ウロボロスの輪

KAI

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『第一章:勝者の過ち』


 カリブ海某所

「もうすぐ着きます。ボス」

 忙しそうにプロペラが回っているために、操縦席からの声も騒音にかき消されてしまう。だが、そんなことは些末な問題だとでも言いたげに後部座席に座る男は銀のシガーチューブから葉巻を一本取り出し、慣れた手つきでギロチンカッターで吸い口を作り、ガスライターでまんべんなく火をつける。

 パッパッと吸い込みと吹き戻しを繰り返して煙を楽しみ始めるこの男、ただのいけ好かない上流階級の人間ではない。

 名前を『レミー・サンタン』と言い、その名は国を飛び越えて知られている。

 良い知られ方ではない。

 彼は会社を経営している。

 巨大な民間軍事会社だ。

 そしてちょっとした副業にも手を出していた。武器の横流しである。

 東側の武器を、紛争が続くとヤマを張って中東に売りさばいた『死の商人』だ。

 二〇一五年の現在がそうであるように、紛争は終わりが見えず、武器や弾薬は女子供関係なく必需品となっている。

 彼の天性の商才が発揮されたわけだ。結果だけを見れば、彼は投資に成功して巨万の富を手にした――――

「着陸です。少し揺れます」

「ああ。分かった」

 サングラス越しに外を見やる。そこにはカリブ海の素晴らしいオーシャン・ビューが拡がっている。数え切れないほどの宝石が広大に波打っているかのような光景だ。

 口から出した煙を鼻で吸い込み、そして再度口から吐き出す。

「ここか……」

 大きな島が見えてくる。この島は国によって外部からの接触は禁止されているが、金の力は時に保護対象の命よりも上回る。

 うっそうとした森の奥に岩肌が覗いている。そして手前には手頃なビーチがあった。

 ヘリは砂煙をまき散らしながら海岸に着陸し、乗っていたレミー・サンタンがのっそりと降りた。

 真っ白なスーツに黒いワイシャツ、靴はワニ革で作られた特注品だ。

 到底、非文明的な場所に向いているとはいえない格好だった。

 だがそれこそが、彼の自己顕示欲の高さを象徴していると言える。

 年齢は五八歳で年相応にシワなどがあるものの、サングラスの奥で光る瞳にはギラギラとした炎が宿っている。葉巻を咥える歯も全てインプラントで綺麗に整えられていた。真っ白な髪は後ろで結ってポニーテールにしている。

 葉巻を挟んでいる指には……というか全身にはタトゥーが施されていた。

 右の五指の第三関節には一本ごとに一文字ずつ『M・O・N・E・Y』と、左には『P・E・A・C・E』と彫られている。その他には首を一周するように蛇のタトゥー。背中にはクロスした銃の上に髑髏が。

「お待ちしておりましたボス」

 軍服に身を包んだ兵士が銃を抱えながらうやうやしく近づいてきた。そして当然であるかのように敬礼をする。

「ああ。原住民共には話を通しているんだろうな?」

「ハッ! ガイドが通訳して話をつけておりますので心配はございません」

「よし……ご苦労」

 この島には必ず『何か』がある……野生の勘とも形容できるレミーの商才がささやくのであった。

『レミー・インターナショナル社』はこの数年で窮地に立たされていた。

 強力な組織を求めて財を成したレミーが設けた会社で、巨大な民間軍事会社として知られている。目の前の兵士は自社傭兵部隊の『H・Y・A』だ。数百人単位で在籍しており、その全ては元軍人。紛争地帯などで要人の警護や、公にされていない金銭のやりとりなどを生業としている。

 だが、あまりにも大きくなった魚は、サメに狙われるリスクも高まる。

 数ある民間軍事会社の中でもトップのシェアを誇っていたレミー・インターナショナル社だったが、アメリカ政府に「テロ支援組織」としてマークされていた。会社の株は大暴落し、レミーは一転して犯罪者のような(厳密に言えば犯罪者であることは疑いようのない事実なのだが)扱いを受けるようになった。

 ここでただでは転ばないのが、レミー・サンタンという男のしぶとさである。

 南米に本社を移し、ここ数年間は貧しい地域へ多額の寄付をするなどして反貧困運動を先導している。社訓も『少年少女に明るい未来を』と歯が浮くような綺麗事に変えている。世間の目は少しずつではあるが、変化していた。

 ここでもうひとつ、起爆剤がほしいところなわけである。

 レミー・インターナショナル社がクリーンな会社であると民衆が街頭インタビューで答えてくれるには、あと少し、足りない。レミー自身もそれは自覚しているところだった。

 さて、なぜそんな偽善者がなぜこんな辺境の島に来たのか、が問題だ。

 レミー・インターナショナル社は、カルテルと同様に各部門に分かれている。CMを作る広報部から、人を殺す傭兵部隊まで幅は広い。

 レミーはその部門に新事業を組み込みたいと考えていた。具体的には考えてはいなかったが、とにかく、世間の評価がガラリと一変するようなものだ。それを求めて数年間、奔走していたがピンとくる事業がなかった。

 しかし、数日前に役員会議で新事業責任者のベンが提案した『リゾート開発』という言葉にレミーは反応した。成功すればカジノ誘致にホテルの建設など、次々に甘い汁が流れ出す上に、マネーロンダリングも容易になる。

 ベンはすでにリゾートの目星をつけていた。それがこの島だ。

「社長ご自身でも行ってみては? 必ずやリゾート気分を満喫できますよ」

 彼の進言で今、ここにいる。

 数年間、世間の目を気にしながら新機軸に注力していたレミーは年齢も相まって心身共に疲れていた。それに、自分がVIPとして体験することで理想的なリゾートたるかどうか、判断ができる。

 すでにビーチが一望できる場所には、不釣り合いな安楽椅子と小さなテーブルが置いている。テーブルには葉巻用の長細い灰皿と、樽で熟成されたダークラムが用意されていた。さも当然と言わんばかりに革靴で浜辺を縦断し、安楽椅子へ。

 足をクロスさせて燻らせていた葉巻を灰皿へ置き、ラムをひと飲みした。ヘリでの移動で相当喉が渇いていたらしい。

 ダークラム特有の杏仁のような独特の香りと、甘く濃厚な味が口内を駆け巡る。

「……フゥ」

 燦々と輝く太陽に、静かなビーチ。葉巻に酒。

 これより他に世界には必要がないと思えるほどにリラックスができる。

「なぜ安楽椅子にした?」

 空になったグラスにラム酒を注いでいた兵士に質問するレミー。

「ハッ……サミュエル様が、ボスは安楽椅子でリラックスができるとご命令がありましたので」

「そうか……サミュエルのご厚意に文句はつけたくないが、どうせ南国のリゾートを演出するのであればデッキチェアの方が良いな」

「も、申し訳ございません!」

 背筋を千切れんばかりに伸ばして謝罪をする兵士に、レミーは手を振って緊張しなくても良いと伝える。末端の兵士には、レミーが地獄を統率するルシファーのように噂されているのだろう。

「各国のVIPを呼ぶ前に気がつけて良かったじゃないか。そう思え。ネガティブに考え解決できる事象などないのだからな」

「お言葉、感謝いたします!」

「この辺りはこのまま贅沢な風景を残すとしよう……あそこにはホテルを建てて――――」

 まるでこの島の王にでもなったかのように指をさしながら計画を口にする。その言葉を漏らさないように周囲にいた兵士たちはメモ用紙の上でペンを必死に動かした。

「で、問題が島の中だ……上空から見たが森が多すぎる。三分の一くらい自然を残してパークとし、残りはカジノなどの娯楽施設を建てよう」

「そ、それは良いお考えですね」

「空撮した写真は? 誰か持っているだろう?」

「ご指示の通りに撮影しております」

 兵士から手渡された写真には、ドーナツ型の島全体が写っていた。

「……この中心部は?」

 写真では火山口のようにぽっかりと空いている穴が見える。

「それが、原住民いわく神聖な地とのことで……」

「んな猿共の事情など知る必要はない。端的に報告しろ」

「ハッ! ガイドが交渉に当たっておりますが難航しております」

「チィ……」

 原住民のことなど来週の天気よりも興味がないレミーだが、この地をリゾートにするのに彼らの了承は欠かせない。彼らを武力で排除することは簡単だが、そのようなことをすればリゾートにケチがつく。

『死の商人、血のリゾート開発‼』

 こんな見出しの新聞が機械で刷られる音が今にも聞こえてきそうである。世界はレミー・インターナショナル社を強く非難するだろう。それだけは避けなくてはならない。そもそもが会社の更生を目的としているので、原住民は無視できない。

 レミーが立ち上がると周りの兵士たちは踵から音を立てて姿勢を正す。

「俺様が直接話そうじゃないか」

「……ボス危険です」

「その『危険』を最小限にするために貴様らに高給を払ってるんだろう。違うか?」

「……かしこまりました。こちらへ」

 美しいビーチを後にして、薄暗く陰気臭い森の中へ進む。

 先頭を歩く兵士はレミーが歩きやすいようにマチェーテでもって枝やツルをザックザックと斬り、足下の草をならす。その後ろをレミーが短くなった葉巻をそこら辺に捨てながら着いていく。

 二〇分歩くと、そこには村とも呼べない小さな集落があった。

 原住民はおよそ数十人。派手な見た目をしているレミーを、全員がジロジロと監視している。住居はたて穴式で、火こそおこせているが弓矢を使った狩猟で生活をしているらしい。文明レベルは石器時代とそう変わっていないだろう。

 集落で最も大きな建物に向かう。そこにここのリーダーと、苦戦しているガイドがいるのだ。

 レミーは建物を見て少しの違和感を抱いた。ネズミなどの被害を避けるために通常このような住居や倉庫にはネズミ返しがあるものだが、それがない。しかも野生動物の心配などしていないかのように子供があちこちに散らばっている。

 まあ、歴史の授業の知識ゆえに、本当のところはこんなものか……とレミーは考えていた。

「ハロー! 言葉は伝わらんだろうがな」

 肥満体型でキツそうなベストを着ているガイドが、牛乳瓶の底のような眼鏡をした顔を背後に向けて止める。

「ちょっと! 今ここの首長と話し合っているんです!」

「だからどうした? おい族長さんよぉ」

 格の違いを見せつけるために肩で風を切って、見たことのない鳥の羽でできた冠を被る族長の前に右手を差し出す。

「シェイクハンズだ。通訳しろガイド先生」

「し、しかし……」

「これは命令だ。族長、あんたには最大のリスペクトを持っている」

 ガイドも雇われの身だ。仕方なく通訳をした。

 族長は通訳を聞き、訝しむように顔をゆがめた。

「本当だ。その証拠にこの閉鎖された島に産業革命を起こしてやる。世界中の大金持ちがやってきて、大金を落とすだろう」

「れ、レミーさん……彼らに金銭の概念はありません……」

「じゃあ文明的な生活を保障しよう。どうせゴチャゴチャ文句を言っても、スマートフォンを持ち、靴を履き、ハンバーガーを食べれば『こんな生活』には戻りたくなくなるさ」

「……」

「……なに黙ってンだよ……早く通訳しねえかゴラァ‼」

 こんな序盤でつまずいている場合ではない。商売は常に先を見越さなければならない。他のリゾート開発を狙うライバル会社など掃いて捨てるほどいる。来週にも重機を入れて建設を始めたい。

 レミーは苛立っていた。

 ガイドは平和的な会話をするべくどうにかニュアンスを柔らかくして族長に話をした。しかし、族長の顔は依然変わりなくしかめっ面だった。

 やがて沈黙の末に、族長はレミーを凝視して短い言葉を発した。

「なんて言ってやがる?」

「……代償が必要だと」

「なんだ羊でも悪魔に捧げるのか? ならラム肉を一トン用意してやるよ」

「そうではなくて……あなたが代償を払うつもりがあるかどうかを尋ねています」

「あぁ? いいか、このレミー・サンタン様の人生がかかってんだよ……どんな要求にでも応えてやろうじゃないか!」

 この答えに、族長は意外な返事をした。

『……ただの冗談ですよ。あなた方を歓迎いたします。どうぞ集落に泊まっていってください。今夜は来客を祝う宴を開きましょう』

 これを聞いたガイドの驚きようもすごかったが、レミーの勝ち鬨の方が大きかった。

「それじゃあお言葉に甘えて」

『ああ……それとお連れの兵士たちも是非宴には参加していただきたい』

「いいだろう。おいっ! 今日はパーティーだ! 楽しめよお前ら!!」

 口ではこう言った。

 しかし、用心深いタチなレミーは少しばかりの警護を残しておいた。

(なぁに……もしもこいつらが暴れようとしても銃には勝てねぇ)

 この慢心が、のちに悲劇となって彼を襲う。

 数時間後――――

 でっぷりと太ったイノシシが丸焼きにされ、その周りを原住民とレミーたちが囲んでいる。太陽は完全に海に沈んでしまい、当たりは真っ暗だったが、キャンプファイヤーのようなたき火のおかげで楽しそうな面々の顔が拝める。

 酒に酔った兵士が、集落の女性に手を出そうとしても止める者はいない。

 彼らは族長の計らいで出された酒を飲んでいたが、こだわりの強いレミーは飲むフリだけをして、自身はラム酒を口にしていた。

 どこかの文献で読んだが、古代の酒は人間の唾液を用いて発酵させていたのだとか……そう考えると馬鹿な兵士たちのように喜んで飲む気になれなかった。

 それでも、自らの手で新事業を手にしたという達成感は酔いを促進させる。

「これを見てみろよ族長ぉ」

 身体をふらふらとさせながら彼が腰から取り出したるは銃だった。

 ただの銃ではない。黄金色にキラキラと炎を乱反射させる、豪華な一品だった。

「どうだ! 金で装飾したデザートイーグルだぜ」

 歯を見せて笑う彼とは対照的に、族長は場を乱さないように平然と質問をした。

『それはどのように使う道具なのですかな?』

「見てな!」

 ドゥゥンッッ‼

 レミーは銃口を上空に向け、引き金を引いた。雷鳴のごとき破裂音に、原住民たちは身をすくめる。子供たちは家に逃げてしまう。

 だが、族長と男たちはさほど驚いていないらしい。

「どうだ? 高火力の拳銃の音は最高だろぉ」

『なるほど武器でしたか』

「ああ。欲しいなら二ダースくらいやってもいいぞぉ」

『いいえ。我々にはこれがありますからな』

 族長は矢尻が黒い弓矢を取り出して見せてきた。

 レミーは大笑いした。

「んなもん糞の役にも立たねぇよ! 時代は銃さ! おい、お前らも見せつけてや……」

 と――――

 兵士たちの騒ぎ声がいつの間にか聞こえない……それどころか、集落は先ほどとは打って変わって不気味なほどの静寂に包まれていた。

 何十もの目が、ひとりだけ意識を保っているレミーに注がれていた。

 レミーは酔いなどすっかり覚めて兵士たちを探す。全員、眠っていた。そして隣に座っている胸を揉まれていた女たちがナイフで首を切り裂いていたのである。

(しまった……あの酒ッッ)

 とうとうガイドも眠ってしまい、残るはレミーだけとなった。

「て、てめえら……」

『あなたが言ったのですよ。代償の覚悟はある……とね』

 通訳する人間がいなくなり、レミーは軽視していた族長の言葉が分からなかった。しかし、昼間から見せていた柔和な笑みが消え、炎の光と影のコントラストで悪魔のように見える彼を前にして久方ぶりの『恐怖』を覚えた。

『あなたが現れたのはまるで運命のようだった……供物にふさわしい御印を持った人間がノコノコと……』

 そこで初めて気がついたことがあった。

 族長はやたらとレミーを見ていたが、その実、彼の首元だけを凝視しているのだと。

『さて、供物を傷つけたくはない。この酒を飲んで運命に身を委ねなさい……』

「ち、近づくんじゃない‼ 殺すぞ‼」

 つい数十秒前に見せつけたデザートイーグルだが、これほど心許ないと思ったことはない。男たちがゆっくりと立ち上がり、徐々にレミーを囲もうとしている。銃口がひとつでは足りない。

『さあ! 神にその身を捧げるのだ!』

「クソッッ‼」

 ドゥゥン‼

 レミーは背後を取ろうとしていた男性を撃ち、そのまま森へ猛然と走った。

 なぜ革靴などで来てしまったのだろうと悔いた。あちこちで泥や木の根に足を奪われ転がり、後ろから迫ってくる原住民たちと距離が保てない。

 だが、レミーとてただでやられるわけにはいかない。

「おいっ‼」

「ボス⁉ どうなさいました⁉」

 昼間、自分を出迎えメモを取っていた兵士たちに出会えた。彼らは森で警備をしていたが、泥だらけのレミーを発見して驚いているようだった。

「ハァハァ……全員殺せ……撃ち殺すんだ‼」

「ボス⁉ 何があったんで――――」

 ヒュッという風を切る音がしたかと思うと、目の前の若い兵士は赤黒い泡を吹いて痙攣を起こし、その場に倒れてしまった。

 暗闇でよく見えなかったレミーは彼の身体を手探りで触ってみると、すでに事切れていることと、矢が一本肩に刺さっていることが分かった。

「なんだあいつらの矢⁉」

「毒だ……毒矢だ‼ 警戒しろ‼」

 ドカカカカァァァン‼

 ドカカカカァァァン‼

 兵士たちはパニックになりながら、携帯しているM四カービンを打つ。しかし、暗闇によって標的は見えず、また、弓矢には発砲の光りであるマズルフラッシュもないためどこを打てばいいのかすら見当がつかない。

 そしてまたひとり……またひとりと、血の泡を垂れ流して地面に伏していった。

 レミーは殺された兵士の銃を奪い、他の兵士たちと共に迎撃を試みた。

「死ねぇぇぇ‼」

 だが無駄なあがきだった。

 やがて自分だけが残ったのを悟るも、命乞いのようなみじめな最期を迎えるつもりはない。迫り来る住民を殺害し、弾が尽きると自慢のデザートイーグルに持ち替えて応戦した。

 しかし、

「ウッ……」

 脇腹に確実に矢が刺さった。

 そして氷が下半身から迫ってきているかのような感覚に襲われ、唐突に吐き気がした。吐き出したものは血でできた泡。

(ここで終わりか……クソッタレ……)

 そして何重もの足音を聞きながら、意識を失った。

 しかし、天国からの使いは望んでいなかったが、地獄よりの使いの者も現れなかった。

 レミーは太陽の光と身体の不自由さによって目が覚め、うっすらと瞼を開いた。誰かがギャーギャーと分からない言葉で喚くのが聞こえる。

 彼は日本酒とワインをチャンポンした次の日のごとき具合の悪さに見舞われていた。いるかどうか分からないトイレの神様に「二度と酒は飲みません」と誓った朝のごとし。

 頭は割れるように痛み、内臓がかき混ぜられたかのように気持ちが悪い。視界もぐるぐると、寝そべっているにもかかわらず世界が動いているかのごとく移動している――――いや――――

(幻覚じゃない……マジで動いてやがる)

 木の棒で作られた簡易式の担架に乗せられ、身体は繊維状の植物のツルで拘束されている。そしてどこかに運ばれているのだった。湿った土を踏みしめる足の音が、たしかに聞こえるのだ。

 顔を上げると白いスーツには血痕があったが、口には覚えのない苦味がある。

 おそらくは何か解毒剤のようなものを飲まされたのだとすぐに分かった。

 でなければ、あの不運な兵士たちのように自分もこの世界からバイバイしているだろう。

 それにしても、うるさい。

 まるで盛りのついた猫だ。

 誰かと思い、声のする方へ顔を向けると、そこには同じく捕まって身動きのとれない小太りのガイドがいた。まさかあの悲惨な夜で生き残っているとは思ってもいなかったので、レミーは驚いた。

 もっとも、歓喜の声を挙げるような相手ではないが。

 ガイドは必死に族長や自分を運んでいる原住民らへ言葉を並べている。意味は理解できなくとも、その様子から命乞いをしているのは火を見るよりも明らかだった。

「……諦めな先生」

 喉から出てきた自分の声がしゃがれている。

「レミーさん‼」

「こいつらは逃がしちゃくれねえよ」

「そ、そんな‼ 僕はまだ死にたくない‼」

「人間、いつかは死ぬもんさ……」

 そうは言っても、レミーとて死亡は自分のスケジュールにはない。

「……ダメ元で、もしも逃がしてくれたら一〇〇万ドルやるって言ってみてくれないか?」

「諦めてないじゃないですか……無駄です……彼らには金銭感覚がそもそもない」

「じゃあ、せめてどこに向かっているのか教えてくれるように頼んでくれ」

「どうして?」

「惨たらしい儀式にでも捧げられるなら、舌を噛み切って死ぬからだよ」

「……言ってみます」

 ガイドはレミーの起床のおかげでパニックを抑えながら、族長へゆっくりと敬意を込めながら尋ねた。

「どうだ?」

「か、神のところへ向かっている……と」

「あんたの専門だろ? こういう場合の『神のところ』ってのは何を意味するんだ?」

「……アフリカの民間信仰では供犠として動物や子供を捧げ物にする……アメリカの先住民には火の神に人間を捧げたりも……そ、それに天空に魂を捧げるべく鳥葬を生きたままする民族も……!」

「そりゃあバリエーション豊富なこった」

「死にたくない……死にたくない‼」

「落ち着け……こいつら、ろくすっぽ身体検査もしなかったらしい。打開策はある」

 レミーは慎重だ。抜け目がない。

 常にデリケートゾーンに、小型の拳銃を携帯しているのだ。軽く身をよじってみると、パンツの中に金属の感触がする。別に金玉ではない。

 中折れ式――――これまた下ネタではない。

 中折れ式二連発の全長一二〇ミリ『レミントン・ダブルデリンジャー』が仕込まれている。

 たった二発しか発砲できないが、至近距離ならば殺傷能力は充分にある。一九世紀のアメリカで護身用として重宝された、手のひらよりも小さな拳銃である。

「じゃ、じゃあ早く撃っちゃってくださいよ!!」

「馬鹿。たった二発しかないんだよ」

 二つの担架を運ぶ者が四人ずつで合計八人。先陣を切る族長を含めれば九人だ。小学生でも分かることだが、どう足掻いても二発の弾丸で九人を殺すことはできない。

「仮に何とかできても、発砲音で集落から増援が来るだろうよ。そしたらアウトだ」

「それならどうするんですか⁉」

「集落からできる限り離れたところで、隙を見て族長を人質にする……もしくは最悪殺す。そうすりゃ、生き残れる……たぶんな」

「たぶんじゃ困るんですよ‼」

「一〇〇パーセント死ぬところが九九パーセントになったんだ。喜べよ先生」

 二人は示し合わせてこれ以上は黙っていた。何か企みがあると気取られぬようにだ。

 さあ、山の頂上か……それとも森で一番古い樹木か……ともかく遠くへ行ければいい。

 そう思っていたレミーだが、誤算が生じた。

 なんと二人が運ばれたのは森を抜けた先にある岩場の、ぽっかりと空いた大穴だった。

(チクショウ……この紐を解いてくれなきゃ意味がないってのに……)

 このまま二人は大穴に担架ごと投げ込まれる……そう思った瞬間。

『か、彼は銃を持っているぞ‼』

 ガイドが口走った。

 自分ひとりだけでも生き残りたいという、浅ましい考えからとった行動だった。

 しょうがないとレミーは無理矢理身体を動かして、拳銃の引き金に指をかけた――――

 だが、族長は至って冷静だった。むしろ、哀れみを込めているかのような視線をレミーに向ける。

『無駄だ……神の前で足掻いてみたまえ』

 レミーが発砲するよりも早く族長が合図を出して、二人は穴に真っ逆さまに落とされた。

 固い床に強かにぶつかって死ぬ――――そう覚悟したが、下には何やら細かい木くずのような物が山積みになっていたため、それがクッションになり二人はなんとか助かった。

 落下の衝撃で砕けたのは担架だけで、二人は這いずるようにして脱出に成功した。

 だが、ガイドが悲鳴を上げた。

「あ、ああッッ‼」

 二人を守ってくれたのは木くずなどではない。

 何百人という骨の山。あばら骨が草木のように天を突き、頭蓋骨が石ころのように転がっている。数こそ勝っていようが、五〇〇〇人分の人骨で埋め尽くされたポルトガルのエヴォラ礼拝堂のようなインパクトと迫力、そして『死』が充満していた。

 この世の暗部を見てきたと自負しているレミーも、わずかな間呼吸することを忘れて骸骨の海から視線を外すことができなかった。

 しかし、いつまでもこのまま呆けていては仕方がないと、レミーは今にも砕けそうな勇気をふるわせ、人骨の上に立ってみる。

 ポキ……ペキッ……。

 なんとも言えない感触である。

「さて……どうしたもんか」

 レミーはまぶしそうに上を見た。穴から差し込む陽光以外には光りがない。天然の洞穴になっているのだろうが、その先には明かりがなく、溶けてしまいそうな漆黒があるだけだった。

