第十二話
5月某日。
会場を支配していた緊迫感が解け、和やか空気が戻ってくる。能楽師の登竜門とも言われるほどに難易度の高い演目【道成寺】は、シテを務めた谷洲水斗を始めとする錚々たる演者らによって、危なげなく幕を下ろした。
開演前に観客へ向けて、この演目のあらすじや世界観、そして見どころを分かりやすく親しみ深い言葉で噛み砕いて説明を行った渓馬由勢は、本番中は鐘後見として、シテの上に鐘を落とす大役を務めた。
シテ方の筆頭・谷洲流の若が【道成寺】の再演をやるとあって、一般の観客に加え、他流派の重鎮や中堅、若手の能楽師やその関係者も多く鑑賞に訪れ、能楽堂には重厚な緊張感が常にただよっていた。
失敗など許されないようなその凄まじい空気の中、呑まれるどころか才能の限りを見せつけ、前シテで女の霊を、そして後シテでは恐ろしい般若の形相をした蛇の鬼を完璧に演じ切り、静かに舞台を後にした谷洲水斗への惜しみない拍手と簡単の声で、終幕後も会場やロビーはしばらく静まることがなかった。
芸の師であり実の祖父でもある谷洲霜山から命じられ、1年間にも及ぶ稽古の末に、23歳にしてこの演目に臨んだ水斗にとっては、人生で二度目の【道成寺】となった。
初演の折は、ミスや事故もなく舞台を終え、皆が彼に賞賛の言葉を贈った。一生に一度、演じる機会が巡ってくるかこないかというこの大変な演目を23歳という若さにして過不足なく演じきってしまった天才のもとへ、終幕後には各流派の一流の舞い手たちがこぞって蝶よ花よと声をかけに訪れたのだ。
しかし、大舞台を終えたはずの水斗の顔に笑顔はなかった。そして翌日、彼は祖父の霜山の前で、この演目に自身が関わることを生涯禁じると宣言してしまった。
『……水斗。昨日は、失態を犯すことも途中で集中を切らすこともなく、無難に終えたと思うが。何か納得がいかなかったか?』
霜山の問いに、彼は『無難であってはいけませんでした』と静かに答えた。
『俺は結局、どれをやってもこうなってしまう。だったら【道成寺】なんて、初めからやるべきじゃなかった』
そう続けた彼の瞳は、自分への失望で塗り潰され、光を失っていた。その胸の内に抱えた思いを吐露させるべく、霜山は『無難であることの何が悪いのか?』とさらに問う。
『受け継がれてきた型を寸分の狂いもなく実践し、後の世へと繋いでいくのが我々能楽師の在り方だ。昨日のお前はその役目を十分果たしていたと思う。初めはまだ少し早いかとも思いはしたが、昨日のお前の舞台を見て、今のお前に【道成寺】をやらせたのは間違いではなかったと私は確信したんだよ』
この時の霜山は、厳格で寡黙な普段の彼らしくもなく言葉を重ねた。23という若さで【道成寺】を演じることの重圧をものともせず稽古に取り組み、本番では心を乱すことなく落ち着いて稽古通りに全てをこなした孫に、心からの賞賛の思いを抱いていたのは霜山も同じだった。
水斗が20歳になった時に彼の指南役を降りはしたが、今回は演目が演目なだけに、霜山の責任もかなり重いものとなる。それだけではない。
『この若さの子に【道成寺】を許すとは……谷洲のご宗家は孫贔屓が過ぎるのではないか』
『坊ちゃんはたしかに立派な才能をお持ちだが、まだまだ経験が浅い。あと2、3年でも待てばいいものを。今やらせても坊ちゃんが恥をかくだけだろうに』
そんな心無い声も聞かれたため、自分の跡を継いで谷洲を担ってもらわなければならない水斗の実力を示すためにも、此度の彼の指南役は霜山自身が務めた。
──これまで以上に厳しく教えた自覚はある。それでもこの子は音を上げずに食らいついてきた。
久しぶりに稽古をつけたが、数年前に芸の道を極めることを心に決めた様子の水斗には思春期のような反抗心や不安定な情緒は全く見られなかった、と霜山は回顧する。
──指導に熱が入った私からどれだけ強い言葉を投げられようと、この子はじっと耐え、注意されたところを素直に正そうと努力していた。
水斗がみるみるうちに精度を上げていく過程に立ち会うのは、彼に稽古を付け始めたばかりの頃のように楽しかった。そして、そのまま何の憂いもなく本番を迎えた彼は、見事にその重責を全うしたのだ。
それなのに、目の前の水斗の顔には、今にも能楽師としての道を辞するかのような諦めすら滲んでいる。その理由が、霜山には分からなかった。
『水斗。もしもお前が昨日、何か自信を失ったのだとしたら、また明日から稽古に励み、舞台での経験を積み、取り戻していけばいい』
稽古に身の入っていない思春期の頃の彼を叱咤するための言葉はいくらでも知っているが、辛抱強く芸と向き合い精進を重ねる今の彼を激励するための言葉をすぐに見つけられるほど、霜山は器用ではない。自分なりに孫を勇気付けたつもりだったが、水斗の顔が晴れることはなかった。
『これは、俺の気持ちの問題です。先生にはたくさん稽古を見ていただき、感謝してます。ただ、それに応えられなかったどころか、今後どれだけ努力しても改善される兆しが見えないように思え、絶望しているんですよ』
『……水斗』
祖父である自分に対する、彼のいつも通りの敬語や【先生】という呼び方が、なぜかとてつもなく寂しいものに感じられ、霜山は眉間にぎゅっと濃い皺を寄せる。
『お前は、無難に昨日の舞台を終えたことがどうしても納得いかないということなのか?……悪いが、その悩みが私には理解できない。今までもお前はそうしてきただろう。お前だけじゃない、全ての能楽師はそうして伝統を繋いできたんだ』
師の言葉に、水斗はゆるゆると頭を横に降った。
