一つの後悔

桜川光

一つの後悔

 今日は、お昼寝をしたくありません。眠ったら、全てが終わってしまうような気がします。ああ、なんて綺麗な青空でしょう。なんて鳥のさえずりも美しいのでしょう。紅葉は、ずっとこの景色を見ていたいです。あら、また自分のことを名前で呼んでしまいました。小ちゃいときからの癖なんです。お母さんからはよく叱られました。自分のことを名前で呼んではいけません。私と呼びなさい、と。でも、なかなかその癖は治りません。ここの施設の職員さんは可愛いわねなんて言って笑ってくれます。ああ、思い出した。夫もそんな私のことを、可愛いねと言ってくれましたっけ。もう、随分昔のことになってしまいました。先の大戦で夫が戦死してから、もう七十九年も経ってしまったのですもの。

 私はもう百年も生きてしまいました。そろそろお迎えがきてもいい頃なのだけれどね。でも、こんな美しい景色を見るのも、なぜか今日が最後のような気がします。紅葉ったら、不吉なことを思っちゃだめね。長い人生、様々なことがありましたけれど、私の唯一の心残りは、やっぱり、夫と喧嘩別れをしたこと。誠さんは、最初から最後まで優しい人だった。誠さんとお見合いをしたときのことは、今でもよく覚えています。恋愛結婚に憧れていた私は、お見合いをすることに乗り気ではありませんでした。役場勤めの、六つも年上の人と聞いたときは、堅物なお方だろうと思って塞ぎ込んでいたけれど、お会いしたら全然そんな方じゃなかったことを今でも覚えています。優しい笑顔が印象的な人でした。誠さんは頭もよくて物知りで、外国への留学経験もある、田舎の人間にしては出来過ぎるくらいに優秀な方でした。それに比べて私は、女学校を卒業して、やっと家のことができるようになったくらいの幼く、幼稚な娘でした。この田舎では、女学校を出た娘が私ぐらいしかいなかったので、誠さんのお見合い相手に選ばれたのだと、おじいさまが言っているのを耳にしました。でも、私は優秀でもないし、英語だって得意じゃないし、勉強するよりはかけっこをしていた方が楽しくて、誠さんに釣り合わないといつも思っていましたっけ。

 お見合いが成立して、婚約をした十九の時の夏。初めて二人で出掛けたのは、地元の神社の夏祭りでした。紅葉は、誠さんを良い人だとは思っていたけれど、まだ恋心なんてなくて、胸のときめきなんてなかった。私は婚約破棄して、もしかしたら恋愛結婚もまだ夢じゃないかも、なんて思っていましたので、この初デートとでも言うべきものが最悪のものになるように、家でニンニクを沢山食べて口を臭くして、待ち合わせより三十分も遅れて行って、紅葉からは絶対に話さないと決めて、話したとしても母から禁止されていた自分のことを紅葉と呼んで嫌われようと決めこんで決行しました。それでも誠さんは、特段気にする様子も見せず、まるで一人で話しているかのように喋って、食べ物も私が口を真一文字に結んで何も食べないので一人で色々平らげて、心からこの場を満喫している様子でした。それでも不思議なもので、あんなに頑なになっていた私の心が溶かされていくように、いつの間にか誠さんの話に耳を傾けている自分がいたのです。誠さんのお話はとても面白くて、海外で見た面白い動物の話とか、恥をかいたエピソード、東京の様子などなど、どうして? それで? それから? と合いの手を入れていましたっけ。気づけば辺りも暗くなって、子供らの姿もほとんど見えなくなっていました。私は突然ハッと我に返って、口を閉ざしました。どうしたの?と誠さんが問うと、紅葉は幼子のように誠さんの目を見つめてまくしたてましたっけ。恋愛結婚がしたいから、誠さんに嫌われて縁談を破棄にするために、ニンニクを食べて口を臭くして、わざと遅刻して、決して話さず、自分のことを名前で呼ぶように決めてたのに、と。それなのにこんなに話しちゃったじゃない、と。誠さんはそれを聞くと一瞬呆然として、それから突然お腹を抱えて笑い出しました。今度は私が呆然とする番でした。誠さんは、顔を真っ赤にしながら、いつまでもケラケラと笑いこけていました。やっとのことで顔を上げた誠さんは、紅葉を見て、紅葉ちゃんは可愛いね、僕との結婚を破棄したいのかい、そうかいそうかいとニコニコしながら言って、その大きな手で私の頭をポンポンと撫でました。今でも忘れません。その瞬間、紅葉は恋に落ちました。