 今二人は、天から降り注ぐ明かりの中で固まっている。

 頑張っても頑張らなくても、穴まで登ることは不可能。

 だが、明かりも無しに洞窟を迷うのも自殺行為。

「とりあえず……だッッ‼」

 未だに魂が抜けているかのようなガイドの胸ぐらをレミーは左手で乱暴に掴み、右手で拳銃を構えて彼へ向けた。

「な、なにを⁉」

「このクソ野郎! さっき俺を売ろうとしたな? いい度胸だなオイッッ‼」

「ゆ、許してください……自分のことを考えるので精一杯で……」

「それで済むと思ってんのかゴラァ……このレミー・サンタン様を裏切るたぁ死ぬしかねえなあッッ‼」

「そ、そう言うあんたはどうなんだよ……僕が代わりに死んで、生き残れるなら⁉」

 少しだけ逡巡したレミーは、ガイドから手を離した。バランスを崩した彼は、脂肪で守られながら人骨の山を転がる。

「そりゃ、喜んでお前を差し出すな」

「人のこと言えないじゃないか!!」

「うるせえな! 俺様がいる場所じゃあ、俺が法律なんだよ!!」

 レミーが睨みを効かせて凄味を出す。

「それに、てめえみたいなガイドと、俺の命が釣り合うと思ってるのか? 世界に誇るレミー・インターナショナル社の会長が、お前と同格だって!?」

 自己中心的な考え方は、死ぬ直前だろうと変わりはしない。

 しかし、これでもレミーは優しく接していた方だ。拳銃で二人して脱出する方法を模索していたのだから、人の心がある。

 一方で、ここまでコテンパンに言われたガイドも引き下がらない。いかにも気弱な彼だが、こうなれば破れかぶれなのだった。

「何が世界に誇るだ! 偽善団体の間違いだろう!」

「何だとゴラァ‼」

「ど、どんなに貧困層に金をばらまいたって、あんたの罪が精算されるわけじゃない‼」

「はっ!」

 こうなりゃ恥も外聞もない。レミーは腕を拡げて思う存分に叫んだ。

「じゃあ誰が貧困層を助けるって? 神様にでも頼むのか? 俺様が武器を売って、人を殺した金が、貧しいガキの明日の飯になるんだよ‼ コレが現実ってわけさ‼」

 あまりにも潔い言い分に、ガイドも言葉に詰まってしまった。

「俺がいくつの学校を建てたと思う? いくつの病院を作って、そこに俺様の名前が入ってると? 汚えゴミだらけの道を整備して、伝染病を撲滅したのは? このレミー・サンタン様だッッ‼ 上っ面だけの政治家よりもたくさんの命を救ってやってんだよ‼」

 ハァハァと息を荒げながら、今まで溜まっていた鬱憤を、目の前のガイドにぶつける。そこに、裏社会の重鎮である彼の威厳は皆無だった。

「それが・・・・・・『事実』なんだよ」

 ドスンと糸が切れた人形のように骸骨の上に腰を下ろして、胸元を探る。ガイドはてっきり衛星電話でも出てくるのではないかと期待していたが、出てきたのは銀色のシガーチューブだった。

 そして死の香り漂うこの空間にて、傲岸不遜にも葉巻を吸い始めた。

「……死神に魂を売ったゲスめ」

 ガイドが呟く。

「ああ。金になるんなら魂も売り買いしてやるよ」

 ポッポと煙を吐きながら笑うレミー。

「……なぜこの島に来たんですか?」

「新事業でもしないと、てめえみたいにギャーギャーうるせえハエが湧いてくるんでね。世間体を保つために新事業でもやろうと考えていたんだ」

「僕が言われた内容と違うじゃないか……世界的に希少な、原始的生活をおくっている現地人を研究したいからって呼ばれたのに……」

「本当にそれだけで、あんだけの大金を払うと思っていたんなら、お前は馬鹿だ」

 ガイドもいつもは自身の研究に没頭している。しかし、研究に集中するためにも金がいるのだった。レミー・インターナショナル社からの依頼はたしかに怪しいものだったが、金欲しさに目をつぶってしまった。前金だけでも、向こう二年は研究が継続できる。

「僕も死神に魂を売ったってわけ……か」

「そういうわけだ。だが、死神だって無力じゃないぞ?」

 ニヤリと笑いながら、レミーはスーツの袖をまくって腕時計を見せつけた。金色でギラギラと光っている。

「……成金にピッタリだ」

「ただの高級品に興味はないんでね。まあ見てろ」

 時計をなにやらいじると、途端にデジタルな画面が出てきた。表面の針はダミーだった。

 指先でボタンを押した。それだけなのにやたらと得意げにレミーは煙を吐く。

「これで助けが来る」

「ほ、本当に⁉」

「ああ。GPSはもちろんのこと……レミー・インターナショナル社の最強の部隊が迎えに来てくれるぜ」

「よ、よかった……」

「その前に、何か言うべきことがあるんじゃないか?」

 ガイドは下を向きながら、

「……先程は裏切るようなことをしてしまい申し訳ございません」

「それでいい。さあ、ゆっくり待つとするか! あと一時間もすりゃ来る」

 二人は待つこととなった。


『第二章:出逢い』


 間違いなく二人は待ち続けた。

 ――――三日間――――

 初めのうちは余裕の表情を見せていたレミーも、二日目には腕時計が壊れてはいないか確かめ、三日目ともなると苛立ちが募っていた。

「……どうなってやがる!」

「あんた組織の仕事は早いですねレミー会長?」

 ガイドが皮肉を言いたくなるのも当然だ。

 水も食べ物もない二人には、もはや動く気力すら残っていない。レミーは辛うじて、怒りという人間が最もエネルギーに変換しやすい感情を抱いているので立ったり座ったりしているが、ガイドはゴツゴツとした地面に横になっていた。

「もうダメだ……み、水……」

「クソが……おいっ‼ 今ならペットボトルに一〇〇〇万ドル出してやるぞ‼」

「ハハハ……金で全てが解決できると思っている人間ってのは滑稽ですね……」

 ガイドの声には生気がなく、消えてしまいそうなロウソクの火のようだった。

「クソ……クソクソッッ‼」

「……レミーさんにはご家族はいるんですか?」

 場違いな質問に、レミーは髪を振り乱しながら顔を向ける。

「あぁ? んなもん聞いてどうすんだよ?」

「どうせ一緒に死ぬんだ……なら少しくらい親密になっておきたいな、と」

「縁起でもないこと言うんじゃねえよ」

「でもこのままだと、餓死の前にレミーさんストレスで血管が千切れちゃいますよ。雑談でもして、天使を待ちましょう」

「くだらねえ……だいたい、俺には家族なんてものはいねえよ」

 興味を持ったように、ガイドが身体を起こしてさらに尋ねる。

「いないことはないでしょう? 絶縁されたとか?」

「……ハァ」

 レミーも来ない救援を待つのをいったん中断して、骸骨の上にどかりと座った。

「父親がいた」

「お父さんはどんな職業を?」

「政治家だよ……もっとも、最悪の父親だったがね」

「と言うと?」

「……酒を飲めば暴れて、ベルトで俺のことを打った叩いてきやがった。おかげで、今でもベルトを外すシュルって音が苦手だ」

「誰かに相談しなかったんですか?」

「外面の良い奴だったからな……誰に言ってもガキの嘘だと決めつけられた……そんで、そのことを知ると俺は納屋にくくりつけられたもんだよ」

「で? どうやってお父さんと和解したんですか?」

「頭ン中お花畑かてめえ」

「じゃあどうやって解決を?」

「大学の卒業式の夜に、銃で殺した」

 予想外の答えにガイドは疲弊を忘れて驚いた。

「じ、自分の親を?」

「ケッ! 知るかよ。俺様のことを虐待しやがったんだ。それ相応の罰を与えなくちゃな」

 あの日の夜を思い出し、レミーは感傷に耽る……かと思われたが、ケタケタと笑い始めた。

「あの野郎小便漏らしながら『今までのことは謝るから』って泣きついて来やがったんだよ……ヒヒッ‼ んなわけねーだろうがバーカ‼ ギャハハ‼」

 腹がよじれるほど笑う彼に、改めて狂気を感じたガイドは顔を引きつらせた。

「血で濡れながら思ったね……この世の全ては権力と武力で解決できるってな」

「解決できてないじゃないですか」

 現状を冷静に分析したガイドのひと言に、レミーも本心を明かした。

「絶対に助けが……サミュエルが助けてくれる」

「サミュエル?」

「俺の息子だ」

「え? さっき家族はいないって……」

「血が繋がってないって意味だよ。元々はスラムの孤児だったのを引き取ったのさ」

「孤児……」

「ああ。俺のいる国では二〇年近く前に内戦が勃発しててな。それで、あいつみたいな孤児がたくさんいるんだよ」

「どうやって知り合ったんです?」

 レミーは暫し平穏無事だった日々を思い出してニンマリとし、嬉しそうに鼻を鳴らして答えた。

 さっきまでのサイコパスな笑顔ではない。柔和な微笑みだった。

「ガキの頃のあいつはスリが上手いガキでな……俺から財布を盗んだんだ」

「……はい?」

 レミーの表情からほっこりと温かいエピソードが出てくるとばかり思っていたガイドは、目を丸くした。だが、レミーはまるで昔話をする老人のように語るのである。

「アメリカ政府に目をつけられた頃か……南米に会社を移そうとして現地視察をしてたんだが、雑踏に紛れてうっかり盗まれた。無論、普通のヤツがそんなことをしたら確実に殺してるところだったが、あいつには光るものがあるって踏んだんだ」

「光るもの?」

「強い意志だよ……金じゃ買えない上、力で脅しても手に入らないものだ。あいつは同じスラムの孤児たちのためにスリを働いてた。そいつらを飢え死させるくらいなら、危険を冒して盗みをしてやるって根性があった。だから目をつけたんだよ」

 レミーはあえて触れなかったが、彼は女性を愛したことがない。

 厳密に言えば恋をしたことは何度もある。金の匂いを嗅ぎつけて近づく異性もいた。所帯を持つという行為をしなかっただけである。

 少年期に父親から『見ていろ』と命令をされて女性との性交渉を見せつけられるという精神的虐待を受けていたのだ。

 そのトラウマで女性の裸を見ると寒気がして目を背けてしまう。ゆえに、子供を自分が持つなど考えられなかった。

 サミュエルとの出会いさえなければ。

「あいつは凄いんだぜ……盗んだ罰として銃を突きつけたら『撃ってみろ』って仲間たちの盾になったんだ……まだ下の毛も生えてないガキがだ」

 ひと目で彼を気に入ったレミーは、彼を養子にした。

「俺は完全にパーフェクトな人間だが、足りないものがあった。俺の意志を引き継ぐ次世代の『俺』だ」

「は、はあ……」

「あいつには全てを与えた。名前から学歴まで――――ヤツを完璧にするためにはいくらでも金を出し、そして権力を利用したさ。大学も出て、今やレミー・インターナショナル社の取締役だ」

「あの……」

 ペラペラと自身の功績を並べるレミーに、ガイドは単純な疑問を持った。

「なんだ?」

「その……サミュエルさんを、愛しているんですよね?」

 いつものレミーならば、別の簡単な言葉にすげ替えていたところだったが、この絶望的な状況下で、つい本音が出てしまう。

 ポツリと、ガイドが耳を澄まさなければ聞こえない程度の声で、

「……愛しているさ……心の底から」

 初めは自分の分身のように考えていたのは紛れもない事実。

 しかし、時を重ねるうちに、損得勘定抜きの感情が湧いてきた。

『息子の幸せを考える』

 自分には与えられた経験がないこの想い……それを、サミュエルには注いでいた。己の分もだ。

「あいつが幸福になれるんならいくらでも――――いや、金なんかじゃなくても何でもしてやりたい。だからこそ……レミー・インターナショナル社はクリーンな会社にしなければならんのだ」

「サミュエルさんに遺すために……?」

「ああ。あいつには負の遺産を残したくない。会社のイメージは俺が蒔いた種だ……俺が生きているうちに変えなければいけない。それが……せめてもの、親の務めさ」

 自分が――――レミー・サンタンという男がクズなことくらい理解している。

 だが、だからといって子供までクズ呼ばわりされることなど望んでいない。

 巨万の富と、健全な会社の社長の椅子。

 そんなものしか与えてやれないが、レミーが譲れる限界だった。

「俺の夢はな……あいつの子供を抱くことさ」

 いつしか、レミーの顔から『死の商人』の影が消えて、我が子を慈しむ父親の光りが浮かんでいた。

「きっとカワイイだろうなぁ……ふにふにで、サミュエルとクララの美貌を受け継いだ完璧な子供に違いない」

「へえ……サミュエルさんには奥さんがいらっしゃるんですね」

「いや、これが好青年な我が息子は誰に似たのやら奥手でね。紳士的でプラトニックな付き合いをしているんだよ」

「少なくとも、あなたに似たんじゃなさそうですけど……」

「二五歳でもうそろそろプロポーズしてもいいんじゃないかって言ってるんだがなぁ。これがまた彼女を愛するあまりに慎重になりすぎているんだ」

「……良い息子さんですね」

「ああ……自慢の息子だ」

 言い終わる前にレミーは「うんしょ」と立ち上がり、上空の穴を力強く睨んだ。

「だから、死ねねぇンだよ……孫を抱くまで、死ぬわけにゃいかないッッ‼」

 ガイドも、そんな彼の様子を見ていると諦めの言葉を吐くのははばかられ、黙っていることにした。

 それから数分の静寂――――

「なあ、いつまでもガイドってのもつまらねえ。名前、教えてくれねえか?」

 勇気と希望を取り戻したレミーは、ガイドに熱のこもった瞳を向ける。

 ガイドも彼に看過され、自分たちが生きて出られるなどという幻想に浸っていた。

「そうですね……僕の名前は」

「黙れ」

 あまりの言葉に、ガイドも怒るに決まっている。

「ちょっと! 今そんな雰囲気じゃなかったでしょう⁉」

「静かに……聞こえるか?」

「え?」

 先の見えない洞窟の闇の中から、ヒタ……ヒタ……と微かな音がする。

 少しずつだが、その音がハッキリと聞こえてきているのがガイドにも分かった。

「足音だ……」

 骸骨の山から降りたレミーは、ガイドにヒソヒソ耳打ちした。

「だ、誰でしょうか?」

「明かりが見えない……つまりこの洞窟を知り尽くしているヤツってことは間違いない」

「住民たちが戻ってきてくれたんでしょうか?」

「お花畑は黙っていな……」

 レミーは温存していた拳銃を取り出して弾薬が入っていることを確認し、ガチャッと中折れさせていた銃身を戻した。

「俺たちが死んだかどうかを確認しに来たって可能性の方が高いだろうな……」

「じゃあ死んだフリを……」

「馬鹿。コレはチャンスだ……拳銃で脅して抜け道を教えてもらうんだよ……」

 音だけしか情報がないが、どうやらひとりだけらしい。

 勝機は充分にあると、レミーは確信していた。

「いいか? 俺が銃を向けるのと同時にこう言うんだ『動いたら風穴が空くことになるぞ』ってな」

「わ、分かりました」

「生きて出られたら、さっきの話の続きをしようや……来たぞ」

 暗闇の中に立つ、うっすらとした人影に、レミーは銃口をかざした。

『そこで止まってください! さもないと発砲します‼』

 同時に叫んだガイドも、レミーの隣に立っている。

 さてどう出るか……怒るか? 恐怖するか?

 レミーは全神経を伸ばしている右腕に集中させていた。少しでも妙なことをすれば、即座に引き金を引くためだ。

 だが、音の主は止まることなく闇の中から接近していた。

「おい! ちゃんと通訳してんだろうな⁉」

「も、もちろんです……『止まりなさい! こ、殺しますよ‼』」

 ヒタ……ヒタ……

「クソッ……」

 発砲に備えて、ぼんやり見える輪郭の心臓を狙うレミー。

 だったが、現れた人物が意外すぎて彼は動作を全てストップさせた。

「女……?」

 一糸まとわずに乳房まで露出させていたのは女性。しかも、かなり若い。

 外見は二十歳くらいだろう。

 真っ白な髪は腰まで伸び、褐色の肌には張りがある。

 なによりも驚くべきはその美しさだ。

 万物を創造した神が、自らの手でこだわり抜いて作ったのではないかと思うほどだ。三白眼にはルビーのような赤い瞳。鼻もちょこんと形が良く、唇も薄い桜色で潤いが感じられる。

 胸は決して大きいとは言えないが、それもまた下品な妖艶さとは真逆な、神秘的オーラを放つ彼女には合っている。

 肋骨から腰にかけてはキュッと引き締まり、小さなヘソが砂漠のオアシスのように空いていた。チャーミングだ。

 恥部は……流石のレミーでも凝視はしない。というか、トラウマでできない。

 しかし、ふとももは筋肉質で細く、膝からくるぶしに至るまでマネキンのように不気味なほど完璧だった。ヒタヒタという音の正体は、彼女が服と同様に履き物もなしにこの足場の悪い洞窟を歩いていたからであった。

 この死が蔓延る場所には似つかわしくない美少女……に対してもレミーは銃を向ける。

「止まれクソアマ……」

 すると彼女はピタッと静止し、彼が持つ拳銃を小首をかしげながら見つめていた。状況がこうではなければ、なんとも愛らしい仕草だ。

「通訳しろ『このクソ洞窟から出る方法を教えな嬢ちゃん。じゃなきゃ穴が増えることになるぜ』ほら!」

 ガイドがニュアンスをもっと柔らかくして訳した。

 しかし、これまた彼女は首をかしげて頭にクエスチョンマークを浮かべていた。

 そして一歩、また一歩と接近する。

「来るなっつってんだろうがっ‼」

 彼女はズンズン進む。

 あどけなさが残る少女に、大人二人はジリジリと距離をとろうと後ろに引く。

 不思議なもので、彼女自体がまるで極限状態の末に見ている幻影のように、現実味がないのだった。

「……忠告はしたぞ」

 タァァァン!!

 レミーは引き金を引いた。短い銃ゆえに腕で制しなければいけない反動が大きく、力を込めて撃ったのだった。洞窟の岩の壁を、破裂音が乱反射し壁を蹴り上げてどこまででも響いていった。

 だが――――

「嘘だろ……」

 彼女の命を奪うつもりはなかった。それでは外へ出られないからである。足を狙ったのだ。

 それでも、無傷など計算には入れていなかった……

「確かに当たったぞ……当たったのに」

 狙いが外れたわけではない。

 彼女の大腿部には小さな、かさぶたを無理に引き剥がしたほどの小さな傷ができている。

 少女は動きをやめたが、それは痛みで止まったと言うよりも音に驚いて立ち止まったと言った方が正しい。

 なにもレミントンダブルデリンジャーが弱い武器なわけではない。肉をえぐることなど造作もないはず。実際、レミーは傷を負った彼女が跪く場面を頭にイメージしていたのだ。なのに……無傷とは……、

「何モンだこいつぁ……」

「か、神だ……」

 二発目を打つ気でいたレミーとは対照的に、ガイドは震えが止まらずうわごとのようなことを呟く。

「彼らが言っていた神は……彼女なんだ」

「うるせえ! 神なんているわけないだろ‼」

「神様……」

 気がつくと、充分に距離を保っていたレミーに反してガイドが彼女の前から動けずにいた。腰が抜けているのか『神』という人間を超越した存在に抵抗する気力も奪われたのか分からないが、背後から「逃げろ‼」と叫ぶレミーの声にも反応しない。

 むしろ、彼女の美しさに惑わされ、硬直しているのかもしれない。

「嗚呼……神様……」

 ガイドの前までやってきた彼女は、ジッと彼を見下ろした。

 その目はまるで獲物を狙うワシのように冷静で、それでいて救いのない眼差しだ。

 と――――

 彼女がガイドの両肩に細い腕を巻き付けた。まるで、ダンサーが客を魅了するかのように。そして地に這いつくばったまま動けない彼を胸の高さまで引き上げた。

 レミーは黙って見守っていた。

 ガイドは彼女の柔らかな双丘に顔を埋められて、聖母の抱擁を受けたかのように安心して呆けていた。だが、目の前の女は聖母などではなかった。

 彼女は手をガイドの頬へ当て、アゴを突き出させ、顔を近づけた。

 そう。まるでキスをする恋人同士のように自然な動作だった。

 だが……

「ひ、ヒィィィ‼」

 ガイドのみならずレミーも見てしまった。

 彼女の口の中を。

 墨汁を塗ったかのようにどす黒く、舌は紫色。しかも尖端で分かれている上にニョロリと長い。犬歯がある場所には、注射器のような鋭い牙が伸びている。

 レミーの頭は処理が追いつず、目玉が飛び出るほど凝視した。まばたきも、忘れている。

「助けて‼ 助け――――ムグッッ」

 救いを求めていたガイドの口は、口づけによって黙らされた。互いの唇が交差するように密閉され、濃厚なキスだった。

 相変わらずガイドはくぐもった悲鳴を上げていた。あらん限りジタバタともがいて抵抗はしているが、彼女の力には敵わないらしい。

 すると、ガイドの叫びが聞こえなくなった。

 代わりに彼の少し太った身体がワナワナ震え始め、黒目は瞼の後ろに引っ込んで白目を剥いた。痙攣がひとしきり終わると、彼女は唇を彼から離した。だが、杭で打ち付けられたかのごとく、ガイドは膝で立ったまま固まっている。

 ブク……ブクブクッッ!

 自由になったガイドの口からは、赤黒い泡が刺激を与えた炭酸水のように溢れ、地面を汚す。そして、そのままドスンと倒れ動かなくなった。

 彼は死んだ。

 この間、僅か数秒の出来事だったが、レミーは数時間見せつけられているかのように思えた。

 そしてカタカタと揺れる拳銃を見て、初めて自分が震えていると知った。

 例え人間が目の前で包丁によってさばかれていようとあくびができるレミーでも、耐えられない恐怖がそこに立っている。

 動くことはなくなったガイドをよそに、彼女はレミーに目をやった。

 次は自分――――

 誰に言われるでもなく、悟った。

 一発だけ残りの弾はある。それが無力であることも知っている。

 もはや自分ができる抵抗手段などないのだ。

 ゆっくりと近づく彼女から逃げようもないことを察知して、レミーも覚悟が決まった。

「ちょっと待ってくれよ……」

 今際の際……そんなときに何をするかなど決まっている。

 レミーは我慢していた最後の葉巻を懐から出して、火をつけた。

 嗚呼……こんなに旨かったっけか……?

 濃密でシダーのような芳香のハバナ葉を燃やすことで生ずる紫煙を、口と鼻から出して愉しんだ。触感がないはずの煙を口腔内で感じ取りながら、目を閉じて最期を待つ。

 さあ来い……来い……

 ――――

 おや?

 いつまで経っても彼女の死の接吻がない。

 おかしいなと思い、彼は目を開いた。

 すると、眼前に迫っていたはずの彼女は自ら距離をとって、猫が騙されたときのような顔をしていた。彼の周りをぐるりと周りつつ、近づこうとはしない。

(なんだ? 火か⁉)

 だが、その可能性は低いだろう。拳銃でも怯えさせることができない生命体を、ガスライターごときで撃退はできるわけがない。

(じゃあなんだ? 何で俺は生き残っている?)

 先ほどの自分と、そしてガイドと何が違う?

 と――――

 洞窟に迷い込んだ風が、紫煙をたぐり寄せ彼女のもとへ運んだ。

 彼女はその煙がまるで死神の大鎌であるかのごとく逃げる。

「……葉巻の煙か?」

 まさか銃でも火でもない、煙などに守られるとは。

 しかし、原因が不明だ。

 まさか彼女が嫌煙家などということはないであろう。

「待てよ……ヤニ……口の中が黒い……」

 何かが引っかかる。不遇だった自身の子供時代……心の拠り所だった動物図鑑を開き現実から逃れていた頃の記憶が呼び起こさせる。

 そこで何かを読んだ……なんだ⁉

 思案に耽っているレミーを無視して、彼女は哀れなガイドのもとへと戻る。そしてガイドの身体に四肢を巻き付ける。

 ボキボキ……ボリボキッッ

 耳障りが悪い音だ。どうやら、ガイドの骨を破砕しているらしい。人間の、最も長く太い骨、背骨を折ろうと彼女は少し力をかけた。

 ベキャッッ

 ガイドの身体は今やグニャグニャのゼリーのようになり、彼女が求める状態になった。

 そして――――

 彼女の口がガイドの頭ほど開き、一気に丸呑みした。喉を通り、そして腹に到達したのであろう。彼女の腹は妊娠したかのように膨れていた。ガイドの姿は、もうどこにもない。

 目を覆いたくなるような光景だったが、レミーには閉じられていた過去を開く鍵となった。

「巻き付き、骨を砕いて丸呑み……ヘビ?」

 彼の気が変になったわけではない。限られた情報の点と点を繋げていくと、鎌首をもたげる毒蛇が浮かび上がったのだ。

 もしも蛇だと仮定したら、多くの謎も解くことができる。

 暗闇の中を明かりも無しに進んできたのも、蛇にはピット器官と呼ばれる赤外線を感知する術がある。獲物のもとへ来るのも簡単というわけだ。

 蛇はタバコのヤニを嫌う。蛇避けのために吸い殻をバケツに漬けておき、庭に蒔くとも聞いたことがある。

 だが、正体を少し掴んだところで、現状は変化しない。行動をせねば、変わることはないのだ。

 ならば蛇の好きなものは……?

 レミーは頭をフル回転させて思い出そうとする。

 そうしている間にも、葉巻は少しずつ短くなっている。満腹状態の蛇が、さらに獲物を襲うことはないという記憶もあるが、なんでもかんでも彼女を蛇に当てはめるのはかえって危険だ。

 そもそも、人の形をしている蛇の時点で常識は通用しない。

 蛇は好きなもの……蛇……!

「クソッ! お前は何が好きなんだ⁉」

「あなたのお肉」

 ……ん?

「誰だ?」

「わたし、あなたの肉、好き」

 単語を繋げているかのような言葉を辿ると、そこには腹が膨れている彼女がいた。

「お前……英語が喋れるのか?」

「少し。あなたの肉、噛みにくそう。今の『エサ』大きくて好き」

 さすさすと腹を触る。

 思い返してみれば……ガイドが現地の言葉で通訳しても無反応だったが、レミーが発した言葉には反応していた。彼が止まれと言えば止まったのである。

 ともすれば話は早い。

「わたし、それ嫌い。臭い」

「それは申し訳ない」

 丁寧に振る舞い言葉も選ぶが、葉巻だけは絶対に離さなかった。親指ほどしか残っていないが、これが生命線なのである。

「なあ、まずは自己紹介といこうじゃないか? 俺はレミー。レミー・サンタンだ」

「……?」

「俺の名前だ……な・ま・え……分かる?」

「わたし、名前ない」

「ならつけてあげようじゃないか……そうだなぁ……『スペス』なんてどうだ? ラテン語で『希望』って名前だ」

 自分の孫につけるつもりだった名前を、眼前の名のないクリーチャーに与える。

「スペス……わたしの名前……」

 彼女の口角が少しだけ上がったような気がした。それを見逃すレミーではない。

「こうしよう。君にプレゼントをあげる。なんでも好きなものを言ってごらん?」

「あなたの……」

「俺の肉をあげたらプレゼントができなくなってしまうぞ? そうだ! 無事にここから出してくれるなら、君に牛を与えよう。エサからこだわり抜いた最高級Aランクの牛だ」

「うし……?」

「俺よりもずうっと大きくて、そして旨い肉だ」

「……オイシイ?」

「そうだ! なあどうだ?」

「……あなたの肉」

「ええいチクショウ!」

 レミーは右へ左へ動きながらあれこれと考えた。

「友達を作ってあげよう! そうだ! 蛇がたくさんいる場所(動物園)に連れて行ってあげるよ!」

 孤独感を刺激!