『先生、俺が言いたいのは、演劇のように型に抑揚を付けたり、個性を付加したり、そういうことをしたいって話じゃないんです。……多分これは俺が偏屈な人間だからこそ出てくる考えです。先生のような、正統にこの道を極めてきた人に理解してほしいとは思いません』
『水斗、そうやって議論を放棄しようとするのはお前の悪い癖だ。きちんと言葉にして、私に話して……』
『では申し上げますが、俺には芸に深みや柔らかさを出すことができないようです。能の世界には【幽玄】という理念がありますよね。それを表現できない能楽師なんて、存在する意味があるんでしょうか。自分には薄っぺらい教科書のような舞しかできない。その事実を昨日はっきりと突き付けられ、己に失望しました』
何とかして自分と話を続けようとしてくれている祖父に真っ向からそう言い放った水斗は、話はこれで終わりだと示すように深く礼をしてその場を立ち去った。
『……水斗。幽玄というのは、深みや柔らかさだけで語れるものじゃない。何度も教えただろう』
水斗が去った後の自室で、霜山はぽつりと呟いた。
幽玄を表すためには、深みや柔らかさはたしかに必要だが、それは一朝一夕で会得できるものではない。長年の稽古や舞台経験、多くの能楽師の舞を見ていく中で自分の中に確立していくものだと霜山は考えていた。現に、周りからは天才だと持て囃されて育った霜山自身も、50を過ぎるまでは師である父から『お前の舞は生真面目すぎる。見ていて堅苦しい』と何度も苦言を呈されていたからだ。
『……深みや柔らかさはそのうち身につく。しかし、透き通るような美しさはどうだろうな。これはお前に既に備わっているものだ』
霜山は膝の上で握った拳に力を込めた。
不要なものを削ぎ落としたような厳かな美しさ。
欲を切り捨てたかのような、人ではない別の何かを思わせる清さ。
『お前の舞う姿に、私はいつもそれらを見る。幽玄という理念の一部を、既にお前は無意識のうちに舞の中に取り込んでいる。お前に稽古をつけている時は、自然と背筋が伸びるんだ。私もしっかりしなければ、という気になる』
これは稽古や経験値でどうにかできるものでもない。お前が生まれ持った稀有な素質だ。
『お前の心を縛り付けているのは一体何なんだ』
幼い頃から見守ってきた孫の心をこれほど理解できなかったことはない。情けなさに包まれた霜山の声は虚しくも部屋の壁へと吸い込まれていった。
霜山との話を半ば無理やりに打ち切った後、稽古場を訪れた水斗は、壁に寄りかかりぼーっと床の木目を見つめていた。何か舞うかとも思ったが、そんな気にもなれなかったのだ。
いつも厳しく言葉少なな祖父が珍しく褒めてくれた。なのに、それを喜べない卑屈な自分が嫌になった。
けれど仕方がない。納得のいかない出来のものに対していくら賞賛を寄せられたところで、素直には受け取れない。1年間かけて準備した結果がこれなのだから。
──『次はああしてこうして、足の角度はこうで』なんて考えてるうちに、気付いたら終わってた。俺はただ、間違えずに最初から最後まで通しただけだ。あんなの、普通の通し稽古と何も変わらない。
これを言えば、また霜山から『通し稽古とは、本番を想定して行うものなのだから、その通りにやれたことの何が問題なのだ』と言われそうだが、違うのだ。そういう話ではない。
──曲がりなりにも俺はプロだから、人前で目に見えるようなミスなんかしない。昨日だって、見てる分には別に問題なかった。
だが、それでいいとは思えない。間違えずに手順通り最初から最後までやればいいだけだというなら、それは作業だ。決して芸術とは言えない。
──何か、気持ちの面での試練みたいなものが必要だった。谷洲の能の真髄を理解する覚悟や、今までの自分を超えたいという強い思いを持って挑まなきゃいけなかった。なのに俺は……
水斗は悔しげに奥歯を噛みしめ、顔を伏せる。能楽師としての真価が問われるこの大切な演目を、教えられた型をなぞるだけで淡々とこなしてしまった己を受け入れることができなかったのだ。
水斗の思いとは裏腹に、この【道成寺】初演が彼の能楽師としての価値を上げていった。一般の能楽師にとって、この演目は一生に一度、多くて二度、それ以上は体力以上に気持ちが追いつかないといわれるほどに過酷なものだが、高い実力を持ちそれなりの立場にある能楽師ならば三度を越えて定期的に演じることもある。彼もそのような舞い手になっていくのだろうという高い期待が水斗へと寄せられるようになった。
彼が二十代後半へと差し掛かって以降、水斗は【道成寺】の依頼を二度も受けた。二度目の依頼の際には、祖父の霜山も、初演での失意を何とか克服させようとの思いから『もう一度、この演目と向き合ってみるのはどうか』と彼に挑戦を促すような言葉をかけた。
それでも頑として首を縦に振らなかった水斗を動かしたのは、彼が兄のように慕う渓馬由勢だった。
水斗の31歳の誕生日の1ヶ月前、当日は祝えないからなどと理由をつけて渓馬は谷洲家を訪れた。贈り物として品の良いネクタイを置き、軽い世間話に興じた後、帰り際に『この話するために来たんだろうと思われそうだし、まぁ実際に理由の半分はそれなんだけどな』と前置きをして、彼に二度目の【道成寺】を提案したのだ。
『来年の5月に紅堂流主催の公演が予定されてるんだが、そこでお前に【道成寺】を、という話が出てる。お前にとっては客演って形になるな。稽古期間は今から1年と少しある。一度この演目で舞台を踏んでいるお前なら、1年もあれば十分だろうとのことだ』
話の途中で遮られないよう、早口気味に一気に内容を伝えた渓馬は、緊張を解くようにふぅ、と息を吐いた。
『由さん。知ってると思いますけど、俺はもう【道成寺】はやりません。紅堂流の先生方に名前を上げていただけたのはありがたいんですが、この話はなかったことにしてください』