 その夜は、眠れませんでした。心臓がドクドクと脈打って、顔が火照って、そう、これが恋よ、と。何年も忘れていた、恋をした時のあの胸がギュッとなる感じ。私は誠さんに嫌われていないか、本当に婚約破棄されたらどうしようと気が気ではなくなってしまったのです。本当に幼稚な娘だったと思います。

  次の日、私は誠さんに手紙を書きました。この手紙が、私たちの文通の第一通目となりましたっけ。

寺山誠さま。拝啓、立秋を前に、まだまだ暑さは収まりを見せませんが、いかがお過ごしですか。先日は失礼な態度を取ってしまい、申し訳ありませんでした。どうか、私のことを嫌いにならないでください。お恥ずかしい限りで、呆れられるかもしれませんが、私は誠さんに恋をしてしまいました。お慕いしております。幼い私をお許しください。誠さんの良き妻になれるように精進しますので、どうか、結婚を破棄なさらないでください。私も、誠さんに好きになって頂けるように頑張ります。勝手な私をお許しください。もしも許して頂けるなら、誠さんとまたお出かけがしたいですし、沢山お話もしたいと存じます。気を悪くなさらないで頂けるなら、お返事をお待ちしております。木下紅葉。


 木下紅葉様。拝啓、残暑厳しい時期ですが、いかがお過ごしですか。お手紙有難う。先日の事は怒っていないので、どうか安心して下さい。恋をしたと、そう言ってもらえて僕は嬉しい。僕は、君の事をかわいい妹のように見ていたけれど、あなたを大人の女性として見れるようになりたいと思う。まだまだ未熟な僕だけれど、二人で良い家庭を築いていければ嬉しい。僕は仕事が忙しく、君と会う事が中々出来ないかもしれない。だから、時々君の様子を手紙で知らせて下さい。僕も手紙を書きます。寺山誠。


 寺山誠さま。朝夕は涼しい風を感じる季節となりましたが、いかがお過ごしですか。今日は一日中、家のことをして過ごしていました。誠さんは虫は得意ですか?私は平気です。今日も畳の上に蜘蛛が一匹這っていたのですが、家族ちりぢりになって逃げる中、私が仕留めました。結婚して、家に虫が出たら、私が退治して差し上げます。誠さんは、私に勉強を教えてくださいまし。私、あなたに釣り合う女性になれるように、英語を習得したいと存じます。英語で会話ができる夫婦って、とても素敵じゃありませんか。今日は満月がとてもきれいです。この月を誠さんも見ていたらよいのにと思いながら、この手紙を書いています。手紙を書き終わったら、小説を読んで夜更かしをする予定です。夜更かしは女性に大敵なんて言うけれど、私は気にしません。紅葉。


 木下紅葉様。九月に入ったとはいえ、依然厳しい暑さが続いておりますが、いかがお過ごしですか。この週末は東京に出張に行っていました。帰ってきてポストを覗くと、あなたの可愛らしい文字が連なる手紙が入っていて嬉しく思った。僕は虫は苦手です。小さい虫も駄目なんだ。見たら腰を抜かして絶叫するよ。だから結婚してあなたを失望させたら御免。英語は任せて下さい。僕の得意分野ですから。追伸。今、外国の喜劇映画が流行っているらしい。今度の週末二人で行きませんか。寺山誠。


 寺山誠さま。朝夕の風に秋の深まりを感じる季節となりました。お健やかにお過ごしのこととお喜び申し上げます。喜劇映画、とてもおもしろかったです。お昼もご馳走して下さってありがとうございました。その日の夜は胸がどきどきして寝付けませんでした。久しぶりのお出かけ、とても楽しかったです。追伸。今日は、久しぶりに女学校時代の友人から手紙が来ました。挙式を上げたそうです。次会えるのはいつかしらと思うと寂しいです。紅葉。


