第39話「空白の秤――帰らぬ人と戻る人」

 白紙の票に名も影も載せない「空の街票」が立ってから、五日。

 北門の外では焚き火が増え、内側の広場では白紙が静かに増えた。

 空白は軽そうに見えて、持つとずしりと重い。

 いない、でもいる――ユイが書いたあの四字は、掲示板の端で風に揺れ、誰かの胸の内で石のように沈んでいく。


 六日目の朝、門番が駆け込んだ。

 「戻りが来た! 灰の旗の列から三人、夜明けに門をくぐった!」

 広場の空気が大きく吸い込まれ、ついで吐き出された。

 残る者の胸が熱くなり、外に出た者を責めたい声と、抱きしめたい声が同時に喉へ上がる。

 ユイが小さく両手を上げた。

 「まぶた」

 広場に一斉に、短い黙礼が落ちる。怒りも歓喜も、まずはまぶた一回で受け止める――それが境界を越えるときの合図だ。


 戻った三人のうち、一人は若い母、もう一人は鍛冶の見習い、最後の一人は灰の旗の男だった。

 母は子を抱いて涙をこぼし、見習いは師の前で膝をつく。

 灰の旗の男は、帽子の裏に押された灰印を見せ、その掌をゆっくり開いた。

 「俺は“外”で、怪物を見た。……内と同じ顔だった。ただ、歌がなかった」

 彼の声は低く、乾いていた。

 ユイが頷く。「歌を持っていけば、外も場になる」

 灰の旗の男は苦笑した。「歌える喉が、外にはなかった」


 選択台の三つの椅子――忘れたい人/書き取る人/見届ける人――の前に、今は戻る人のための四脚目が置かれる。

 ディールは票に新しい欄を引いた。

 「帰還欄」:空白から戻った者の印と、空白に残すもの。

 「全部戻す必要はない」と俺は言った。「空白は、橋のように残すことができる」

 エリシアが補う。「“橋”には名を刻まない。誰でも渡れるように。——空白を私物化しない」

 ユイは炭筆で欄の端に小さな絵を描いた。ふたつの岸を結ぶ細い板。板の真ん中には穴が空いていて、月がのぞいている。

 「ここを渡るとき、見上げると月が見えるんだよ」


 最初に台に座ったのは若い母だった。

 「外で、子はよく眠った。……でも、泣いた声が夜に吸われるみたいで、私の胸が空っぽになった」

 ユイが砂時計を返す。「泣き声は、置いていく? 持って帰る?」

 母は少し考え、「持って帰る」と言った。

 「代わりに外に残すのは?」

 「焚き火の匂い。あれを思い出すと、いつでも外の夜を信じられる」

 ディールが帰還欄に記す。

 「泣き声:帰還(声・風)。焚き火の匂い:空白に残置(夢・季節)」

 見届けの年寄りが頷いた。「冬が来るたび、その匂いで外の人を思う。匂いは争わない」


 見習いは、帰るなり師に頭を下げた。

 「外は自由でした。……けれど、刃に影が付かない」

 師が眉を上げる。「付かない?」

 見習いは頷いた。「秩序の外では、刃を振っても、返す影が生まれない。手応えも、罪の重さも」

 広場に薄いざわめきが走る。

 俺は胸の痣を押さえ、影獣の唸りを聞いた。

 「影が返らない刃は、いつか手を切る」

 見習いは静かに言った。「だから戻りました。罪の重さが欲しい」

 ディールは帰還欄に短く書いた。

 「罪の重さ:帰還(注・沈黙)。外の軽さ:空白に残置(詩・無音)」

 ユイがそっと囁く。「軽さは悪くないよ。橋の穴にしておこう。向こうが見えるように」


 最後に灰の旗の男が、帽子を胸に当てて座る。

 「俺はずっと、秩序を燃やす詩を書いてきた。外に出て気づいた。燃やした後が寒いことに」

 ユイは笑わない。ただ目を細める。「寒いの、きらい」

 男は頷く。「火の回し方を知らなかった。だから戻って、火の番を覚える」

 帰還欄に、ディールはこう書いた。

 「燃やす詩:外へ置換(例:動機の温)。番の詩:帰還(例:手順・交代)」


