まどろみ濃く憂う

猫井はなマル

まどろみ濃く憂う

夏。

全身がガラスのごとくドロドロ溶けていく残酷な季節。「さくら」を名前とする春生まれのわたしの天敵。ただし、この夏という呪われた季節にも、いいところはある。


夏休み。果てしない怠惰を許してくれる、慈愛の女神の仮の姿を、我々は夏休みと呼ぶ。


そんな慈愛の女神の名のもとに、怠け狂った大学生のわたしは、ようやく気づいた。宴も酣となったこの怠惰期間、わたしは何もしていない。


ただ酒と菓子を食らい、全身の力を放出し、まどろむ瞳に抗うことなくクーラーの効いた天国ことマイルーム(ボロアパート)で自由気ままに慈愛の女神に甘えていただけだ。


これはまずい。


レポートや課題はともかく、少しは思い出をつくりたい。


そうだ、海外。海を渡り空を横切り陸をまたぎ、

まだ見ぬ世界へ飛び立ってしまおう。

決意した怠け狂いのわたし、やけに軽い財布を覗く。

この財布の中身が、わたしの全財産……。


えー、うん、そうだな。海外旅行は、ちょっとやめておいた方がいいのかもしれない。

国内旅行に切り替えるべきだ。

お金の代わりに寂しさがつまった財布をポケットに突っ込み、計画を考える。


京都?大阪?東京?福岡?北海道?沖縄?

派手にやろう。旅行はそれがいいのだ。


すっかり衰えた脳内を掻き回し、都道府県名を連ねているところ、電話がかかってきた。親だろうか…先にくしゃみをすませて、スマートフォンをつかむ。


「はい、もしもし」

「うぇーいさくら、夏休み、なんかやった?」


このやたらと機嫌とノリの良い謎の女は、木谷美沙夜。通称ミサ。わたしと同じ大学に通う、薬学部の変わり者である。


わたしとは学部も地元もサークルもバイト先も何もかも違うのに(そもそもわたしはサークルには興味がなくバイトもしていない、学費は免除で生活費は仕送りだ)、接点のないわたしと何故か仲良くしてくれるよくわからない美女だ。


「ミサ、久しぶり…まあ予想つくと思うけど、わたしなんにもやってないよ。ナマケモノもびっくりな生活してるだけ。」

「そうでしょうな」

なんか、鼻につく言い方だな。

「で、わたし、暇を持て余すさくらに提案なんだけど」

「なに?」

「わたしの地元に来ない?埼玉という土地に」

「……え?」

「今から行こう!暇なんでしょ?」

「……はい?」


やはりミサはよくわからない女だ。


急に電話をよこして、提案があると言い、その内容がわたしとは何も関係のない埼玉への遠征。

「わたしの地元に来ない?」だと。

意味がわからない唐突な企画。埼玉には行ってみたいが、こんなにいきなりでは……。

と考えつつも、暇なわたしはやってくる。


待ち合わせ場所のミサのマンションに、だらけきって退化した足をひきずってやってくる。


無気力に日々を侵され、女神に甘え、空っぽなカレンダーをゆるやかにめくる毎日を過ごしているわたしに、ミサの誘いを断ることなど出来なかった。たとえそれが、「地元」「ふるさと」という、わたしの地雷を踏みつける言葉を履修した旅だとしても。


せっかく友達が声をかけてくれたのだ。ちょうどどこかに出かけようとしていたところだ。一緒に行ってみよう。ふるさとの旅でも。


「やあ、さくら!お久しぶり」

「ようミサ。一体何が目的だ」

「そんな大袈裟な言い方〜。」


生まれも育ちも埼玉で、高校を卒業して県外の大学に進学するまでは、修学旅行でしか埼玉の外に出たことがなかったというミサ。


「では行きましょう、桃源郷へ!」

「埼玉のこと桃源郷って呼んでんの?」


くだらないやり取りをかわし、わたしとミサは埼玉行きの電車をかかえる駅へと向かった。


○○○


車窓に映る街並みは、流れて消えて、横目にこぼれ落ち、わたしの心を溶かしたまま、駅は彼方へ遠ざかっていく。


ろくでもない格好のままわたしは、いちごミルクとバナナミルクを両手に座席の奥へ身体をうずめる。甘いものの匂いは見知らぬ土地への緊急旅行にわずかながらも不安になる心中を整えてくれる。