対して、水斗は検討する素振りすらなく、渓馬へ丁寧に頭を下げた。しかし、ここまでは想定内だったのか、渓馬に慌てる様子はない。
『ところでお前、何年か前に、舞っている最中にふと自分の意識が消えて無になれる瞬間があるんだ、って言ってただろ?』
『言いましたが、それが何か?』
唐突にそう問われ、急に話が飛んだ、と怪訝な顔をした水斗へ、渓馬は意外なことを口にする。
『俺な、今お前がその状態になってるんだろうな、ってのが見てて分かるんだよ』
『へ……?』
『意識が消えて無になるっていうよりは、物語の中に溶け込んで役と1つになってるような状態に近いと思うんだが、違うか?』
『……ええ、そういう感じです、おそらく』
『自分はちゃんとそこにいるのに、意識や身体はその登場人物のものみたいに、お前の意思とは別の場所で動いてるって感覚なんだろ?』
まるでその目で確かめたかのように、渓馬は水斗の心を言い当てていった。
『俺、由さんにそこまで話しましたっけ?』
戸惑う彼に、渓馬は『伊達に何年も、お前を見てきてねぇからな』とさも当然のように答え、言葉を続ける。
『特に、女や物の怪の類を演じてる時なんかは顕著だよ。お前がその役に乗り移られちまったんじゃないかっていう緊張感をこちらに抱かせる。だけど、その心配はいつも杞憂に終わるんだ。何でか分かるか?』
急に問われた水斗は、何も答えられなかった。
──それは、俺が役を理解しきれていない状態で舞っているからだと?
視線を落とし、眉根をひそめて考え込んでしまった彼に、渓馬はその心の内を読んだかのように『違う』と首を横に振った。
『お前の舞は、波紋のひとつもない水面みたいに正確無比で、清らかだからだ。たとえ鬼だろうと、嫉妬に狂った女だろうと、お前は美しく謳い舞う。その姿を見ていると、お前はちゃんとそこにいると分かるんだ。これこそが、谷洲水斗の描く幽玄の世界なんだと俺は思うよ』
『俺の描く幽玄、ですか?』
そう口にした水斗の目の奥に小さな焔が灯ったのを、渓馬は見逃さなかった。
『そうだ。そもそも幽玄って言葉は奥が深過ぎるんだ。俺だって未だによく分からない。だがお前はもう、俺が何十年かけても辿り着けなかった境地に到達してるだろ。そんな特別な舞い手が紡ぎ出す世界観こそが幽玄なのだと俺は思いたい』
淡々とした渓馬の語りを聞いているうちに、水斗は何年も曇ったままだった視界が少しずつ透明感を取り戻していくような錯覚を抱いた。
いつだったかは忘れてしまったが、ある時を境に、稽古や本番の最中に身体から自分の意識が離脱していくような心地良さを味わうことが増えた。その状態であれば、体重を感じずに舞える。重厚感のある声が、意識せずとも腹の底から出てくれる。以前のように次の段取りを思い返したりせずとも、その役の意思が肉体に宿ったかのようにごく自然と手足が動くのだ。これが渓馬のいう特別な境地なのだとしたら、長らく理解できなかった幽玄の世界の案外すぐ近くに、自分は既に立っているのだろうか。
『その境地を知る能楽師が、一体どれだけいるんだろうな。少なくとも俺は一度もない。今も昔も、身体に叩き込んだ型をとにかく正確に、という気持ちを切らさずに立てた舞台はねぇからな。意識しなくても身体が自然に動いてくれるなんてのは、普通は夢みたいな話なんだよ』
迷いに瞳を揺らす水斗に、渓馬は幼子に対するかのように優しく語りかける。
『最初の【道成寺】の時から、お前はどれだけの稽古を重ねた?あの頃と今のお前は何もかも違う。近くで見てきた俺には、それがよく分かる』
『何もかも……?』
『そうだ。技術も土壇場での腹の据わり方も、何もかもだ。一番変わったのは、覚悟だな』
水斗の目つきが徐々に変わっていくのを感じ取った渓馬は一か八か、あえて強い言葉で鼓舞した。
『水斗、気概を持て。死ぬ気でやって、過去の自分なんか一足飛びに超えてみせろ』
決して荒らげてはいないのに、渓馬の声には退路を断つような厳しい圧があった。そして、その言葉を逃げることなく受け止めた水斗の顔に、もう迷いはない。
『……だったら由さん、鐘後見をお願いします。俺はあなたとやりたい』
彼の固い決意を秘めた目で真っ直ぐに見据えられ、渓馬も『いいよ、一緒にやろうか』と挑戦的な視線を返した。
渓馬の激励を受けた水斗がもう一度過去の自分に挑む決心をしたことで、2人はこの果てしなく困難な演目に、共に取り組むこととなった。
【道成寺】の再演が決まると、水斗は自らの覚悟を示すかのように、既に品良く切りそろえられていた髪をさらに短く切った。そして娯楽の全てを絶ち、代わりに毎日、身を削るような長時間に渡る厳しい稽古を己に課した。
甘えを削ぎ落とし徹底的にその身を追い込み続ける彼が、自分で自分を食い殺してしまわないよう、稽古期間中はいつも渓馬がついていた。
『後シテで使う般若の面、せっかくだから新調するのはどうだ?涼に頼んで打ってもらえよ』
ガス抜きを促す一貫でそう提案した渓馬に、水斗は『あ、それいいですね。あいつに聞いてみます』と数日ぶりの笑顔を見せた。
水斗に般若の面の製作を依頼された野鴨は、感激し、その場で快諾した。過去の自分を超えるために日々稽古を続ける兄の話を渓馬から既に聞いていた彼は、自分も何か力になれないかと考えていたようだった。
そして、迎えた今日。
舞台に立った水斗は、それまでの苛烈な日々をわずかにも匂わせないほどに、凪いでいた。終始、心を鎮めて正確に、それでいて美しく柔らかに舞い進め、失敗すれば大怪我をしかねないとも言われるクライマックスの鐘入りの場面すらも、鐘後見の渓馬と息を完璧に合わせ、何の気負いも感じさせずに果たしてみせた。その様は、まさに圧巻。ある者は唸り、ある者は圧倒的な実力差に絶望し、ある者は心からの賞賛を送り、観客は各々の思いを胸に、能楽堂を後にした。
