タケなんとかはボクの足の先から頭の先まで舐め回すように見上げた。隣に座ると、ピッタリ身を寄せてきた。情熱的に歌い上げる硬派なフォークシンガーの影響を受けていそうな、ダンディなスタイルで決めていた。珍しくボクにできた男性ファンだったと聞いたけど、音楽の話は殆どしてくれない。


「1杯目、何にする?」

生暖かい吐息が耳にかかった。

「んー、シャンディガフにしようかな!」

ボクは火鍋のタレを作るフリをして少しでも前に顔を乗り出す。

「え〜?最初からテキーラでもいいのよ? "乾杯"ってね」

「盛り上がったらテキーラいっちゃうかも!」


タケなんとかは何かを覆い隠すように強い匂いを身に纏っていた。日中の芳香剤集団の方がマシだった。タイミングよく到着した火鍋にボクは跳ねて喜んで見せ、覗き込む。その香りに嗅覚を全集中させた。タケなんとかはボクの腕を引っ張ってすぐに席に戻した。その折、右尻のポケットにガサリとつまらない紙切れを何枚か突っ込む音が聞こえた。ボクは今、そのつまらない紙切れの為にここにいるーー。


「なかなか来られないでしょ、こういう所。今日は楽しもうね」


辛いものは好きなのに、背中にまとわりつく毛深い腕が気になり火鍋の味がしない。どうしてお金に困っているのか。今気になる人はいるのか。今日はこの後用事があるのか。明日の朝は早いのか。テキーラを煽る度に露骨になる質問をはぐらかした。


「マイちゃんって根っから明るいよね。一緒にいると元気もらえるし。あ、違うところも元気になっちゃったかも」

「タケくん、お口チャックだよ〜!まだ夜9時だよ!」

「9時なんてもうまよなかみらいなも」


タケなんとかの呂律が怪しくなった頃、店員が会計を取りにきた。手洗いに立つふりをして駆け込んで泣きついた女性店員だった。


新宿二丁目の桜の木にまだ蕾はついていない。今年はむっくと桜を見られたらと思いながらそっと手で触れた。その手を奪い、酔っ払いはボクを歌舞伎町方面へ連れていこうとする。

「ごめんねタケくん。ボクさん、明日早くて」

「マイちゃん恋人いないの〜?俺今、奇跡的に空いてるからね〜〜?」


既に十分くれたことを覚えていないのか、タケなんとかは諭吉をもう5枚ビラビラさせて見せた。ボクはそれを長財布に押し戻し、千鳥足の成り金に正面からハグをした。ゴツい腕時計をつけた両腕が絡みついてくる直前でするりと抜け去る。やっぱりボクは、この先へは進めない。胸を張ってステージに立ちたい。歌うことが好きなんだ。タクシーに押し込んだタケなんとかが何かを伝えようと自動の窓を下ろした。


運転手が「それでは安全運転で参りますね」とアクセルを踏んだ。「俺、サダヨシって言うんだ。そろそろ覚えてね」。ボクは連絡先を消して、新宿駅へ踵を返した。


駅前の巨大モニターに、どデカい音量で大手化粧品メーカーの新商品のCMが流れていた。画面には大河ドラマの主演を飾る国民的女優が映り、滑らかな白い肌を見せつける。まるで商品を使いさえすれば自分もそうなれるかのように。


「恋人なんて出来るわけないじゃないか。だってーー」


紛れもなく、ボクと血のつながる姉がそこにいた。妖狐界でもトップ1割しか存在しないSランクの妖狐。なりたい生き物にしかなれないボクとは違う。この世に存在し得る何物にでもなれるのだ。まだ姉が学生だった頃、渡航費を浮かせたいからと花粉になってイタリアまで飛んだと聞いた時に、超えられない格の違いを実感した。


才色兼備の姉は在京テレビ局のアナウンサー試験に合格。期待の新人として人気を博するも二ヶ月で退社。誰かのマリオネットではなく自らの意志で社会へ発信がしたい。そう言って日経のブライダル企業で広報を務め、外資系金融コンサルへ転職。世界的金融恐慌を食い止める一助となった後、女優の道へ進んだ。めちゃくちゃだ。


ボクに父親は居ない。というか、そばに居てくれないなら世界そのものから居ないのと実質一緒だと思っている。母は昼夜働いて養ってくれた。水商売で出会った客との恋愛沙汰のトラブルが多く、何度も引越しを繰り返した。いつの間にか人の顔色に合わせることばかり得意になった。