「うぇいうぇいうぇい」


小声でノッているミサ。


片手には、狭山茶のペットボトル。緑色の綺麗な透明。それをのどに流し込むミサの、染めた金髪が、窓から侵入した太陽光に呼応して輝く。


「ねえ、さくら」

「何?」

「さくらは、地元に帰ったりしないの?夏休みに」


耳元にささやく、異常に距離が近いミサの質問は、誰でもやるような世間話。どうってことない質問。それでもわたしにとっては、どうってことある質問。


「帰らない。大学生になってからは一度も帰ってないし。」

「地元は嫌いかい?なにか嫌な思い出でも?」

「好きだけど……今すぐにでも懐かしい場所めぐりたいくらい好きだけど……嫌な思い出があるのです〜。」


揺れに身を任せ、思ったことをぽんぽん放つ。


「ほへー」


わたしの私怨まじりの言葉には特に反応せず、ミサはまた狭山茶を口に運んだ。


○○○


埼玉。ミサのふるさと。

風が和やかにほほをなでる。わたしの目の前を、トンボが横切っていく。

ついた。


ミサのふるさとについた。

思っていたよりも早かった。いちごミルクとバナナミルクをズコズコ飲み、ミサのぶっ飛びトークに付き合っていたら、もう埼玉に入り込んでいた。


「わたしの家まで案内してやろう。」


鼻を鳴らす変人に、わたしは唖然。


「家って……お母さんとかお父さんは?わたしが

前触れなく乱入してきたら追い出されるでしょ」

「大丈夫!今2人はフランス旅行真っ只中だから、わたしん家、留守なの。勝手に入ってもバレないって!」

「ほぼ空き巣じゃねえか」


知ってはいたが、木谷美沙夜という女、只者ではない。


「マイホーム〜懐かしの実家〜ホームタウン〜」


聞き覚えなど全くない出処不明の曲を歌い、街を歩くミサと、そんなミサのくっつき虫・わたし。


ここが、ミサの地元。ふるさと。


心の中身が内側からガリガリ削られる。

夏休み、炎天下で、もつれかかった足を真っ直ぐになおす。


○○○


埼玉、秩父の街。


わたしはド田舎出身だから、子ども時代は、ひたすらに鬼ごっこ、秘密基地、虫取りだった。でも、その辺にコンビニがあるのが当たり前なこういう街の子どもたちは、きっとわたしとは全然違う遊び方をするのだろう。


友達とショッピングモールで買い物とか?わたしは……あの子とは、そんなことしなかった。鬼ごっこばかりだった。


「わたしね〜、ちっちゃいころ、よくあっちの公園で遊んだの」


ミサの声が回想の世界を切り裂き、現実に舞い戻る。彼女が右手の人差し指で示す先には、古い遊具で埋め尽くされた寂しい公園。


「ちょっと遊んでくる。さくらも遊ぶ?」


首をかしげ、笑みがはりついた綺麗な顔で、ドロドロな怠け狂いのわたしを誘ってくるのは、この街で生まれ、この街で育ち、誰より明るく不思議な美女になった、謎の友達。


ここがふるさと。ここが地元。


無気力症候群のわたしは、わざわざ断る気力がないので、「うん、遊ぶ」と乱暴に言葉を投げ、公園の真ん中にそびえ立つ異様に大きなすべり台に駆け込んだ。


子ども用の段差が小さい階段は登りづらく、それでもわたしはてっぺんまで行って、2人同時に滑ることのできる幅広いスペースを1人でふんだんに使い、転がり滑り始めた。


摩擦がお尻と太ももにこびりついて熱く熱く、目がくらんだ。期限切れの課題と、書きかけのレポートが、頭の上でヒラヒラ飛ぶ。大学生活は、決して悪いものではない。それでも、過去の友達やふるさとに囚われて、無気力になった。それがお前なのだと、乱雑な思考が絞り出される。