*
幕が降りてから少し経った頃、野鴨が山吹を連れて控え室に顔を出した。
「水斗さん!」
「野鴨!観てくれたか?」
「ええ、もちろんです」
互いに駆け寄り、半ば抱き合いながらの仲睦まじいやり取りを交わす2人から少し離れて静かに立っている男へ、渓馬は驚いた顔で奥から声を飛ばす。
「あれ、真太郎じゃねぇか。来てたんだな」
水斗に頼まれて面の製作を行った野鴨はさておき、彼まで観に来るなどという話は聞いていなかった。
「どこに座ってたんだよ、真太郎。前説の時もぐるっと見回したが見つけられなかった」
笑顔で自分のもとへ歩み寄ってきた渓馬へ、彼は照れくさそうにぺこりと会釈を返す。すると、水斗と話の最中だった野鴨が「俺が誘ったんです。真にも絶対に観てほしかったので」と代わりに答えた。
「水斗さんに頂いてた関係者席のチケットの予備を渡そうとしたんですが、後ろの方から全体を観たいってことだったので、真は一般のチケットを買って1人で桟敷席に座ってました」
野鴨の言葉を肯定するように、山吹は「映画とかも俺はあんまり前の方では見ないので」と小さな声で補足をする。その様子がどこか、少しソワソワとしているようにも見え、渓馬は(何かあったのか?)と首を傾げた。その視線に気付いたのか、彼は意を決したように「あの、涼さん。俺、少し渓馬さんとお話が」と野鴨へ声をかける。
「ん?俺か?」
彼の口から唐突に自分の名前が出たことで目を丸くした渓馬とは反対に、野鴨は初めからこの流れを分かっていた様子で「ああ、行ってきな。俺は水斗さんと話してるから」と頷いた。
「じゃあ渓馬さん、真をよろしくお願いします」
「行ってらっしゃい、由さん、山吹さん」
野鴨に続いて、水斗までもそう言って2人を控え室の外へと促してくる。
「お、おう。んじゃ、少し外すわ。何かあったら俺のスマホに電話して」
示し合わせたような水斗と野鴨の反応に戸惑いながらも、既に歩き出している山吹に先導され、渓馬は部屋を出た。
*
「お疲れのところ、呼び出してしまって申し訳ありません」
能楽堂の裏口付近の廊下まで来ると、山吹は立ち止まった。
「かまわねぇよ。で、どうした。話ってのは何だろう」
いつもと変わらない穏やかな笑みで応じた渓馬に、彼はまず「【道成寺】、初めて観ましたが、とても面白かったです」と感想を口にする。
「前にも能は観たことがありましたが、その時はこんなに面白いものだとは思いませんでした。俺も少しは、精神的に成長したんですかね」
言葉を続けた彼は、優しげに目尻を緩めた。
(……何だか、憑き物が落ちたように見える)
数ヶ月ぶりに彼の顔を目にして、率直に渓馬はそう感じた。
あの事件から、2年が経過した。渓馬は依然として人殺しの嫌疑をかけられることもなく、能楽師としての日常を送っている。
この2年の間に起きた大きな出来事といえば、水斗が長らく封印し続けてきた【道成寺】にてシテを演じると決断したことだ。彼の誘いで、渓馬もこの演目に鐘後見という立場で関わることになり、今日を迎えるまで彼や他の演者と共に稽古に立ち会ってきた。1年にも及ぶ長い稽古期間中、水斗から般若の面を依頼されている野鴨は何度も稽古場へ見学に訪れていたためによく会っていたが、山吹とは顔を合わせる機会が全くなかった。ただ、この演目自体が生半可な気持ちで取り組むことは許されない特別なものであることから、この1年間は渓馬自身もかなり集中を注いでいた期間であり、あまり山吹のことを気遣う余裕がなかったのが正直なところだった。
既に自分で決めた道を歩んでいる山吹に、構いすぎるのも嫌われるだけだと思っていた上に、渓馬にはずっと彼が遂げたかった復讐の邪魔をしたという負い目もあった。もちろん何も後悔はしていない。だが、彼に対する気まずさのような感情を抱くのは避けられず、あえて連絡を取らないようにしていたのも本心だった。
だから、今日の公演に彼が来てくれるとは、渓馬は夢にも思っていなかったのだ。
「そりゃ嬉しいな。水斗はどうだった?すごかっただろ。あいつは今日まで、血反吐を吐くほどの猛稽古を続けてたんだ。1人でも多くの観客の心に刺さったのなら何よりだよ。俺もホッとした」
可愛い弟分の血の滲むような努力の成果が、こうして普段あまり能に接することのない者にも伝わったことは、純粋に喜ばしいことだ。戻ったらあいつに伝えてやらないと、などと考えている渓馬に、山吹は「俺はちゃんとあなたのことも観てましたよ」と珍しく反論のようなことを口にした。
「渓馬さんが最初に出てきて前説してくれたので、分かりやすかったです。前説のおかげで登場人物や演者さんの役割なんかを理解できたので、その後は物販で買った解説本を見ながら、谷洲さんの動きを目で追ってたらあっという間でした」
驚いた。前説からそんなに真剣に観てくれていたとは。『前説なんか若手に任せておけばいいのに』と地謡方の演者に言われたのを押し切り、渓馬は『ぜひとも今日は私にやらせていただきたい』と柄にもなく名乗り出た。今日という日に向けて、全てを注ぎ込んできた水斗のことを思うと、自分もできることは全てしてやりたいという思いに駆られたのだ。
「お前からもそんな言葉をもらえるとは、ありがたいね。こうしてひとつひとつの行動が実を結んでいくと分かると、やって良かったと思えるもんだ」
胸に熱い感情が沸いてくるのを感じながら、渓馬はしみじみとした表情を浮かべる。その様子を見つめていた山吹は、1つ大きな深呼吸をすると、おもむろに「あの、渓馬さん」口を開いた。