『最近何してるん?たまには実家に顔出したりや。オカン会いたがっとるで』


ちょっと前に姉から届いた連絡を既読スルーしていた。モニターに映る清純派のビジュアルからは想像もつかないが、一時期暮らした関西の方言が姉には染みついている。ボクは、ママの新たなボーイフレンドとの時間を邪魔したくなくて暫く実家には帰っていない。ママには幸せになってほしいんだ。


東京の空。相変わらず星は見えない。いつも灰色の雲が邪魔をして見せてくれないんだ。タケなんとかの匂いが自分の髪に染み付いている。契りの紋章が焼きついた首筋が疼く。早くむっくの元へ戻りたかった。


***


むっくがデスクで突っ伏すように眠っていた。PCを覗くと冥界の経理から杓子定規な返信がつき返されている。請求書の発行月と稼働日が異なる理由をもっと詳細に備考欄に書けだの、リープした帰りに発生した交通費の精算項目が違うだの、様々な理由が添えられ差し戻されていた。添付すべき書類も領収書だったり利用証明書だったりむしろレシートの方が良かったり、ケースよって異なるらしい。


「こっちが立て替えている交通費を返してくれと言っているだけなのに、なんで経理から偉そうな口ぶりで突き返されなきゃいけねぇんだよ」

「理不尽だよねぇ。少しずつ慣れていけるよ。むっくなら」


ボクは相槌を打ちながらキッチンへ逃げ、鍋の水に火をかけた。むっくはスパイシーなラーメンを食べれば大抵機嫌が良くなるから。さっきの火鍋の味を思い出せなかった。「味がしない」なんてヌルい言葉では足りない。何ヵ月予約が取れないお店。どこどこ産の高級食材。あの芸能人も座った座席。そんな能書きが心底どうでも良くて、むっくと食べるラーメンでさっさとあの記憶ごと覆い被せたかった。


むっくの本棚には「目指せ年収3倍!フリーランスになった私が伝えたい10のコト」というタイトルのビジネス書が仲間入りしていた。いいよなぁ舞椰は。そんなテレパシーが聞こえた気がした。もうすぐ具材のないラーメンが完成する。これでもボクは幸せなんだけど。よいしょと鍋を持ち上げた。それに気づいてむっくがローテーブルと座布団をセットしてくれた。二人の生活に確実に呼吸が生まれていた。


先日、葬儀会社の死神セクションが、魂の単価を値下げするキャンペーンを大閻魔に持ちかけたらしい。「アダム・スミスの見えざる手ってやつだ」と大閻魔は喜び、むっく専用だったはずの終息予定者リストを葬儀会社の連中にも流した。その情報をキャッチした日の晩、むっくがベスト・グリムリーパー賞の盾を床に投げ割ろうとしているのを見て慌てて止めに入った。


「生産的だ、合理的だ、なんて言うけどよ。要するに早い、安い、上手いってことだろ。大組織の人的リソースで同じことやられちゃあ、フリーランスはすり減り続けるだけだろうが」


むっくは時折必要以上に自分を追い詰める癖があった。特に、不幸や絶望の言語化が上手かった。でもさ、世界人口80億人全員に挨拶するために死神のリープで回ったとして、1秒に1人ずつ会っても合計235年かかるんだって。そんな中で出会い、1秒どころではなく、何ヵ月も何年も誰かと生活を共に営む状況に恵まれたーーそれだけで既に、何よりも尊い「奇跡」の中にいると思わない?


ボクはラーメンのスープまで飲み干した。ほぉと息をつく。美味しかった。新宿の景色が思い出から消えていく。これでいい。これがいい。


***


「今日のスケジュールは押せない。むしろ、なるべく巻いてハシゴできる魂を一件でも増やしたい」

「みんなすんなりアテンドできるといいねぇ」

むっくはあわよくば五件と意気込んでいる。目に光が戻るむっくのパソコンには、「まとめてお得!アテンドパッケージプランのご案内」とタイトルされた資料があった。商品提案も経営戦略もボクには正直よく分からない。だけどむっくは本当にそれでいいのだろうか。ずっと疑問に感じていた。