 木下紅葉様。風に揺れるコスモスに、秋の深まりを感じる頃、いかがお過ごしですか。気づけば、君の手紙を心待ちにしている毎日です。君を知れば知るほど、君はとても魅力のある女性だと感じる。いつも楽しい話を有難う。君は自分を名前で呼ぶ癖があるんだね。なんて可愛らしいんだろう。最近は仕事が忙しくて、睡眠時間が短いです。でも、そんな僕の睡眠時間を削ってでも紅葉ちゃんに手紙を書く僕です。駅前にある、美味しい団子屋を知っているかい。僕はいつもそこで団子を食べている。奥から三番目の席が僕の定位置です。そこから見える外の景色は絶景だ。良かったら是非座って御覧。寺山誠。


 寺山誠さま。稲田は黄金に輝き、実りの秋を迎えておりますが、いかがお過ごしですか。私は、風邪を引いてしまいました。私、体がたまに弱くなるんです。このまま死んでしまったらどうしようと思うと惨めです。誠さんがお見舞いに来てくれたらいいのに。追伸。ごめんなさい。冗談なので気にしないでくださいまし。風邪引きの紅葉。


 木下紅葉様。吹く風に金木犀の香りを感じる今日この頃、いかがお過ごしですか。僕がお見舞いに行った時の君の驚いた顔といったら。写真に撮りたい位です。この手紙が着く頃には、もう元気になっている事だろう。僕は今日も仕事に明け暮れる日々です。追伸。話は逸れるが、いつか君にも、僕が行っていたアメリカの風景を見せてあげたい。寺山誠。


 寺山誠さま。抜けるような青空に、美しい紅葉が映える季節となりました。おかげさまで元気になった紅葉です。毎日、あなたを想う日々です。あなたに釣り合う妻になれるように、毎日家事に教養に励んでいます。一度でいいから、あなたのお手を握ってみたいと存じます。追伸。愛の重いのを許してください。秋の紅葉。


 木下紅葉様。暦の上ではいよいよ立冬を迎えましたが、いかがお過ごしですか。仕事をしていると、ふと、あなたは今何をしているだろうと考える事があります。お弁当があなたの手作りだったらと考える事があるのはここだけの秘密です。しばらく会えていないけれど、元気に過ごしているだろうか。僕はまた出張が入ってしまったので、もうしばらく会えない事を許して欲しい。誠。


 寺山誠さま。紅葉も過ぎ、冬が駆け足で近づいてきましたが、いかがお過ごしですか。出張先は東北の方だと聞きました。お寒くはないですか。紅葉だったら、一瞬で風邪を引いているところです。田舎からあなたの健康をお祈りしています。今日は新しいレコードを買いに駅前に行ったので、団子屋に入って例の席に座ってみました。とてもいい景色ですね。ここからの景色も、私たち二人だけの秘密にしませんか。あなたの紅葉。


 木下紅葉様。吐く息は白くなり、朝夕の冷え込みが身に染みる時節、いかがお過ごしですか。長い出張から帰ってきて郵便受けを見ると、君からの手紙が投函されていて嬉しく思った。今度休暇が取れたら、二人で東京の方に遊びに行かないか。君にも東京の街を見て欲しい。君と久しぶりに話したい。誠。


 寺山誠さま。東京で、あなたからの「愛している」のお言葉、とてもとても嬉しかったです。私、その日の夜は、嬉しくて、嬉しくて、泣きました。あなたと手を握ったこと、一生忘れません。あなたの良き妻になれるよう、挙式まで精進します。愛を込めて。紅葉。


 木下紅葉様。残り一枚となったカレンダーに、物寂しさを覚える今日この頃、いかがお過ごしですか。だいぶ寒くなってきましたが、お体の調子を崩されてはおられませんか。今年のクリスマス、良かったら一緒に過ごしたい。月を見上げては、君を想っている。愛を込めて。誠。


 寺山誠さま。今年も余日わずかとなりました。いかがお過ごしですか。クリスマスの日にあなたから頂いた赤いブローチ、私の大切な宝物です。素敵なプレゼントをありがとう。あなたからの温かいハグも、一生消えることのないプレゼントになりました。今年も大変お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。紅葉。


