馬の餌

わたねべ

馬の餌

 またお馬さんに餌をあげたいなあ。


 夏の青い空に、馬みたいな形をした雲が、ふわふわと浮かんでいた。

 

 久しぶりに眺めた空に浮かぶそれを見て、祖母との記憶をじんわりと思い出す。


 優しい祖母が連れて行ってくれたあの牧場。


 幼かった私は、小さな手で握りしめたにんじんを、柵越しで待っているお馬さんにそっと差し出した。


 お馬さんがもしゃもしゃと食べ始めた時の、手のひらに伝わるくすぐったさが楽しかった。その感触を大好きで、自然と笑顔がこぼれたのを覚えている。


 ああ、また行きたいなあ。


 あの頃は何もかもが新鮮で、刺激的で、常に満たされていた。

 

 私が楽しそうな笑顔を見せると、周りの大人たちも笑顔になり、それを見て私もまた笑顔になっていた。悪意のないあったかい、とてもあったかい輪の中心に私はいた。


 優しかった祖母と過ごした日々に、思わず目頭が熱くなる。


 ほろりとあふれた涙は真っ青な空の中に消えていく。


 バタバタと服がはためくくらいに吹き付ける風は、その勢いで雲の形をどんどんと変えていった。


 まるで、思い出が逃げていくように、白い馬は消えていく。

 雲は流されてもうそこにはなかった。


 もし、もう一度お馬さんに餌をあげられたなら、あの日のようにもしゃもしゃされるくすぐったさに、心から笑うことができるだろうか。

 

 普段は画面越しにしか見ることのない、あの大きな動物の迫力に、心から感動することができるだろうか。


 そんなことを考えているうちに、時間が迫っていた。


 久しぶりに見上げた空は、短いような長いような、不思議な時の中で私に幸せを思い出させてくれた。


 少しだけ後悔ができた。

 もし一つだけ願いが叶うなら、もう一度だけお馬さんに餌をあげたい。


 時間が迫っていた。


 私は静かに目を閉じる。


 バチュンッッッ


 という、重く湿ったものがつぶれたような、激しい音が響く。


 その音と同時に、あたりには赤黒い液体が、その物体を中心として広がっていた。


 人間だったものの周りには、たくさんの人だかりができている。


 しかし、彼らは心配するよりも先に、その様子をスマホのカメラに収めようと必死になっていた。


 カシャカシャカシャカシャ、不快な音が鳴っている。


 彼らは同情したふりをしながら、誰一人としてその手を止めない。


 彼らの、その醜く歪んだ顔は、まるで餌を前にした動物のようだった。



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馬の餌 わたねべ @watanebe

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