 広場には拍手は生まれない。まぶたが一度落ち、そして三人はそれぞれの席へ戻っていく。

 戻ってくるとは、座る場所を選び直すことだ。空白は、座れない者のための椅子ではなく、座を離しておく余白なのだと、皆が少しずつ理解し始める。


 午後、空の街に残った者たちから使いが来た。

 顔には薄い煤、指には荒れた皮膚。

 「空の街にも、秤が欲しい」

 意外な申し出に、広場がざわめく。

 「秩序を捨てると言っていたのに?」

 使いはうなずく。「捨てると言った。だが、捨ててみて初めてわかった。秤がないと“喧嘩が終わらない”」

 彼らは“内”の秤をそのまま持ち込むことを望まない。

 「名前を呼ばない秤。数字を歌にする秤。空のまま釣り合う秤」

 ユイが小さく手を叩く。「**空秤(からばかり)**だ!」


 空秤の設計は、その日のうちに始まった。

 紙は白。

 声は拍。

 影は穴。

 注は「いない、でもいる」の四字だけ。

 忘却は季節の風に紐づけ、夢の注は月齢に結ぶ。

 そして持ち替えは常時――誰でも、いつでも、空白を代わりに支えることができる。


 王の使者が慎重に言葉を選ぶ。

 「空秤は王都の外。王命の届かない場に置く秤だ。……だが、王の名を借りない秤が必要なときもある」

 神殿の観測院長がうなずく。「慰めは、名を呼ばない方が効くときがある」

 政庁の書記官も、今日は反対しなかった。「争いが終わるなら、帳簿の外にもう一枚、余白があっていい」

 空と内が、薄い帯でつながる。ユイはそれを**双環の帯(そうかんのおび)**と呼んだ。

 「内の円と外の円。穴で結ぶ。人は穴から手を出して、向こうの手を一回だけ握るの」


 夕刻、帰らなかった者の親が選択台に座った。

 白紙の前で、言葉が見つからない。

 ユイが肩に小さく手を置き、「札のない読みをしましょう」と囁く。

 胸で拍を刻み、指で穴をなぞり、まぶたを一度落とす。

 それだけで、白紙は重くなった。

 ディールが帰還欄の横に小さな枠を作った。

 「空白継承」:戻らぬ人の空白を、残る者が背負わず、支える仕組み。

 「背負わない」「支える」――二つの言葉は似ているが、秤の上では違う。

 背負えば、折れる。支えれば、渡せる。

 親は泣かない。泣けない。

 ユイは自分の掌を親の掌に重ね、「あした話す」とだけ言った。

 選択台の背後で、まぶたの沈黙がひとつ、ふたつ、連なった。


 夜。

 広場の端で、灰の旗の男が焚き火の番をしていた。かつて自分が燃やそうとした板の足元に、今は水甕と砂が並ぶ。

 「番はね、詩より退屈だ」と男は苦笑した。

 「退屈は場を育てる」と俺は答えた。

 男は火を見つめ、「明日は外へ持っていく」と言う。「番の詩を」

 彼の灰印は、もはや敵の紋ではない。橋の側の印だ。


 王位影紋の箱が、静かに熱を帯びた。

 触れると、遠い王たちの「帰らぬ者を待った夜」の痛みが、澄んだ鈴の音のように指先へ広がる。

 『器よ。空白を秤に載せた。——最終の秤をどこに置く』

 俺は答えた。

 「人の背中でも、地でもない。空に置く。

  空の板を最後の秤にして、王都と空の街を同じ夜空で結ぶ」

 箱は重くなり、しかし今までで一番やわらかい温を返した。


 ユイが毛布の影から顔を出す。

 「ねえ、おじさん。空って、だれのもの?」

 「みんなのもの。でも、だれのものでもない」

 「じゃあ、秤にちょうどいいね」

 ユイは満足そうに目を閉じる。

 外では、白紙の票が月光を吸い、空の街の焚き火の赤と、王都の灯の金とが、同じ風で揺れていた。

 帰らぬ人と戻る人。二つの重みが、いま、ひとつの秤で静かに釣り合い始めている。

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