 木下紅葉様。明けましておめでとう。今年もよろしくお願いします。新年の挨拶に来てくれた時の君の着物姿は、とても美しかった。君も、今年でやっと二十歳なのだね。四月にはいよいよ挙式だ。仕事に励み、勉学に励み、君に相応しい夫となれるよう努めようと思う。追伸。今年の元旦は君への手紙で始めました。君の健康を祈って。誠。


 寺山誠さま。冬の寒風が身に染みる時期となりましたが、いかがお過ごしでしょうか。寒くて寒くて、こたつから出られない日々が続いております。私、今、英語の勉強を頑張っています。今度会った時は私に英語で話しかけてくださいまし。きっと私の英語力に驚くはずです。誠さんは洋書は読みますか? 追伸。今から四月が楽しみでなりません。あなたの紅葉。


 木下紅葉様。暦の上では大寒とはいえ、冬晴れの穏やかな日々が続いております。今ではめっきり減ったが、学生の時は洋書を読んでいた。今度会う時まで、君の英語力を楽しみにしていよう。僕は、最近休日になるとこたつに入りながら小説を読み耽っています。純文学が好きな僕だが、君はどんな小説が好きですか。追伸。僕が最近読んで面白かった小説を同封しました。もし良かったら読んでみてくれ。誠。


 寺山誠さま。梅のつぼみがふくらみ始め、春の息吹を感じる今日この頃、いかがお過ごしですか。同封されていた小説、読みました。とても面白かったと存じます。特に、主人公が死んでしまうところなんて、涙なしでは読めませんでした。私も小説を同封します。私が読むのはほとんど恋愛小説なので、誠さんの趣味に合うかは分かりませんが、是非感想をお聞かせください。そういえば、先日女学校時代の友人が出産したという知らせを受けました。声に出して驚いてしまいました。私はまだ結婚もしていないのに、皆私を置いてどんどん先に行っているようで。でも、私には最愛の誠さんがいます。いつまでも、私の側にいてくださいまし。愛を込めて。紅葉。


 木下紅葉様。寒さの中にも、春の足音を感じる季節となりましたが、いかがお過ごしですか。先日は、僕の家に果物を届けに来てくれて有難う。家族皆で美味しく頂きました。少し化粧をしていた君の姿に、何故だかすごく見惚れてしまった。少し見ない間に、随分と大人になったのではなかろうか。戦争の足音も近づいて来ているが、無事に来る四月に、君と婚姻を結べる事を心待ちにしているよ。追伸。今度の週末、時間が取れそうなんだが、一緒に街の方へ出掛けませんか。君を想って。誠。


 寺山誠さま。木の芽起こしの雨に、春の訪れを実感する今日この頃、いかがお過ごしですか。先日の週末は、素敵な時間をありがとうございました。誠さんから貰った花束は、今も大事に、紅葉の部屋の花瓶に生けてあります。枯れてしまう前に、押し花にしようと思います。日に日に、挙式の日が近づいて参りました。一日でも早く、あなたの妻になれる日を心待ちにしております。あなたを想わない日はありません。夜空に浮かぶ月を見ては、誠さんも同じ月を見ているだろうかと思いを馳せ、気づけば夜が更けています。あなたも同じ気持ちでいることを願っています。追伸。愛の重い紅葉を許してくださいまし。あなたの紅葉。


 木下紅葉様。野山の雪も解け始め、ようやく当地にも春がめぐってまいりましたが、いかがお過ごしですか。僕も、毎日のように君を想って眠りについています。でも、一人で眠る日々も後ひと月程で終わりです。これから、君とどんな家庭を築けるだろうかと心を浮き立たせながら待ちわびている。君と出逢って早なな月。幼い君に恋をして、こうして文通をやり取りできることの幸福を噛み締めている。戦況は日に日に悪化しているが、無事に君を妻として迎えられる事を心待ちにしている。愛を込めて。誠。


 寺山誠さま。小鳥のさえずりに目を覚ます季節となりましたが、いかがお過ごしですか。先日、ご近所の方の出兵の、万歳三唱をやってまいりました。ああ、出兵を見送る奥様の顔は、なんて辛いんでしょう。一日でも早く、あなたと夫婦になりたいと願います。一日でも早く、あなたと同じ屋根の下で暮らしたいと願います。あなたの紅葉。