「仲間、たくさんいる。いらない」

 効果はない……というか、たくさんいるのか……頭が痛くなる。

「何が好きなんだ……コレはどうかね? 君にはピッタリだと思うんだけどね!」

 超高級スーツ!

「どうだね? 着心地が良いだろう?」

「……嫌な臭いする……いらない」

 ヤニが裏目に出た……もしくはオッサン特有の臭いか?

 焦っていると、短くなりすぎて葉巻をもはや持てなくなった。地面に落ちる葉巻を目で追いながら、スペスは舌を出してレミーをジッと見た。

 マズい……。

「コレ! 綺麗だろう? ピカピカ光ってキラキラしているんだ!」

 ワイシャツのボタンを外して着けていた純金製のネックレスを見せる!

「……」

 初めて彼女が目を見開いて興味を示した!

「おお! 好きならあげるよ! ここから出してくれたら、トラック何台分でも……」

「そんなものいらない……」

 だが、彼女の視線は離れない。

「な、なんだね? まさかもう空腹になったのか!?」

「……それ」

 スペスは人差し指を伸ばして、彼の首を差す。

 ネックレスじゃなければなんだ?

 自分の首に、なにが……あった……!

 ワイシャツを乱暴に開き、自身の胸元までを彼女に見せつける。そこには大きな黒い蛇のタトゥーが彫られている。

 ウロボロスがあったのだ。彼女はそれを見ていた。

「ヘビのこと好きなの?」

「……ええい! そうだ大好きさ!」

「でも、蛇じゃない」

「まあそんなことは些細な問題だ。ここに生まれてからずうっといるのだろう?」

「……うん」

「なら外の世界に興味はないかね? 閉塞感からの脱却だよ」

「難しい言葉、分からない」

「つまり……この島から出るってことだ」

 これは賭けだった。

 彼女が現状に満足していたら、レミーの言葉を信じなかったら、終わりだ。

 だが、レミーは中東の革命軍に拳銃を突きつけられながら商談したこともある。リスクは承知。

 何もしないというのは死んでいるも同じ……レミーの信条だ。

 何だって言ってみればいい。動いてみればいい。

 人生の底の底、地獄の釜から這い上がってきた人間の胆力ゆえにできる芸当だ。

「……」

「岩と骨だけを眺める人生なんてつまらないだろう? 俺が見せてあげられる」

「……ニンゲンと会えるの?」

 釣り竿がしなったのを、レミーは見逃さない。

「ああ俺のファミリーに会わせようじゃないか」

「……面白そう」

「じゃあ……ここから出る抜け道なんかを……」

 その瞬間だった。

 シャッ‼

 シュバッ‼

 頭上から腰にロープを装着した兵士が七名一斉に降りてきた。穴の向こう側からはヘリの音や人が命令を出している声も聞こえる。

 参上した兵士はM四カービンを構えながら骨の山を歩き、レミーに接近した。

 レミーは安心した。

 彼らは『H・Y・A』の腕章をしていたからだ。

「ボス‼ ご無事で‼」

「こちらチャーリー部隊。パッケージの保護に成功」

 屈強な男たちがレミーに駆け寄り、力が抜けた彼を支える。

 鏡などないので自覚はしていなかったが、レミーのなりは酷いものだった。髪は汗でベトベト。ヒゲは伸びて、身体には脱水症状の兆候があった。

 五八歳が通常こんな状態だったら死亡一歩手前だろうが、レミーのしぶとさが勝ったのだ。

 誰と争っていたわけでもないが「勝った……」とレミーは呟いたという。

 レミーを助け起こすのに四人。

 そして残りの三人は……、

「動くな‼」

 スペスに三つの銃口を向けていた。

 突然の出来事にスペスも目を点にして固まっていた。

 そして――――

「ゲロ……」

「ファック‼ ウソだろ⁉」

 スペスは腹に収めていたガイドをもどしてしまった。ガイドは少し溶けていたのでモザイクが必要だったが、原形を留めていた。

 少女から大の大人が排出されたので、兵士たちは顔を真っ青にさせながら今にも化け物にありったけの銃弾を浴びせようとしている。

「待て……」

 ふらつきながらも、レミーは腕を伸ばして兵士を制止した。

「俺の命令無しに行動するな……」

「ハッ! しかし……こいつをどうするんです?」

 確かにそうだ。

 救援が来たからには、彼女は用済みに思えた。

 だが、それは凡人の発想である。

 二度目になるが、レミー・サンタンはタダで転ぶ男じゃない。彼女は世にも奇妙な蛇人間。調べてみる価値は充分にあるだろう。

「……驚かせてすまない」

 裸の彼女に、そっと兵士が持っていた携帯型のポンチョを着せる。彼女は怯えていた。それが、わずかだが時間を共にしたレミーには分かる。それに、蛇は急なストレスを食後に与えられると獲物を吐き出すという記述もハッキリと覚えていた。

 雨に濡れている者には傘を……さすれば、己が濡れたとき、きっと傘を差し出してくれるだろう。そうしたら奪えば良い。

「ご覧の通り……俺は群れのリーダーだ」

「リー……ダー?」

「君に約束したね? 外の世界を見せてあげると……これから約束を果たそう」

 柔らかい笑みを浮かべているレミーに、兵士が背中越しにボソボソと質問した。

「ボス、こいつはなんです? 人間を喰ってたんだ……危険ですよ」

「黙って俺の命令に従え……いいな?」

「……イエス・サー」

 兵士たちは彼女の肩を掴んだ。別に乱暴にしたのではない。穴から出すために必要なことをするためだった。

 しかし、彼女をビックリさせてしまった。

 スペスが両脇にいる兵士を関節を外して伸ばした腕で捕まえる。訓練を積み筋肉という鎧を纏っている兵士二人を軽々と地面から浮かせて「シューッッ‼」と威嚇したのであった。

 兵士は彼女の指をどうにか首から剥がそうともがいたが、気道がどんどん狭くなるだけだった。

 仲間のピンチに引き金を触る兵士を軽くいなして、レミーが丁寧に振る舞った。

「おっとスペス、乱暴はやめてくれ。彼らは君に危害を加えたりしない」

「……本当?」

「約束だ。覚えているね?」

「ヤクソク……」

 ドスン!

 バタン!

 二人の兵士が地面に落とされる。息を荒げながら、首をさすっている。

「彼ら二人には特別手当を出してやれ。キャッシュで、今夜中に」

「い、イエス・サー」

「無論、君たちにも俺様を助けたボーナスを支給させる」

「ありがとうございます……」

「さあ、いい加減この洞窟からおさらばといこうじゃないか!」

 兵士たちに抱えられながらローブで上へと登るレミーとスペス。

 彼女は未だに緊張していたが、レミーは近づいてくる太陽の光を存分に味わっていた。

「さすがはボスだ……生きていらっしゃった!!」

 穴の上に足を付けるのと同時に、一〇トントラックのクラクションのような鼓膜を叩く大声が聞こえた。

 この声を愛おしいと感じるときが来るとはな……。

「L・J――――信じていたよ」

 身長一九二センチ・体重九五キロの筋肉モリモリマッチョメンが、サングラスを投げ捨てながら走ってくる。

 黒人で、顔にはライオンとでも死闘したのではないかと疑ってしまう傷があるが、まるで母親の元へ駆けてくる少年のような笑顔だった。

 ラング・ジャクソン。親交の深い者は『L・J』とイニシャルで呼ぶ。

 レミーが武器商人としてフリーで働いていた時代に出会った、歴戦の傭兵。今やレミー・インターナショナル社の理事のひとりで、武装傭兵部隊『H・Y・A』のトップを務めている。部下たちを慮り、時に厳しく、時に優しい父親のような彼を兵士たちは敬愛を込めて大佐と呼ぶのだった。

 レミーへの忠誠心は鋼鉄よりも硬く、理事会の中で最も彼のことを慕っている。

「ボス……」

「やめてくれ。今は泣く場面じゃない」

「そうですよね……ヒック……生きててよがっだ……」

 すでに滝のように涙を流しているが、やることはやるのがラング・ジャクソン四〇歳だ。

「……で、こいつは誰です?」

 スペスのことだった。

「彼女か……フン……理事会へのお土産だ」

 彼女に聞こえていないのを確認して話している。

 そして、長年の友情をも凍らせるほどの迫力で、レミーはラング・ジャクソンを睨みつけた。

「救難信号はどうなっている? なんでこんなに救助が遅れたんだ?」

 気圧され、ラング大佐はモゴモゴとなにやら言い訳を始めた。

「それは……その……理事会が……」

「あぁ? 聞こえねえんだよ脳筋野郎‼」

「り、理事会で新事業の責任者であるベン最高顧問が『ボスはリゾートでくつろいでいる。警護もついているから心配することはない』と言ったので捜索活動をしておりませんでした‼」

「ベン……あの日和見のクソッタレが……まあイイ」

「三日目の今朝、異変を感じた自分が独断で部隊を率いて強襲した次第であります‼」

「ご苦労……お前という部下を持てて俺は幸せ者だ」

「もったいなきお言葉……ありがとうございます‼」

「あーもう大声はやめてくれ。頭痛がしてきた」

「かしこまりました‼」

 さてと……穴から出たら、やることを決めていたのだ。

 まずは部下に何も言わずに手を伸ばす。

 やはり彼が愛喫しているキューバ産の高級葉巻が出てきた。それを吸い始めると、スペスが煙から逃れるように遠ざかる。

 だが、今はそんなことはどうでも良い。

 この三日間、神経がどうかなってしまうほどに抱えていた怒り……それをどうにかしなくては、日常には戻れないだろう。目をやると、そこには跪いて両手を頭の後ろに組んで並ばされている原住民たちがいた。

 一番右には……いたいた……族長だ。

「集落は制圧済みです」

 ラング大佐率いるチャーリー部隊は『H・Y・A』の中でも選りすぐりを集めた精鋭部隊だ。数も多く、レミーの警護にあたっていたアルファ部隊の何倍もいる。抵抗した者は殺し、男性は武器を持っていない者だけが捕まっていた。

 族長はレミーを見ることはなかった。

 彼の目線の先にはスペスがいる。

「……俺を見ろ」

 レミーが紫煙を愉しみながら命令した。

 通訳する者がいないので言葉は通じないが、それでも人間というのは場の空気で充分に意志が伝わるものだ。

 族長はシワだらけの顔を四五度上げて、レミーを見る。

 一方のレミーは、勝者の余裕をこれでもかと見せつけた。

 生殺与奪を握られている人間たちの前で吸う葉巻が一番旨いと、レミーはよく口にする。

「久しぶりだな……族長」

『神を……神聖な穴から出すとは……ッッ』

「驚いているらしいな。まあ、俺様ほどにもなれば、化け物だろうと言うことを聞かせられるンだよ」

 スゥ……フゥ~と、紫煙を族長の顔にぶっかける。

「どんな気分だ? 今のお前の感情はな、三日前の俺と同じさ……許すと思うか?」

 ガチャッ……

 レミントン・ダブルデリンジャーの装弾数は二発。

 不可抗力でスペスに一発使ってしまったが、残りの一発の使い道は、穴に落とされたあの日から決めている。

 銀色の瞳をギラつかせて、拳銃をわざとゆっくり向ける。

『ワシを殺し、神を解き放てば……災厄がこの世界を包み込むであろう……!』

「何言ってンのか分かんねえンだよジジイ‼」

 ガカァァァン‼

 族長の身体は地べたに転がり、動かなくなった。

 命を奪っただけでも充分な復讐劇なのだったが、レミーは満足しなかった。

「……貸せッッ‼」

 横にいた兵士からカービン銃をひったくると、物言わぬ族長に発砲した。マガジンに入っている弾を全て、発射した。

 ドガガガガッッ……、

 ガガガガ……ッ‼

 カチッ! カチッッ‼

 蜂の巣になった族長へ、弾のなくなった銃の引き金を未だに引くレミーの姿は、まさしく死神だった。容易には近寄れない彼に、ラング大佐だけが接近できた。

「ボス、弾切れです」

「ハァハァ……ざまあみやがれ」

「他のヤツはどうしますか?」

「……俺が言う必要があるのか?」

 カービン銃を兵士に返しながら、葉巻を咥えてヘリに向かう。

 背後から無数の発砲音が聞こえようが、悲鳴が聞こえようが、レミーの興味を引くことはなかった。

「リゾートは充分だ……帰るぞクソ共」

「ハッ!」

 ヘリにはレミーとラング大佐、そしてスペスが乗り込んだ。

 これでようやく平和な日常に――――

「コレ、嫌い」

 出発した瞬間に、スペスがレミーの咥えていた葉巻を指でつまんで投げ捨てた。

 通常、そのようなことをすれば、レミーが死ぬよりも恐ろしいことをするのだが、

「ああ、それはすまない」

 ラング大佐が外れんばかりに口を開けていた。

 こんな温和なレミーなど、滅多に見れるモンじゃない。

「彼女は何者なんです……」

「フフフ……俺の希望の星さ……」

 そう。もとの日常ではない。

 新しい、レミーの野望は始まっていたのだった。

 ――――ちなみにガイドの遺体は誰にも運ばれることなく、穴の中に放置された。


『第三章:冷たい愛情』


 レミーたちを乗せたヘリは近くに停泊していた巡洋艦を目指していた。しかし、レミーが断固として拒否したのである。

「今すぐに、本社へ向かえ」

 彼の言葉は、組織内の人間には神からの啓発同様に絶対的な不文律である。ラング大佐が命令をしてヘリの進行方向を変更させ、南米のとある国にあるレミー・インターナショナル社の屋上に到着したのである。

 屋上のヘリポートには、ひとりの青年が立っていた。

 サミュエル・サンタンである。

 二五歳の若さでレミー・インターナショナル社の取締役を仰せつかった、レミーの自慢の息子だ。

 黒い髪は短くカットし、ヒゲも一本残らず剃られていて清潔感がある。

 なによりも、美男子だ。ベビーフェイスで、糸目だが理知的な面立ちをしている。レミーとは対照的に肌は真っ白。手入れが行き届いており、絹のように滑らかな肌だ。水色のシャツをまくって半袖にしており、社員証を首からぶら下げている。

 一見すると平社員のようだ。

 レミーが再三「貫禄を出すために目につく服を着るべきだ」と言っているのだが、控えめな性格ゆえなのか普遍的な格好を好んでいる。

「お父さん!」

 ヘリから降り立ったボロボロのレミーに満面の笑みをたたえて走ってくる。この瞬間のために、生き残ったと言っても過言ではないと、レミーは言葉にしないでも心で呟いた

「お父さんが生きていてよかった……」

「サミュエル……息子よ」

 レミーは両腕を拡げる。ハグの合図だ。

 サミュエルはそれに従い、彼に包み込まれた。

「もう会えないかと思った」

 震え声の息子を抱きしめる手に、力が入る。

「俺もだ……だが、こうして戻ってきたぞ」

 二人から少し離れたところで、ラング大佐が太ましい腕を組んでうんうんと親子の再会に感動している。

「さあ、まずは病院に……」

「サミュエル……そんなことは後でよい」

「でも……」

 レミーの酷い有様に、サミュエルは医師の診察が必要だと感じているようだ。

 だが、レミーに休養は不要。むしろ、一分一秒が惜しいのであった。

「いいかよく聞くんだ……全幹部を召集するんだ」

「わ、分かりました……で、日取りは?」

「今から一時間以内だ」

 サミュエルは仰天した。

「それは……急な話ですね……」

「ああ。幹部たちに直に訊かねばならないことがあるんだ。それまでに、俺はシャワーを浴び、ヒゲを剃って新しい服を着る」

「……了解」

 これは荒れるな……サミュエルは息子の直感で察した。

 ――――

 レミー会長の生還の知らせは瞬く間に社内を駆け巡った。そして彼の思惑通りに、逃げる準備をしていた幹部数人を取り押さえることにも成功したのである。

 その中のひとりが、ベン最高顧問だった。彼は保身が服を着て歩いているような人間。時間を与えれば、必ず国から脱出すると踏んでいたレミーが、ラング大佐に命じて邸宅に部隊を派遣させた。

 トランクに詰められるだけの現金を押し込んでいるところを発見され、半ば強引に本社へ連行された。

 他の幹部たちは会長が行方不明になっていることすら知らなかったようで、バタバタと本社の前には高級車が次々と並んだ。

 そして、高層ビルである本社の会議室で、緊急の幹部会が始まったのである。

 まずは――――

「この……役立たず共ッッ‼」

 レミーの説教からだった。

「てめえら……幹部が雁首揃えてチンタラしやがって……俺様への忠義を持っているのはラング大佐とサミュエルだけだってのか? あぁ⁉」

 温かいお湯と清潔な服によって完全に復活したレミーは、座ることなく会議室を右往左往しながら、全員に強い眼差しを向けていた。幹部たちは、口を閉じて聞くしかない。

「ジャパニーズのYAKUZAだったら、全員この場で小指を切り落とさせているところだ‼ 俺様を殺しかけたんだからな‼」

「会長。それはあまりにも理不尽じゃないでしょうか?」

 口を開いた勇気のある者がいた。

 アレクセイ・タナベ。レミー・インターナショナル社の財務担当者だ。肩書きだけを見れば、ラング大佐やベン最高顧問よりも見劣りするが、その実レミーの右腕として長年裏のビジネスで得た利益をマネーロンダリングしている張本人。

 会社の金は、彼の手によって洗浄され、クリーンになる。ゆえに、どの幹部よりもレミーに意見をしやすい立場なのだった。

 好青年のサミュエルとは対照的に、ニヒルで狐のような印象を受ける男だ。

「事実、ひとりの人間の動向をたった三日見逃していただけで制裁対象なのは……」

「タナベ……お前とは金じゃ買えない信頼関係を築いていたつもりだったのだがな……どうやら間違っていたらしい」

「恐れながら、会長は極限状態でお疲れなのではないでしょうか? ひとまずは静養なさって、その後で責任の追及をするべきなのでは……その方が賢明ではありませんか?」

 飄々とした物言いに対して怒ったラング大佐の、赤子を三人は殺してしまいそうな睨みにも負けずにタナベは喋り続ける。小柄で非力な男だが、裏社会を渡世してきただけのことはある。胆力があり、口が回る。

「タナベ‼ お前はボスがまともじゃないって言いたいのか‼」

 会議室全体が揺れるほどの怒号を発するラング大佐。耳が痛いといった素振りを見せながら、タナベは続ける。

「待ってくれ。私は冷静に現状を分析しているに過ぎない。感情的な物言いはやめてもらいたいな」

「なんだと……タナベ‼ 表に出ろ‼」

「これだから脳みそまで筋肉の馬鹿は嫌いなのだよ」

 眼鏡をクイッと中指で上げながら、ラング大佐に対抗するタナベ。

 両者は今にでも噛みついてしまいそうなほど。

 当然、会議室には張りつめた空気が流れていた。

「二人ともやめろ」

 レミーが氷よりも冷たく言い放つ。小声だが、迫力があり言う通りにしなければいけないと二人の脳に命じるような力がこもっている。

「す、すみませんボス‼」

「……失礼」

 ハァ……とレミーは深くため息を吐いた。

「俺がここで言いたいのはな、この場にいる全員、ファミリーだということだ」

 努めて冷静にレミーは語る。

「ひとりひとりと思い出があり、死地を乗り越えた同志であり、心から信頼できる仲間だ……だが、これからのレミー・インターナショナル社に、そのような馴れ合いの関係は必要ない」

 レミーは長机に両手を置き、左右に並ぶ幹部たちを見た。

「レミー・インターナショナル社に必要なのは、健全な新事業だ。無論、現在進行形の反貧困ビジネスは大切だが、国際的な我が社のイメージ回復には至らない」

 会社が行っているこの国でのビジネスとは具体的には、国家再建だ。内戦によって麻痺した経済システムと行政システムをもう一度作り上げ、国家として運営ができる水準まで再構築した。

 H・Y・Aによる治安維持から、レミー主導で社会福祉の充実まで。

 だが、所詮は偽善事業であり、実態は国内に与える会社の影響力を増幅しただけだ。到底、レミー・インターナショナル社を褒め称える諸外国はないだろう。

 事実、国民たちは会社に感謝しているが、アメリカ政府などは『テロ支援組織』のレッテルを外してはくれていない。

「いいか? 我々がこの貧しい南米の国に追いやられてから早一〇年。今こそ、世界が我が社をバチカンのようにあらゆる国が崇め奉るような、新事業を展開するのだ!!」

「会長。以前も申し上げましたが、会社のイメージ回復は長い道のりです。焦っては事をし損じます」

 タナベの言葉はもっともだ。

 反社会的な会社を『親社会的』な組織にするには時間が足りない。そもそも『死の商人』として名を轟かせたレミーが会長のままでは、無理難題である。

 だが、レミーとしては自分の汚名を雪がねば、サミュエルに負の遺産を残すことになる。だからこそ権力の座から降りるわけにはいかない。この場にいる幹部にも、そしてレミーにも、矛盾して絡みついてほどけない難題がのしかかっているのである。

「そう……新事業をいくつも試したが、結局は失敗に終わった。お前たちの心を読んでやろう。俺様が会長の席にいる限り、会社が変わることなど不可能だと……思っているのだろう?」

 うつむいた幹部たちは沈黙を選んだ。

 その沈黙を、レミーは肯定と捉えた。

「お前らの気持ちはよく分かった――――だがな、今回俺はただ危険な目に遭遇したわけじゃない。俺様は、あのような危機的状況下でも、会社のためを思って新事業の『種』を見つけ出したのだッッ‼」

 レミーはわざとらしい演技で、指をパチンと弾いた。

 会議室の扉が開き、そこには真っ白なワンピースを着たスペスが兵士四人に護衛されながら立っていた。

 どよめく幹部たちをよそに、レミーは教鞭を振るう教師のごとく、人差し指を立てながら歴史を述べる。

「かの有名なコロンブスは、新世界を目指す自身に異論を唱える者たちの前に卵を用意した。そして『どうやったら卵が直立するのか』と質問した」

 得意気に語る彼を、皆が不思議そうに見る。

「会長……現地の少女を拉致ってきたんですか?」

 幹部の誰かが言った。

「おいおい。それでは卵は立たないぞ……見方を変えるのだ。コロンブスは卵の底を叩き、ヒビを入れて立たせた……さて……と」

 レミーの視線はある人物に注がれた。

 その人物こそ、今回の騒動の責任者である、ベン最高顧問だった。

 会議の間ひたすら存在感を消して難を逃れようとしていたが、レミーはそこまで優しくない。怯え、震えるベンにレミーは感情を押し殺しながら言う。

「お前だな? 今回のリゾート開発を提案し、現地の安否もろくに確認せず俺様を危険に晒したのは」

 ベンは机の上に置かれたコーヒーから目を離そうとはしない。まるで、そうしていれば現実から逃げられると信じているかのように。

「俺様を見ろ」

 だが、非情な現実の食指は離してくれないのである。

「よくも俺を殺しかけてくれたなベン」

「か、会長には誠に申し訳なく思っております……」

「その上、俺が救難信号を送ったにもかかわらずそれを無視した……なんとも上司想いな部下だ」

「ち、違います‼ わたくしは――――」

「黙れ」

 驚くことに、レミーは机の上に猿回しの猿のごとく軽やかに飛び乗った。そしてずかずかと机の上を歩き、ベンの前に立った。幹部たちは視線を上にして、動向を見守っている。

 恐怖に支配されているベンの視界には、コーヒーと、ワニ革の靴が。

「……俺様を見ろと言っているんだ‼」

 突如コーヒーを蹴って、レミーはベンの薄い頭髪を掴み、無理矢理自分を視界の中に入れた。風味豊かなコーヒーが机にぶちまけられたが、そんなことを気にする人間はいなかった。

「なあ『ファラリスの雄牛』って知っているか? 真鍮製の牛でな、その中に人間を入れる。そして牛の腹の下から火で炙る。真鍮が金色になり始めるとな、なんとこの牛は鳴くんだ……どうして鳴くのかは……分かるな?」

 ベンは涙を流し、よだれを口からこぼしながら許しを請う。

「ゆ、許してください会長……」

 一方、レミーは自分でも驚くほど無感情だった。人間は怒りが一定以上を超えると逆に冷静になるのだと、改めて理解した。

 ベンが泣きべそをかいている最中、レミーは突然、笑みを浮かべた。

「だが、お前は良き僕だった」

 自身の境遇に、ひとさじの光明が見えたようなベン。

「は、はいっ!」

「覚えているか? 俺とお前で旧ソビエトの国を回った仕事を」

「も、もちろんです! 内戦になりそうな国に目をつけて、武器と弾薬を売りまくりました……」

「そうだな。あの時、民族解放軍に縄で縛られて、納屋に閉じ込められた……」

「え、ええ……あれは危なかったですよね……」

「お前が賄賂を渡すフリをして縄をほどかせた瞬間に、隠し持っていた銃で奴らを殺した」

「覚えてます……ボスの銃の腕前は天下一だと痛感しました!」

「……ベン。長年の奉公に免じて、惨たらしいことはしない」

 その代わり――――と指を動かしてスペスを近くに呼び寄せた。

「デモンストレーションの名誉ある被験者にしてやる」

 すっかり助かるものだと思っていたベンは、両脇を兵士にガッチリ固定され、動けなくなった。パニックになりながら、すがるようにレミーを見るベンの目には、彼が死神に見えたであろう。

 見下ろしながら、レミーはスペスの機嫌をとるように口調を丁寧にして、

「ランチだ」

 冷酷な笑みを浮かべるレミーに促されるまま、スペスはベンを凝視する。

 舌を出し、彼が発している匂いの粒子を口腔内部にある器官で読み取る。なんと、都合が良いことに彼は非喫煙者であり、デップリ太っていた。

 ベンはスペスの舌が先端で分かれているのを見て半狂乱になった。

 そして、最期に自己弁護をしようと試みた。

「ぼ、ボス‼ あれは俺のせいじゃない‼ 全部めいれ――――ムグッッ」

 だが、遅すぎた。

 ベンの唇にスペスの桜色の唇が触れた瞬間、彼は痙攣を始め、ブクブクと血の泡に溺れながら――――死んだ。

 そして、ガイドにそうしたようにスペスは腕や脚を巻き付けて骨をバラバラに砕き、飲み込んだ……!