ただすべり台を滑っただけ。

けれど、やけに眠くなった。


「さくら〜、こっちも楽しいよ〜」


向こうではミサが大学生とは思えないほど全力で鉄棒のアクロバット技に挑戦中だ。

あの熱量、まるで本当の子どものよう。

まあ、当たり前か。


子ども時代のミサは、この街で生きたんだから。

這い上がってくる灰色の感情を鼓動で殺し、夏の有効活用のため始めたこの旅を再開する。脳をひらいて、中に入り、心臓からあばら骨の裏まで、記憶を弾け飛ばして落ち着こう。


ここはわたしのふるさとじゃない。あくまでも、ミサのふるさとだ。

わたしのふるさと。目を背けたい過去と今が色濃く残るわたしのふるさと。


自分の地元に帰りたくないだけで、ミサの帰省についていくだけなら平気。

せっかくの夏休み、せめて何かしら思い出をつくりたい。

無気力症候群で暇を持て余すわたしをわざわざ誘ってくれたミサのために、旅について行って、思い出づくり暇つぶし。

他人のふるさとならば、平気。


そう思っていたけれど、違ったようだ。

ダメだ。意識してしまう。


ひとり旅なら、ここもどこかの誰かのふるさとなのだと考えることはないのに、近くにミサがいるから、考えてしまう。

ミサと2人での歩みは、楽しいけれど、痛い。


○○○


ミサの家は、大きく立派で、お城のようだった。


「ここイズマイホーム」


エジプトの壁画を参考にしたのか、全身を駆使して卍ポーズをつくるミサ。右手にジャラジャラ大量のカギ。


「いざゆかん!」


植木鉢と何かのプランターが放し飼いになっている広々した木谷邸の庭に、1歩踏み込む。ミサの実家。


さっきあばら骨の裏に隠したはずの嫌な感情がつむじから足のつま先まで光も驚きの速度でめぐり始め、思わず脳が震える。そんな自分に呆れ、これは単なる旅行だと思い直す。


「ただいまー!!!」


しんと静まり返ったフローリングにマンモスの咆哮かと間違うほどの大声で挨拶したのは、もちろんわたしではなく、薬学部の天才・ミサ。


「お邪魔します。」


リスやネズミとの意思疎通なら困らないかもね、というレベルの小声と共に頭を下げるのは、当たり前、わたし。


「ゆかいゆかい」


そう口ずさむミサは、壁を、床を、天井を、宝物を見るかのような優しい目で見つめている。

靴箱の上に置かれた高そうなツボの形、壁紙の小さなシミ、他人の家独特の生暖かくもわんとした空気と香り。それら全てが、幼いミサをかたちづくった思い出なのだろう。


頭の中にしかなかった景色の再確認、それが帰省だ。


「なんて素晴らしい。これこそ我が家」


くすんだ桃色のカーペットの上にフワリと降り立ったミサは、わたしのことを忘れたようにどんどん先へと進んでいく。


「ちょっと待って、ミサ〜」


初めてくる場所なのに、なぜか懐かしい気分になりながら、数年遅れのモラトリアム患者こと久保さくら、わたしはミサの後についていく。


なんなんだ、この旅。


よく考えてみると、いやよく考えなくても、意味がわからない。

それでもわたしはミサを追いかける。


だだっ広い空間に2人きりでいるせいか、わたしの声は、リスやネズミとおそろいの声量でも、びりびり響いた。がらんどうに痺れる。


リビングルーム。


コルクボードに飾ってある家族写真、パステルカラーのカーテン、吊り下げられた電球、テーブルに咲いた造花の薔薇。


中に入って右側に見えるのが、テレビとゲーム機と積まれた新聞、観葉植物。


左側に見えるのが、ソファとテーブル、本棚、電話台、CDラック。