「ん?」
「色々と、本当にありがとうございました」
「……急に、どうした」
思いもよらない言葉に、渓馬は一瞬だけ声を詰まらせる。
「一昨年の展示会……あの日から、過去のことを考える余裕ができて……本当に色々なことを考えました」
山吹は、目を伏せてそう続けた。彼に呼び出された時点でこの話をされるのではないかと少し身構えていた渓馬は、ついにその話かと身体を強ばらせる。
「俺は、あなたにずっと守られてた。ある日突然両親を失った俺が何不自由なく大人になれたのは、あなたが両親の代理人として俺を引き取ってくれたからです」
だが、渓馬の予想とは裏腹に、彼の口から語られたのはあの事件に関することではなく、純粋な感謝の言葉だった。
「山吹家の養子にしてもらえて、そのまま義両親に引き取られてたとしても、それなりに楽しく過ごせていたかもしれません。……だけど俺にとっては、あの家での生活がすごく幸せだったんです」
「─────」
咄嗟には何の言葉も思い浮かばず、渓馬はただ息を呑む。
「渓馬さんとの2人暮らしは、静かでゆったりしてて心地よかった。当時のことを、最近はよく思い出します」
そう語る彼の表情は、見たこともないほどに穏やかなものだった。
「もっと早く、感謝を伝えるべきでした。それなのに、あなたと住んでいた頃も、家を出て師匠のもとで修行を始めた後も、何かと気遣ってくれるあなたに気持ちをお返しするどころか、俺は常に他のことに気を取られていて……本当に恩知らずでした」
寂しげな微笑を浮かべて自分の過去を悔いる彼に、渓馬は胸を掴まれるような苦しさを抱く。
ある日突然、不幸に見舞われた山吹は、悲しみに暮れて完全に塞ぎ込んでしまってもおかしくない状況で、前を向いて必死に生きていた。彼の顔から笑顔が消えた理由は、間違いなく両親を亡くしたショックのためだ。あの頃の彼は、失意のどん底でよくぞ耐え抜いたと褒められこそすれ、責められるいわれなどどこにもない。
「……違う、お前は何も悪くない。あんな悲惨な状況で、お前は本当によく我慢した、真太郎」
気を抜けば震えてしまいそうになる声を必死に抑えながら話す渓馬に、山吹は「たしかに両親の死を境に、俺は随分と無愛想にはなった気がしますが、それだけです」と語りかける。
「8歳の子どもだった俺が、あの後も無理に背伸びをする必要なく過ごしていられたのは、あなたの家の子になれたからです」
「……いや、お前は山吹家の子だ。俺はただ、引き取り手になっただけにすぎない」
「どうしてそうやって自分から繋がりを絶とうとするんですか。俺を育ててくれたのは渓馬さんなんだから、俺はあなたの子です」
少しムキになったように語気を強める彼を前にして、渓馬はそれ以上は何も言葉を返すことができなくなった。
「真太郎……」
「何でしょう。まだ反論がありますか?」
「いや……ないよ、悪かった。ありがとうな」
観念した様子の渓馬を見て、ようやく山吹は「こちらこそです」といつもの調子に戻る。
それから、どちらも何も言葉を口にしないまま数分間が過ぎた。沈黙が続く中、次第に何かを言おうとしている雰囲気を見せ始めた山吹の言葉を、渓馬は顔を伏せたまま待っている。
「渓馬さん」
やがて、彼に呼びかけられ、渓馬はハッとしたように顔を上げた。
「俺は、あなたにもらった愛情が忘れられない。俺にとって、あなたが俺との生活でかけてくれた時間は、紛れもない無償の愛です」
渓馬は耐えられず、再び顔を伏せる。下を向いてじっと唇を噛み締めていなければ、情けない声が漏れ出てしまいそうだった。
「肉親以外の人からそんな尊いものをもらえるなんてことは、普通はありえませんから。俺は一度肉親を失いましたが、その肉親たちが注いでくれていた愛情を同じだけ俺に注いでくれるような存在にもう一度だけ恵まれた」
山吹の静かな語りが、渓馬の感情を強く揺さぶり続ける。
「そして俺は、その大切な存在との間に残る繋がりを、絶対に守り抜きたいんです。年を追うごとにどんどん細くなっていく糸が、ともすれば今日でぷっつり切れてしまうような予感がしていたので、俺もそうさせないよう必死なんですよ」
彼はそう言葉を続け、真っ直ぐな目で渓馬を捉えた。顔を背けていてもまるで意味がないほどの彼の強い視線を受け、渓馬は逃げ場を失う。
「渓馬さん、お願いだからこっちを見てください。俺は今、あなたに話しているんですよ」
その必死な声は、渓馬がこれまで頑なに隠し通してきた心を丸裸にするだけの力を持っていた。
「………………ッ」
目の奥にぐっと熱がこもる。次に息をしたら最後、鼻をすするような音を立ててしまう気がした。たまらず、固く閉じていた唇を薄く開き、呼気を逃がすも、みっともなくその吐息が震え、渓馬は慌てて唇を引き結び直す。
自分が今語りかけている相手が、とてつもなく大きな感情の波と戦っていることにおそらく気付いている山吹は、自身も心を決めたように深く息を吐き出し、口を開いた。
「……渓馬さん。俺はこれからも、今まで通り、あなたの子でいたいんです。親子が会って話すのに理由なんていらないはずだ。それに俺は、まだあなたに何も返せていないから。これからも俺の……父さんでいてくれますよね?」
渓馬の感情をギリギリのところで堰き止めてくれていた防波堤は、その言葉で限界を超え、決壊した。一度は腹の底に押し戻したはずの感情が、渦を巻きながら濁流のような勢いで上がってくる。止まれ、止まってくれ、出てくるな、頼むから。その心からの願いは叶わず、歯を食いしばった渓馬の目からは大粒の涙が溢れ出した。
