第40話「空の秤――王の決断、器の退場」

 王都の空に、白い月が二つ重なって見える夜だった。

 一つは本物の月。もう一つは、広場に掲げられた空の秤の影が反射した幻。

 空の街と王都、二つの場をつなぐ秤がいま初めて月明かりに浮かんだのだ。


 広場には人があふれていた。

 戻った者、残った者、空白を抱えた者。

 子どもも兵士も老婆も、みなが秤の下に集まり、声を潜めて月を仰いだ。


王の布告


 王の使者が玉座からの巻紙を広げた。

 「王は問う。器よ、秤を誰に渡すのか」


 俺は胸の痣に触れ、影獣のうなりを受けた。

 代価は箱に積もっている。

 忘却の意図、数字の注、怪物の歌、空白の重み。

 それらすべてを預かってきた器として、俺は答えなければならない。


 エリシアが前に立ち、声を張る。

 「秩序は人のものだ。器が永遠に抱え続ければ、人は背を折る」

 ディールが続ける。「票は七重、八重、九重と厚くなった。器ひとつの箱に積むには、あまりに重い」

 ユイが両手を広げる。「だから空に置くんだよ。箱は、もう重さを返していい」


 使者は厳しく告げた。

 「箱を返せば、お前は器ではなくなる。——それを望むのか」

 俺は頷いた。

 「望む。器は秤を渡すために在る。渡したあとに残るのは……ただの影だ」


空の秤の儀


 夜半、広場に「空の秤」が吊り上げられた。

 白布で覆われた巨大な板。片側には王都の票、もう片側には空の街票。

 板の中央には大きな穴が開いており、そこから月光が地面に落ちる。


 ユイが穴の縁に刻んだ文字を読み上げる。

 「ここにいる/いまはむり/あした話す」

 それはまぶたの沈黙から生まれた三つの合図。


 人々は順に穴を覗き込み、声を落とした。

 「ここにいる」——残る人。

 「いまはむり」——空白を抱える人。

 「あした話す」——外から戻る人。


 合図は秤の上で釣り合い、月光が穴を通って空と地を同じ灯で照らした。


器の退場


 そのとき、王位影紋の箱が唸りを上げた。

 代価が溢れている。

 忘れたい声、柔らかい数、怪物の歌、空白の穴。

 すべてが重なり、器の中で暴れている。


 『器よ。返せ。返さねば、お前が砕ける』

 箱の声が胸を震わせた。


 俺は広場に立ち、群衆に告げた。

 「——代価を返す」


 影獣が吠え、箱が開いた。

 光でも影でもない、重さそのものが空へ放たれた。

 それは秤の板に吸い込まれ、穴を通って月に昇った。

 広場の人々の胸に、ずしりとしたものが残る。

 もう器に預ける必要はない。自分の背で支える秤がそこにある。


 俺の胸の痣は淡く光り、やがて溶けるように消えた。

 影獣は姿を保てず、空へ吠えたのち静かに溶けた。

 器としての役割は、終わったのだ。


王の決断


 王の使者が巻紙を再び開き、宣言する。

 「王は認める。秩序を空に置くことを。器を人々へ返すことを」

 声が夜空に響き、拍手も歓声も起きなかった。

 ただ、静かな呼吸が広場に満ちた。


 ユイが涙を拭き、俺に笑いかけた。

 「もうおじさんは“器”じゃないね」

 「ただの人になった」

 「ただの人でも、歌える?」

 「歌えるさ。重さを渡したから、喉が軽い」


終章の灯


 夜明け、広場の秤に初めて「朝の票」が掛けられた。

 紙は白く、声はまだ出ない。

 だが影は柔らかく、夢は温かく、忘却は風に揺れ、数字は歌い、空白は月に繋がっている。

 秤は怪物ではない。人の背中を折らない秩序が、ここに在る。


 ユイがまぶたを一度落とし、小さく囁いた。

 「おじさん。秤があるから、あしたも話せるね」

 「そうだ。秤があるから、あしたが来る」


 王都と空の街を結ぶ双環の帯の上で、初めて朝日が昇った。

 そして器だった俺は、群衆の中のただの一人として、その光を浴びた。

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無能と神に切り捨てられた俺ですが、唯一授かった“影潜り”スキルで全てを飲み込み、気づけば勇者も王も凌駕してました 妙原奇天/KITEN Myohara @okitashizuka_

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