第10話:「帝国、悪夢を記録不能とする」

帝国軍本営、黒鋼の城砦。

戦術記録室には、沈黙が満ちていた。

壁一面に並ぶ戦闘報告書の中で、ひとつだけ――空白のまま、記録不能とされた戦闘があった。


「……語りによって、兵士の戦意が崩壊。

死者ゼロ。剣の交差なし。

戦術的敗北。記録不能」


副官シュヴィル・カイネスは、報告書を手に震えていた。

その紙には、戦術の構造も、敵の配置も、何も記されていなかった。

ただ一言、「語りに焼かれた」とだけ。


将軍レオニス・ヴァルハルトは、報告書を睨みつけていた。

「記録不能? ふざけるな。

戦術は構造だ。記録できない戦術など、存在しない」


参謀ミルフィ・エルナが、慎重に言葉を選びながら口を開いた。

「ですが、将軍。兵士たちは“声が心に届いた”と証言しています。

語りが、記憶を揺らし、戦意を奪った。

精霊の干渉も確認されています」


レオニスは、拳を机に叩きつけた。

「精霊? 語り? そんなもの、幻想だ。

兵士が怯えたのは、弱さだ。

だが、記録不能という言葉は――軍の敗北を意味する」


ミルフィは、静かに報告書を差し出した。

「兵士たちは、ユグ・サリオンを“古き伝承の悪夢”と呼び始めています。

語りが届いた瞬間、彼らは戦場を“神話の場”と錯覚したようです」


レオニスは、報告書を破り捨てた。

「神話など不要だ。

戦場は現実だ。幻想に屈する軍など、帝国ではない」


そのとき、記録室の扉が静かに開いた。

若い兵士が、震える手で一枚の紙を差し出した。


「……将軍。これ、僕が見たものです。

語りの残像が、視界に焼き付いて……

今でも、目を閉じると、あの声が響きます」


レオニスは、紙を受け取った。

そこには、光の魔術式が描かれていた。

残像干渉――語りの輪郭を視覚に刻む技術。

紅蓮王国の光魔術士、イルミナ・フェルナの痕跡だった。


「……視覚干渉か。

語りを記憶に焼き付ける魔術。

ならば、語りは火ではなく――毒だ」


ミルフィが、静かに頷いた。

「毒ではなく、残響です。

語りは、戦場を幻想に変える。

兵士たちは、戦術ではなく“物語”に巻き込まれたのです」


レオニスは、立ち上がった。

「ならば、物語を断ち切る。

語りが届く前に、語り手を沈黙させる。

ユグ・サリオン――その火を、速攻で踏み潰す」


記録室が静まり返った。

誰も反論しなかった。

それが、帝国の戦い方だった。


その夜、レオニスは一人、訓練場を歩いていた。

兵士たちは、感情遮断の訓練を続けていた。

記憶を封じ、語りに反応しない心を作る。


「語りに届く心は、戦場では不要だ。

幻想に勝つには、現実を突きつけるしかない」


彼は、空を見上げた。

星は見えなかった。

紅蓮王国の空とは違い、帝国の空は常に曇っていた。


そのとき、風が吹いた。

微かな香りが漂った。

藤と柚子。

紅蓮王国の精霊術師が使う香りだった。


レオニスは眉をひそめた。

「……香りまで届いているのか。

語りの残響は、風に乗るのか」


彼は、剣を抜いた。

空を斬った。

香りは消えた。

けれど、心の奥に、微かな揺らぎが残った。


「くだらない。幻想だ。

俺は、速さで勝つ」


彼は剣を収め、訓練場を後にした。

語りに届かぬ兵を育てる。

それが、帝国の答えだった。


| 帝国、悪夢を記録不能とする。

| 語りの火は、記録を焼き、記憶に残り、神話となった。

| 小さな魔術士の光は、語りの輪郭を描き、兵士の心に残像を刻んだ。

| まだ、誰も知らない。

| この火が、滅びを選ぶ日が来ることを。

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