明日は給料日。バディとして支えた給料がやっと振り込まれる。きっとそろそろ軌道に乗ってくる。一緒にお祝いがしたい。その時間だけは、誰にも邪魔されたくなかった。


***


薄暗い井の頭公園には、湖を囲うようにサイズのまばらなベンチが配置されていた。静けさを照らす街灯に照らされ、ぽつりとベンチに座る女がいる。ブリーチを繰り返したほぼ白に近い金髪のツインテール。湖をとらえているはずなのに焦点の合わない瞳。黒を基調にしたガイコツのTシャツ。黒いレーススカートのフリルが夜風に靡いて揺れていた。むっくは周りの視線を警戒して左右に目配せをした。慣れた段取りで死神モードをアンロックし、ツインテールの女に近づく。


「ワタナベ・ミユウさんですね」

「ひっ…?ストーカーさん?」

「残念ですが、死神です。今、俺の姿はあなただけに見えています」


ワタナベ・ミユウは肩をすくめ、上目遣いでむっくを見た。ボクは出番が来るまで木陰からむっくの指示を、ただ待つ。


「死神さん…?なにそれ、素敵な冗談ね」

「あなたは間も無く死にます」

「…へぇ〜!」


死という言葉に動じる様子が見られなかった。自分でもうすぐその時が来ると分かっていたのか、単に間を埋めるだけの強がりの相槌か。ワタナベ・ミユウは白黒のストライプのハイソックスに包んだ脚を右、左交互に揺らして見せた。


「特に心のこりは無いですか。後から戻ることはできないので」


むっくはいつになく早く「心のこり」の話題へ進んだ。いつもは相手の話したいことを一通り聞いてから始めるのになと思った。


「心のこり?うーん、無いね。あの人の居ない世界に用なんてないもの」

「そうですか。なら良いのですが」

肩掛けポーチから半透明のプラスチックケースを取り出し、ワタナベ・ミユウは「ほら」と軽く揺らした。ザララと音を立てて10種類以上の投与薬が手のひらに出される。裾から傷だらけの手首と、ひどく荒れた首元が覗いた。推しのビジュアル系バンドメンバーの熱愛写真が週刊誌に出て、この人生に終止符を打つことを決めたそうだ。愛する男に捧げる人生。ママの姿が脳裏を掠めた。


朝起きる度に、ママの寝室には知らない男がいた。お客さんだから仕方ないのよ、と歯に噛むママはいつも女の顔をしていた。男に愛想を尽かされる度に「もうこの街には居られない」なんて言ってすぐに引越しを選択する人だった。


夜、ダイニングテーブルにきっちり一汁三菜を置いたらドレスに着替えて夜の街へと繰り出してしまうんだ。ママは妖狐なのに変化で美しくなることはしなかった。なりたい者にしかなれないんだって。


ワタナベ・ミユウは手のひらいっぱいに溢れる投与薬を空にかざして、「さよなら、世界」とか「生まれ変わっても会えるかな」とか、ありきたりな歌詞みたいな言葉を並べていく。偶然か、先日『Abyss MOON』で演ってたバンドもそんな詞を刺激音に乗せていた。むっくの視線はワタナベ・ミユウとその頭上を行ったり来たりしていた。


(むっく、何かになったほうが良さそう?)

テレパシーを飛ばすとむっくの苛立ちを隠せない声が届いた。

(こいつの死期…全く定まってねぇ)


ワタナベ・ミユウの頭上のカウントダウンの数字が小刻みの変動を繰り返しているらしい。むっくの足のつま先が地面をテンポよく叩いていた。キタモリ・タツヤの時とは違い、恣意的に死を隣に置いて。気まぐれでやっぱり生きてみようと思う度に終息時計がズレてしまうのだ。むっくは咳払いするように黒い翼を一度大きくバサリと羽ばたかせて口を開いた。


「ずっと、そうやってグダグダ過ごしていくんですか?」

「え?」

ワタナベ・ミユウは小さくため息をついてむっくを見つめ返した。眼力が足りないだけで本当は睨み返したようにも見える。


「いや、今日こそはって思ってはいるんだけどね?」

「どちらにしても、とっとと決めないと、あなたの魂は前に進めませんよ」

「そもそも急ぐ必要なんて私には何も」

「こちらも次があるんで、早めに結論をーー」

「ーーえ?誰?」

気づいたらボクはむっくの前に立っていた。ワタナベ・ミユウはキョトンと視線をこちらに向けている。


「イケメンさんが目の前に。私とうとう頭おかしくなっちゃった?」

「そうじゃない。ボクさんのせいで話を割ってごめんね」

「舞椰ーー何のつもりだ?」


ボクは振り返り、むっくの両肩を掴んだ。気づいたら掴んでいた、という方が正しかった。


「今もしかして、薬飲むなら早く飲めよ、とか思ってなかった?」


あっけにとられたむっくの表情を見て、確信したことがある。むっくはとても合理的で、生産的で、だからこそボクが守らないといけないんだ。むっくはチッと舌を打った。その時ーー。