 口が大きくなんてものじゃないほど拡がり、たちまちベンは胃への直通エレベーターを降りていった。

 妊婦のように腹を膨らませたスペスは、満足そうにその場に寝転んで消化を待つ。

 一部始終を見ていた幹部たちは、瞬きをするのも忘れていた。あのラング大佐ですら無意識に腰の銃に手を回し、タナベは額を伝った汗が眼鏡に伝ったことに気がついていない様子だった。

 幹部たちの様子に、レミーは歯を見せて笑った。

 そして机をタップダンスのように音を立てて歩きながら、自分の計画を説明した。

「彼女はスペス。俺が出会った、未開の地の神だ」

 両腕を伸ばす。何度もやっているが、この演技がかった仕草は彼が機嫌がよいときの癖だ。

「俺は彼女の信頼を、たった数十分で得た。そして、今ここに神を呼んだのだ」

 幹部たちから質問が飛ぶ前に、タトゥーだらけの手で制した。

「分かってる。神などいやしない。それは、俺が一番知っていることだ。重要なのは、彼女には毒蛇に見られる特徴を兼ね備えながら、人の形をしているという点だ」

「……どこかのサーカスにでも売るんですか?」

 冷静を保っているかのようなタナベだが、眼鏡を直す指は小刻みに震えている。

「そんな馬鹿な真似はしない。彼女を調べ、そして必ずや成果を上げるのだ」

「成果?」

「まずは彼女の身体を分析する。その次は毒を。生態系に至るまで調べ上げ、有効活用の道を模索……いや、必ず見つけ出すのだ」

「……そんなに上手くいきますかね?」

「いいか? 彼女は俺様が手にした確かなチャンスだ。会社再建のまたとない機会なのだよタナベ君」

 全員に聞こえるように大声でレミーが唱える。

「これより、レミー・インターナショナル社は彼女の研究に全力を注ぐのだ!! これは会長命令である!!」

 勝ち誇ったようレミーに、タナベが重要なことを尋ねた。

「もしも何も見つからなかったら? ただの……蛇人間でした、では会社の復興など無理です。その場合、いかがなさるので?」

「その時は、俺は会長の職を辞する」

 会議室が一段と騒がしくなった。

「……それほどに自信があると?」

「その通りだ。さて、スペスの研究……コードネーム『ウロボロスの輪』はサミュエルに一任する」

 サミュエルはスペスのことを事前にレミーから聞いていたのでさほど驚いてはいなかった。

「はい。お父さん」

「いいか? これは我が社のトップシークレットであり、最重要課題だ。金はいくらかけてもいい‼ キャッシュ・コネクション・人員なんでも使うんだ。いいな?」

「かしこまりました。お父さん」

「では、各員もとの仕事へ戻りたまえ。サミュエルの支援に全力を尽くしつつ、外部からこの新事業がバレないようにいつも通り過ごすのだ」

 解散、と言われずともスペスがいる部屋には長居したくはない。幹部たちは足早に部屋を後にした。

 よっ、とテーブルから降りたレミーに、ラング大佐がささやいた。

「ボス、本気なんですか?」

「何がだ?」

「もしもこの……スペスちゃんから何も見つからなければ、会長を辞めると……」

「……ああでも言わなければ、タナベが頷くまい」

 海外の口座が凍結されてからというもの、組織はタナベの資金洗浄に依存しきっていた。そしてそのタナベに、レミーへの忠誠心がないことは火を見るよりも明らかだ。彼は伸びしろのないレミー・インターナショナル社を見限っている。

「だが、タナベはただ狡猾な男ではない。会社の負のイメージを、全て俺に背負わせたうえで引退させるつもりなんだろう。その後、計画的に会社を倒産させ、全く新しい組織を編成する気でいるのだ」

「なんてヤツだ……いいとこ取りってわけか、許せない!!」

「落ち着けL・J。人間というものは利用してされて、が、当たり前だ。タナベがいなければ、会社を運営できなかっただろう? お前の給料も、あいつがいるから出ているんだよ」

「で……実際、見込みはあるのですか?」

「俺が知るか」

 レミーのひと言にラング大佐は不安を抱く。

「ちょ……ボスの進退がかかっているんですよ!?」

「俺のことはどうでも良い。充分に生きたし、贅沢もした。この『ウロボロスの輪』計画は、サミュエルのために用意した、宝石さ」

「宝石……?」

 レミーはスペスを見て、ニヤリと笑う。

「間違いなく光り輝く宝石だ。だが、俺はあえてサミュエルに原石のまま渡した……なぜだか分かるか?」

 ラング大佐の脳みそは一ギガしか動かない。

「……サッパリです」

「素直でよろしい……俺がサミュエルに全てを遺したいと何回も言ってきただろう? しかし、俺の手は汚れている。汚れた手から渡された物も、汚れている。言っている意味は分かるか?」

「トイレに行った後に手を洗わずにドーナツを食べるようなものですか?」

「……まあつまり、俺が成果を上げても意味はないということだ。サミュエル自身が発見し、彼が磨き上げた宝石があれば、俺の後釜に座ることに異論を唱える者もいない」

 サミュエルの手柄にさせるため、スペスの研究を彼へ任せたのである。

「……でもかなり賭けじゃないですか?」

「ま、サミュエルのためにお前も手を貸してくれ。次世代のボスのために……俺の最愛の息子のために」

「りょ、了解しました‼」

「さてサミュエル。期待しているぞ……」

 息子を信じる父の目は、輝きに満ちていた。

 ――――

 会議室を出たサミュエルは、自分の秘書に雑務の指示をした後、本社の階段をひとりで下りていた。

 表情からは読み取れるものがなく、何を考えているのやら分からない。

 と――――

「失敗しましたね。サミュエル様」

 階段の踊り場にてシガレットに火をつけながら声をかけたのは、タナベだった。

 煙をふぅーっと吐き、サミュエルに近づく。

「しかし、ベンが思ったよりも口が固くてひと安心、と言ったところでしょうか」

「……」

「まさか、私たちが命じた会長暗殺を原住民たちに任せるとは……自分の手を汚す度胸がないとは分かっていましたが、まったく馬鹿なヤツだ。そうは思いませんか?」

「……」

「どうしたんです次期会長様? 予想に反して勢いづいてしまった会長を、確実に殺害する方法――――」

 サミュエルは眉を寄せ、ツカツカと歩み寄ると、タナベのタバコを持っている腕を捻り上げた。手首・肘・肩の順番にギリギリとねじられ、余裕ぶっていたタナベは膝をつきながら悲痛なうめき声を上げた。

「グ、グゥ……ッッ‼」

「べらべらとよく回る舌だな」

 サミュエルの声からは、先ほどまでの温かさ、人当たりの良さが消えている。

 うっすらと糸目が開く。茶色い眼には光りがなく、痛めつけているタナベを睥睨していた。

「この本社ビルに一体何人がいると思っているんだ? 防犯カメラは? H・Y・Aの巡回は? お前は何も考えていないようだ」

「お、折れる……ッッ」

「安心しろ力加減は心得ている。これは罰だ……影の支配者気分に酔いしれている脳天気なお前への、な」

「クッ……」

「全ての連絡は完全に二人だけの空間か、使い捨ての携帯でだけだと、命じたはずだ」

「も、申し訳……」

「金輪際、尻尾を掴まれるような行為はするな。レミーの信頼を勝ち取るために費やした僕の時間を無駄にしたら、許さない」

「肝に銘じておきます……ですから、腕を……」

 上方面の階段から足音が聞こえた。

 その瞬間にサミュエルは剥がしかけていた仮面を付け直し、手を離した。

「リトル・ボス‼ どうかなさいましたか⁉」

 この声。背中越しにでも誰だか分かる。

「ラング大佐」

 サミュエルは人好きのする天使のような微笑みを浮かべた。

 そしてうずくまっているタナベにラング大佐が疑問を抱く前に、彼の前へ接近し革のグローブのような拳を両手で握る。

「大切なことを言い忘れていました。会長を……お父さんを僕の元に帰してくれてありがとうございます……感謝してもしきれません」

 目の端に涙を浮かべながら感謝の意を表すサミュエルに感化され、ラング大佐も感涙を流すのであった。

「お、俺もボスの身に何かがあったらと恐かったです‼ ウゥッ……ご無事でよかった……ッッ‼」

 彼が号泣する直前に、サミュエルはひと押しを決める。

「これからも、お父さんのことを守ってあげてくださいね」

「はいっ‼ この身体が朽ち果てるその日まで、俺はボスの矛であり、盾です‼」

 オウオウ泣きながら、ラング大佐は階段を下りていった。

 サミュエルはというと、演技で流した涙を邪魔そうに指で払いながら足音が消えるまで黙っていた。そして、

「次はないぞタナベ。計画はすでに立案済みだ。追って連絡する」

「分かりました……」

 サミュエルは去って行った。

 タバコは誰に看取られることもなく、燃え尽きて灰になっていた。


『第四章:復讐は蜜の味』


 約二〇年前――――

 国内では独裁者と反乱軍とで内戦が勃発していた。昼夜を問わず銃声が鳴り響き、住民たちは怯えて暮らしていたのである。

 そんな国でも、立派な少年というのは必ず居るものだ。

 少年とその両親は、多分に漏れず小さなレンガ造りの家に籠もっていた。父親は学校の教師で「必ず国際世論が独裁者を排除してくれる」「内戦はすぐに収まる」と恐怖に慄いていた妻と息子を元気づけていた。

 母親は、自分のパンがなくても息子にはお腹いっぱい食べさせてあげる善意の人だった。息子の将来を案じながら、近所の子供たちを集めてよく絵本を読み聞かせてくれた。彼ら彼女らの耳から少しでも悲鳴や銃声から遠ざけるためだ。

 少年は小さな豆電球の下で、父親に教えを請いながら勉強をしていたのでクラスでは成績がトップだった。

 三人の、質素だが幸せに満ちた日々。

 それを打ち壊したのは、一発のミサイルだった。

 首都を包囲された政府軍が、外国の武器商人から仕入れた新型のミサイルを、こともあろうに非武装の市民街へ発射したのである。

 武器商人の組織が独自に開発したこのミサイルは、着弾から数十秒後に白燐が撒き散らされ、大気に触れ自然燃焼を起こすというコンセプトで作られていた。

 当時ナパーム弾が国際法上で禁止されたことを受けて、法の目をくぐるために作製されたのである。

 武器商人はこの新型ミサイルを『ドラゴンファイア』と名付けていた。

 白燐は空気に触れた瞬間に酸化反応を起こして自然発火する。そしてたとえ水をかけても、乾くとまたもや発火してしまう。そんな代物が、静かに眠っている住民たちに降り注いだのである。

 洗礼を受けなかった人間が墜ちると言われている轟々と燃え盛る煉獄――――見たことがある者はいないが、きっとあの様な光景なのだろう。

 火を消そうと地面に転がり痛みで発狂している隣人が――――燃え続ける我が子に水をかけ続ける女性が――――焼け焦げた肉が骨から落ちても残酷なことに生きている友人が――――少年の夜を悪夢にした。

 恐くて……恐くて……。

 ベッドの上で膝を抱えて震えていた。

 すると部屋に見知らぬ二体の黒い『かつて人間だった者』が入ってきた。怪物だと思い叫んだ少年は、皮膚と皮膚が接着されもどかしい動きをするその物体が、自分の父親と母親だとすぐには気がつかなかったのだ。

 逃げろ……そう言った気がした。

 どちらが発した声なのか、そもそもどちらが父で母なのか分からなかったが、ともかく少年は足をあらん限り動かして逃げた。そして皮膚が爛れている人間たちが飛び込んでいる川に到達し、肩まで浸かり、難を逃れた。

 振り返った町は、夜にもかかわらず明るかった――――

 地獄から一夜明け、町に戻ると見覚えのある建造物は灰塵に帰していた。

 少年は家に帰る勇気がなかった。帰って自分が理解するのが恐ろしくてたまらなかった。

 もう両親はいない。と。

 あちこちで悲鳴や泣き声が聞こえる中、少年は茫然自失で町の中央にあった教会に向かった。そこが爆心地であった。

 木造の教会には存在しなかった金属片が、飛び散って壁や屋根に刺さっている。

 カラン――――

 少年の足に何か硬い物が当たった。

 視線をつま先に向ける。ミサイルの破片だった。そこには、製造した組織の名が刻印されていたのである。

『レミー・インターナショナル社製』

 文字を教わっていた彼には読めた。

 読めてしまった……と言う方が正しいかもしれない。

 生気を失っていた少年の目に、昨夜の炎よりも熱い感情が宿った瞬間だった。

「……エル……サミュエル?」

 悪夢によってうなされていた彼は、整備された公園のベンチで脂汗をかきながら起きた。

 今やレミー・インターナショナル社の手によって綺麗に再建された市民の憩いの場。おしゃれな噴水もあり、人気のデートスポットとなっている。

 彼もその例に漏れず、デートを目的として来ていた。

 サミュエルを揺り起こしたのは、クララ。年齢はサミュエルと同じで、町で孤児院を経営している。

 少し肉つきの良い身体は、言ってしまえばグラマラスであり、顔もモデル顔負け。とりわけ大きな胸は、警戒心のない彼女が歩く度に揺れて周囲の男性たちの視線を独り占めするのであった。

 タレ目がちで、しょっちゅう汗をかいている。

 別段代謝がよいとかそういうわけではなく、ただちょっとばかし要領が悪いのである。洗濯物を色移りさせてしまうのは日常茶飯事。わずかな段差で転び、皿を洗えば必ず数枚は割る。サミュエルのためにシチューを作ったときに塩と砂糖を間違えたのは、二人の良い思い出だ。

 そう。二人は付き合っている。

 孤児院の院長と、ブラックな会社の取締役は不釣り合いに思えるが、実はこの二人幼い頃からの幼馴染みなのだ。

 サミュエルが両親を失った夜に、同じく親を亡くしたクララは、孤児たちを集めて過酷な社会を生き抜いた。独裁者は父親の予言通りに失脚し、内戦は終結したが、混乱は一〇年近く続いた。明日を生きる食料を求める、サバイバルのような日々。

 役割は決まっていた。

 まずはクララが愛嬌を振りまいて闇市場の店主たちに「孤児にお恵みを」とねだる。美少女だった彼女をつっけんどんに門前払いする者は少なく「どうしようかな~」と皆悩む。ほとんどの場合は「そんな余裕はない」言われてしまうのだが、これはブラフだ。

 クララが注意を引いている隙に、商品棚からサミュエルが品物をくすねる。そして合流し、孤児たちに取り分を分けるのだった。生の野菜だろうが関係ない。胃に入るならば何でも食べるしかない。

「サミュエル? まだ眠たいの?」

「ん? いや……昔のことを思い出してね」

「そう……色々あったわね」

 色々、で片付けられないほど濃密な過去をクララが曖昧にぼかして言うのにはわけがあった。

 隠しておきたい過去というものが、人間にはひとつやふたつある。

 クララの場合は一〇代のある夜。

 孤児の仲間が病気になってしまったのだが、薬など高価でとても手が出ない。

 それでも弱っていく子供を見ていられなかったクララはサミュエルと共に医者のもとへ向かった。その医者は金の亡者で誰も信用せず、薬棚には鉄の扉をつけて鍵をかけていた。盗みの名人であるサミュエルでも手が出せない。だが、男という生き物は愚かだ。

 クララの美貌にやられた医者は『特別な一夜』となら、薬を交換しても良いと言った。クララは迷った。しかし、自分が我慢すれば、助かる命がある。

 彼女は着ていたボロボロの服を脱ぎ去ろうとした――――その時だ。

 よだれを垂らしていた医者の背後から、医療用のハサミを持ったサミュエルが襲いかかり、首を掻き切ったのである。頸動脈を裂かれた医者は、まさに今目の前にある噴水のごとく鮮血を飛ばして倒れ込んだ。

 それでもサミュエルは冷酷に医者を何度も刺した。

 事切れた医者の身体から鍵を見つけ、薬を手にした彼は血で頭から足まで真っ赤に染まっていた。それなのに、笑っていたのだ。

『俺が近づく隙を作ってくれたんだろう? ありがとうクララ』

 そのようなつもりはクララにはなかったが、言葉が出なかった。

 サミュエルの、手段を選ばない行動はこのことを皮切りに始まった。強盗も脅しも、何でもやる。それによって孤児たちは腹を満たすことができたが、少しずつ彼の瞳から光が消えていくのを、クララは心配したのだった。

 クララの心配はある日的中した。

 綺麗な服を着た外国人から財布をスってきたと言われたときに、嫌な予感がしたのである。財布の中身は一〇〇ドル札がぎっしりと詰まっていた。流石のサミュエルも驚き、同時に「マズい」と思った。

 数十分後、銃を持った集団が孤児たちのアジトを突き止め、扉を蹴破った。

 ドブネズミと同居していると言っても過言ではない掘っ立て小屋に、白の高級スーツを着た妙齢の男性が侵入した。

『ここが孤児の溜まり場か……』

 殺される……サミュエルは咄嗟にクララを守るべく立ち上がった。

『お、俺が盗んだ‼ 殺すなら俺を殺せ‼』

 自分の倍はある巨大な黒人に立ちはだかった。

 クララは恐がる子供たちと隅で震えるしかない。

 白いスーツの男は、サングラス越しにそんな状況を見守っていたのだが、黒人が向けている銃を手で押さえたのである。

『L・Jやめろ』

『でもコイツはボスの財布を盗みやがったんですよ⁉』

『たかが数千ドルのためにガキを殺すのか? 無駄だ。やめろ』

 サングラスを外すと、男は勇気ある孤児を褒め称えるように腕を拡げた。

『素晴らしい気概だ。まさに、群れのリーダーの行動とも言える』

 サミュエルはジッと目を離さなかった。

 男も、目をそらさなかった。

『……気に入った。お前、俺の息子になれ』

 何を言っているのかが分からなかった。

 理解ができない。

『完全無欠の俺様にも足りないものがあると最近考えていたんだ……俺の意志を継ぐ次の世代だ』

 男は続ける。

『君にとっても悪い話ではないぞ。いいか? これから長い人生を盗みで食いつなぐのか? インポッシブルだ! 俺様の息子になれば、いい服が着れて学校にも行ける』

『……俺は、コイツらを見捨てるつもりはない』

『なんとも……! 慈愛に満ちた覚悟だ! 決めたぞベン、タナベ! 俺はこの国で反貧困ビジネスを展開する!』

 サミュエルは当然断るつもりだった。何を出されようとも……しかし、

『この国は今日をもって『レミー・インターナショナル社』主導の国家再興に舵を切るのだ‼』

 電流が全身を駆け巡るようなショック。

 少年はどんな地獄で生きようとも、必ず復讐をしてやると決めていた男が目の前にいることに気がついたのだ。

 男はなにやら「反貧困運動をすればこの国を支配できる」などと言っていたが、もはやそんなことは些末なこと。

『……お父さん』

 男はニヤリと白い歯を見せて笑った。

『いい響きだ! 君、名前は?』

『……初めてのプレゼントだから、お父さんにつけてほしいな……ダメ?』

 クララは突如、愛嬌を振りまき始めた幼馴染みに仰天した。

『ほう……いいだろう‼ お前は今この瞬間から『サミュエル』だ。旧約聖書に出てくるユダヤの指導者の名前だ。人を率いる素質のあるお前にはピッタリだろう?』

『サミュエル……うん! ありがとうお父さん!』

 あの日から……一〇年。

 あまりにも長かった。サミュエルはレミーの求める人物になるために人生を捧げた。レミーなりの帝王学を教え込まれ、学校に行き、大学を首席で卒業した。

 レミー・インターナショナル社に幹部として入社しても気を緩めなかった。従順な息子を演じ続け、社内でも『次期社長』としての地位を盤石なものにしたのである。

 すべては、復讐のため――――

「もう……せっかくのデートなのに恐い顔してどうしたの?」

「あっ! ごめんごめん……仕事のことでちょっとね」

 サミュエルの唯一の息抜き。

 それはクララとの甘いひとときだ。

 本当ならば生きたまま皮を剥がしてやりたいほど憎んでいる相手を愛しているフリをするのは、並大抵のことじゃない。サミュエルは仮面を被り、それを貫き通した。もはやそれはサミュエルの内部に構成された別人格のようなものだったが、クララと一緒の時間だけは、その仮面を脱ぎ捨てることができる。

「ほら……」

 クララは膝をポンポンと叩く。

「眠るなら……」

「え?」

「いいから。疲れているんでしょう?」

「……じゃあ失礼しようかな」

 柔らかな太ももに頭を下ろす。世界で一番の枕と言える。

「……まだレミーさんのこと、許せてないの?」

 クララがぼそりと言った。

「……当たり前だろ」

「そう……」

 クララは複雑だった。

 彼女が経営している孤児院の運営費は全てレミーが出している。毎月、使い切れないほどの金額が振り込まれるのだ。そのおかげで、行くアテのない子供たちは雨露をしのぎ栄養満点の食事ができている。

 国も大きく変わった。スラムは一掃され、代わりにレミーは家賃のいらない国営アパートを多く建てた。雇用の先もレミー・インターナショナル社は用意した。

 たとえ偽善だろうとも、ただ傍観していた諸外国に比べたら神のような存在なのである。

「私ね……レミーさんには感謝しかないの。文字の読み書きもできなかった私に孤児院を託してくれて。それに、混乱していた国を綺麗にしてくれた……」

「……全部偽善だよ」

 町中にレミーが孤児を抱きかかえながら満面の笑みを浮かべている、いかにもなポスターが貼ってある。しかし、この写真を撮ったときレミーが子供を下ろしてから『ガキの泥がスーツについちまった』とこぼしていたのをサミュエルは聞いていた。

「嘘で塗り固めた『レミー帝国』さ……警察も、首相もあいつに足を向けて眠れない」

 国家運営にまで影響力を持っているレミー。

 今やこの国はれっきとした『マフィア・ステイツ』である。

 レミー・インターナショナル社の思うがままに、行政も福祉も動く。

「誰もヤツを裁くことができない……だからこそ、僕が……」

「もしもレミーさんを……殺したとして、その後はどうするつもりなの? またこの国は混乱と貧困が蔓延することになってしまうわ」

「もちろん。この虚栄の帝国を、僕がそっくりそのまま受け継ぐ」

 ゆえに、サミュエルは慎重だった。

 自分のシンパを、利己主義のタナベだけに絞り事故で処理することができる暗殺の方法を模索しているのである。

「レミー・インターナショナル社は、結局はヤツのワンマン経営だ……あいつが死ねば必ず内部分裂するに決まってる。そのときに僕に疑いの目が向かないように、殺す」

 彼が物騒な単語を呟く度に、クララは心臓がキュッと絞まる思いだった。

「……ねえ、他に方法はないの? レミーさんは何もしなくてもあなたに会社を託すわ。それじゃダメなの?」

 クララは、可能であれば誰も悲しまない方法を選ぶ人種だ。

 レミーが自分の親を間接的にだが殺したことも知っている。しかし、

「どれだけ汚れていても……あの人のおかげで孤児の皆が生きていられる。その事実は、私たちの親を殺したのと同じく、揺らぐことはないわ」

「……あいつが満足するのを我慢しろって?」

 サミュエルはクララの膝から起き上がった。その目には光りがなく、声も低くなっていた。

「それはできないよクララ。僕の使命はレミー・サンタンをこの世から消す……それだけじゃ足りない……心の底から信じていた人間に裏切られて何もかもを失ったうえで殺してやるッッ」

 復讐に燃える彼氏を前に、クララは自分の無力さを恨んだ。

 唯一できること……サミュエルの耳の裏にある、古い火傷の痕をさすることしかできなかった。あの悲劇の夜に負った傷である。

 その手をサミュエルは両手で握りしめる。

 そして笑うのであった。

「全て解決したら、君は僕の奥さんだ……愛してる」

 なぜだか、その顔を見ていると泣き出してしまいそうになる。未だにあの夜から抜け出せていない少年が、彼の奥底にいるのだった。

「さあ、暗い話は終わり。せっかくのデートを楽しもう」

 サミュエルは手を持ったまま、優雅にベンチから立った。

「……そうね」

 と――――

「痛っ」

 クララは年寄りのように背中をさすさすしている。

「大丈夫?」

「ええ大丈夫……きっと慣れない事務仕事をしすぎたせいね」

恋という魔法にかかった二人は、しばし暗い過去から脱却したかのように、濃密な時間を愉しんだ。

 その夜――――

 巨大なテーブルの端と端に、向かい合うようにレミーとサミュエルが座っていた。ただの夕食にもかかわらず、二人の前に運ばれてくるのは高級フレンチのフルコース。栄養を欲していたレミーの希望だった。

「いやはや……一時はどうなるかと思ったが、こうして美食を口にできるというのは幸せなのだと痛感させられた」

 ナイフとフォークを動かし、ローストチキンをほおばるレミー。

 幸せそうな彼を見ながら、

(今のうちに幸せをかみしめておくんだな)