「……ほん、とうに……やめてくれってんだよ、この野郎が。この歳になるとなぁ、涙腺が緩くなって困るんだ。……ったく」
山吹にサッと背を向けた渓馬は、両目を手で押さえ、震える声でそう告げる。その手の隙間からは、こぼれ落ちたいくつもの涙のしずくが流れ落ちていった。
まさか泣かせてしまうとは思わなかったのか焦った様子で駆け寄ってきた山吹を、渓馬は迷わず力強く抱きしめる。さすがに驚いて瞬間的に固まった彼だったが、すぐに何かを思い出したように「あ」と小さな声を出した。
「……やっぱりこの匂いだ。小さい頃はよくあなたに抱きしめてもらってたので、俺はこの匂いをよく嗅いでたんです」
「…………?」
声も出すことができずにいる渓馬に、彼は「ある時、母がたまに使ってた良い匂いの柔軟剤が、あなたの洋服の匂いと同じだと気付いたんですよ」と嬉しそうに続ける。
「昔、2種類の柔軟剤を使い分けていた母に、『何でたまにこっち使うの?』って聞いてみたことがありまして。そしたら『【大事な人】が使ってたの。真似して使ってるうちママもこの匂いが好きになっちゃって。それで今もたまに使ってるのよ』って言われました。でもその【大事な人】ってのが誰のことを言ってるのか、当時の俺には分からなかったんです」
そう言って、もう一度胸いっぱいに息を吸い込んだ彼は「やっぱり、あなたのことだったんだ」と呟いて、ぎゅっと力強い抱擁を返した。
「…………ッ」
渓馬の目から、止まりかけていた涙がまたも堰を切ったように溢れ出す。人生で初めて心の底から愛した女性が遺した子が、自分を両親の代わりだと認めてくれていた。一方通行かもしれないと思っていた自分の愛情を、この子はちゃんと心で受け取ってくれていたのだ。
(俺は、人を殺した。犯罪者だ。こいつに父と呼んでもらえる資格なんてないのに。幸せを感じる資格なんか、ないのに……)
けれど、やはり自分の行いは間違っていなかったのだと渓馬は改めて信じることができた。この子を犯罪者にせずに済んだ。それだけで、自分には生きた価値があるのだと心の底から思えた。
涙を拭うことも忘れ、渓馬は山吹の身体をさらに強く抱きしめる。すると彼も、その強さに負けぬ力で応えてくれた。
(……今だけでいい。このままでいさせてくれ)
今だけはこの優しい愛おしい温もりを離したくない、と渓馬は強く念じた。自分が人殺しである事実は変えられないし、その贖罪のために懺悔を止めるつもりはない。ただ、今だけは自分の醜悪な過去の過ちなど少しも思い出すことなく、腕の中の大切な息子との時間を噛み締めていたかった。
*
「おかえりなさい」
「お話はお済みですか?」
控え室に戻ってきた2人を、水斗と野鴨が淡々とした様子で出迎えた。渓馬の目が少し赤いことに、勘の鋭い彼らが気付かないはずもないが、2人して素知らぬふりを貫いているのはさすが双子ならではの以心伝心の力だろうか。
「……涼、待たせてすまねぇな。真太郎は返すから、気を付けて帰れよ」
一呼吸おいて話し始めた渓馬は、いつも通りの調子だ。───目の赤みがまだ引いていないこと以外は、だが。
「……渓馬さん」
「おう、真太郎。気を付けて帰るんだぞ。またいつでもうちにおいで」
水斗と野鴨を気にして呼び方を一時的に戻した山吹の頭を渓馬がくしゃりと撫でてやれば、彼の頬は安堵したようにふわりと緩んだ。
水斗と野鴨も、水入らずのひとときを過ごした様子で名残惜しげにしていたが、あまりのんびりしていてはここから家が一番遠い山吹の帰宅が遅くなってしまうことを思い出したのか、すんなりと別れの話になった。
裏口に車を着けた野鴨は、助手席に山吹を乗せたまま、一度降りてきた。
「涼、忘れ物か?」
突然こちらに戻ってきた彼を見ても何も言わない水斗に代わり、渓馬がそう声をかけた。しかし、その手首は野鴨の節くれだった手によって容易く掴まれる。
「……どうした?」
「言い忘れてたことがありました」
何事かと握られた手首を見つめて固まった渓馬を、野鴨は真っ直ぐに見据えて告げた。
「言い忘れてたこと……?」
「はい。……今日は水斗さんにとって大切な節目の日となりました」
「ん……?あ、あぁ、そうだな」
「だけど、水斗さんの人生はこれからもまだまだ続いていきます」
一体何の話が始まったのだ、と渓馬は首を傾げる。その隣で相変わらず何も言わずに立っている水斗をちらりと一瞥した彼は、言葉を続けた。
「水斗さんはきっと歩みを止めない。今年はまだ半分以上ありますし、来年も再来年も、水斗さんが生きている限り、ずっと時間は流れていく。……そしてそれは、あなたも同じですよ、渓馬さん」
その瞬間、渓馬はハッと息を呑む。じっと自分を捉えて離さない彼の瞳は言葉よりも雄弁で、彼が自分に何を伝えようとしているのか、いちいち考えなくても脳に直接流れ込んでくるようだった。
「あなたの時間も、あなたが死ぬまでずっと続きます。そして、せっかく与えられた人生にあなたが自ら無闇に終止符を打つことは許されませんからね」
「……涼」
「俺が言いたかったのは、これだけです。これからも、末永く、よろしくお願いしますよ、渓馬さん」
かすれた声でたじろぐ渓馬に、野鴨はゆっくりと言葉を区切りながらそう伝えると、気が済んだように手をパッと離した。
「……ああ、俺の方こそな。お前とは長い付き合いになりそうだから」
「もちろんです。水斗さんも、お元気で。また稽古の見学に行きますね」
「おう、いつでも来いよ。待ってる」
隣で今のやり取りをしっかりと見聞きしていただろうに、水斗はそれには一切触れず、別れの挨拶をした野鴨に向けて、何事もなかったかのように爽やかな笑顔を見せた。
(こいつら……何か2人して示し合わせでもしてたってのか……?)