「あっ」

背後でドサリと音がした。むっくの視線はボクを通り越し、ワタナベ・ミユウを捉えていた。足元に跳ねた空っぽのドラッグケース。泡音混じりの呻き声。ワタナベ・ミユウが体を痙攣させ地面を這いつくばっていた。やけにタイミング良く、倒れる直前にスピーカーモードでコールした救急病院が、その電話を取っていた。


「こちら救急退院、どうされましたか?」

「井の頭公園、早くきて…」

「どうされましか?症状は?もしもし聞こえますか?」

「いいから…早く…」


ワタナベ・ミユウが気を失って間も無く、蒼白い光を放つ魂が肉体からボヤッと浮き出した。絶対に離れる気ないでしょ、ってくらい「心のこり」は肉体と一体化したままだった。本気で推しと結婚するつもりなのか、未来を掴み取ろうとする異常な執着すら伺える。ーーと思っていたその時だった。むっくは下世話に輝くその魂の前に立ち、声をかけた。


「もう十分迷っただろう…?」

背後に隠した右手には、鋭い大鎌が生成され始めていた。周りの空気が歪み、黒い霧が集まる。

「あっ」

怖いむっくだ。川崎のアーケードで一瞬見た、制御不能のアレになっちゃう。

「むっく!早くない!?」

「俺の仕事に口出すんじゃねぇ、契り交わしたくらいで思い上がってんのか」

契りーー。そういえば、バディ契約の概要資料にはボクの望むスキルが何でも1つ付与されると書かれていた。

「ひと振りで終わらせてやるよ!」

むっくがその大鎌を天高く振り上げ乾いた空気を切り裂いた時、ボクは強く、あるイマジネーションをはたらかせたんだ。それは、ボクらの運命を変えるとても傲慢な願いだった。

「…あれ?」

ワタナベ・ミユウの魂の眼前を、むっくの両腕がフルスピードで横切っていた。両の掌がさっきまで握りしめていた対象物を探すように二、三度握りしめたり緩めたりしていた。もう一度大鎌を生成しようと力を込めるが、それは一向に現れない。むっくがこちらをゆっくり振り返った。


「舞椰…お前か…?」

「ううん、ボクさん知らない…♪」

「とぼけんな!だってお前それーー」


むっくの大鎌が、ボクの頭上で微塵の灰となっていた。それはせっかちな春風に連れさられ、公園の木々の向こうへと消えていった。


「まさか…契りの特殊スキルか…?」

「つい使っちゃった…」

「何のスキルを取得したんだ?」

「えっと…」

慎重に言葉を選ばないとむっくの逆鱗に触れることは分かっていた。焦燥の中で出てきたのはこんな言葉だった。

「死神の鎌を灰するスキル…です♪」

「このあほぉ!」


むっくの顔が近づく。完全に動転していた。

「もっと他にあんだろーが!瞬間移動とか!読心術とか!護身用のバリアーとか!なんかすごいビームとか!」

「むっくが召喚してくれるから要らない!むっくとテレパシーさえできれば幸せ!むっくが護ってくれるから大丈夫!」

「お前なぁ…」

むっくが頭を抱えてその場に座り込んだ。

「稼ぎ頭の商売道具をダメにするアシスタントがどこにいるんだよ…」

ボクは初めてむっくに勝てた気がして、仁王立ちのまま言った。

「アシスタントじゃありません!契りを交わした対等のバディなのです♪」


救急隊がワタナベ・ミユウの元へ駆けつけ、緊急病棟へ連れて行った。魂は肉体へあっけなく戻っていて、喉元からアバババと掠れた声が漏れていた。


***


「次ハシゴする終息予定者は…と。はぁ…」

むっくがタブレットを操作しながら黒い翼を閉じて、死神モードを解除した。

「むっくってば、疲れてるねぇ。無理はしないでね」

「誰かさんのワケの分からん新スキルのせいで案件がぽしゃったからなぁ!」


むっくはガルルと魔獣のような視線で睨みつけた。怖い口調とは裏腹に、表情には少しだけ穏やかさが戻ったように見えた。ーーその時だった。汗の匂いとしっかり潜められた吐息音。草陰の枝を踏み割る音はこれで二度目。気のせいじゃなかった。