 木下紅葉様。桜の花が咲く頃となりましたが、いかがお過ごしですか。もう一週間もしたら僕たちの挙式があります。結婚をしたら、もうこうして文通を書くことはないのだろうかと思うと、少し寂しい気もするが、ようやく君と生活を共に出来るのだから、これほど嬉しいことはない。今までの手紙は、全て大切に保管しています。そして、辛いとき、苦しいときはあなたの手紙を読み返して、元気を貰っているのです。僕と出逢ってくれて有難う。僕の妻になってくれて有難う。一日でも長く、君と一緒にいられるように長生きをしたいと、二十六ながらにして思う僕です。愛を込めて。誠。


 四月吉日。誠さんと私の挙式の日は、快晴が広がり、とても暖かく、桜が満開に咲いたとても素敵な日でした。あの日二人で撮った結婚写真は、色褪せてもなお、今もこの施設の部屋の引き出しの中に、丁寧に保管してありますっけ。あの時も誠さんは優しかった。私は、写真の中の誠さんの優しいほほ笑みを見るたびに、胸がギュッと締め付けられて、目の奥が熱くなってしまいます。会いたい。会いたい。誠さんが死んでから、何回、何十回そう思ったことでしょう。その時に、もう一生分の涙を流し切ったと思ったのですが、やっぱり、いくら歳を取っても、涙は枯れることなく溢れ出てくるものです。私と誠さんの新婚生活は、それはとても幸せだった。私たちの結婚生活はわずか一年という短いものだったけれど、私の人生の中でその一年間が、今も褪せることなくきらきらと光り輝いています。

 それは、結婚して一年が過ぎたある六月の日の事でした。その日のことは今も鮮明に覚えているわ。戦況が悪化して、私たちの町にも疎開をしてきた子どもらが沢山いるようになっていました。たまに、この田舎にも空襲警報が鳴り響く夜もあったわね。朝ごはんの片づけをしていた時でした。どんどんどん、と玄関の扉を叩く音がしました。はあいと紅葉は小走りで出ていき、引き戸を開けると、そこには軍服を着た男性が立っていました。私の胸に、ざわと嫌なものがうごめきました。

「おめでとうございます。召集令状です。」

その瞬間、時が止まったわ。差し出された赤紙には、確かに誠さんの名前が書かれていた。男性が立ち去ってもなお、私はその場から動くことができませんでした。瞬きをすることもできなかった。しばらくすると、紅葉が戻ってこないのを心配したのか、誠さんが、紅葉、どうしたんだいと言ってやってきました。赤紙を手に動かない私の側に来て、誠さんはすっと赤紙を私の手から引き抜きました。私は、動くことができませんでした。開かれた瞳から、涙がポタ、ポタと床に落ちました。次の瞬間、私は弾かれたようにうわあと声を上げて、奥の部屋へと走っていき、畳の上に伏せって泣き叫びました。

 召集令状が届いてから数日間、私は塞ぎ込み、誠さんとろくに会話もしませんでした。時間があったらしくしくと泣き、誠さんとの残された日々を泣いて泣いて過ごしました。食事のときも、寝るときも、誠さんとの貴重な時間を、私はずっと塞ぎ込んで泣いていたのです。ある夜の事でした。畳の上の布団の上で、私は体を丸めながら泣いていました。誠さんが、隣に座って、そんな紅葉を見ていました。

「紅葉ちゃん、いつまでもそんな態度を取られたら、僕悲しいよ。涙を拭って、顔を上げてくれないか」

誠さんが、言いました。私は弾かれたように飛び起きると、誠さんの両腕を掴んで幼い子供のように泣きながら懇願しました。

「じゃあ行かないでっ。戦争なんかに行かないでっ。いつまでも紅葉の側にいてっ」

誠さんは、悲しそうな、困ったような顔をして、私を見つめ返しました。そして、ぎゅっと目をつぶると、まるで幼い子供に言い聞かせるように、私を見て、優しく言いました。

「必ず、帰ってくるから」

そして、私の頭をポンポンと撫でました。私の目から、また、涙が溢れ出ました。行ってしまうのだ。誠さんは、本当に戦争に行ってしまうのだ。私がどれだけお願いしても、誠さんは行ってしまうのだ。私には、召集令状を拒否することができないことは幼いながらにも分かっていました。でも、それを受け入れることが出来なかった。命の保証がない所に、行かないで欲しかった。戦争なんかに行かないと、いつまでも紅葉の側にいると、誠さんにそう言って欲しかったのです。私はまた、布団の上に平伏して、わあんと声を上げて泣き続けました。

