ショートストーリー

月川 ロナ

第1話

夏の夕方、校門の前に停められた赤い自転車が目に入った。

あれは、いつも澪が乗ってるやつだ。


「また残ってるのか」


教室の電気はもう半分以上消えてて、吹奏楽部の音だけがかすかに響いてる。

俺は鞄を肩にかけたまま、職員室横の廊下をのぞいた。


やっぱりいた。

澪が黒板にチョークで数式を書き写してる。


「……まだやってんの?」

「わっ……!海斗!? 帰ったかと思った」

「いや、宿題忘れて取りに来ただけ」


嘘だった。本当はただ、澪の自転車が残ってるの見て気になっただけだ。


澪は成績優秀で、先生から「模範生」って呼ばれてる。

でも、最近はずっと疲れた顔してた。

家の事情で塾に行けなくなったって、前にちょっとだけ話してた。


「手伝おうか?」

「えっ……」

「問題、難しいんだろ。少しくらいはな。」


澪は驚いた顔して、それから小さく笑った。

「じゃあ……お願い」


黒板の前に二人並んで、数式を解いた。

外はもう薄暗くなってて、窓の外の空がオレンジから紫に変わっていく。


そのとき、ふと昔のことを思い出した。


まだ小学生だったころ。

夏休みの午後、公園で遊んでたら澪が赤い自転車に乗ってやってきた。


「見て見て!やっと補助輪外せたんだ!」


澪は汗だくで、でも誇らしげに笑ってた。

俺は「おそっ」とからかったけど、内心は羨ましかった。

だって、その笑顔が眩しくて、なんか負けた気がしたから。


それからずっと、校門に停まってる赤い自転車を見るたびに、あの日の笑顔を思い出してた。


「澪さ」

「ん?」

「最近、笑ってなかったろ」


澪の手が止まる。チョークの先が小さな音を立てて粉を落とした。


「……バレてた?」

「うん。いつも元気そうにしてても、なんか違った」


澪は少しうつむいて、消しゴムを握りしめた。


「うちね、来月引っ越すの。父さんの仕事で」

「……え」


息が詰まった。頭の中が真っ白になる。


「だから、そっちにお金を回すために塾もやめちゃったし…だから残りの時間で少しでも頑張らなきゃって思って……」


澪は無理に笑おうとしたけど、声が震えてた。

俺は何も言えなかった。ただ心臓がうるさいくらい鳴ってるのがわかった。


黒板に書かれた数式が、急にどうでもよく思えた。


「なあ」

「……なに?」

「俺さ、澪の赤い自転車見ると安心するんだ」

「安心?」

「うん。朝校門に停まってると、『あ、今日もいる』って思える」


澪はびっくりしたみたいに目を丸くした。


「だからさ、引っ越しても……たまに、その赤いやつで来いよ」

「……ふふ、無理だよ。遠いもん」

「じゃあ写真送って。『まだ乗ってるよ』って」


澪は黙って俺を見つめ、それからふっと笑った。

今まで見たどの笑顔よりも自然だった。


「うん、約束する」


その瞬間、教室に差し込んだ夕陽が澪の横顔を照らした。

俺は心の中で思った。


――あの日、公園で見た笑顔と同じだ。

――この景色を、絶対忘れたくない。


そして、引っ越しの日が来た。


校門の前にはもう赤い自転車はなかった。

からっぽの駐輪場が、やけに広く見えた。


数か月後


家に帰ると、ポストに小さな封筒が入っていた。

差出人の名前は書いてないけど、字を見ただけでわかった。


中には写真が一枚。

夕暮れの道に立つ赤い自転車と、その横で笑う澪。


その裏に、短い文字が書かれていた。


「まだ乗ってるよ。約束、守ったから」


写真がにじんで、文字が滲んで、もうよく見えなくなった。

でも俺には、はっきりわかっていた。


――この先どれだけ時が経っても、あの赤い自転車を見るたびに、きっと涙が出る。

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ショートストーリー 月川 ロナ @natsuki-natyan

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