黒飴の袋がひとりぼっちでこちらを見つめている。


木のきしむ音を耳に受け入れながら、ミサのとなりに……ラベンダー色のソファに座った。


「ミサは」

「何?」

「なんでいきなり、この旅を計画したの?」

「……気まぐれ。急にあのころの色が懐かしくなって。」

「なんで、わたしを連れてきたの?それも気まぐれ?」


何もうつっていないテレビを見ながら放ったわたしの雑に鋭利な言葉は、簡単にキャッチされた。


「さくらは面白い人だから。」


理解できない。わたしのどこが面白いんだ。ミサの方がよっぽど面白い。

そう思ったが、ミサに伝えても無駄な気がして、黙った。コクリ、ただ1度うなずいた。


「よし。料理をふるまっていくぜ。」


テレビにうつる無気力な顔を睨んでいると、ミサが立ち上がり、拳をつきあげ、宣言した。

料理?本当にそう言ったのか?


「ミサ…そもそもわたしたち、勝手に入ってるんだよね。その時点でけっこうやばいのに、料理までして大丈夫なの?」

「平気、平気。わたし、今までに5回くらい勝手に帰省したことあるんだけど、前回しっかりバレてさ。そのとき、勝手に帰省することも、そこでくつろぐことも、許可とったから。料理も許可済み。この旅、保証済み。」


勝手に帰省する娘。

勝手に帰省することを許す親。

どっちも凄い。


やはり謎の美女の家族も、謎にまみれている。


「さくら、何食べたい?」


なぜゆえか盆踊りを踊りながらミサが尋ねる。


「ええ…なんか…特に…」


言葉につまると、ミサが

「じゃあ、みそポテト!」

と盆踊りモードのまま言った。聞き馴染みのない料理名。


「みそポテトって何?」

「世界一美味い食べ物。」


それだけ言い残し、ミサは奥の方へかけていき、扉を勢いよく開いた。


「うおおお、みそポテト!」


ソファに座って待っているだけでは暇で仕方ない。それに、ミサが料理をつくるところを見てみたい。

わたしも立ち上がり奥の扉までかけていった。


扉の先は、キッチンだった。

暑い。夏の日差しを閉じ込めた、わたしを殺す毒のような空間。

クーラーは、ないみたいだ。


「それでは、みそポテトをつくっていきます。さくらはそこで指くわえて見てるのだ。」

「別に羨ましくないよ。」


ミサは、わたしのツッコミには反応せず、黙々と準備をしている。料理か…。さっき「振る舞う」と言っていたということは、ミサとわたしの2人でみそポテトを食べるはず。それならやはり、手伝うべきだよな。


「何か手伝いたいんだけど…」

わたしの提案は、

「ノー。さくらイコールお客さん。わたしが全部やる。」

呆気なく却下された。


「なんならリビングで休んでなよ。」

「いや、いい。手伝うのがダメなら、ミサがつくるところ見てる。」


2度目の提案は、却下されずに済んだ。

ボウル、鍋、じゃがいも、みそ、砂糖、薄力粉、片栗粉…棚や冷蔵庫から次々に道具と材料を取り出すミサの横顔はまるで彫刻。


美しい。


そして表情は、どこか切なく苦しげだった。

ミサはこれから、懐かしい景色を見下ろしながら料理をつくる。それなのになぜ、切なく苦しい表情をしているのだろう。


もしかして、みそポテトに何かあるのか。

「みそポテト」という明るい料理名からは想像もつかない、悲しい記憶が。


「じゃあつくっていきまっしょい!」


はつらつとした声。ミサの表情は、いつもの笑顔に戻っていた。




みそポテトのつくり方を伝授していくぜ!