 それからの私は、人形のように生気がなく、塞ぎ込み、泣き続ける日々を繰り返しました。空襲警報が鳴っても、私は頭巾を被ることなく布団の上で泣いているので、誠さんが無理やり頭巾を私に被せて、私をおぶって防空壕まで運んでくれました。防空壕の中でも私は泣き続けました。誠さんは、そんな時、私の体に手を回して抱き寄せ、とんとんとしてくれました。あと数日もしたら、誠さんは戦場に行ってしまうのだ。あの爆弾を落とす米兵と同じように、戦いに行ってしまうのだ。そう思うと、私の涙は止まりませんでした。

 それは、誠さんが出兵する前日の夜の事でした。家の柱に寄りかかって泣いている私を見かねて、誠さんがしゃがみ、私の背をさすっていました。

「紅葉」

誠さんが、優しく私を呼びました。

「必ず、帰ってくるから」

紅葉は、しゃくりあげながら泣いていました。

「僕を信じて待っていて」

私は、ゆっくりと立ち上がりました。涙はとどまることを知らず、どんどんと溢れ出てきます。

「……行かないで」

ようやく発した言葉は、子供のような抗議でした。

「必ず、帰ってくるから」

誠さんは、辛抱強く私に言い聞かせます。やだ、やだと、私は幼子のように両手で目をこすりながら泣きました。

「紅葉、おいで」

誠さんが、両腕を広げて私を抱きしめようとしました。でも、私はそんな誠さんの腕をパシッと払いのけたのです。

「いやっ」

私は涙で霞むしかいのなか、誠さんを睨みました。

「行くなら勝手に行けばいいじゃない!」

それでも誠さんは優しく私を見つめていました。

「紅葉」

次に放った一言を、私は何十年経った今でもずっと後悔しています。

「誠さんなんか、大っ嫌い!」

その時の誠さんの悲しそうな表情は、何年経っても忘れることはできません。私は駆けて、寝室に行き、布団を被って一晩中泣き続けました。

 次の日の朝、誠さんの出兵の日がやってきました。私は午前三時頃に眠っている誠さんを残して台所に行き、朝食と、戦地に持っていくおにぎりを作りました。食事を、最後誠さんに作らせていかせるのは酷いと思ったからです。私は食事を作り終わると、また布団にもぐって、しくしくと泣き続けました。

 日が昇りました。誠さんが朝の六時頃に置きだして、ご飯を食べている音が聞こえてきました。それでも私は泣いていました。最後の家での食事を、一人で食べさせてしまって御免なさいと、今でもそう思っています。食事を食べ終わった誠さんは、丁寧に、食器を洗ってくれていました。そして、朝の八時頃、もうじき出兵の時間です。誠さんは、全ての準備を終えて寝室に来ると、跪き、誠さんに背を向けて泣いている私に語りかけました。

「紅葉」

その声は、とても優しかった。私は泣きながら、誠さんの言葉をじっと聞いていました。

「僕はじきに行くよ。最後に、もう一度だけ顔を見せてはくれないか」

私は誠さんを振り返ることはありませんでした。行ってしまう。取り残された怒りの方が強かったからかもしれません。誠さんはしばらく待っていましたが、起き上がらない私を見て諦めたのかもしれません。言葉を繋ぎました。

「紅葉、僕と出逢ってくれて有難う。僕の妻になってくれて有難う」

ゆっくりと、優しく、語りかけてくれました。

「君との結婚生活は、わずか一年という短いものだった。でも、僕の人生の中で最も光輝いていた一年だったと思う。沢山の愛を有難う。僕は、君にどんなことを言われても、怒りはしない。それを忘れないで欲しい。僕が戦地に行ったあと、君が、自分の発した言葉で自分を苦しめる事のないように行っておくよ」

