第8話:「戦場、語りと精霊が交差する」

朝霧がまだ地表に残る頃、紅蓮王国の前線基地は静かに息を潜めていた。

丘の向こう、帝国軍の陣が整っている。旗は風に揺れ、兵士たちは剣を磨き、命令を待っていた。


ユグ・サリオンは、戦場の手前に立っていた。

詩集を胸に抱え、胃痛を抱え、精霊に囲まれながら。

彼の周囲には、目に見えぬ風の精霊が漂っていた。

語りの火が、まだ言葉にならぬまま、空気を震わせていた。


「……精霊たちが集まってる。あなたの語り、やっぱり特別ね」


セリナ・ノクティアが、香環を手に儀式を終えた。

彼女の周囲には、淡い光を放つ精霊たちが舞っている。

風、香り、光――それらは彼女の呼びかけに応じて、ユグの語りを待っていた。


「準備は整った。精霊場も安定してる。あとは、あなたの語り次第」


ユグは頷いた。

詩集を閉じ、深く息を吸う。

胃が軋む。妄想がざわめく。けれど、それも戦術の一部だ。


「では、始めよう。六星の残火――第一構成、発動」


彼の声は、叫びではなかった。

語りだった。

言葉が空気を震わせ、精霊がその震えに共鳴する。


「光よ、敵の視界を揺らせ。影よ、足元を曖昧に。香りよ、記憶を呼び起こせ。剣よ、振るわずに威圧せよ。妄想よ、敵の心に火を灯せ。そして――語りよ、命に届け」


精霊たちが一斉に動いた。

風が巻き起こり、帝国兵の陣に霧が立ち込める。

足元の影が揺れ、地面が不安定に見える。

香りが漂い、兵士たちの記憶が呼び起こされる――家族、故郷、失ったもの。


「な、なんだ……この感覚……!」


「剣を抜け! いや、待て……なぜ涙が……!」


帝国兵たちが混乱する。

ユグの語りは、彼らの心に届いていた。

戦意が崩れ、剣を握る手が震える。


そのとき、イルミナ・フェルナが動いた。

彼女は戦術陣の端に立ち、誰にも気づかれぬように魔術式を展開していた。

指先は震えていたが、光の座標は正確だった。

数式が空間に浮かび、語りの残像が視界に焼き付けられていく。


「……光、干渉開始。残像、記憶に……残るように……」


彼女の声はかすれていたが、魔術は揺るがなかった。

帝国兵の視界に、ユグの語りが残像として刻まれていく。

言葉が、光の輪郭を持ち、記憶に焼き付く。


「……あの声が、俺の心に……何かが届いた……」


「母の畑の匂いだ。なぜ、戦場で……?」


セリナがそっとユグに近づく。

「……あなたの語り、精霊たちが喜んでた。

でも、少しだけ泣いてた気もする」


ユグは目を伏せた。

「語りは、火だ。命に届くか、焼き尽くすか――それは、相手次第だ」


リュミナが背後から静かに告げる。

「記録不能。帝国側は、あなたを“古き伝承の悪夢”と呼び始めました」


ユグは苦笑した。

「悪夢でもいい。命が残るなら、それでいい」


そのとき、イルミナが魔術式を閉じた。

彼女は誰にも見られないように、そっと後退しようとした。

けれど、ユグが彼女に声をかけた。


「……イルミナ。君の光が、語りを記憶に変えた。

ありがとう」


彼女はびくりと肩を跳ねさせた。

顔を赤くしながら、小さく頷いた。

そして、ほんの一瞬だけ、ユグの方を見た。

その瞳には、確かな光が宿っていた。


| 語りと精霊が交差した戦場。

| 火は届き、命は残った。

| 小さな魔術士は、誰よりも静かに、戦場を照らしていた。

| だが、その火が滅びを選ぶ日は、まだ遠くない。

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