まずは、ふかしたじゃがいもを、皮むきしてから一口大に切る。

次に、水気をきって、電子レンジで加熱。

加熱したじゃがいもを、薄力粉、片栗粉、水をボウルに入れて混ぜたところにイン!

そして油の海で、きつね色になるまで揚げます。みそと砂糖、お酒を混ぜてつくったみそだれを揚がったじゃがいもにかければ……。




「完成!これこそみそポテトじゃあ!」

「おおー!」


てかてか光るみそだれをまとったポテト。

これがみそポテトか…。

口を開けっ放しにしているわたしにミサがドヤ顔で一言。


「みそポテトは秩父の名物料理なのだ」

「そうなんだ。知らなかった。」


じゃあミサは、みそポテトを食べて育ったのか。子ども時代を彩る、思い出の料理…。


胸が冷たくなった。


わたしの地元の郷土料理が──それを食べる、幼いころのわたしが──コマ送りで脳内に広がる。

いや、違う。わたしの目の前にあるのは、埼玉・秩父の名物、みそポテトだ。


…とても美味しそう。胸を冷やす必要はない。

みそポテトの皿を運び、ソファに座り、心を整える。


「いただきます!」

「いただきます…。」


一口。みそだれの味とポテトのホクホクした食感が舌の上で踊る。柔らかに噛み砕いて、風味を口いっぱいに広げる。鼻にかけて抜けていくジューシーな感覚。


「美味しい」


ポロッとこぼれ落ちた。

何も考えていない状態で、心の底からでた言葉。美味しい……美味しい、美味しい。


「でしょ?みそポテトは最高なんだぜ〜い」


グッドサインを顔の隣でつくり、ニカッと笑ってみせるミサ。


「わたし、小さいころお母さんによくつくってもらってたんだ。」


手が止まった。小さいころ、お母さんに。


「そうなんだ」

「うん、たまには懐かしい味を摂取しないと。ああ〜美味しい〜!」


あの子の姿が脳裏に浮かぶ。わたしの、子ども時代。あのころ。手が、わずかに震えだした。

なんてことない風景に、全身が停滞する。


「さくら」

「…何?」

「どうかした?」


ミサがわたしの顔を覗き込んできた。綺麗な顔。


「さくらがだるそうにしてるのはいつもの事だけど、今日はそういうのとは違う気がする〜」


ミサの言葉に、感情が濁流となって溢れ出した。今すぐ口から追い出さなければ、わたしは死んでしまう。「あのこと」を知った日からずっと、誰にも言えずにいた。ごちゃまぜにして殺した。その感情を。


「思い出したの」

「何を?」

「ふるさとのあの子を」


みそポテトのいい匂いがただよう部屋で、わたしは語り出した。「ふるさと」「地元」という言葉に、過剰反応するようになったわけ。わたしの無気力症候群の原因。


○○○


田野蓮菜。

その子の名前は田野蓮菜と言った。


「ねえ、一緒にあそぼう。」


グラウンドのすみっこでひとりぼっちだったわたしに声をかけてくれた女の子。

鬼ごっこが大好きな女の子。


「さくら、鬼ごっこしよう」

「おはよう、さくら」

「さくら、早く早く」


蓮菜の声は可愛くて、優しくて、繊細。わたしを決して離さない。


田舎のせまい町で、2人きりでやる鬼ごっこは、都会のオシャレな女の子たちの遊びとはかけ離れていただろう。それでも、わたしは、蓮菜と遊んでいるとき、世界で一番幸せだと思っていた。


いや、実際そうだった。


つまらないだけの学校が、輝いて見えるようになったのは、蓮菜のおかげだ。


蓮菜は、特別支援学級にいて、授業は別だったから、休み時間と放課後にしか会えなかった。その分だけ…授業を一緒に受けられない分だけ、わたしたちは全力で鬼ごっこをした。