 と、呪いの言葉を唱えるサミュエル。無論、顔には一ミリも出していない。

「そうですねお父さん」

「だが、とある美食家が言っていたが『料理というのは誰と食べるかが重要』だとか。俺は、お前と食卓を囲めるなら、冷凍の英国料理でも構わない」

 それほど愛しているのだ、と言いたいらしい。

 レミーは一々偉人の名言や、演技じみた動作を盛り込まなければ感情が伝えられないようだった。ゆえに伝わりづらい。そのことを、サミュエルは一〇年間で理解していた。

「僕もですよお父さん……お父さんとなら、何を食べても美味しいです」

 心にもない言葉に『心』を与えるのにも慣れている。

「フゥ……そういえば、クララとはどうなっているんだ?」

 ナプキンで口元を拭きながら尋ねてきた。

 クララの名前を出されると、わずかながら心が乱れる。

「……万事上手くいっています。お父さん」

「いい加減プロポーズをしたらどうなんだ? クララ嬢もお前もそろそろ適齢期だろうに」

「……僕はもっとお父さんから学んで、完璧な人間になってから彼女を妻にしたいと思っているので……」

 お前が死んだら即刻結婚するよ――――なんてことは言えない。

 レミーが好んで使う『完璧』という表現を敢えて添えて、心にもないことを喋る。

「ふふん……お前は本当にカワイイ息子だよ」

「ありがとうお父さん」

「さてと……夕食の場で仕事の話をしたくはないが、お互いに時間がないからな。新プロジェクト『ウロボロスの輪』を、お前はどう見る?」

 どうもこうも、お前が勝手に持ってきたんだろう。

「そうですね……彼女の生態を研究したいと。そうすればたぶん何かが見つかるかと」

「そんな曖昧な言葉を使うんじゃない。必ず見つけるんだ」

「はい。お父さん」

「安心しろ。失敗しても俺様が責任をとる。ゆっくりと事に当たればいい」

 そう……サミュエルの次の策は決まっていた。

『ウロボロスの輪』の生殺与奪は自分が握っている。そして、このプロジェクトの責任はレミーにある。さすれば、復讐にはまたとないチャンスというわけだ。会社の未来を左右する計画を大失敗に導けば……レミーは全てを失う。

 金も権力もなくなった哀れなレミーに地獄を味あわせた後、煮るなり焼くなり好きにすればいい。

 誰も気にすることはないだろう。

 さすれば、当初の計画通りにタナベがレミー・インターナショナル社の内部告発を行い、会社を倒産させ新たな組織を立ち上げる。会長にはサミュエルが。代表取締役にはタナベが座る予定だ。

 だが、邪魔な存在がいる。

 ラング大佐をはじめとする、レミー支持者だ。彼らは妄信的にレミーを崇め、彼のためには己の命すらも投げ捨てる人物たちだ。計画では、彼らは告発によって逮捕、最悪の場合殺害してしまうことに決めているが、今は時期尚早。

 ベンが死んだ現状で、クーデター後の組織を成り立たせるのは難しい。

 だからこそ『ウロボロスの輪』はある一定以上まで真剣に取り組む必要があった。もしも組織の関係者に怪しまれれば復讐は暗礁に乗りあげる。

「まずは研究員を雇うんだ。研究所を作り、そこにスタッフを寝泊まりさせろ。外に情報が漏れるのを防止することができる。無論、文句が出ないほどの大金を払うのだ」

「それは名案ですね」

「金ならいくらでも使って良い。俺が許可する」

「分かりました」

「で……問題がひとつある」

 レミーが食事を終えると、苦い顔をして配膳係が去るのを待った。問題が何を指すのか、サミュエルは内心ヒヤヒヤしていた。

「も、問題とは?」

「……彼女のことだ」

「彼女? スペスのことですか?」

「そうだ……俺以外には心を開かないらしい……調教師を雇うにしても危険だし……どうしたものか」

 ホッとしたのもつかの間。サミュエルはピカッとひらめき、こう提案した。

「では、彼女が一番安心できるように一緒にいるのはどうでしょうか?」

「うん?」

「研究をするにしても、彼女が友好的な方が都合が良いでしょう? 彼女の思うとおりに……」

「おいおい! まさかあの人喰いモンスターと過ごせってのか!?」

「もちろん万全の警備をつけて……もしくは、外部から蛇に愛される人物でも雇いますか?」

「むぅ……それはダメだ……」

「では、彼女はお父さんと共に。これも会社のためです」

「そ、そうだな……仕方あるまい」

 しめしめ……これでスペスが彼を殺してしまっても、偶発的な事故で処理できる。

 サミュエルはスペスに対してそれほど興味はない。だが、ベンの死に様を見れば、レミーの最期にふさわしいと考えたのだ。苦しみ、丸呑みされて跡形もなく消化されてしまえばいい。

 サミュエルは困った顔をしているレミーを見て、心の内で笑っていた。

(どう足掻いても、あんたの終わりは近いぞレミー・サンタンッッ‼)


第五章『蛇の道』


 数日後。

 レミーが住んでいるのは本社ビルの一番上。ペントハウスだった。

 敵が多い彼だが、傭兵部隊H・Y・Aが二四時間警備しているこのビルはまさに要塞。ネズミ一匹侵入することはできない。

 安全面以外にも、魅力がある。

 それは、町を一望できるということだ。

 瓦礫とゴミの山だった首都を、一〇年で復興させた実績を実感できる。昼間は忙しそうな人々を見て。夜には明かりがついた建物を見て葉巻を吸う。まさに自己顕示欲の塊。この町は自分のものだと、再確認するのだった。

 だが、ここ数日はもっとも落ち着くはずだった部屋が騒々しく、慌ただしかった。

 部屋の三分の一を改装していたからである。レミーとサミュエルが意見を出し合い、蛇人間が居心地良く生活できる空間を作り上げた。

 おかげでレミーの安息所は様変わりしてしまったが、一時的にスペスを保護しているH・Y・Aの隊員が一日に三人は彼女の機嫌を損ねて病院送りになっているので、致し方ない。

 その部屋は透明なガラスで空間を仕切られており、壁には巨大な暖房機。サーモグラフィーを搭載しており一定の気温・湿度を維持してくれる。床には木くずや、人工的な岩場、細長い穴などを用意した。親子が便利な現代機器スマートフォンで『蛇 飼い方』で調べた集大成である。

「……本当に大丈夫なんだろうな?」

 レミーはタトゥーが施された指で、巨大なガラス壁をコンコンと叩いた。

「ええ。ライフル弾もはじく防弾ガラスです。しかも二〇センチ。対戦車ロケット弾でもない限り、破壊は不可能です」

 説明するのはサミュエルだ。今日も今日とて控えめな服を着て社員証がぶら下がっている。

「……どれどれ」

 チャ……、

 ドゥゥンッッ‼

 蠅でも叩くような軽々しさで、レミーは黄金のデザートイーグルを発砲した。激しい音が棚に飾られている酒瓶を震わせる。

 しかし、ガラスは無傷。

「何事も試してみないとな。そうだろう? サミュエル」

「はいお父さん」

 伊達に長年息子を演じてはいない。自己中心的で、用心深く、それでいて何をし出すか分からない父親をよく知っている。本当ならばただのガラスにして、スペスに破ってもらいたいが、防弾ガラスにしておいて正解だった。

「うむ……このガラスなら、あの馬鹿力蛇女も防げるだろう」

「さっそく、彼女を連れてくるように命じました」

「よし……サミュエル、研究所の方はどうだ?」

「研究者を絞り込んでいるところです……有能で、口が堅い人間を」

「よろしい! では仕事に戻れ。俺は彼女のご機嫌取りをしなきゃならんのでな」

 サミュエルが去って行くと、レミーは部屋をぐるりと一周して、ラング大佐を呼び出した。

「……万が一の時のために、ビルを警備する部隊には全員、徹甲弾を装備させろ」

「了解しました‼ リトル・ボスは知っているのですか⁉」

 先程の発砲音に負けない大声。これぞラング大佐だ。

「もう少し小声でしゃべろ……知らない」

「えっ? ボスが、リトル・ボスに内緒にするなんて珍しいですね」

「……親子に少しくらい秘密があっても罰は当たらん」

「まあ分かりました(よく分かっていない)‼」

「よろしくL・J」

 大柄なラング大佐が出て行くのと同じタイミングで、スペスが包帯だらけのH・Y・A隊員に『守られて』やってきた。

「ご苦労だった諸君」

「ボス……愚痴を言いたくはありませんが、コイツは手に負えませんぜ……うちの部隊で一番の怪力でも毛布すらかけさせてもらえませんでしたよ」

「だろうな……」

 そのスペスはというと、不機嫌そうに眉をひそめていた。慣れないワンピースは一度も洗っていないが、汗をかくという器官がないのか無臭だった。そこも、研究で何か分かればいいが……。

「さて、久しぶりだねスペス……調子はどうだい?」

「この人たち、嫌い」

「ああそうか。では皆の衆出て行ってくれ」

 命令に忠実な傭兵たちは、むしろ「喜んで」とでも言いたげに踵を返して部屋を出た。

 あの洞窟以来の、二人きりの空間。

 いざという時は外に警備の人間がいるものの、どこまで役に立つやら……。

「さて……君の新しい部屋だ。どうかね?」

 レミーしか持っていない鍵で、ガラス戸を開ける。

「……」

 しかし、入ってくれない。ジッと部屋の中を見るばかりで、ちっとも踏み出さないのである。

「き、気に入らなかったかね?」

「……」

 こんな時こそスマートフォンだ!!

 カタカタッ……、

『新しくお迎えした蛇がケージの中に入ってくれません。どなたか詳しい方、教えていただけませんでしょうか?』

 呟いた。

 ピロン♪

『蛇さんを上から下ろせば良いと思うのですが(^^;)』

 いやいや、そんなことできないから質問しているんだよ!!

 苛立ちを抑えながら、文字を打つ。

『蛇に居心地の良い空間を作りたいと思っております。そのためにはいくらでもかかって良いので、良い方法を教えてください』

 ピロン♪

『命なのでお金は関係ありませんヨ』

 ガツンッッ‼

 今すぐにでもIPアドレスを特定し、部隊を殺しに行かせたい衝動に駆られたが、我慢だ……我慢……。

 とりあえず、床に叩きつけたスマホを拾う。

 すると、新たな反応が返ってきていた。

『蛇さんを愛する気持ちは分かります。蛇の種類によりますが、ケージの温度が低ければ居心地が良いとは言えません。それと、シェルターと呼ばれる小さな隠れ家を用意してあげると自分から入ってくれることもありますよ』

 圧倒的な感動。

 クソリプの中に光る宝石のような回答だった。

 すぐさま部下に……そうか、自分で出て行かせたんだっけか……

 しょうがないと、部屋にあるソファをウンウン言いながら運び、簡易的なシェルターを作ろうと努力する。ソファを裏返し、三角形の穴ができた。

(クソッなんでこのレミー・サンタン様がクソリプに耐えて、こんな肉体労働をしなきゃいけねえんだ!!)

 足下を木くずに奪われながらも何とかソファを設置する――――

「ん?」

 いつの間にか彼女がガラスのこちら側に入ってきていた。

「まだシェルターはできていないぞ……?」

「あなたがいるなら安全。分かったから入った」

 ……ふざけるなと叫びたい。

 そうだ……コイツは人型なのだ。だから全部蛇ってわけじゃない。それを失念していた。

「ああそうかそうか……で、居心地はどうかね?」

「……さっきまでいた部屋より好き」

 別に倉庫や牢屋に閉じ込めていたのではない。ビルの中の、来賓用の立派で贅沢をこれでもかとあしらった部屋に案内したのである。だが、彼女は嫌がっていたらしい。

「それは……なにより」

 そろり……そろりと、レミーは後ろへ下がる。身体は彼女を向いているが、背後の扉まで、後退りだ。一方のスペスは、キョロキョロと部屋の様子を見ている。

 今だ……ッッ‼

 ガチャリ!

「……?」

「気を悪くしないでもらいたい。俺の精神衛生を保つための、必要な工程だ」

 ガラスを隔てて、二人は向かい合う。

「わたし、閉じ込められるの?」

「まさかまさか! 君には約束したじゃないか外の世界を見せると。覚えているね?」

「うん」

「だが、外の世界の皆はどう思うだろうか? 一緒に想像してみようじゃないか……君を見たら、危害を加えようとしてくるかもしれない……」

 傍目は美少女だが、もしも公園であくびでもしたら、一発アウトだ。

「君を守るためだ。そのために、この部屋を作ったのだよ」

「……わかった」

「よし……では」

 蛇を飼い始めるにあたって必要な物はネットで調べて揃えている。

 ピッ!

「……温かい」

「そうだろう? サーモグラフィー付きの最新型だ」

 変温動物という想定は間違ってはいなかった。彼女は温度の変化を感じ取り、ヒーターの近くに座った。

「地面も良い具合に湿っているだろう?」

「うん……良い感じ」

 手応えを感じたレミーは、最後のひと押しをする。

 両開きの部屋のドアが開き、兵士が丸々と太った牛を連れてきた。鎮静剤を打っているものの、重量があり過ぎてエレベーターに乗せるのは一苦労だった。牛を外側からしか開かない餌用の入り口に押し込む。

「モゥ~」

「……コレなに?」

「ウシだよ。君に言った、最高に旨い肉だよ」

 スペスはチロチロ舌を出しては、口腔内のヤコブソン器官(臭気の粒子を感知する器官)に匂いを送った。

 だが、結果は芳しくなかった。

「……いらない」

「なぬ!?」

 飼ったばかりの蛇は環境が変わったストレスから餌を食べない、と、ネットで知ってはいた。しかし、理由は違うらしい。

「コレ、食べ方、分からない」

「いや、丸呑みして……」

「どうやって殺すの?」

 彼女にとって獲物を殺す手段は『キス』なのだった。厳密に言えば、唾液の交換。

 牛にキスをするのは難しいだろう。

「つまり君は……人間しか食べられないのか!?」

 コクリと頷くスペス。その動作は愛らしいが、問題はかなり重大だ。

 生きた人間を用意するのは大変であることは説明するまでもないが、まさか自分の部屋が殺人現場になると思っていなかったレミーは呆然としてしまった。

 ともかく、いらなくなった牛をどうすればいいか分からないが、人間が必要だ。

「……最終手段だったがやむを得ん」

 レミーはスマホに電話番号を打ち込み、そして耳に当てた。

「俺だ……相談なんだがね、人ひとり俺にくれないか? ……難しいことくらい百も承知で電話してンだよこちとら! イエスと言わないと貴様を檻の中にぶち込むぞ‼」

 電話の向こう側の人間は苦悩していた。だが、レミーと関係を持った時点で逃げも隠れもできないのであった。

「……ああ、そう言ってくれると信じてたよ。いつもの口座に倍の金額振り込んでおくからどうか内密に運んでくれたまえ……用途? そんなこと、お前が知ることではない」

 数時間経つと、赤茶色のユニホームを着た刑務官が、ひとりの全身オレンジ色男を連れてきた。ちなみに、牛はまだケージの中で、スペスが興味深そうになでなでしていた。

「連行してきましたサー・レミー」

「誰にも気取られてはいないな?」

「はい……電話でもお尋ねしましたが、コイツをどうするんです?」

 全身オレンジ色男は、両手を拘束されているが、まるで牙のないイノシシ……つまるとこ豚のような面をしていた。身体が大きく、顔には涙のような小さい雫のタトゥーが彫られている。それも一五個もだ。

「……彼は何をした?」

「ギャングの殺し屋でしてね、おまけにレイプ紛いのことも数件」

「なるほど……ギャングの構成員は殺した数だけ単色の雫を彫ると聞くが……いやはや多いな」

 囚人はフガフガと鼻を鳴らしながらよだれを撒き散らしている。

「離せこの野郎‼ お前のお袋から娘まで、犯して殺してやる‼」

「ふむ。どうやら『いなくなってほしい人間』らしい」

「ええ。コイツの刑の執行は来月に決まってまして……」

 刑務官はチラチラとガラス越しにこちらを見つめている美少女に目を移していた。事情を知らない人間からしたら、レミーが少女を観賞用に閉じ込めているような状況であるので、無理もない。

 あと、なんで牛がいる?

「気になるか?」

 レミーは事もなげに言う。

「め、滅相も……」

「いや、気にしてくれなくては困るんだ……さて、彼をこの餌用の入り口に押し込んでくれ」

「クソ野郎‼ てめえレミー・サンタンだな⁉ この国の裏社会を牛耳ってるつもりなら大間違い……」

「うるさいから早くしてくれたまえ」

 レミーの眼力が強くなった。

 こうなったら刑務官も大人しく従うしかない。

 餌用の入り口は流石に牛も入ったので、囚人もすんなりと入った。いや、本人はもちろん抵抗していたが、ともかくすんなりと入った。

「おい! なんで牛がいるんだよ! ここから出せ‼」

「牛がいることはこちらとしても予定外でね。まあ君に言えることがあるとしたら……後ろを振り返ってごらん」

 死刑囚は言われたまま振り向く。するとそこには美少女が立っていて、自分を見ている。チロチロとしている舌が二つに割れているが、そんなことは些細な問題。シャバよりも刑務所生活の方が長い囚人は、鼻息をより荒げてX染色体の香りを鼻腔に吸い込んだ。

「んん~オンナだ……オンナ‼」

 もはや知的生命体の影もなく、ただ性欲に突き動かされている彼はスペスの両肩を握りしめた。彼女よりも二回りは大きい。

 刑務官は咄嗟に職業病で腰に下げていた拳銃を抜いたが、レミーが止めた。

「これは防弾ガラスだ。やめておけ」

「し、しかし……」

「見物だぞ……しっかりと目に焼き付けるんだな」

 囚人は顔をスペスの下腹部に近づけて『味見』しようとしていた。

 だが、スペスの腕によって顔を引き上げられた。すっかり性の衝動に駆られていた彼だったが、スペスの怪力にはシャッポを抜き、初めて怯えた様子になった。

 その後起こったことは……想像に難くない。

 あまりの衝撃に刑務官は持っていた拳銃をポロリと落としたことすら気がついていない。眼球が瞼からこぼれてしまいそうなほどに、見開いている。

 レミーは、まるでショーを披露したサーカス団長のように腕を拡げてニヤリと笑う。ちょうど囚人の腰がスペスの喉を通過しているところだった。

「理解してもらえたかな? 彼女には人間が必要だということが」

「はい」

 消え入りそうな声だった。

「もしもこのことを口外してみろ……お前もああなる……分かったな?」

 首が千切れて落ちてしまいそうなほどの勢いで刑務官は首を縦に振った。

「よろしい! では、今後こちらから連絡があれば今回のように死刑囚をひとり持ってきてもらう」

 レミーは床に落ちた拳銃を拾い上げ、グリップの側を差し出した。

「トップシークレットなので言えることは少ないが、君が協力してくれるのならば刑務所長のイスを用意しよう」

 まさに悪魔の取引。刑務所の秩序を守る仕事人は、どんな回答をするだろう?

「……感謝いたします。サー・レミー」

 拳銃を手に取った。取引成立だ。

「それじゃあ将来の刑務所長様。そろそろお帰りの時間ではないかね?」

「は、はい! 失礼しました!」

 脱兎のごとく消えていく刑務官を、レミーは内心鼻で笑っていた。

(どいつもこいつも……金のことしか考えてねえな)

 金の力の前では、人間の命すら綿毛のように軽くなる。そのことを、レミーは嫌というほど痛感している。

 そして、金では手に入らないものを有している自分を、褒め称えていた。

(スペスを手中に収めた今、風向きはこちらへ吹いている……フフフ)

 彼の際限ない自信は湯水のように溢れ、自己陶酔を引き起こさせるのであった。長年自分を虐げてきた父親を殺したあの夜のごとき、無敵感が彼を支配した。己は善と悪を超越した存在で、この世は自分を中心に回っているのだと考えている。

 なんとも救い難い男だ。

 だが、そんな慢心は夜中に砕かれた。

 いつものようにサミュエルと夕食をし、そして部屋に。出入り口には二人の兵士。

 見守られながら入室してふと横を見た。

 腹を膨らませたスペスと、牛が眠っていた。

 この牛をどうしたものか、まあ蛇人間との同居を始めたのだからこの際、動物の一頭や二頭関係ない。そう考えることにした。

 安楽椅子はベランダに向かって設置されている。レミーが夜景を見ながら一杯飲むからである。今夜彼が選んだ酒はスコッチシングルモルト。本当はスピリッツの中でもラムが一番のお気に入りだったが、島でのトラウマにより飲めなくなった。

 幾何学的な彫刻が施されているロックグラスに透明な丸氷をカランと入れて、上からウイスキーを注ぐ。泥炭由来の、スモーキーな香りを鼻と舌、そして脳で味わった。

 夜遅くまで電気がついているオフィスや、幸せが住んでいる家々の明かりを眺めながら酒を楽しむ。音楽はかけない。つまみもない。

『自分の街』を酒の肴に飲む。彼のこだわりだった。

 さて……至福の瞬間にもっともふさわしいもの。

 それは葉巻だ。

 湿度を一定に保つヒュミドールに並べられている高級品の一本たちは、見ているだけでワクワクしている。非喫煙者や葉巻を吸ったことのない人間には到底理解されないが、例えるなら大の本の虫が、図書館の棚に整然と本が並んでいるのを見て幸福感を抱くのと似ている。

 さてさて……やはり定番のキューバ産か……それとも今日は趣向を変えてドミニカ産……いやいや変わり種でフィリピン産のマニラ葉を吸うのもアリだな。

 ヒュミドールの蓋を開けて、一本を取り出そうとしたまさにそのとき。

「それ、嫌いって言った」

「そういえばそうだったな……うん?」

 ガラスの中から聞こえたにしてはあまりにクリア。

 まさかと思い、ゆっくりと声のする方向へ首を回す。

「……なぜここにいる?」

 音もなく近づいてきていたスペスが、すぐ横で三白眼を細めジッと睨んでいる。

「あなたが連れ出した」

「それはそうだが……君の部屋はあっちだ」

「わたし、好きなとこにいる」

「……というか、どこから出てきた?」

 スペスが指をさす。

 目で追うと、そこにはフィルターが内側から破られている通気口があった。

 しまった……!

 通気口を「外につけてもし逃げられでもしたら大変です」とサミュエルに言われてレミーの部屋に繋がるよう作ったが、まさかこんなにあっさりと突破されるとは。

「……では部屋に戻ろうか?」

「あそこ、あの子の家」

「あの子?」

 スペスが言った「あの子」とは、グゥグゥといびきをかいて眠っている牛のことだった。

「あそこ、あの子とわたしだと狭い」

 餌第一号がよもや部屋の主になってしまうとは考えてもいなかった。

「いやあいつは明日にでも連れ出すから、ひとまず今日は我慢してくれないかね?」

「ダメ。あの子わたしのペット」

「いつの間にペットになってるんだ……?」

 レミーがしつこく彼女をガラスの向こうへ戻そうとしているのには、ゆったりとしたプライベートタイムを邪魔されたからだけではない。

 彼女の腹は元の通り萎んでおり、囚人は完全に消化されたらしいのだ。

 空腹のスペスと対峙するなど、棍棒で戦車と戦うのと同業。無駄で無謀なのだ。

「まさか……俺を食べようと?」

 恐る恐る聞いてみる。

「ううん」

 その言葉にホッとしたのもつかの間。

「でも寒い。だから、温めて」

「はぇ? 温める?」

 たしかにこの部屋は涼しい。蒸し暑さを苦手とするレミーが冷房を常に入れているためだ。

「分かった……今暖房をつけるから……」

「ダメ。温めて」

 いやどうしろってんだよ……レミーは彼女の思考を読み取ろうとしたが、その結論は世にも恐ろしい行いだった。

「……俺と眠るってのか!?」

 コクリと頷くスペス。

 嘘だろ待ってくれよと、レミーは狼狽えた。

「そんな、冗談じゃない……」

「お母さんはそうして眠ってくれた。おねがい」

 スペスが天使のような美貌でねだってくるが、騙されない。

 コイツは数時間前に死刑囚を丸呑みした女だ。

 ましてや、レミーは女性恐怖症。二つの意味で無理なのだった。

「君の言うことなら何でも叶えてあげよう……だが、そればかりは……」

「ダメ?」

 ぐぅ……しかし、ここで信頼関係を壊してしまったらサミュエルの研究に支障を来すかもしれない。

 仕方があるまい。

 酒も入っている。目を閉じて眠ってしまえば関係ない。

 ――――

「ど、どうかね?」

「温かい……」

 二人はベッドにインしていた。

 スペスの長い手足が、寝巻き姿のレミーに巻き付いていた。少しでも刺激したら骨を折られるのではないかと、レミーは休まるどころではなかった。

 コイツは眠るのか?

 そもそも罠だったら?