私の涙は止まりませんでした。

「僕は、君のことが大好きだ」

私の心に、誠さんの言葉がすっと入ってきました。

「必ず、帰ってくる」

そう言いました。

「だからその時まで、どうか達者で。紅葉」

深く、息を吸いました。

「行って参ります」

誠さんは、そう言うと立ち上がりました。部屋を出ていく気配がします。しばらくして、外で、万歳三唱が聞こえてきました。私は嗚咽を我慢することなく泣きました。声を上げて泣きました。万歳三唱が終わりました。私は窓に駆け寄りました。軍服を着た誠さんが、堂々と道を歩いていくのが見えました。

「誠さんっ……誠さんっ……」

誠さんは、二度と振り返りませんでした。私は、誠さんの姿が見えなくなるまで、その姿を見つめていました。とうとうその姿が家の奥に消えた時、私はわなわなと崩れ落ちて、泣き叫びました。とうとう行ってしまったのだ。大嫌いと言ってしまったことへの後悔が、どっと押し寄せてきました。

 それからの日々は、とても暗く、寂しく、悲しいものでした。食事をするのも一人、眠りにつくのも一人です。もうこの家に、誠さんはいません。毎日毎日泣いていました。ですが、そんな私に、希望の光が訪れました。誠さんが出兵して二週間後のこと。私の妊娠が分かったのです。私は泣いて喜びました。そして、この子を何が何でも守ろうと、この子と一緒に誠さんの帰りを待とうと、そう決心しました。それだけではなく、あれから、私は、誠さんの机の上に、紅葉へと書かれた一通の手紙を見つけたのです。私は、まだ読まないことに決め、大事に箱の中に入れて取っておきました。

 八月某日。長い戦争が終わりました。私は、誠さんの帰りを信じて待っていました。必ず帰ってくる。そう信じていました。ですが、その希望は儚くも消え去ることになるのです。九月のある日、私は玄関先で、一通の紙を見て動けずにいました。それは、誠さんの戦死を知らせるものだったのです。世界の全てが、終わったかのように感じました。私の手から、紙が落ちました。よろよろと、私は台所に向かいました。そして、そこから一丁の大きな包丁を抜き取ると、自分の喉元に切っ先を向けました。震える手を押さえつけます。死のう。私も、この子と一緒に誠さんの所へ行こう。目をぎゅっとつむり、包丁に力を入れた時でした。

「何やってるの!」

ばん、と、私の手から包丁が落ちました。そして、頬にも熱い感覚がジワリと広がります。頬を殴られたのです。見ると、いつの間に家を訪ねて来たのでしょう、血相を変えたお母さんがいました。

「何やってるの!」

母はそう繰り返しました。私の目から、つーと涙が流れました。それが皮切りになったのか、涙が次から次へと溢れでました。

「誠さんが死んだの! 私も死ぬの! この子と一緒に死ぬの!」

「馬鹿者!」

母は私の両肩を持って、がくがくと音が鳴るほど激しく揺さぶりました。

「生きるのです! 何があっても生きるのです! 死ぬなんて、ばかなこと二度と言わないで頂戴! あなたは、誠さんが残してくれたその子を守り抜きなさい! 誠さんの分まで生きなさい! あなたが死ぬことを、誠さんは望んでなんかいない!」

うわあと、私は声を出して泣き叫びました。どん、どんと床を拳で叩きました。手から血が滲みました。それでもやめませんでした。母に抱きついて泣き続けました。私がそれから死を選ばなかったのは、お腹の中にいる子の存在があったからでした。もし子供が居なければ、母にどう言われようと、私は死んでいたと思います。

 そして、私が死を選ばなかったもう一つの理由は、誠さんが最後に遺してくれた一通の手紙でした。私は震える指で、箱から手紙を取り出し、読みました。中には、誠さんの綺麗な文字が、並んでいました。