走って走って、風をきって、追いかける。

何よりも充実した時間。


それが崩れた日のことは、克明に覚えている。

蓮菜が引っ越すことになった。


わたしの知らないところでいじめられていたそうだ。

お別れの挨拶のとき、蓮菜はわたしに色ペンをくれた。


「またね」


蓮菜はたしかにそう言った。

でも「また」は来なかった。


何年たっても、蓮菜と再会は果たせなかった。

遠くに引っ越してしまったから、会いたくても会えなかった。


蓮菜のいない日々を、わたしは何とか消費した。いつかまた会うために、勉強も部活も頑張った。大学受験も、難関大学に合格した。


蓮菜に再び会うとき、自慢できるような人になりたかったから。


わたしは蓮菜との思い出がつまったふるさとから飛び立ち、上京した。

もう子どもじゃない。大学生だ。時間をつくれば、お金を貯めれば、わたしは蓮菜に会える。


そんなことばかり考えていたわたしが、大学生になってすぐ、つまり一年前。一年生のころ。

蓮菜が死んだらしいと、地元のお母さんから連絡がきた。


交通事故。


わたしと蓮菜は、あの日別れてからは一度も会えていないけれど、蓮菜のご両親が、昔仲良くしていたわたしのことを思い出して、電話してくれたのだそう。


お母さんから告げられた、衝撃的すぎる言葉に、わたしはただ立ち尽くしていた。棚の一番取り出しやすいところにしまってある、蓮菜から送られてきた手紙の山が、頭に浮かんだ。


「来年こそ会おうね」

「さくらは将来何になるの?」

「わたしは絵を描く仕事やるんだよ!」


手紙に綴られた、儚くて愛おしくてつたない文章が、脳の奥から離れなかった。


夏休みに会いにいくつもりだった。バイト代を貯めてプレゼントを買うつもりだった。


それなのに。


結局、大学一年生の夏休みは何もせずに無気力に過ごし、バイトもやめた。


そして二年生の今。

わたしは、どうしようもない怠け狂いに成り下がった。


そんな今を打開するため、なにか思い出づくりをしよう、行動しよう、旅に出ようと思った矢先、ミサから誘いがきた。


わたしの地元の埼玉に来ない?


蓮菜が死んでから、「地元」「ふるさと」という言葉が嫌いになっていた。


綺麗すぎる景色を、蓮菜と2人でいられたころの風景を、思い出してしまうから。


わたしのふるさとには、蓮菜との美しい記憶がへばりついている。とても帰れない。


大好きなふるさとに帰りたい。でも帰れない。

もう、「地元」「ふるさと」という言葉でさえ嫌だ。けれど。ミサが誘ってくれたのだ。昔の友達じゃない、今の友達であるミサが。

大丈夫。きっと大丈夫。思い出づくり暇つぶし。楽しめるはずだ。

ミサについて行こう。本当はひとり旅の予定だったけれど。変わらなきゃ。


そう思って埼玉に来たのに。


うだうだ考え込んでいるだけ。わたしは何も変わらないまま。

ふるさとで楽しそうに過ごすミサに、醜く惨めな嫉妬心を抱くだけ。


ただそれだけ。


楽しい旅なのに、公園で遊んだり、くだらない話をしたり、みそポテトを食べたり。

わたしの脳が何もかもを黒く染めていく。

どうしよう、どうしよう、どうしよう………。


すべてを話し終わって、後悔した。


せっかく帰省に連れてきてくれたミサに、こんな暗い感情をぶちまけるなんて、わたしはなんてことを。


今日はずっと心が不安定だったから、ミサに「どうかした?」と聞かれて、根元から揺らいだ。誰にも言っていなかった感情が洪水となり止まらなかった。


合わせる顔がない。なんて言えばいいかわからない。頭の中がかゆくなって、うつむいてしまった。ミサは…どう思ったのだろう。呼吸が荒くなる。言ってしまった、全部、全部。