 様々な想いが脳内を駆け巡る。

「……でも、眠れない」

 嘘だと言ってくれ……。

「はぁ……他に何が必要なんだい? 言ってごらん」

 こうなりゃ針千本でも飲み込んでやる。そんな諦念から、腹をくくるレミーだった。

 だが、これまで無茶を言ってきたスペスは、意外なものを要求してきたのである。

「子守話」

「子守歌……ではなく子守『話』?」

「うん……お母さんがいつも穴の向こうの世界の話をしてくれたの」

 表情が読みにくい(不機嫌な場合は例外として)スペスだったが、今回ばかりはレミーにも分かる。

 酷く悲しげだ……。

「聞いても良いかな? お母さんは? まだあの島にいるのかね?」

 スペスが目を伏せたこと、そして沈黙を選んだことから考え得るに、もうこの世にはいないのだろう。

 ひとりぼっちか……。

 なぜだか、今にも泣き出しそうな彼女を見ていると、幼き頃の自分を思い出してしまう。誰にも救ってもらえず、居場所もなく、希望もない可哀想な少年が。

「……昔々、あるところに『死の商人』がおりました」

 レミーが天井を見ながら、語り始める。

「死の商人?」

「人を殺す武器を売って金を稼いでいたその男は、誰からも嫌われておりました。彼は、世界中から憎まれ、恐れられていました。そんな男はある少年と出会ったことで、その子のことを王子様にすると決め、頑張りました。そりゃあもう頑張ったさ……いや、努力しました。『死の商人』はお金をばらまいて、たくさんの学校や映画館、美術館を作り、人々から愛されるようになりました。『死の商人』は王様になりました。そして、王冠を出会った少年に渡し、彼を王子様にしましたとさ……めでたしめでたし」

 起承転結もクソもない話だったが、レミーは蕩々と語った。

「ねえ、人間ってなんで殺し合うの?」

「うん?」

「仲間でしょ? わたしたちは絶対に仲間を殺したりはしない」

 スペスは細長い指を、レミーの寝巻きから覗いているウロボロスのタトゥーに這わせた。

その感触に長年眠りについていた『男』がむくりと反応しそうになるも、レミーはため息をひとつついて答えた。

「人間は誰かを犠牲にしなきゃ生きている実感を持てない悲しい生き物なのさ」

 これまで幾度となく人間同士の争いに介入してきたレミーが言えること。

 それは『人間がどうしようもなく脆くて世界から見たら矮小なもの』だということだ。そこには悲劇も喜劇もない。ただ、生まれて死ぬという事実が残るのみ。それが武器や病気で少し早くなるか、それとも最新医療を駆使して少し長くなるかの違いだけ。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 ゆえに、レミーはよく偉人の言葉を借りる。

 短い人生の中で、後世に語り継がれる功績を収めた彼らを心の底から尊敬しているからである。自分もその中のひとりになれれば、と、考えていた。そのためには楽な道を選んではいけない。自ら茨の道を探し当て、トゲの上でタップダンスする根性と覚悟が必要だ。

 そう。蛇人間とベッドを共にするような度胸が、求められる。

「俺とスラムの住民の間にはこれっぽっちも格差なぞない……いかに勝ち続けてきたのか、そしてそのチャンスに恵まれているのかだけだ……この理論が正しいことを、サミュエルが立証してくれるだろう……貧しいスラム出身の彼が君を研究して、目覚ましい成果を――――」

 ここまで言いかけて、レミーはマズいと口をふさいだ。

 しかし心配は無用だった。

 スペスは瞼を閉じて、スヤスヤと寝息を立てて眠っている。変温動物ゆえなのか、彼女の身体はひんやりとしていて心地よい。安心したレミーもいつの間にか瞼が重くなり、夢の世界へ誘われた。

 気がつくと朝――――

 レミーはこれほど熟睡したことがない。

 あまりの快眠に驚いていると、肘にムニュとなにやら柔らかい感触がした。五八歳童貞には縁のない感覚。女性の柔らかな双丘を初めて肌で感じ、レミーはどぎまぎした。

「……男ってのは馬鹿だな。こんな年になっても女を忘れられないらしい」

 フッと笑い、未だに眠っている彼女の髪を、サラリと耳にかけた。

 このように格好つけているが、忘れてはいけない。

 彼は五八年物の童貞。

 ジャパニーズならば大魔法使いである。

 しかし、これ以上書くとレミーに火炙りにされかねないので、ここで終えるとしよう。


『第六章:ウロボロスの輪』


 コード『ウロボロスの輪』計画は、新種の爬虫類を研究するという名目で世界各地から研究員を募集した。悪名高いレミー・インターナショナル社がただの研究者を求めていると、疑問の目で見られる可能性があり、ペーパーカンパニーを通じて集めている。

 まずは口が固いかどうか。

 そして次に有能かを、国立研究所並みのテストによってふるいにかけた。その難易度の高さによって、候補者は次々に少なくなり、最終的には二〇名が残った。彼らの中には才能こそあれど、自分の研究のためならば道徳観念など捨て去ったマッドサイエンティストも含まれていた。だが、構わない。

 むしろ、レミーはそういった人間を欲していた。

 甲羅から首を伸ばす亀に、新たな発見などできるわけもない。

 リスクを度外視した、好奇心に突き動かされる猫のような人間こそ、新たな発見をすることができるのである。

「なあ、どんな研究ができるのか聞いているか?」

 ただ座っているだけなのに、目が血走り呼吸が荒い白衣の男が、同じく白衣を身に纏った女性研究者に質問した。

「爬虫類の研究」

 彼女はつっけんどんに返す。胸が大きく、白衣がこんもりとした山を二つ作っていた。長く伸ばした金髪と涙ボクロが大人の女性の色気を醸し出している。しかし、最初に質問した男は、彼女のプロポーションなどどうでも良いらしい。せわしなく首から下げたロケットを指でいじくっている。

「まさかレミー・インターナショナル社の研究員になるなんて……でも、これで金払いの良い雇い主だってことは分かった」

 男はロケットを開き、中に入っている写真を愛おしげに見ていた。

「大丈夫。パパは大丈夫だからな……今年こそ研究成果を出して、迎えに行ってあげるから、待っててくれよ……」

 研究者たちは新しく作られたラボの、教室のような一室に集められていた。

 到着したのは、つい一時間前だ。各自、世界中の試験会場からそのまま連れて来られた……いや、もはや連行されたと言っても過言ではない。

 彼らを運んできたのはH・Y・Aの兵隊たち。彼らは機内で研究者の手荷物を詳しくチェックして、外部と連絡ができるような代物を没収した。抵抗した者もいたが、H・Y・Aの前には無力である。

 そして新しい白衣と社員証を渡され、研究施設に集合させられた。

「なあに、心配ないさ……パパは必ず成功するって言っていたじゃないか……そうしたらママも許してくれるさ……」

「……子供がいるの?」

 ただ「待っていろ」と言われた二〇名は隣り合った者同士が、不安を共有したりしている。彼女も、冷たいが例外ではなかったらしい。

「ああ……こ、今年で一五歳になる娘と、じゅ、一二歳の息子がいる」

 彼はどもりがちで、無精ヒゲを生やしている痩せた顔を神経質そうに何度もなでつけている。薄茶色の髪はいつカットしたのか分からないほどボサボサ。常に眉をハの字にしており、困っているように見える。

「き、君は? 子供がいるのかい?」

「子供は嫌いなの。研究にしか興味がないわ」

 あまりにもきっぱり言ったので、彼は汗を飛ばしながら苦笑いをする。

「も、持ってみると違うよ……ぼ、僕も研究しかしてこなかったから興味はなかったけど、息子とキャッチボールをしたり、娘の宿題を見てあげたりしていると心が、な、和むんだ」

「そう」

「な、なあ自己紹介しない? 僕の名前はドン」

 骨と皮だけの手を、彼女に伸ばした。

「エリーよ。でも、馴れ合うつもりはないの」

 明らかに彼女の方が年下だったが、ドンの手は無視され、空中でさみしげに浮いていた。

「そ、そうかぁ……」

「いい? ここに私がいるのは優秀だから。あなたもそうでしょ? なら、やることはひとつ」

「な、なんだい?」

 エリーが口を開く寸前に、研究室のドアが開いた。

「会長が入室される! 背筋を正せ‼」

 銃を携行した兵士がドアノブを握って閉じないようにしている。

 そこから、真っ白なスーツを着たタトゥーだらけの男がやってきた。サングラスをし、白髪は後ろで結っている。肌は実年齢よりも若く見えるが、浅黒く焼けている。彼の放つ『堅気』ではないオーラによって研究者らは気圧された。

「……紳士淑女諸君。座りたまえ」

 まだ正体も明かされないのに、彼こそがボスだと誰もが感づいた。命じられるまま着席し、背を伸ばす。

「さて……この南米の地へようこそ。世間話をしに来たわけじゃない? いやいや、信頼関係はこうした些細な場面の積み重ねで形成されるものだ。時は金なり……なぞ馬鹿の戯れ言だ。そんな言葉が本当ならば、制限速度などなくしてしまえばいい……話が逸れたが、まずは自己紹介だ」

 教壇に仁王立ちになる。

「俺はレミー・サンタン。レミー・インターナショナル社の会長だ」

 会社の存在はうすうす予感していたが、まさか本人が現れると思っていなかった面々は驚いた。

 レミーから少し遅れて入室した男がいる。圧倒的な迫力のレミーに比べたら至って一般人の男だ。

「彼は取締役にして、この研究を主導するサミュエルだ」

「どうも……」

 顔をわずかに動かして挨拶するこの好青年がレミー・インターナショナル社の最高幹部? サミュエルの存在は世に出回っていないため、一同はさらに驚く。

「ひ、人ってのは見た目によらない……そうだろ?」

 ドンが小声でエリーに耳打ちする。

 彼女は無視して、サミュエルを凝視している。

「い、いい青年だ。惚れるのも分かるよ」

 言い慣れていないジョークにも、反応は無し。ドンは諦めて正面を向いた。

「さてと……諸君らにはまず謝らなければなるまい。嘘をついて集めたのだからな」

「サー? 質問をしても良いですか?」

 ひとりの勇気ある研究員が手を上げた。

「ダメだ」

 レミーが却下した。到底、謝る人間の言葉ではない。

「とにかく君たちには見てもらいたいものがある。照明を消してくれ」

 兵士がボタンを押すと部屋が暗転し、そして天井で丸まっていたスクリーンがするすると下りてきた。研究者たちから見て、教壇の左だ。

「それでは心の準備はよいかね? もしも具合が悪くなったら退出してもいいぞ? トイレは部屋を出てすぐのところにある」

 レミーが茶化しながら映写機のリモコンを操作した。

 スクリーンに映し出されたのは、ガラス張りの部屋にいる美しい少女。褐色で、銀色の髪がなんとも映える。

 だが、常識はすぐに崩れ去る。

 死刑囚が部屋に放り込まれると、彼女がキスをし、食事を始める。その一部始終が、たっぷり一〇分間、上映された。研究者たちはざわめいたが、そのざわめきは蛇人間に恐怖したからではない。一本の道を極めし者として、知的好奇心が刺激されたことによる、一種の歓喜だった。

 まさにレミーが求めた人材たちだ。

 部屋が明るくなるときには、幾人もの研究者が手を上げて質問をマシンガンのようにぶつける気でいた。

「俺の口はひとつしかないから全てを答えることはできない」

 レミーが遮る。

「彼女の名前はスペス」

 ドンが小声で「ら、ラテン語で『希望』だ……」と呟く。ここまで無意識的に口が開くのだからおそらく独り言が癖なのだろう。

「彼女はとあるカリブ海の島で発見された。今のところ分かっていることを、整理しよう」

 レミーは教授のようにチョークを手にして、いくつかの情報を黒板に箇条書きしていく。

「まずは『生態』だが、変温動物のように暖かい場所を好む。そして蛇のように先端で分かれた舌でもって獲物を見定める。そして、暗闇でも明かり無しで動くことが可能だ」

「ピット器官とヤコブソン器官だ……」

 ボソボソとドン。

「次に『捕食』だ。対象は人間のみだということが分かっている」

「確実ですか?」

 誰かが質問した。

「もちろん。本人がそう言っている」

 このレミーのひと言に研究者たちは目を丸くした。

「しゃ、喋ることができるのですか?」

「完全にとはいかないが、簡単な英語のコミュニケーションは可能だ」

「サー・レミーは実際に話しを?」

「彼女と共に生活している」

 研究者たちはさらにさらにドッキリとした。

「あ、アレと衣食住共にしている……⁉」

「彼女が心を開くのは俺だけなのだ」

 嗚呼、この優越感が堪らない。

 真実は彼女の予想できない行動にいつも振り回されているだけなのだが、危険生命体と一緒にいるというのは、他の人間よりも階段を一段上っているような感覚にさせてくれる。

「話を戻そう。彼女は人間とキスをすることによって殺害ができる。憶測だがその際毒が粘膜接触することで全身に回り、息絶えるのだ。このようにして殺した獲物しか食べない。四肢を巻き付けて骨をバラバラにし、丸呑みにするところなどは、アナコンダのようだ」

 研究員たちのメモの音が部屋中で聞こえてくる。

「次に『コミュニケーション』だが、英語が少し話すことができる。今のところは俺にだけ友好的だ」

「武力による脅しなどは通用しないのでしょうか? こう……調教するとかは?」

「無理だと断言できる。彼女は銃弾すら跳ね返す強靱な肌を持ち、さらに関節を意図的に外してどこにでも逃げることができる。その上とてつもない怪力ときたもんだ……」

「ファンタジーのモンスターみたいだ」

「まさしくその通りだ。さて……この『ありえないはずの現実』に、君たちはどうする? 君!」

 ドンがレミーに指をさされた。彼は頭を落とされた魚のようにビクンと反応した。

「は、はい?」

「専門は?」

「ど、ど、毒物学です」

「焦らんでも良い……どう思う?」

 ドンは目を細め、脳に焼き付けた彼女の食事シーンを思い返した。

「……多くの蛇の毒は神経毒・出血毒・筋肉毒に分類されます。あの映像だけで断定はできませんが、神経毒・出血毒に焦点を絞ろうかと――――ですが、口腔部から出血が見られますので、おそらく内臓が多臓器不全を起こし死亡しているのか――――それとも、神経系の毒で横隔膜が機能を停止して窒息しているのか――――粘膜接触と言っていましたが、もしも彼女の牙で刺されたときどうなるのかも調べなければ……あっ!」

 自分の得意分野となると舌がよく回るらしく、レミーの存在すら忘れて喋りまくったことにようやく気がついたらしい。慌てて顔を伏せた。

 だが、レミーはニンマリと笑った。

「君、名前は?」

「ど、ドンです」

「ドクター・ドン……たった今から君を主任研究員に任命する」

 部屋の研究員たちは騒いだ。

「サー・レミー! それはあまりにも不公平でしょう!」

「そうです! 我々の力量を判断してもらえねば、主任など認めません!」

 ワーワーと喚く研究員を前に、レミーは笑顔を一瞬で消し、手で黒板をバァンッッ‼ と乱暴に叩いた。その音と彼の飢えた狼のごとき迫力に、研究者たちは口を閉ざした。

「不公平……? 俺様がいるところでは、俺がルールだ」

 ポケットに手を突っ込んで教壇を右往左往する。

「君たちは気がついていないようなので言っておくが、もうレースは始まっている! 自分の有能さを信じているなら成果を出せ‼ そうすりゃあ想像を超えるほどの報酬を与える‼」

 目にかかった髪を手で避けながら、冷静さを保つレミー。

「これから君たちのボスはサミュエルだ。諸君、健闘を祈るよ」

 レミーが目で合図を出し、教壇を下りてサミュエルとバトンタッチをする。

「では、皆さんまずは研究所の案内と、各部門への振り分けを――――」

 レミーが退出していくと、部屋の空気は軽くなった。

 しかし、未だに緊張している人間がひとり。

 ドン主任研究員である。

 成果を求めていた彼も、よもや初日に主任を仰せつかるなど夢にも思っていなかった。彼はいつも地道な研究をしており、大それた発見など研究者人生において一回もない。学会でも、彼がどもりながら地味な研究を発表するのは笑いの種となっていた。そんな自分が、まさか新プロジェクトで重要なポストになるとは……うれしさよりも『上手くいくのか』という心配の方が勝っていた。

 サミュエルの説明も入ってこない。

 みんなが立ち上がる。どうやら施設の案内に行くらしい。

 ぞろぞろとサミュエルについていく研究者たちが、刺すような目線でドンを見た。

 これから、自分が指示を出さなければいけないのか……不安だ……。

 と――――

「ドン」

 隣から声をかけられた。

「え、エリー……ごめんよ……僕なんかが主任に」

「何言ってるのよ。自信を持ちなさい。コレはチャンスなんだから」

「チャンス……?」

「子供たちのために成果を出すんでしょう? だったら主任研究員なんてもってこいじゃない! 私も手伝うわ」

「ほ、本当に?」

「ええ。あなたの知識は本物そうだし、私としても実績に結びつきそうだから利用させてもらうわ」

 ドンは勇気を与えられたようでようやく、苦笑いではない本当の笑顔を見せた。

「あ、ありがとう……ぼ、ぼ、僕がんばるから」

 二人は友情を示すかのように硬く手を握り合った。

 一方で、頭が痛い男がいた。

 レミーだ。彼の仕事はもう完了した。最初に恐ろしい鬼のような印象を植え付けておいて、その後で交代した好青年サミュエルが紛うことなき天使に見えるようにお膳立てしたのである。

 大昔からこのような手口を使っているが、この現代においても効果は抜群だ。アメとムチの使い分け、だ。

 さて、本来ならばスーツを脱ぎ去り風呂に入って部屋で一服したいところだったが、それが不可能な事態がここ毎日起こっている。

 護衛二人が待つ部屋のドアが、地獄の裁判所のように禍々しく見える。

 ふぅ……と自分にエールを送り、ドアを開く。

 天蓋のついた高級ベッドには、さも当然かのようにスペスが寝転んでいる。

「またこっちに来たのかね……? 君の部屋は……」

 忌々しい牛めッッ‼

 スペスのために大金をはたいた人間サイズの蛇用ケースには、のんびりと草を食む牛が鎮座している。エサにならず、さらに部屋ひとつを明け渡すことになってしまった。

 部屋を区切るのはガラスケースなので、どこにいても牛が視界に入る。

 朝も昼も、夜もだ。

 うんざりしたレミーが兵士たちに命じて牛を出そうとしたのだが、スペスがそれを頑なに拒んだ。

「この子はわたしのペット」

 そればかり言う。

 正直、ペットにしてはいささか大きすぎるので、代替案をいくつもレミーが出した。ハムスターや犬、色彩豊かなオウムなどだ。

 しかしスペスの関心を引く動物はいなかった。

 今は一日二回、スペスが自らの手で藁を食べさせ、牛が満腹になったらレミーの部屋に戻ってくる。

 いやいや、戻ってこないでくれ。

 何のための部屋なのだ?

 それに、毎夜彼のベッドに潜り込んでくる。美少女と寝床を共にするなど男性にとって最高の瞬間であろうが、レミーは残念ながら女性恐怖症だ。

 あの夜から女体には少しずつ慣れてきたとはいえ、五〇年ものの苦手意識は簡単には拭えない。しかも彼女は体温を分けてもらうために身体をすり寄せてくる。大きめのワンピースを下着なしで着ているのに、だ。

 当然、服ははだけお椀ほどの形良い乳房や、もっとデリケートなゾーンまで見えてしまう。その度にレミーは顔を背け、身体を硬直させる。裸体を直に見たらおそらく蕁麻疹が出てしまうからだ。

 そんな、気持ちが休まらない日々が続いている。

 疲弊するレミーと反比例するように、スペスは活き活きとしていた。

「ねえ」

 レミーはスペスから話を振られることに臆病になっていた。何かとんでもないことを要求される気がしてならないからだ。

 そして、その予感は大抵、当たる。

「ここから出てみたい」

 レミーが「それだけは……」と苦虫を噛み潰したような顔になる。

「前にも言っただろう? 君をもしも皆が見たら……」

「それはあなたが考えて」

「んな無茶な……」

「あなたの作ったクニ? を見てみたいの。ダメ?」

 あの夜から、レミーはスペスが眠るまで子守『話』をしてあげている。この国のことや、スペスが知らない現代社会の様子まで、ともかく(早く眠ってくれ)と思いながら語るのであった。

 しかし、そんな子守話が、彼女の興味を引いてしまったらしい。

 外に出たくなるのは当然だと、レミーだって理解はしている。この部屋に二四時間いるのは限界がある。牛の世話も、暇つぶしにはなってくれない。

 そもそも、彼女がなぜ今ここにいるのかを思い出してみよう。スペスはレミーが『外の世界を見せてあげよう』と言ったから殺さないでくれて、おまけに連れてくることができた。

 約束は、守らなければいけない。

「……分かった。だが、条件がある」

「なに?」

「君に関して少しばかり知りたいことがあってね……そのうちひとつふたつ頼むことがあるかもしれない……そのとき、協力的だと大いに助かるのだが……いかがかね?」

 スペスはちょっとだけ考えて、

「うん」

 返事をした。

「よろしい……では、君を乗せるために護送車を用意するから待っていてくれ」

「ゴソウシャ?」

「ああ。大切な(我が社の所有物である)君が傷つけられないようにロケット弾でも跳ね返すほどの車に乗ってスモークガラスから外を……」

「嫌」

 つい数十分前に研究者たちに発破をかけていたレミーはどこへやら。今や、小娘の一挙手一投足にたじろぎ、難儀している。

「嫌だと言われても……」

「わたしはもっとじっくり見たい」

「具体的には……?」

「クルマに乗るのはいい。でも、窓からだけじゃヤダ」

「ずいぶんと難しい注文をつけてくれるじゃないか……」

「ここはあなたのクニ。あなたは王様。違った?」

 スペスは無意識に彼の虚栄心をくすぐった。なにか吹っ切れたかのように、レミーは笑いながら、

「無論ここは俺様の国だ! ならば俺の愛車でドライブしながら首都を案内してあげようじゃないか‼」

 そんなこんなで、レミーとスペスは首都にくり出した。

 レミーの愛車は古めのオープンカーを改造した目立つ車だった。趣味の悪い骸骨のエンブレムに、防弾仕様のタイヤ。真っ白なボディと血のように赤いシート。後部座席が広く、レミーが長い足をクロスさせても余裕があった。

 舗装されたアスファルトを軽快に走る車。もちろん運転はH・Y・Aの兵士だ。レミーの車をぐるりと囲むようにバイクが走っているが、彼らは護衛の兵士たちである。

 一般車からすれば、邪魔なことこの上ない集団だったが、スペスは喜んでいるように見える。どこまでも続く晴天に、南米特有のジリジリと照りつく太陽。路上に植えられた木々が、青々と茂っていた。

 町並みにも、興味津々で、身を乗り出している。

「こらこら、あまり身体を出すと落ちちまうぞ」

「アレ! アレなに⁉」

 目をクワッと開けて尋ねる彼女には、いつもの無機質さがない。見る物全てが物珍しい少女のようだ。おそらくだが、この太陽のおかげなのだろう。彼女の体温が上がり、活発的になっている。

 そんなスペスを、レミーは心配しながらも、少しだけ――――少しだけ可愛らしいなと思いながら見守っていた。

「ねえ! アレ!」

「考え事をしていた……すまん。あの建物は大聖堂だ。俺が建てた」

 万華鏡のように色とりどりのステンドグラスが目印の教会は、街の中心に建っており、そこから街は放射状に作られていた。

「ダイセイドウ?」

「神様にお祈りする馬鹿が集まるところだ」

 教会の看板には『レミー大聖堂』と書かれている。

「それじゃああそこは?」

「ああ、大学病院だ」

 純白の大きな病院の正面玄関には『レミー大学付属病院』とある。

「あの動かない人は? 死んでいるの?」

「違う銅像。ちなみに、俺様だ」

 噴水のある公園に作られている像は、レミーが救世主のごとく両腕を拡げて笑顔を見せている。そして銅像の足下にはレミー・サンタンのこれまで行った貧困撲滅運動の功績がこれでもかと書かれた説明文が。

「すごい! 全部あなたが作ったの?」

「その通り! 俺様がゼロから産み出した楽園だ」

 車は中心部をぐるりと一周してから、大通りを進む。

 すると、レミーが尋ねられる前に名前を口にした建物があった。

「ここは『レミー孤児院』だ。少し寄っていいかね?」

「うん」

 車が停車し、運転手がレミーの右手にあるドアを開く。そしてレミーはワニ革の靴を地面に降ろした。

「わたしも着いていく」

 そう言ってスペスがピョンと車から降りてきた。彼女が猛毒を持つ未知のクリーチャーということも忘れてしまいそうなほど、愛らしい。

「いいだろう。挨拶をするだけだがね」

 と……忘れるところだった。

「入る前に、ここには食べ頃の子供が多いが絶対に食べないこと。約束できるね?」

「うん!」

「それでは、入ろう」

 木造のドアを押しやると、そこには大広間があり、自由時間の孤児たちが遊んだり宿題をしたりしていた。だが、レミーが訪れた瞬間に孤児たちの意識は彼へ向けられた。

「レミーおじさんだ‼」

 孤児のひとりが叫んだ。

 それが合図かのように、孤児たちがレミーを囲み、飛び跳ねる。

「レミーおじさん! こんにちは‼」

「レミーおじさん‼ 僕この前のテストで三番だったんだよ‼」

「私は一番だったわ‼」

 一気に子供の波に飲み込まれるレミーだったが、慣れた様子で近づく子供たちの頭を撫でてあげた。

「いいぞ。どんどん勉強してどんどん賢くなれ。知識は誰からも奪われない唯一無二の財産だからな」

 サングラス越しだが、レミーは顔をクシャッと崩して笑う。

 これぞ、彼が求めている本来の世界の姿なのだ。

 国内にも一定数『偽善者』と彼を忌避する人間たちがいる。なのでこのようにどこでも大歓迎というわけにはいかないのだが、自分が提供した金と街で日々を過ごしている者たちが感謝するのが当然だと、レミーは考えている。

 この子たちはまさしく未来だ。

 将来、レミーのことを好意的に思う人間が多くなればなるほど、彼にとって都合がよい。

 そんな打算的な考えなど見抜けない善意の塊が、廊下の奥から現れた。

「レミーさん! いらっしゃるなら言ってくだされば良かったのに!」

 クララだ。

 たぶん騒ぎを聞きつけて急ぎ、転んだのだろう。卵のようにツルリと綺麗なおでこが赤くなっている。

「クララ院長! たまたま通りかかってね。子供たちの顔を見たいと思っただけさ」

 レミーはニンマリと笑う。数万ドル払って手に入れた真っ白の歯を見せている。

「院長なんて……私はただの管理人ですよ」

「謙遜なさるな院長! 君がいるから、この子たちが笑顔でいられるのだからね」

 たまたま近くにいた子供の顔を、優しくムニュウとつねった。子供はキャッキャッと笑う。

「子供の笑顔には嘘がない……大人の笑顔など信じるに値しない。俺の功績を実感するときは、まさにこの子たちが笑っているときなのだよ」

 含みのある言い方をしたレミーに少しだけ畏怖の念を抱くクララだが、立場上笑うしかない。

「そういえば寄付は足りているかね?」

「え? ええ。この子たちが毎日六食とっても余っちゃうくらいです」

「だがこれから受験と進学には費用が必要だろう?」

 この国には奨学金がひとつだけある。成績が上位の場合、返金が免除されるシステムだ。

 誰がスポンサーなのかは……言うまでもない。

「しかし、奨学金だけではどうしようもなかろう? この子たちの進学費用は、全額出そう」

「そんな……」

「生い立ちで差異が産まれてはいけない。この中に未来の秀才が眠っているかもしれんのだぞ? なあに、先行投資というものだ」

 恐縮しているクララの肩に、ポンと手を置く。

「それに君は未来の娘だ……苦労はさせない」

「えっと……」

「ハハハッ すまないただのジョークだ。損得抜きで、この孤児院には今後も寄付を続けるからな」

 だが、探るような彼の目は彼女を捕らえて放さない。

「サミュエルとはどうかね?」

「順調です……はい」

 クララはサミュエルの名前が出てきてぎくりとした。彼が、まさかあなたの破滅を願っているのですなどとは、もちろん言えるわけもない。

「ほう……ここだけの話……」

 レミーは彼女の耳に口を近づけた。

「孫はもうそろそろ見れそうかね?」

 なんともデリカシーの無い言葉だったが、意味を深読みしすぎたクララは顔を茹でダコのように真っ赤にさせて距離をとった。

「わ、わ、分からないです‼」

「先生にも分からないことがあるんだね~」

 無垢な子供が言った。

「そうだよ。だから大人になるまでにたくさん勉強するんだぞ」

 場は笑いに包まれた――――

 その時だ。

「うわ! すげえ! お姉ちゃん舌が蛇みたい‼」

 今度はぎっくりさせられる側になったレミーは、同行者が好奇心旺盛な子供に囲まれているのをすっかり忘れていた。

「あの……彼女は?」

 クララも存在を知らなかったので疑問に思った。

「いや……彼女は俺の、学生時代の先輩の子供の同級生の叔父の従兄弟の子供でね……街を見学しに来ていたんだよハハハ」

 無茶苦茶な嘘を並べながらスペスのもとに駆け寄り、子供たちから離す。

「この姉ちゃんの舌! 先っぽで二つに分かれてるんだぜ!」

「そ、そうなんだよこれはスプリットタンと言って、舌を人工的に切ったのだよ」

「うえ~痛そう~」

「さて! ではそろそろお暇しようかね! クララ、何か心配事があればいつでも連絡してきたまえ!」

 孤児院を出たレミーは息を荒げながら車に乗り込んだ。

 そして見送りに来た子供たちに手を振りながら、

「いいかね……スペス。相手が子供だったから良かったものの……舌をチロチロするのはやめてくれ」

「でも、それしたら、獲物を追えなくなる」

「だからあの子たちは食べちゃいけないって言っただろう!」

 ハァ……まったく。

「……あの女の人」

「ん……クララか?」

「あの人……少し違う匂いがした」

「そりゃあ大人だからな。子供とは違うだろう」

「ううん。普通の人間と違う……こう、鼻がキュッてなる匂い」

「抽象的だな。具体的にどんな匂いなのだ?」

「……食べたくない匂い」

「そんなに香水がキツかったか? 気がつかなかったが……まあ、食べたくなくて、クララはラッキーだったということだな」

「……」

 スペスは見えなくなるまで、孤児院をジッと見つめていた――――

 その頃。

 研究所の案内が終了した研究者たちは、サミュエルによって専門分野ごとに分けられていた。ドンは後方を歩き、その隣にはエリーがいた。彼は聞いたことしかない最新の機器に度肝を抜かれていたが、彼女はそうでもない様子だった。

「では……ドン主任。まずは何が必要かを教えてください」

 丁寧なサミュエルの問いにすら、彼は過敏にビクついている。

 そんなドンの横腹を突くのはエリー。

「最初が肝心よ『主任』」

「え、えと――――研究対象の血液サンプルが欲しいです。あと、これには危険が伴うのですが、彼女の毒液を採取していただきたいです……心を許しているのがレミーさんだけだとさらに危険なんですけど……」

 レミーが危険に晒される?