「僕の最愛の人、紅葉へ。

 召集令状が届いて、君は毎日のように泣いている。僕は、君に必ず帰って来ると約束したが、その約束を守る事が出来なかった時の為に、この手紙を書いている。

 紅葉、約束を守れなくて、御免なさい。君の信じる気持ちを裏切る形になってしまって、御免なさい。君は、僕の訃報を知ったら、きっと毎日のように泣いているだろう。生きる希望を、無くしているかもしれない。死にたいと思う時も、あるかもしれない。幼い君を、田舎に一人置き去りにさせてしまう事になってしまって、僕はとても辛い気持ちでいっぱいだ。出来るなら、君の元に帰りたかった。二人で行きたい所が沢山あった。見たい景色が沢山あった。やりたい事が沢山あった。何一つ叶えてあげられない僕を、許して欲しい。そして願わくば、君に約束して欲しい事がある。どんな事があっても、死なないと約束して欲しい。例え僕が帰ってこなくても、君には寿命を生ききって欲しいんだ。生きて、生きて、生きて、色々な経験をして欲しい。色々な幸せを味わって欲しい。僕が帰ってきたら、ずっと君の側にいる事が出来ただろう。でも、僕が死んでも、ずっと君の側に僕はいる。魂になって、僕はずっと、君の側で、君の人生を見守っていると誓う。君がこの手紙を読んでいる時も、僕はきっと君の側にいよう。君が涙を流している時は、頭を優しく撫でてあげよう。君が笑っている時は、一緒に笑ってあげよう。君が悲しんでいる時は共に悲しみ、怒っている時は共に怒ろう。僕はずっと君の側にいる。君が寿命を終えて死ぬ、その最期の瞬間まで、僕は君の隣にいよう。君が死んだら、一番に君を迎えにいこう。そして天国で、誰にも邪魔される事なく、何年も何十年も、共に過ごそう。これが僕からの、最期のメッセージだ。

 そして紅葉、愛している。心から、愛している。大好きだよ。

限りない愛を込めて。君の夫である、誠より」

私の目から涙が溢れ、鼻を伝って落ちてゆきました。誠さん、誠さんと、私は手紙を胸に押し当て、誰の目もはばかることなく泣き続けました。今この瞬間にも、誠さんは紅葉の側にいるのだ。そう思うと、不思議と生きる力が湧いてくるのでした。

 四月になりました。まるで予定していたかのように、私は、私と誠さんの結婚記念日の日に、赤ちゃんを出産しました。とても可愛らしい、女の子でした。誠さんが遺してくれた、何にも代えがたい宝物でした。私はこの子を、誠さんの子と書いて、「誠子(まこ)」と名付けました。誠子がこの世に誕生してからの日々は、それはとても幸せでした。私は誠さんに思いを馳せながら、毎日、育児に明け暮れる日々を送りました。女の子は父親に似るとよく言いますが、誠子は本当にその通りで、まるで誠さんに生き写しでした。目も鼻も口も、耳の形も、髪の毛も、まるで誠さんと同じでした。私は誠子を見ては、誠さんを思い出してひそかに泣いてしまう日もありました。誠子は、誠さんがそうだったように、それはとても優しい女の子に育ちました。私は誠子と一緒に、ラジオで英語の勉強をし、誠子が十歳になった時には、お金を貯めて、いつか誠さんと行こうと約束していたアメリカに、二人で旅行にも出掛けました。

 いつしか時は流れ、幼かった誠子も結婚し、私は孫に囲まれながら、幸せな日々を過ごしました。

 ああ、なんだか、昔のことを思い出していたら、目頭が熱くなってしまいました。それにしても、今日はなんて気持ちの良い天気なんでしょう。

なんだか、うとうとと眠たくなってきました。このまま目を閉じたら、誠さんに会えるような気がします。少しずつ、心臓の鼓動が静かになっていくような気がします。瞼が、とても重いです。今日はお昼寝はしないと決めていたのに、このまま眠ってしまいたくなります。ああ、桜の良い香りがします。もう、ほとんど目を開けていられません。なぜかしら、隣に、誠さんがいるような気がします。私のすぐ隣にいるような、そんな気配が。頭が、暖かいです。まるで、誠さんに、優しく頭をぽんぽんと撫でられているような気がします。ああ、誠さんに会いたい。いいえ、もうすぐ会えます。あと数秒もしないうちに。あの優しい笑顔で紅葉を抱きしめてくれる。なぜだか、そんな気がするのです。

 そして、紅葉は、誠さんのいるところへと、散りました。

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