渓馬はばつの悪いような思いでそんなことを考える。水斗は野鴨が話している間、渓馬がこの場を逃げ出さないよう、妙な回答をしないよう、静かに見張っていたようにも見えたからだ。
(……案外、これは邪推でもなさそうだ。この兄弟のことだからな、なかなか侮れねぇよ)
たとえ示し合わせなどしていなかったとしても、この2人なら自然とそういう連携が取れるのだろう。兄は弟を、弟は兄を心から愛し、信頼している。一方が他方の言動に何かしらの意図を感じ取った時は、即座に協力体制へと移行するような暗黙の意思疎通ができ上がっているのかもしれない。
(年々、精神面での繋がりが濃くなってるな、この双子は。そのうち兄貴の方が自然と血縁関係に気付きそうなもんだが。……だとしても涼、お前は絶対に自分が実の弟だとは明かさないんだろうな)
自分を棚に上げるようだが、野鴨の滅私ぶりも相当なものだ。車へ戻っていく男の後ろ姿を眺めながら、渓馬は密かに舌を巻いた。
*
「水斗よ、どうだった。座長として1年間駆け抜けた感想は」
野鴨と山吹を見送った後、控え室へ戻りがてらそう問いかけてきた渓馬に、水斗は相変わらず感情の読めない声で「舞台全体の出来には、とても満足してます」と答えた。
「でもそれは、当然といえば当然でしょうけどね。だって、その道のプロたちが関わってくれて、一生懸命に作り上げてくれたんですから、立派なものにならないはずがない」
上演中の景色を思い返しているのか、少し斜め上へ視線を向けて頷きながら語る水斗に、渓馬はニヤリと笑った。
「へぇ。その言い方だと、お前個人の出来には自分で納得いってないっていう風にも聞こえるが?」
「ええ、それはもちろん」
間髪入れずにその言葉を肯定した彼に、渓馬は「自分にとことん厳しい男だねぇ、お前も」と苦笑を浮かべる。
「そんな大層なもんでもないです。努力はいくらやったって終わりがないってことを、今回身をもって学んだってだけなので」
彼が自身の出来を称えるような発言を全くと言っていいほどしないのはいつものことだが、清々しいくらいの通常運転ぶりに、なかなか渓馬は苦笑を収めることができない。さすがに今回は少しくらい自分を褒めてやってもいいんじゃないか、という思いを込めて「なかなか手厳しい意見だが、その心は?」と尋ねてみると、彼は「周りが優しい方ばかりなので、俺くらいは自分にシビアでいないと」と小さく笑った。
「初演と比べればそりゃ良くなってたかもしれませんが、改善しないといけないところもたくさんありましたから。稽古期間中は本当に全力で、やれることをやり尽くしたつもりでしたが、だからといって結果がついてきてくれるほど甘くもないんだな、と改めて感じたってことです」
平坦な口調でつらつらと反省点を述べていく彼の背中を、渓馬は労わるようにぽんぽんと叩いてやる。1年間、1日たりとも休まず過酷な稽古に身を投じてきた彼をずっと見てきたからこそ「あれだけ努力したのだから、これが自分の集大成だ」という自己満足的な思考回路に至ることのない姿に、同じ能楽師として畏敬の念を抱かざるを得なかった。
「つまりお前が言いたいのは、死ぬほど頑張りましたっていう努力賞に甘んじる気はなく、今日の結果はあくまで1つの仕事の終わりに過ぎない、ってことだな?」
「そういうことです。家に帰ってから今日の内容を振り返って、明日以降はまた一から稽古し直します」
水斗からはいつも、打てば響くようにはっきりとした言葉が返ってくる。慢心もなければ、卑屈になることもない。ただひたすらに謙虚で貪欲なこの後輩は、いつだって背中を押してやりたくなるものだ。
「良い心がけだな、水斗。その気持ちを失わない限り、お前はいくらでも成長するはずだ。さっさと霜山先生を追い抜いてやれよ」
激励の言葉を贈り、歩みを速めた渓馬に対して、彼は「由さんはやっぱりすごいと思いました」とまだ話を終わらせる気はなさそうだ。
「ええ、俺がすごいって?急にどうした」
「思ったことは思った時に伝える主義なので、今言っちゃいますね。頑固な俺を【道成寺】の舞台に引っ張り出してくれたこともそうですし、由さんには人を動かす力があるんです。由さんの一声で止まっていた議論が進み出す場面に、今回も何度か立ち会いました」
「おっと、水斗よ。そりゃ少し大袈裟じゃねぇかな」
大真面目な顔の相手から褒め言葉の応酬を受けるのは少し気恥ずかしい。その辺にしておいてくれ、という願いをこめて話に割って入った渓馬だが、水斗は「いや、全く大袈裟じゃないですよ。俺は話を盛ったりしないので」と真顔のまま、この話を続ける気満々だ。
「由さんには、これまで何度も後見を務めてもらってきたわけですが、由さんが見ていてくれることで、俺は安心してやれる。何かあってもあなたになら舞台を任せられると思えるので」
「おお、随分と褒めるじゃねぇか。谷洲の次期当主にそうまで言っていただけるとは、身に余る光栄だ」
