第9話:「副作用:胃痛と涙と微笑み」
戦場が静まり返った後、紅蓮王国の前線基地には、奇妙な余韻が残っていた。
誰も死なず、誰も傷つかず、ただ語りの火が兵士たちの心を焼いた。
その残響は、まだ空気の中に漂っていた。
ユグ・サリオンは、作戦室の隅で椅子に座り込んでいた。
詩集は閉じられ、ノートは机の上に広げられたまま。
彼の手は腹を押さえ、顔は青ざめていた。
「……胃が、爆発しそうだ」
セリナ・ノクティアが、湯気の立つカップを手に近づいてきた。
香りは甘く、柔らかく、ユグの胃痛を少しだけ和らげる。
「副作用ね。語りの火が強すぎた。
精霊たちも、あなたの語りに過剰反応してたわ」
ユグは、カップを受け取りながら苦笑した。
「精霊が喜んでくれるのは嬉しいけど、僕の内臓が悲鳴を上げてる」
「でも、成功だった。
帝国兵は剣を捨てた。語りが届いた。
あなたの理想、叶ったじゃない」
ユグは、カップを見つめた。
湯気が揺れていた。
その揺らぎが、語りの余韻のように感じられた。
「……届いたのは、語りだけじゃない。
精霊も、香りも、光も、影も、剣も、妄想も。
全部が、命に届いた。
でも、それが怖い」
セリナは、椅子に腰を下ろした。
「怖い?」
「語りが届きすぎると、命を焼く。
僕は、火を灯しただけのつもりだった。
でも、あの兵士の目を見たとき……
語りが、彼の記憶を焼いていた」
セリナは、静かに頷いた。
「それでも、命は残った。
焼かれたのは、戦意。
あなたの火は、選別だった」
そのとき、扉が静かに開いた。
イルミナ・フェルナが、魔術式の記録紙を抱えて入ってきた。
彼女は誰とも目を合わせず、部屋の隅にそっと座った。
ユグが彼女に気づくと、イルミナはびくりと肩を跳ねさせた。
顔を赤くしながら、記録紙を差し出した。
「……光魔術、干渉成功。
残像、敵兵の記憶に……定着。
語りの輪郭、視覚的に……補完、できました」
ユグは、紙を受け取りながら微笑んだ。
「ありがとう、イルミナ。
君の光が、語りを記憶に変えてくれた」
イルミナは、小さく頷いた。
そして、ほんの一瞬だけユグの方を見た。
その瞳には、確かな光が宿っていた。
「……でも、私……
敵兵の記憶を焼いたかもしれない。
それが、怖いです」
ユグは、彼女の言葉に目を伏せた。
「僕も、怖いよ。
語りが届くことは、嬉しい。
でも、届きすぎると、命を焼く。
それが、火の本質だから」
セリナが、二人の間に言葉を挟んだ。
「でも、あなたたちの火は、優しい。
焼くんじゃなくて、照らしてる。
精霊たちも、そう言ってたわ」
イルミナは、顔を伏せたまま、小さく呟いた。
「……照らせてたなら、よかったです」
そのとき、リュミナ・ヴァルティアが静かに入ってきた。
「帝国側、語りの記録を“記録不能”と分類。
ユグ・サリオンは、“古き伝承の悪夢”と呼ばれ始めています」
ユグは、苦笑した。
「悪夢でもいい。命が残るなら、それでいい」
セリナが、カップを差し出した。
「じゃあ、悪夢の胃を癒すために、もう一杯どうぞ」
ユグは、受け取りながら微笑んだ。
その笑顔は、戦場では決して見せない、静かな安らぎの色をしていた。
イルミナは、その笑顔を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
誰にも気づかれないほど小さな微笑みだったが、語りの火よりも温かかった。
| 副作用:胃痛と涙と微笑み。
| 語りの火は、命に届き、心を揺らし、仲間の絆を灯した。
| 小さな魔術士は、誰よりも静かに、戦場を照らしていた。
| まだ、誰も知らない。
| この火が、滅びを選ぶ日が来ることを。
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