ぐちゃぐちゃになるわたし。震えるわたし。そんなわたしに、ミサは、優しく声をかけた。


「食べな。まだいっぱいあるよ。」


顔をあげたら、目の前には、みそポテト。


まだ温かく、いい匂いは相変わらず。

気持ちの整理がつかないまま、わたしはみそポテトを口に運ぶ。


「美味しいでしょ、ね、ね、ね。」

「………うん」


小さくうなずくことしか出来なかった。


「さくら、実はわたしのお母さんね、2人目のお母さんなんだ」


たえまなくみそポテトを食べ続けるわたしに、ミサが話し出す。


「血の繋がったお母さんは、死んだの。わたしが小学生のころに。みそポテトは、死んだお母さんがよくつくってくれたの。2人目のお母さんは、埼玉出身じゃないから、みそポテトのこと知らなくて。だから、1人目のお母さんが死んでから、ずっと、食べられてなかった。」

「……うん」


ミサがわたしの話を聞いてくれたように、わたしもミサの話を聞く。


「2人目のお母さんのことも大好き。でもたまに、懐かしい味が欲しくなる。だからわたし、料理苦手だけど、みそポテトだけは頑張ってつくれるようになったんだ。」


ニコッと笑ってみせるミサ。


わたしとは正反対だ。わたしがミサなら、大好きなはずのみそポテトのことが嫌いになってしまう。


「ミサは、寂しくならない?」

「なにが?」

「みそポテト食べて、お母さんのこと思い出して寂しくならない?」


ミサが1人目のお母さんについて話してくれる機会は、もう来ない。今日だけ。なぜかそんな気がして、わたしは尋ねた。寂しくならないのか。


「なるよ。もちろん、寂しいよ。」

「じゃあなんで?」

「………会いたくなるから、思い出に。寂しくても、悲しくても、懐かしくて素敵な日々は、変わらない。あの時幸せだったことも、変わらない」


それだけ言うと、ミサは、みそポテトを口に入れた。


「美味しいー!」


さっきまでの儚げな表情は消えて、いつもの明るいミサに戻った。

わたしも、ミサに続いてみそポテトを食べる。


「美味しい。本当に美味しい…。」


美味しいと何度も言っているうちに、泣けてきた。ポロポロ涙があふれて、雫がほおをつたい滴り落ちた。


「美味しい」

「でしょ、みそポテトは最高だよね。」

「うん」

「みそポテトを産んだ埼玉の土地も最高!」

「うん」

「やっぱりわたしは地元が、埼玉が好き。悲しい思い出も嬉しい思い出もひっくるめて好き。」

「……うん……。」


どんどん前が見えなくなっていく。ミサの声も滲んでいく。

その代わりに、わたしの脳には、心には、懐かしいふるさとの景色が浮かぶ。


いつかまた、この景色に会いに行けるだろうか。そうだったらいいな。


わたしは、また、みそポテトを食べた。

まどろむ瞳に流れる涙は濃く、過去を憂う思いは消えないけれど、わたしの手は止まらなかった。


ミサの笑顔に、その裏の寂しさ切なさに、蓮菜との美しい記憶に、それがつまったふるさとに、帰れない臆病なわたしに、涙を流した。


泣いて、泣いて、泣いて、ようやく落ち着いた。みそポテトの匂いが、わたしの鼻までただよってきた。


○○○


埼玉旅行が終わり、家に帰った。

蓮菜の手紙以外は、何もない部屋。

手紙がしまってある棚をぼうっと見つめていると、また泣けてきた。

いつかまた、蓮菜の思い出に、会いに行こう。

少しはマシになった無気力症候群を胸に、わたしは眠った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まどろみ濃く憂う 猫井はなマル @nekoihanamaru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画

同じコレクションの次の小説