 大歓迎だ。

「分かりました。こちらで用意しましょう」

 臆病者に負けてなるものか、と、他の研究者たちも要求をした。

「爬虫類の専門家として、主任とは違うアプローチをしたいです!」

「生物学者としても、彼女を実際に観察しないと分からないことが多いです!」

 まさにレミーの計算通り。

 見事に発破をかけられた彼ら彼女らは、次々と発見を求める貪欲な人間へと変貌した。

「皆さんの要望には応えましょう。しかし、そのためには皆様の声をひとまとめにして僕へ伝えてくれる人間が必要なのですが……どなたかを助手に指名しますか主任?」

 指名……? そんなもの自分にできるわけもない。

 だが、皆がこちらを見ている……ああ、早くしなければ!

「え、エリー……どうかな? 僕の、じょ、助手になってくれない?」

 研究熱心な彼女が余計な雑務が増える役職を快く引き受けてくれるか不安だったが、返事は意外にも「イエス」だった。

「いいわ。私で良ければ、ドン主任の助手に」

「ほ、本当に?」

「指名しておいて何?」

「では、エリー研究員が今後皆さんと僕の連絡係ということで」

 この日を境に『ウロボロスの輪』計画が本格的に始動した。

 関係図は、こうなった。

 ボス――――サミュエル取締役

 主任研究員――――ドクター・ドン

 主任付助手――――ドクトル・エリー

 この三人が主軸になり、レミー・インターナショナル社の最優先にして最大のプロジェクトが始まった。

 ――――数日が経った――――

 最初にすることは、スペスの血液と毒の採取。

 誰がすることになるのかは、なんとなく分かりきっていた。

「……スペス、危害は加えないから医療班を逆に病院送りにはしないでおくれ」

 ドライブから数日後。

 レミーは自分が主かのごとくベッドを占領しているスペスに、ご機嫌取りをしていた。

 なぜかというと、スペスが部屋に入ってきた白衣の人物たち(H・Y・Aの医療班ブラボーチーム)に対してジト目で敵意を向けていたからだ。これから行われるのは、スペスの血液と毒を注射器で採る作業だ。

 爆弾の導火線の上でタバコを吸うような行為である。

 兵士たちもガスマスクを緊張で曇らせている。

「……わたしに、なに、するの?」

 すっかり体温が戻ってしまったスペスはまたしても感情の起伏が少ない蛇に逆戻り。

 チロチロしながら、怪訝な顔をする。

「この人たち変……何の匂いもしない」

「分かった分かった! おいっ! 防護服を脱げ!」

 医療従事者としてはあり得ないことだが、彼らは手袋まで外す羽目になった。

「これでどうかね?」

「……臭い人いる」

「おい、誰か喫煙者いるか?」

 恐る恐るひとりが手を上げた。

「お前は出て行け」

 スペスの前ではレミーも操り人形同然。彼女の思うがままに動くのだった。

「ほら、これでどうかね?」

「……なにをするのか言っていない」

 さて問題だ。獰猛な蛇人間に「これから君に針を刺して血を貰うよ」と言わなければいけない。レミーはなるべくゆっくり、そしていかにも簡単なことだと印象づけさせるために言葉を選ぶ。

「き、君の中に悪いバイ菌が入っていないかを見るだけさ」

「どうやって?」

「え~と……君に針を刺す」

 彼女は黙ったままだ。

 言葉選びを失敗したか⁉ レミーの脳裏にはボコボコにされる自分とブラボーチームが浮かんでいた。

 だが、

「……いいわよ」

 スペスは協力的にベッドに座ってブラボーチームに身体を委ねる素振りをした。

「いいのかね?」

「ヤクソクだもの。この前は楽しかったし……」

 スペスがうっすらと口角を上げて笑った。あの日のことを思い出しているらしい。

 チクリと……レミーの中にあるのかすら疑わしい良心が痛む。

「では、始めろ」

 早く済ませてしまおうと、レミーは命令をした。

 しかし……針が皮膚に刺さらない。

「もっと太い針は?」

「これが一番太いです」

 困った……どうすればいいのか……

 レミーはスタートラインにすら立てない自分に苛立ち、頭を抱えて悩んだ。

「どうすれば良いんだ……」

 こんな初歩でつまずいている場合じゃない……。

 と――――

 カシュッ!

 スペスが差し出していた左腕の内側を、右の指でひっかいたのだった。彼女の爪はやはり硬く、よく羽毛布団に穴を作っていた。

「……ッッ」

 痛みに眉を歪ませながら、小麦色の肌に伝う血液をブラボーチームに再度伸ばす。

「ヤクソク……でしょ?」

 痛みを堪えながら、レミーに作り笑顔をしてみせる。

 自傷行為に一同は固唾を飲んで見守っていたが、レミーはハッとして、

「何してやがる! 早く採取しろ‼」

 ブラボーチームも水を打たれたように採血用のスピッツのキャップを外し、腕から滴る血液をとった。

「……チィッッ」

 レミーが咄嗟に衛生兵のカバンをひったくり、包帯を取り出して彼女のもとへ走り寄り、腕に巻いた。この行動に兵士たちは驚き、黙っているほかなかった。

 レミーは白のスーツが血で汚れるのも意に介せず、手当を優先した。

「……すぐに治るわよ?」

「馬鹿……傷が残ったらどうするんだ」

 ようやく動いた兵士がレミーを止めようとする。

「ボス! 彼女の血液の情報が不確かなまま触れるのはマズいですよ! 感染症や毒の心配も……」

「うるせえ! ……思わずやっちまったんだ。仕方が無いだろう」

 自分でも説明がつかない行動にいつもの覇気もなく、レミーはただ目の前の包帯に集中するしかなかった。

 巻き終わると、血で汚れた手を見て確かに危険を冒したな……と思うのである。もしも自分の手のひらに傷でもあれば、血液感染待った無しであろう。

 枕元にあったウエットティッシュを数枚出して手を拭くレミーに、よく分からないが手当をされたのであろうと感じたスペスが、

「……ありがとう」

 と、感謝の意を表した。

「当然だ。世界で唯一だぞ? 俺様の応急処置を施された者はこれまでひとりも、いない」

 なんとかいつもの調子を取り戻そうとするが、なぜ自分がただの『商品』に心を動かされるのかが理解できず、内心はグチャグチャだった。

「……俺は外の風を浴びてくる。毒液の採取はもっと簡単だろ? 終わらせろ」

「イエス・サー‼」

 レミーはベランダに出た。

 そして自分の頭を叩いた。

「なにをしてやがんだ馬鹿ッッ‼」

 今更善人ぶって何になる? 彼女は利用するだけの存在だ。用が済んだら……もしもなにか成果を見つけて用済みとなったら……俺はどうするつもりだった?

 思い出せないし、思い出したくない……矛盾する感情の板挟みに、レミーはさらに混乱した。あのドライブをしてから……いや、その前にベッドに潜り込まれてから……いや、出会ったときから――――自分の中に生まれてきた感情。その名前を知ってはいる。

 だが、認めたくない。

 彼女と自分は全く違うし、お互いを知らない。

 蛇人間と死の商人? なんともお似合いのカップル?

 そんな単純な話ではない。

 簡単に言葉にできやしない――――

 ドンッ!

 背中を誰かに押された。その衝撃で思わず手すりから落下しそうになるが、振り返ったら怒りなど消えてしまう。

「ど、どうしたスペス?」

「あの人たちが、どこかに連れて行こうとする」

 訝しんだレミーは部屋に戻る。

 するとそこにはブラボーチームと、白衣の集団を連れたタナベの姿があった。

 髪を七三で分け、いかにもインテリなメガネをクイッと上げる。

「タナベ……呼んだ覚えはないが?」

「その研究材料を直に見ておきたいと思いましてね。出資者として」

「出資者?」

「あなたが仰いましたよね? 幹部たちに『サミュエルを手伝え』と……なので手伝っているんですよ。金を出して、こうして研究員たちに研究材料を見せにきて……」

「おい……」

 レミーは凄味を出して、スペスとタナベの間に割って入る。

「口には気をつけるんだなタナベ」

 レミーがアゴをしゃくる。

 するとブラボーチームが拳銃を取り出し、タナベ一行に向けた。

「俺を甘く見るんじゃない……H・Y・Aの指揮権はL・Jと俺にある。俺の前では言葉を慎重に選ぶんだな」

 緊迫した部屋の空気に研究員たちは怯えきっていたが、タナベは眼鏡を直しながら、冷静に伝える。

「あなたもお変わりになられましたね。いつから『商品』に情が移るようになったんですか?」

「なんだと?」

「私が今ここにいるのはサミュエル様のご命令です。私、アレクセイ・タナベは今日をもって財務担当者兼『ウロボロスの輪』計画の最高顧問です」

 彼の口ぶりは真実を語る者のソレだ。

『ウロボロスの輪』計画におけるナンバー二になったと見て間違いない。

 二人の間に見えない火花が散る。

「わたし、この人、嫌い」

 喫煙者の上に自分を知らないどこかへ連れて行こうとする人間など、スペスでなくとも信用でできるわけない。

「そうか? 私という人間をもっと知ってもらえれば……評価は変わると思うがね?」

 タナベの視線は彼女の胸から下腹部にかけて動いている。

「フン……貴様もいつから女狂いになった?」

 タナベでなくとも、スペスを見て恋をする人間はいる……たとえば……自分か。

「ともかく、ラボで彼女の肉体を詳しく見たいと彼らが言うので、連れて行きます。良いですね? これも『ウロボロスの輪』計画の成就のためです」

 今すぐにでもブラボーチームに「ヤれ」と命じたいが、彼の言葉は一応筋が通っている。今ここで拒否したら、それこそサミュエルを妨害しているのが他でもない父親である自分になってしまう。

 タナベは彼女に近づいた。

 すると、スペスは口を大きく開け、牙を剥いた。比喩表現ではなく、本当に牙が剥けたのである。注射器のように細長い牙の根元に、ボールペンの先端ほどの穴が空いている。そこからなんと紫色の液体が水鉄砲のごとく発射された。タナベの目に向かって。

 シャッッ‼

 タナベはメガネをしていたため間一髪だったが、顔中毒液まみれとなり、先ほどの冷静さを捨てて慌てた。肌が毒を吸収する前に医療班から処置を受け、今度は怒りを剥き出しにして彼女を睨む。

「この化け物めッッ‼」

 タナベは懐に手を突っ込み、不思議な形をした銃を取り出した。

 バシュッ‼

 彼女の腹部に直撃した。ブラボーチームは引き金を引く寸前までいったが、タナベが、

「ご安心を……麻酔銃です」

 スペスは揺れる視界に耐えきれず、地面に倒れ、ハアハアと息を荒げた。

 そんな彼女の身体を支えたのはレミーだ。

「クジラでも一発で眠る強力なのを選んだんですがね……いやはやこの研究材料はタフらしい」

 赤くなり出した肌を掻きむしりながら、タナベは言った。

「スペスッッ‼」

「これも……ヤクソク?」

「違う! 俺はそんなつもりじゃ……」

「さあ連れて行くんだ。これは会社の最優先課題……でしたよね? レミー会長?」

 ぐったりとしたスペスが連れ去られていく。

 彼女は力なくダランと曇った目でレミーを見ていた。

 レミーは、ただ黙っているしかなかった……。

 ――――

「その顔はどうした?」

 ラボが一望できる役員室にて。

 二人だけの空間と言うこともあり、温和な青年という仮面を外したサミュエルがタナベと話し合っている。

 一方のタナベは、顔中がかぶれたかのようになっており、早くも膿が出ている箇所をハンカチで押さえていた。

「私が近眼じゃなかったら失明していたところでしたよ……」

 命の……いや目の恩人であるメガネを拭きながら憎々しげに答えるタナベ。その視線の先には研究員たちに身体を調べられているスペスがいる。

 抵抗する力を失い、あれこれ好きにされていた。もちろん、研究上必要な範囲内で、だが。

「あのまま殺してくれないですかね」

「お前の顔が荒れたくらい。どうでも良い」

 サミュエルは冷たく言い放つ。

 すでに彼のもとにはエリー経由でドン主任から、数々の新発見が報告されている。そのレポートをめくりながら、流石のサミュエルも嘆息をついた。

「あいつの目だけは尊敬しているよ。利益を見逃さない目はな」

「ハッ……その目も曇ってますよ」

 レミーを賞賛するサミュエルに気を悪くしたタナベが苦言を呈する。

「あの老いぼれは自ら包帯で傷を治療したんですよ。数日前には役員会にも秘密にしてドライブときたもんだ……まったく、レミー・サンタンも墜ちたってことです」

「そんな風に感情に動かされるから、お前はいつまで経っても『ボス』にはなれないんだ」

 ガラスを隔てて彼女の身体を見つめるサミュエル。

「僕はとうの昔に感情なんてものは捨てた。捨てるに超したことはない……感情は不規則な波と同じだ……翻弄されたら真の目的には一生たどり着かない」

 レミーを父親と慕う毎日で、彼の中で感情が死んだ。

 というよりも、感情があったら耐えられなかったのだろう。

「復讐のために……僕は人生を費やした。お前に想像ができるか?」

「い、いいえサミュエル様……」

 いつかのように腕をひねられたら適わない。タナベは閉口することにした。

「しかし……アレはなんなんだ? 調べれば調べるほど、分からない」

「ひとついいですか? どのタイミングで計画を座礁させるので?」

「……それは言えない」

「な……私を信用しておられないのですか?」

「誰も信用なんてしてないさ。お前も僕に従った方が利益になるから話に乗ったんだろ」

「そりゃあ……」

「だからこそ、お前にも教えない。だが、すでに種は蒔いてある。僕の好きなタイミングで、この計画は瓦解する」

「ど、どういうことですか?」

「頭が悪いな。言えないと言ったのが理解できないのか?」

「も、申し訳ありませんでした……」

「……僕が感情を捨てたのは本当だ。だが、多くの人間が勘違いしているが、過去に捨てたものは、拾うことだってできる……あいつがアレと仲がよろしいのは好都合だ。じっくりと楽しませ、そして目の前で自分の全てが壊れていくのを見せてやる……」

 サミュエルはうなじの下にある火傷痕を擦る。

「それが、僕が『喜び』という感情を取り戻す瞬間だ……ッッ」

 研究は粛々と続く――――



『第七章:赦し』


 研究所から帰ってきたスペスは、もはや不機嫌などというレベルを超えて、出会った最初に戻ってしまったかのようだった。

 牛の部屋に籠もったきり、ガラス越しにレミーが見えるが、見ようとしない。

 レミーは何か言葉をかけようとするが、思いつかない。

 自由を奪われて、好き勝手に身体を調べられたら、誰だって良い気分にはならない。

 ふと思いついた機嫌を良くする言葉を口にしようとするレミー。

 そんな彼を一瞥もしないスペス。

 両者の、無言の攻防戦は夜になるまで続いた。

「……許してくれ」

 ポツリと数時間ぶりに部屋に声が走った。

「などと……簡単だよな……言うのは」

 自己完結した様子のレミーは重い足取りで風呂に入り、服を着替えてベッドに横になった。風呂に入る前と彼女は何ら変わらない。牛を撫でている。

「……おやすみ」

 部屋が暗くなり、ベッドに横になる。

 いつもならば、この時点でさも当たり前かのようにスペスも共に入ってくるのだが……。

(今日は期待できんだろうな)

 数週間ぶりのひとりのベッド。

 こんなに広かったか? そんなことを思いながら、疲れた一日だったので睡魔には勝てなかった。

 ……

 ……

 ……おや?

 横を向いて眠っているレミーの背中に、何かの感触がした。柔らかく、それでいてひんやりとした感覚。

「……人肌が恋しくなったかね?」

 スペスはすっかりレミーが熟睡しているものだとばかり思っていたので、ビクッと身を硬直させた。おそらく、ベッドで眠り翌朝彼が起きる前に部屋に戻るつもりだったのだろう。

「だが、俺の背中は簡単にはとれないぞ?」

「……」

「……理由は分かっている。申し訳ないことをした」

 レミーは身体の向きを変えて彼女の顔をよく見た。彼女の目には、うっすらと涙がこぼれている。これでもかと罪悪感にさいなまれながらも、責任はキッチリとらねばならないとレミーは思ったのだった。

「今日得たデータで充分だろう。明日からは君を彼らに指一本触らせない。もしも触ったら、手首から上を切り落としてやる」

 彼女の安寧を取り戻すために力説するが、彼女の反応は今ひとつ。

「……もう君とは『トモダチ』ではなくなってしまったかね?」

「……ううん」

 予想外の回答に驚いたが、スペスが珍しく過去を話そうとしていたので口を挟まないようにした。

「わたしね……別に今日のこと、怒ったりしてない」

「そうなのか? ではなぜ……?」

 なんで泣いている?

「思い出しちゃうから……昔のこと」

「昔?」

「――――何百年も前。あの島に大きな船で人間が来た。人間を見るの初めてだったから、わたし、思わず近づいちゃった……そしたら捕まって……見世物小屋に入れられてたの。芸ができるように英語を教えられたのはその時」

「それは……確かに悲しい出来事だ」

 歯ぎしりしながら言う彼に、スペスは「違う」と訂正した。

「見世物小屋は嫌だったわ。酔っ払った船乗りに酒をかけられたり、壺の中に入ってから出てこいって言われたり……でも、そんなわたしをお母さんが助けてくれたの」

「お母さんが?」

「うん。あの島の女王だったの……それでも掟で人間とは関わっちゃいけないって言われていたのに出て行ったわたしを、助けようとした。お母さんは強かった。一番強い水兵もイチコロだった……でも、わたしの檻を開けたお母さんは……たくさん血が出てて……どうにかしようとしたけど……」

「それ以上は……言わなくていい」

 そんな血生臭い過去があったとは……おまけに年上だったことにも驚愕させられた。

 話すのが辛い彼女は、声の代わりに涙を流した。

 褐色の肌を、水晶のような雫が伝う。それを、レミーは指で拭ってあげた。

「今日……ずうっとお母さんを思い出しちゃったの……それで、悲しい」

「……孤独だったんだな」

 どこかのレミー・サンタンもそうだった。

 誰にも助けてもらえず、気づかれず、苦しめられた。

「……ねえ、子守話して」

「ん?」

「悪いって思っているなら、話をして」

 レミーは少しだけ逡巡したが、心の底に隠していた暗い過去を打ち明けられた今、自分もまた、うちに秘めた自分をさらけ出す番だと考えた。

「昔々『死の商人』がおりました」

「それ、前にも聞いた」

「いや、これから話すのが真実だ……昔々『死の商人』がおりました」

 彼の左肩に抱きつきながら聞くスペス。レミーの眼は天井を見ているが、本当は秘密にしていた過去を見ていたのだった。

「『死の商人』は人々から嫌われていました……世界中から……そして……」

 決心を固めるように深呼吸をして、

「……息子からも」

 レミーは気がついていた。サミュエルの本心を。

 分かった上で、今がある。

「息子は『死の商人』が作った世にも恐ろしい武器によって、親を殺されておりました。なので、息子は父親を憎みました。父親は罪滅ぼしのために、自分が譲ることのできる全てを与えることにしました……たとえそれが、父親の死だとしても、喜んで受け入れるのでした……めでたくはないな」

 レミーがサミュエルを養子にして数年の後に、彼が熱を出したことがあった。最高の医師を揃えて最上級の医療を与えた。すると、医者が『うなじの下に古いが、化学反応で生じる火傷の痕がある』とレミーに打ち明けた。

 まさかと思い、レミーは調べ上げた。公的機関から、裏社会に至るまで。あらゆるルートを使った。

 そこで分かったことは、デモンストレーションで製造しただけの『試供品』を、かつて君臨していた独裁者が横流しで手に入れ、一発を発射したという過去だった。そして、市民街は灰燼に帰し、大量の孤児が生まれた。

 その中に、サミュエルとなる前の少年がいたのだ。

 レミーは自分を呪った。最愛の息子の肉親を殺したのが、自分が作り上げた兵器だったことに。そして、なぜ彼が従順に自分の息子になったのかも、同時に悟ることになった。

『お父さん!』

 彼の笑顔の裏にある憎悪に、気がついた。

 だが、自分だけの秘密にすることにしたのだった。

 理由は『愛』だ。

 陳腐で、短絡的な思考だが、彼のいない人生はもう考えられなかったのだ。自分にできる罪滅ぼし……それは彼に全てを遺す。

 許してもらえるとは思っていない。そんなことも期待していない。『死の商人』として暗躍していた時点で、間接的にだが多くの人間を殺害してきたことは自覚していたからだ。覚悟も、信念もあった。

 他人の血で濡れたパンをかじる覚悟……悪の美学だ。

 振る舞い方も、あえて考える能力を失った金の亡者のようにした。

 彼が会社に入ってからタナベとなにやら企てをしているのも、感じ取っていた。

 二人が何を考えているのか、悪の先輩として、手に取るように分かる。

 自分が築き上げたものを全て壊し、絶望を味あわせること……。

 ならば自分ができることは限られる。

 彼に残せるように会社をクリーンにし、そして最後の瞬間にできる限り全力の絶望を演じることだけだ。

 だが……心の最奥地で叫ぶ自分がいる。

「赦してくれ!!」

 なんて虫の良い話だろう。

 孫を抱きたいなんて……その手は血で汚れているのに、赤子を抱くなんて罪深い。

 しかし、自分の愛が本物であることが伝わってくれることを願っている。ゆえに島では助けを待ったし、彼にまだまだ与える財産を増やすことができると自負している。新プロジェクトも、その一助になればと考えたのだった。

