第5話:「精霊術師、香りの場を開く」

紅蓮王国前線基地の東側に、ひとつの儀式場が設けられていた。

石と草と風が交差するその空間は、戦場とは思えぬほど静かで、柔らかい香りが漂っていた。

セリナ・ノクティアは、香環を手に、儀式の準備を進めていた。


「……香りは、精霊との言語。

語りが火なら、香りはその前奏。

あなたの語りが届くように、場を整えるわ」


ユグ・サリオンは、少し離れた場所で詩集を開いていた。

精霊たちが彼の周囲に集まり、言葉を待っていた。

けれど今日は、語りの前に香りが場を作る。


「精霊たち、少し緊張してるみたいだ。

香りに慣れてないのかもしれない」


セリナは微笑んだ。

「それは、あなたの精霊が“語り特化型”だからよ。

私の精霊は、香りに宿る。

でも、語りと香りは、きっと仲良くなれる」


彼女は香環を地面に置き、ゆっくりと手をかざした。

藤と柚子の香りが混ざり合い、空気が柔らかく震えた。

風の精霊が舞い、光の精霊が揺れ、香りの精霊が場を包み込んだ。


「精霊たち、語りの場を受け入れようとしてる。

香りが、語りの余白を埋めてるのね」


ユグは、詩集を閉じた。

「……語りの火が、香りで揺らぎに変わる。

それなら、命に届きやすくなるかもしれない」


セリナは儀式を続けながら、静かに語った。

「香りは、記憶を呼び起こす。

敵兵の心に、故郷や家族の記憶を浮かばせる。

それが、戦意を削ぐ。

語りが届く前に、香りが心を開くの」


ユグは頷いた。

「語りが火なら、香りは火口。

精霊がその火を育てる。

……戦術として、成立するかもしれない」


そのとき、リュミナ・ヴァルティアが儀式場に現れた。

黒衣の影術士は、沈黙のまま場を観察していた。


「……精霊場、安定しています。

香りによる空間干渉が成功。

語りの火が、届きやすくなっています」


ユグは、詩集を開いた。

語りの準備が整った。


「では、試してみよう。

香りの場で、語りがどう響くか」


彼は、静かに語り始めた。


「命は、剣で守るものではない。

命は、記憶で繋がるものだ。

君の剣は、誰のために振るう?

君の心は、何を守りたい?」


香りが揺れ、精霊が舞い、語りが空気を震わせた。

場が、ひとつの“語りの空間”として成立した。


遠くの帝国兵が、剣を握る手を緩めた。

香りが記憶を呼び起こし、語りが心に届いた。


「……母の畑の匂いだ。

なぜ、戦場で……?」


「この声……俺の心に、何かが届いた……」


セリナは、香環を見つめながら呟いた。

「香りが、語りを運んだ。

精霊たちが、あなたの言葉を包んでくれた」


ユグは、語りを終えた。

精霊たちが、彼の肩に集まった。

香りの余韻が、語りの火を柔らかく包んでいた。


リュミナが静かに告げた。

「戦術的成功。敵兵の戦意低下。

死者ゼロ。語りと香りの融合、確認」


ユグは、セリナを見た。

「……ありがとう。

君の香りが、語りを届かせてくれた」


セリナは微笑んだ。

「あなたの語りが、精霊を呼んだのよ。

私は、ただ場を整えただけ」


ユグは、少しだけ目を伏せた。

「……君は、時々、爆撃より破壊力がある」


「それ、褒めてるの? 皮肉ってるの?」


「どちらでもない。ただの観察結果だ」


リュミナが、わずかに口元を緩めた。

「また流行ってますね、その言い回し」


三人は、儀式場を後にした。

語りと香りと沈黙。

精霊たちは、静かにその場を見守っていた。


| 精霊術師、香りの場を開く。

| 語りの火は、香りの余白に宿り、命に届く準備を整えた。

| まだ、誰も知らない。

| この火が、滅びを選ぶ日が来ることを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る