「むっく…何か居る」

「え?何も気づかないけど」

「しーっ」


むっくの言葉を人差し指で制した。静寂の中で感覚を研ぎ澄ませる。およそ20メートル後ろから送られる狂気じみた視線。あの雑木林の中にソレがいる。

「あの辺みたいだな」

遠くのソレにむっくもすぐに気づいた。死神の存在が人間に知られたらと大閻魔にバレたらむっくは消滅してしまう。あいつの記憶、消さないとーー。

「先に行くね」

これでも狐のアヤカシだ。その気になれば人間のおよそ3倍の速さで駆けられる。一瞬で林にたどり着く。むっくも背後から追いついた。

木の影から姿を現したのは一人の女だった。20代だろう。


ネイビーのダウンジャケットに動きやすそうなジーンズ。日傘に隠れながら手に持つのは首から吊り下げた一眼レフカメラ。録画作動中の赤いランプが点いている。やられた。セミロングのボブカットの内側からマゼンタレッドのインナーカラーが覗いた。


「…撮っていたのか?」

むっくが女に問うた。女は質問に答える代わりに首から吊り下げたカメラを手に取る。そのボディをひっくり返し、液晶モニター上で動画を再生してボクたちに見せた。液晶を反射させる街灯の光を日傘で遮り、影を作った。


死神と会話した後に薬を一気に口に入れてベンチからずり落ちるワタナベ・ミユウ。その後、オーバードーズ患者そっちのけで宙に向かって「死神の鎌を灰にする」と話すボク。フェードで姿を現すむっくは明確に「終息予定者をハシゴする」と話している。AIかCGでもない限り説明がつかない事象の一部始終がそこには収められていた。完全に漏れたらアウトやつだ。


女の表情から恐怖心は見えない。これから何が起こるのか、好奇心に支配されたような瞳でこちらを観察している。


「ねぇ、キミ。ボクさんたちが怖くないの?」

不都合な事実を知った女に、ボクからも質問を投げた。脅したい訳ではなかった。


「人間の科学や倫理で説明がつかない事がまだあるのね。これはバズるわ」

「…そんなことをしたら許さないよ」

そのふざけた野望に、気づけば威圧的な返答をしていた。

「私が用があるのはそっちの黒い方。ねぇ貴方、本当に死神ってやつなの?」

むっくはどう答えてよいか迷い口を紡ぐ。

「にわかには信じ難いけど、私はこの目で見たものを信じる主義なんだ」


女の記憶を消せばOK、という簡単な話ではなかった。逃れようの無い「記録」がありありと残る、大失態。


「公園で香ばしいバンギャを見かけてさ。何気なくカメラを回したらその場でODキメて泡吹いて倒れるから笑っちゃったよ。ついでにもうひとネタ、とんでもないオカルトネタまで撮れちゃったけどね」

「ネタってあんたなぁ…」

「貴方だってさっき『案件』って言っていたじゃない」

口の立つ女がむっくの矛盾を言語化して突いた。

「ねぇ、どうせこの映像、バラまかれたらマズいやつなんでしょう?」


脂汗を滲ませ、黙り込んだむっくを見兼ねて、女は続けた。

「私は社会派ニュースチャンネルを運用するジャーナリスト太田原千風(おおたわら ちかぜ)」


太田原千風は、行儀よくその名刺をボクらに手渡した。そして、その美しく社会性豊かな所作とは裏腹にこんな条件を提示したーー。

「この件、黙っていてほしかったらーーそこの死神」

「は、はぁ…」

「私と一緒に暮らしなさい」

「え?」

「…はぁああああ!?」

「あ。コラ、舞椰!」


取り乱すボクの体をむっくが後ろ十字固めで抑えつけた。灰色の空。月はおろか、星ひとつ見えやしない。抵抗できぬボクに歩み寄ったのは得体の知れぬジャーナリストを名乗る女。鋭角に見下ろすその視線に、ボクとむっくの暮らしをガラリと変える闇を見たんだ。


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