「……由さん、さっきから茶化してませんか?俺、本気で言ってるんですけど」
「ははは。悪い悪い、俺も照れくさいのよ、こうも面と向かって褒められるとな。慣れてねぇから」
話しているうちに、彼らは控え室へ辿り着く。渓馬はすぐに帰り支度に取り掛かりながら、いつも通りあえて軽い口ぶりで水斗の言葉に応じた。すると、まだ他にも伝えたいことがあるのか、彼は作業中の渓馬の視界に入る位置に丸椅子をガラガラと引きずってきて、ちょこんと腰掛ける。
「由さん」
「んー?」
「この1年間、本当にありがとうございました。死ぬほど苦しかったけど、心が壊れそうになった時は由さんに泣きつけばいいやって思いながらやれたので、俺は何とか踏ん張れた」
感謝を口にしながら顔を覗き込んでくる水斗の姿に、渓馬は(今日のこの子はまたえらく饒舌だな)と可笑しそうに吹き出した。
「だけど結局、お前が俺に泣きついてくることはなかったじゃねぇか。苦境に立ってても、自分の機嫌はちゃんと自分で取れるんだから、大したもんだよ」
「それは、本当に稽古中ずっと由さんが俺の近くにいてくれたからです。俺のこと、何度も助けてくれたでしょ。常に由さんが俺と同じだけの熱量を持って隣にいてくれたから、俺は捨て身でやれたんですよ」
そう言われ、渓馬は稽古期間中に起きたいくつかの出来事を思い起こす。
【道成寺】におけるシテの最大の見せ場である、重量のある鐘の中へと飛び込む【鐘入り】の直前に行われる、【乱拍子】そして【急ノ舞】と呼ばれる動作がある。30分にも及ぶ緊迫した空気の中、立ったままの姿勢で200近くもある型を足先で演じた後、シテは疾風が如く舞台を駆け抜ける。まさに、静から動への急激な転換。生半可な鍛錬では舞えるようにはならない。この場面の稽古を何度も繰り返していくうちに、過度の緊張の蓄積により酸欠を起こして足が攣ってしまった水斗を咄嗟に抱き留めたことがあった。
また別の折りには、前回に引き続き指南役を務めた祖父の霜山から受けた指摘を意識し過ぎるあまり、ドツボに嵌りスランプのような状態に陥った彼を放っておけず、一時期は稽古後も谷洲家の稽古場で毎晩、彼が納得するまで稽古に付き合っていたこともあった。
「そりゃあ、あんだけ頑張ってる奴を見たら、誰だって助けてやりたくなるもんだよ」
ボロボロになりながらも歩みを止めなかった水斗の姿を眩しげに思い返しながらそう答えた渓馬に、水斗は「しんどかったけど、由さんのおかげで毎日がすごく充実してて楽しかったんです」と言葉を返す。その俯き加減の瞳には、夢中になれるものを見つけたばかりの少年のような煌めきが浮かんでいた。
「そうかそうか。役に立てたようで良かったよ。……でも、本当によく頑張った、水斗。この1年、俺もお前に何度も刺激をもらったもんだ。この歳になってもまだ、若手との稽古でこんなにも勉強できることがあるんだって、学ばせてもらった」
作業の手を止めた渓馬に頭を優しく撫でられ、その心地に気持ち良さそうに目を細めた水斗は「由さんって、他の50代の先輩方と比べたら異色ですよね」と思い出したようにそう口にした。
「この年代の人たちでここまで若手に好かれてる人も珍しいというか」
「そうか?若い奴らに好かれてるかどうかは俺には分からんが……昔から、若手に嫌われるような年寄りにはならねぇって意地張って生きてきたからかねぇ」
「好かれてますって。少なくとも俺は、現役の先輩方の中では由さんのことが一番好きですよ」
「ありがとうな。俺にそんなこと言ってくれるのは昔からお前だけだよ」
もっと歳の近い後輩や先輩たちにもこのデレっぷりを見せてやれば、皆喜ぶのに。……いや、そう易々と他人に気を許さないこの男が、自分には昔から懐いてくれているのが可愛いんだった。そんなことを考えながら渓馬は、帰り支度を再開する。その様子を、変わらずじっと眺めている水斗は自分の身支度を始める気配がない。(こんなにのんびりしていて、この子は大丈夫なのかね)と出入り口の辺りを振り返ると、既に整頓されまとめられた彼の荷物が置かれているのが目に入り、支度が遅いのは自分の方だったかと渓馬はまたも吹き出してしまった。
急に後ろを振り返ったかと思うと何か面白いことでもあったのか笑い声を漏らした渓馬を見て不思議そうな顔をした水斗は、ようやく椅子から立ち上がった。
「帰るか?」
「はい、そろそろドライバーが着くので」
腕時計へ目をやった彼は、姿勢よくドアの近くまで歩いていくと荷物を抱えて渓馬へ向き直った。
「また一緒にやりましょう、由さん。今度は【二人静】でもどうですか」
「そりゃ面白そうだ。お前とは背格好も同じくらいだしなぁ。機会があればやろうか」
ようやく前向きな言葉を放った渓馬に、水斗は顔に安堵を滲ませながらも「機会なら俺が作りますよ」と自信ありげに笑った。
業の縄目 @hi_ra_gi
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