 だったが――――

「君と出会ってからなぜだろうな……死にたくなくなった」

 ジィッと話を聞いていたスペスの絹のような髪を撫でる。

「だが、過去をやり直すことはできない……いいかねスペス……俺の身に何かがあったら、必ず逃げろ。どんな手段をとってもいい。約束してくれるか?」

「……お母さんの最期の言葉と同じ……」

「それは……愛する者には生きていてほしいからだ」

 月明かりに照らされるレミーの顔は悲しげだった。

 偽りの愛と虚栄にまみれた人生に、疲れ切っているようにも見える。

「サミュエルにも、生きて幸せになってほしい……矛盾してるよな、自分でもよく分かっている」

「……ニンゲンって難しいのね」

「ああ。人生というのはひと言で語ることはできないほど、苦難に満ちているのさ」

 レミーは甘い雰囲気に飲み込まれ、グッとスペスの頭を抱えて、唇を近づける――――

 ペタ……それは指の感触。

「ダメ……死んじゃうでしょ?」

「そうか……忘れていた」

 忘れていた方が良かった……そんな考えが一瞬巡り、泡沫のごとく消えていった。

 自分が死ねば問題が解決できるなど……身勝手で、覚悟のない人生、レミー・サンタンにはあり得ない。自分の尻は、自分で拭う。

「さて、もう眠るか……」

「……あのね、実はわたし隠していたことがあるの」

「隠していたこと?」

「……族長の言葉、わたし、分かってた」

 レミーは上体を起こして怪訝な顔をした。

「でも……君はガイドの言葉を無視したじゃないか……てっきり言葉を知らないものだと……」

「大抵の生け贄が同じこと言うから、聞かないようにしていただけ」

「……で、族長はなんと言っていたのだ?」

 死者の言葉など、一ミリも知りたくなかったが、なんとなく訊いた。

「『神を解き放ち、ワシを殺せば世界は破滅へと向かうだろう』って」

「ハッ……最期の言葉にピッタリだな。俺も、かっこいい最期の言葉考えておくか」

 その日は眠った。

 レミーとスペスは互いの、欠けている部分を埋め合うかのように、ピッタリと密着した。

 その日、レミーは夢を見た。

 サミュエルとクララが赤ん坊を抱きながら、自分に微笑んでいる光景である。一瞬で夢だとは分かったが、このまま目覚めたくない。そう思った。


『第八章:加速』


「――――で、彼女のアゴは二つの間接に分かれており、靱帯で繋がっています。それゆえに、捕食の際は開口角度を大きくすることが可能となっています」

 説明をしているのは生物学専門の研究者だ。

 彼は一枚の写真を見せる。真っ黒な、彼女の口腔内だ。

「見ての通り、歯は喉の奥に向かって反り返っており、獲物を飲み込むことが簡単になっています」

 ここまでいくつかの専門家が、サミュエルの前で数週間分の研究結果を発表している。だが、いずれも彼女の特異性ばかりに注目しており、さして有益な情報はなかった。サミュエルは(そもそも計画が頓挫すればいいと思っているので)黙って聞いていた。

 最期の番は、ドンとエリーが率いる毒生学の分野だ。

「え、えと……ドンです」

 んなこと分かっている。

 クスクス笑う研究者たちを横目に、サミュエルが促す。

「ドン主任。では始めてください」

「……彼女の血液ですが、DNAを調べてみましたが人間とは異なることが分かりました。よ、要するに、我々とは全く違う進化をしたという裏付けです」

「突然変異とか?」

「おそらくは蛇にまだ足があった頃――――あっ、この蛇の先祖論争は陸生と水生で分かれているのですが――――ともかく、突如産まれた新しい個体が先祖だと考えています。すなわち、彼女は蛇人間のように見えますが、そもそも人類ではないということです」

 蛇と人間の中間……ではない。

「それでですね……一番興味深いのは、毒です」

「毒?」

「はい。この毒は神経毒と出血毒のどちらの特性も兼ね備えています。具体的には、もしも彼女に噛まれれば噛まれた周囲の細胞が壊死し、臓器から大量の出血を引き起こす……と」

 ドン主任の才能がここで発揮される。

「で、ですね……この毒は非常に強い毒で、マウスによる実験ではコブラの毒よりも致死量が少ないことが分かっています。この毒を応用すれば……」

「何らかの兵器になる?」

 サミュエルが質問したことで、滑らかだったドンの舌は緊張でこわばり動かなくなってしまった。

「へ、兵器に、な、なるとは……」

「有効活用できる可能性は充分にあると、私たちのチームは推測しています」

 どもりが激しくなった主任の代わりに、エリーがマイクの前に進み答えた。

 ――――

「ご、ごめんねエリー……後の説明を全部してもらって」

 片付けが始まった会議場でドンがエリーに謝罪していた。

 聞き飽きたという素振りで彼女はドンを元気づけた。

「弱気なこと言っていたらダメよ。お子さんのために、成果を見つけ出さなきゃ」

 そう。彼ら彼女らがここにいる意味は、決してスペスの生態調査ではない。彼女から何か有益な活用を見つけ出すことである。

「……エリー、僕たちもう信頼できる友達だよね?」

 ドンが小声でささやく。

「まあ、そう言う捉え方もあるとは思うわ」

「そ、それなら……君に伝えておかなきゃいけないことがある――――実は毒の有効活用について、僕なりに仮説を立てたんだ。細胞を破壊するという点に着目すると、ガン細胞を破壊できるんじゃないかとね――――毒性はタンパク質を分解する。それを応用すれば、ガン細胞だけをピンポイントに殺すことができる……今のところは、仮説だけどね。でももしもコレが実現できれば、僕らはガンの特効薬を発見できるかもしれないんだ!」

 ドンは興奮しているようだったが、エリーは眉をひそめた。

「そんな話し聞いていないわよ?」

「だ、だって……レミーさんが言っていたじゃないか。これは、レースだ……僕の研究を横取りしようとする人間なんてゴロゴロいる……でも!」

 彼女の肩に手を置く。

「君は……違う。僕らは信頼ができる……だろう?」

「ええ……そうね」

「ぼ、僕たち二人でこの仮説を証明するんだ……そうすれば手柄は僕らのもの……」

 養わなければいけない命があるゆえに、ドンは研究にまさしく命を投じていた。毎晩眠らず、カプセル入りのカフェイン剤を飲み、ふらふらになりながらも極限状態の中で結果を出そうとしているのだった。

 その努力が、実を結ぼうとしていた。

「僕らが手に入れるんだ……この『ウロボロスの輪』計画の舵を握っているのは……僕なんだ!!」

 研究に取り憑かれているドンの頬に、エリーが密着して軽くキスをした。

 何をされたのか分からずに狼狽えているドンに、エリーは笑顔を見せる。

「協力するわ。あなたのために……」

「あ、あああ、ありがとうエリー」

 頬を擦りながら退場していくドン。

 そんな彼を見るエリーの眼光には、ギラリと光る何かがあった。

「ぼ、僕のことが好きなのかな……まさか……バツイチの子持ちで四十路なんだぞ。でも……もしもそうだったら……?」

 未だに頬に触れた彼女の唇を忘れられないドンは、研究所の自室に戻りながらも、ブツブツと独り言を繰り返していた。

「ダメダメダメ……僕には子供たちの母さんがいるんだぞ……でも、地味な研究者なんて耐えられないって言う女性よりも、同じ研究者のエリーの方が相性は良いよな……」

 ブツブツ……ブツブツ……。

 ドンッッ!!

 何か大きくて、岩にゴムの膜を張ったような物体に激突した。下を見ていたせいだ。

 自分が何に当たったのか……顔を上げると、そこには切創が痛々しい巨漢の黒人が見下ろしていた。

「ひ、ヒィィ‼」

「これはこれはドン主任失礼しました‼」

 ビシッと敬礼をするこの男は御存知ラング大佐。

「だ、誰です⁉」

「これはすみません!! 施設内の警備を確認に来たラング大佐です!!」

 声が大きすぎて、近くで聞いているはずなのに鼓膜が音を拾うのを拒絶している。

「ら、ラング大佐……すみません。前を見ていなくて……」

「大丈夫ですか⁉ かなりお疲れのようですが‼」

 ラング大佐が見た目よりも優しいだけではない。

 ドンは疲労によって顔がよりやつれ、無精ヒゲが生え、棺桶に入っていても黙って埋葬されてしまうそうなほど顔色が悪かった。

「だ、大丈夫です……誰よりも先に成果を上げなくちゃいけないので、眠る暇もないだけです」

 タフガイとは大抵相性が悪いドンは、さっさと近くの自室に戻りたかった。

 だが、ラング大佐は異常なまでに察しが悪い。

「それは大変ですね‼ そうだ‼ コレを差し上げましょう‼」

 カチャと差し出されたのは、拳銃だった。

 触ったことすらないドンには名前すら分からない銃だ。

「ルガーです‼ 年代物ですが、信頼性は抜群です‼」

「な、なんで……ぼ、僕に?」

「『競馬で勝ちたければ、自分の買った馬以外を打ち殺せばよい』一〇年ほど前にボス、レミー会長が自分に教えてくれた格言です‼ 自分の心に今でも深く突き刺さっている言葉です‼」

「は、はあ……」

「他にも『権力者は銃を持つべきだ。弾丸は演説よりも役に立つ』とも仰っておりました‼ ドン主任に今必要なのは休息と、銃なのです‼」

 戸惑っているドンの手に無理矢理ラング大佐がルガーを握らせる。思ってたよりも重いのだなと、ドンは思った。

「この『ウロボロスの輪』計画は会長の進退がかかっております‼ 絶対に成功させなければいけません‼ どうぞお使いください‼」

「いや……いつ使うんですか……」

 レミーを心から慕うラング大佐なりのサポートだ。

「タナベがやたらと口出ししているようですが、とうの会長はスペスちゃんと遊んでばかり――――実にうらやましい――――いや、実に危険です‼ だからもしも研究の邪魔になるような人物がいればコレを使ってください‼」

 遠回しにタナベをぶっ殺せと言っているが、ドンにそんな度胸があるようには見えない。ただ猛然と研究に打ち込んでいるだけなのだ。

「では自分はこれにて‼ 健闘をお祈りしております‼」

 常人の歩幅よりも遙かに大股で、ラング大佐は去って行った。

 残されたのはドンとルガーだけ。

 部屋に戻って鍵をかけたドンは、一応確認としてマガジンを見た。大戦で活躍したドイツの名銃の中にはキッチリ八発。

「本当に実弾が入ってる……だからタフガイは苦手なんだよ……」

 積もり積もっていた疲れが、ラング大佐との会談によって何倍にも増したような気分になる。

 ホコリだらけのソファに身体を沈めると、ドンは気絶したかのように首をかくんと垂らし、寝息を立てた。

 ……

 ……

 ……

「そうか……分かった。仮説が現実になる前に止めなくては……もう潮時だろう。『ウロボロスの輪』計画を破壊しろ。方法はお前に任せる……ああ。お前の復讐心は理解している。レミー肝いりのプロジェクトの幕を引くんだ」

 ピッ!

「誰と電話していたの?」

 ひょこっと現れたるは、私服姿のクララだ。淡いブルーの左肩が露出しているワンショルダーは彼氏からプレゼントされたもの。その彼氏が、買い物を中断してヒソヒソと電話をしていたので好奇心にあてられたのだった。

「なんでもないよ。仕事の電話」

 サミュエルは仕事着のままで来ていた。

 二人のカップルがいるのは首都で一番大きいショッピングモール。天井は空が見えるようにガラス張りになっており、多くの店舗が入っている。もちろん、毎日大賑わいだ。

「もうっ! デート中なんだから仕事は忘れて」

「いやいや……デートって言っても、施設の子供の誕生日を祝うための買い物でしょ?」

 クララが持っている買い物袋には、キラキラした飾り物や『HAPPY・BIRTHDAY!!』と書かれた垂れ幕が入っていた。

「そっちだってデートと仕事分けられていないじゃん?」

 少しばかり意地悪いことを言えるのも、二人の関係ゆえだ。

「だって……普段こんなおしゃれなところ来ないから」

「しょうがないなぁ……ほら」

 サミュエルが荷物をひったくる。

「荷物、持つから」

 素っ気ないが、彼なりの配慮だった。

「ありがとう。サミュエル」

 二人は次なる店へ向かおうとしていた。いかに仕事モードとはいえ、にこやかに笑う彼女を見ると、彼の冷たく凍った胸が、ポウッと温かくなるのだった。

 もうすぐ、レミーは破滅する。

 そうすれば、後に残った財産や組織は全て自分のもの……クララとの夢のような生活が待っている。

 そう思っていた。

「じゃあ誕生日の子が好きな……ウッ」

 その瞬間だった――――

 彼女は口を手でふさいだ。何事かとサミュエルが近づいて、苦しそうな彼女の顔を覗いた。

 彼の糸目が、これでもかと開く。

 彼女の白魚のような手の間から、赤い液体が滴り落ちている。

「ゴホッ……ゴホッゴホッ‼」

「クララ‼ 誰か救急車を‼」

 倒れそうになる彼女の身体を支えながら、サミュエルは必死に叫んだ。

 数分と待たずに救急車はやってきた。救命士によって担架に乗せられた彼女の手を、車の中でもサミュエルは離さなかった。

『レミー大学付属病院』

 一人部屋でベッドに横たわるクララは、いくらか落ち着いたようだった。

「サミュエル……ごめんね……デート」

「そんなことどうでもいい……君が無事なら……他になんにも」

 二人のもとに、白衣の医師が神妙な面持ちでやってくる。男の医師と、なぜかもうひとり女性の医者が部屋に入ってくる。

「サミュエル様、レミー会長には日頃から格別の……」

「いいから教えてくれ! 彼女の身に何があったんだ⁉」

 彼の剣幕には医者も驚いた。いつもはレミーの後ろでニコリと優しげに笑っている青年程度にしか思っていなかったからである。

「……では、まずは君から」

「産婦人科医の――――」

「自己紹介もいい!! 教えろ!!」

「まずはサミュエル様、クララさん……おめでとうございます」

 医師は一枚の写真を見せてきた。

 そこには、彼女のお腹の中で膝を抱えているようにして丸まっている小さな命があった。

「え……?」

「おめでとうございます。御懐妊です」

 産婦人科医は控えめに笑った。

 その理由を知るのが恐くてしかたなかった。人間が最も喜ぶべきこの瞬間に、天使の奏でる音色が聞こえてこない経緯を……知りたくなかった。

 だが、現実は非情にも襲いかかる。

「院長です……こんなことを言わなければいけないのは大変酷なのですが……」

 サミュエルとクララは、老年の院長を穴が空くほどに見つめていた。

「……ガンです」

 幸せの絶頂だったはずが、床が崩れ去り、延々と続く闇に落下していくような感覚。サミュエルの視界はグニャリと曲がり、頭から足にかけて冷たい槍で刺し貫かれたかのごとき恐怖。愛する人を失う恐怖だ。

「ステージ四の……末期の膵臓ガンです……」

 サミュエルは院長に飛びかかり、胸ぐらを掴んだ。

「治す方法は? あるんでしょう? 金ならいくらでも払う‼」

 心のどこかで「父親に似たな」とささやく声が聞こえた。

「……残念ながら」

 院長は首を横に振った。

 サミュエルは院長の膝までズルズル崩れ落ち、嗚咽を漏らした。

「膵臓は『沈黙の臓器』とも呼ばれています……発見が遅れたことを悔いてはいけません」

「サミュエル……」

 クララの呼びかけに辛うじて、サミュエルは彼女のもとへと戻り、再度手を握る。

 彼女は何かを決心しているかのようだった。

「……先生。お腹の子を無事に出産できる方法はあるんでしょうか?」

「クララ! ダメだ……君も助ける……必ず……」

「いいのサミュエル。先生、どうなんでしょうか?」

 医師にとってこれ以上言い辛い言葉はないだろう。

『母親の命を捨てれば、希望はある』

 人命を救うことに人生を捧げし者ゆえに、口に出すのははばかられた。

 一方で院長はなんとも楽観的なことを言うのだった。

「今は投薬を続けながらのお産も可能です。どうか悲しまないで」

 うなだれているサミュエルの肩に手をつく。

「それに……ガン治療の世界は日進月歩です。現状発見されていない治療法が、ある日、見つかるかもしれません……」

 この言葉に、病院に援助金をくれているレミーへの媚び諂いがなかったかと問われれば、嘘になる。いかに医者といえども、機材や薬がなければ――――金がなければ命を救えない。

 ゆえに医者としての言葉を選ぶことはできなかった。

「諦めてはなりません……そのために、我々も全力を尽くします……ですから」

「……二人にしてください」

「え……」

「二人にしろ……今すぐ!!」

 怒気に気圧されて、院長たちは出て行った。

 残された二人は、ただ、沈黙の中で手を握り合うことしかできない。

「サミュエル……」

「言わないで……聞きたくない……」

「ダメよ。聞いて。私よりも二人の子を守って?」

「そんな……君のいない人生なんて何の意味もない! 絶対に二人を救う方法がある!! 院長だってそう言っていたじゃないか……だから……諦めないで」

「サミュエル……」

「僕を……またひとりにしないで……お願いだから」

 彼女に寄りかかるように泣く彼の様子を表す言葉は、おそらく誰も知らない。絶望、という言葉すら稚拙に思える。ただただ、目から雫を鼻に伝わせ、ポタポタと彼女のベッドに染みを作っている。

 ――――ガバッ‼

 一時間たっぷりと悲しみの波に攫われていた彼が、顔を急に上げた。

「どんな犠牲を払っても……君を救ってみせるよ」

 その顔には見覚えがあった。町医者の血で染まった、古い記憶。

「サミュエル! 私を助けるために大切なものを捨てないで!」

 だが、もう彼には聞こえていない。

「大丈夫……今は休んで。孤児院には僕の部下を送るから安心して」

 彼は彼女の額にキスをした。

「毎日来るからね」

 部屋の外には追い出された院長が立っていた。

「サミュエル様……なんと言えば良いか……」

「……今から言うことを実行しろ。まず、クララの病状はレミー会長には言わないこと」

「ほ、本当に?」

 院長の疑問など意に介さずサミュエルは念仏のように続けるのだった。

「二つ目……この病院にいるガン患者全員を買う」

「か、買う?」

「三つ目‼ クララの身に何かが起こったら、お前を死んだ方がマシな責め苦に遭わせてやる‼ お前の妻もッッ‼ 子供もだッッ‼」

 ハアハアと息を整えながら、サミュエルは髪をかき上げて冷静な仮面を被る。

「……以上」

 院長の返事を聞かずに、サミュエルは病院を出て行った。そして、電話を、ショッピングモールで話していた相手に急いでかけ直した。

「状況が変わった。計画は続ける……お前の意見なんてどうでも……もしもし? もしもし⁉」

 サミュエルは焦りながらタクシーを拾い、研究所へと急がせる。

「クソッ……エリーめ!」

 一方その頃――――

 ラボには、エリーがひとりで立っていた。

「パパ……パパの仇は必ずとるからね……」

 エリーはキスしたときに密着して盗んだドンのIDカードを使い、ラボのコンピューターにアクセスしようとしていた。

 まさにそのとき……。

「エリー? な、何しているの?」

 ドンだ。一刻も早く研究を前進させるためにラボへ戻ってきたのだった。

 しかし、エリーが自分のカードを使っているのを見てしまえば、如何に好意的に考えても、彼女が自分の敵だということは疑いようもない事実だった。

「き、君は信用できると思ったのに……」

「こっちに来ないで!」

 彼女はカタカタとコードを打ち、エンターキーに人差し指を置く。

「近づいたらあなたの研究データは外部に流出するのと同時に、破壊されるわ!」

「よ、横取りしようとしていたんじゃないのか? ぼ、僕に何の恨みがあるんだい⁉」

「あなたにじゃないわ。レミー・サンタンという悪魔を破滅に追いやるために必要なことをやるだけよ!」

「れ、レミー会長?」

「そう! アメリカで判事をやっていた私の父は『レミー・インターナショナル社』の罪を追及しようとしていた。正義感の強い立派な父よ! それなのに……あの悪魔は他の判事たちへの見せしめとして父を殺し、裁判所の前に吊したの!」

 衝撃の過去に、ドンは声が出てこない。

「結局、あいつはこの南米に逃げてしまい、刑務所に入れることはできなくなってしまった……だから、私が罰を与えるの!」

「や……やめろ!!」

 ドンは慌てて白衣のポケットをまさぐり、ルガーを引っ張り出して頼りなく彼女へ向けた。両手で押さえているが、銃口が上下左右に震えている。

「僕にだって野望はある……この研究を手土産に、親権を奪われた子供たちを取り戻すんだ‼」

 ドンは唾を飛ばし、元々困り眉だったのをさらにハの字にする。

「そのためには何でもやってやる……き、君を殺すこともだ!!」

「私とあなたの胸に宿る思いが一緒? 馬鹿にしないで‼ 父を奪われた私がどれほど苦しんだか、理解できるわけもないわ‼」

 彼女の悲痛な顔には、亡き父親への愛情がありありと浮かんでいる。

 泣きぼくろの上を、ツゥっと涙が流れた。

「……あなたはいい人。本当なら助けてあげたい。本心よ……でもね、私は本気……例えこの場で心臓を撃たれても、レミー・サンタンに復讐する‼」

 ドンは指をトリガーにかける。

 そして目をつぶりながら、全力で指を引いた。

「うわぁぁぁぁ‼」

 カチッ

 カチッカチッ

「な、なんで……?」

「安全装置よ……あなたには人は殺せない」

「僕なら殺せる」

 ガカァァン‼

 ラボに響いた射撃音に、ドンは頭を抱えてうずくまる。

 ――――自分が撃たれたわけではないらしい。

 目をゆっくり開くと、エリーが糸の切れた人形のように力なく倒れていた。

 そんな彼女に歩み寄るのは、自分たちのボス。サミュエルその人だった。右手には拳銃が握られている。彼女を、まるで道具でも見るかのように、見下ろしていた。

「な、なんで……」

 地面に血だまりを作りながら、エリーは最後の力を振り絞って呟いた。

「悪いが……レミーへの復讐は先延ばしだ。お前は僕の命令を聞かなかった。だから、殺す」

 ガカァァン‼

 ガカァァン‼

 もう二発、サミュエルは冷徹にも虫の息のエリーに向かって放った。彼女がピクリともしなくなり、ラボには静寂が戻ってきた。

「……ドン主任」

 次は自分の番か⁉

 ドンは怯えていた。

「御安心を。あなたの研究を妨げる人間はもういません」

 彼の笑顔は場にそぐわない。むしろ、遺体のすぐ脇で笑みを浮かべている彼は、彼女の言葉を借りれば『悪魔』のように見える。

「あなたは今研究されているガンの特効薬を全力で研究してください」

「な、なんでそのことを知って……?」

 彼の糸目がうっすらと開く。

 光りがなく、どす黒い感情が宿っていた。

「些末な問題に答えている暇はありません。何でも仰ってください。被検体も、金も、優秀な人材でもなんでも用意いたしますので」

「は、はあ……」

「他の研究者たちのことはもう忘れていただいて構いません。今からあなたは『ウロボロスの輪』計画の最高幹部です。研究が成就した暁には報酬と、お子さんたちの親権を差し上げることを約束しましょう」

 その代わり……。

「急いでください。時間がない」

「で、でも……」

「これは決定事項です……僕に反抗しますか?」

 ドンは床に転がっているエリーをチラリと見た。

「いいえ。文句はありません……」

「では研究員たちにガンの特効薬の研究を最優先事項として命じておきます。他の専門家たちは用済みなので……そうだ。被検体にしちゃいましょう」

「ひ、被検体⁉」

「大丈夫。全部僕が責任を持ちます……分かりましたね?」

「は、はい!」

 エリーの遺体は研究所内部にある焼却炉で燃やされることとなった。彼女への罪の意識があったドンはサミュエルに「足を持ってください」と言われて拒否しようとしたが、彼の底知れない恐ろしき眼に見られると、仕方がないと手伝うことになるのだった。

 一緒に証拠を隠滅したことで、二人には犯罪者に散見される独特な主従関係が結ばれることとなった。

「これからは僕の命令で動いて……いいね?」

 ドンは頷いた。

 業火で焼かれるエリーを、彼は生涯忘れることはないだろう。


『第九章:悲願達成』


 スペスは真っ暗な部屋で目隠しをされたまま、歩いている。視覚が奪われているにもかかわらず、彼女はベッドや安楽椅子などの家具を避けていき、ついにはカーテンに行き着いた。カーテンは膨らんでおり、ワニ革の靴が見えている。

「みっけ」

「なんてこった! これでゼロ勝七敗だ‼」

 カーテンから現れたのはレミー・サンタン。

 彼が隠れていたカーテンをずらすと、強い西日が部屋の中を照らした。

 スペスは少し得意気に、目隠しをしたまま、

「これで分かるもん」

 舌をチロチロする。

「ええい……ピット器官とヤコブソン器官は反則じゃないか? それに、君が隠れる番になると、なぜか見つけることができない」

「どこにでも、入り込める」

 彼女は関節が簡単に外すことができる。どんなに狭いところへも、頭さえ通ればするりと潜るのだった。

 今彼らが何をやっているのか不思議に思われたであろう。

 何を隠そう『かくれんぼ』だ。

 レミーは部屋の明かりをつけて目隠しもせずに探すのだが、これが全く見つからない。彼が音を上げると、彼女はどこからともなくぬるりと現れるのであった。

 なぜかくれんぼなのか……ここ数日間は研究者たちが彼女の毒をよく採取に来るので、その度に悪くなる機嫌をレミー自らが回復させるのである。

 かくれんぼを蛇とするなど負けるに決まっている。だが、彼女がそれで満足して楽しげならば、それでよいのだ。

 それに彼女が笑うと――――レミーも嬉しい。

 サミュエルがなにやらこのところ忙しそうなので、その寂しさも埋めてくれる。

 まさにWin-Winだ。

 と――――

「お邪魔いたしますボス」

 警備のH・Y・A兵が入室してきた。

「お楽しみのところ失礼します。役員会がそろそろ始まります。ご準備を」

「もうそんな時間か? せめて一勝したいのだが……」

「もう役員の皆様が集まっておりますので……」

「しょうがあるまい。今日の役員会をサボるわけにはいかんからな」

 この日行われる役員会は『ウロボロスの輪』計画の途中経過発表の場だった。計画の責任者はレミー本人なので、出席しないわけにはいかない。

 兵士にスーツのシワを伸ばさせながら、レミーはスペスに言う。

「すまないね遊びの途中なのに……」

「いいの。お仕事がんばって。わたしは、この子と遊んでる」

 スペスは未だに部屋を文字通り牛耳っている牛を指さした。

 まさか牛に嫉妬する日が来ようとは……レミーも驚きだ。

「では、ボス」

「ご苦労。行くぞ」

 エレベーターを下り、会議室に向かう。

 兵士の言葉通り、役員たちはすでに集まり、ざわざわと話し合っていた。

 なにを噂しているのだろうか?

 彼らの目線の先には、サミュエルがいた。

 なるほど今の彼の様子を見れば、皆が疑問を持つのも致し方ない。髪は何週間も整えていないのかボサボサ。ヒゲも生え、トレードマークの糸目の下には濃いクマができている。

「……サミュエル、どうしたんだ?」

 会議室に入ってすぐ息子の異変に気がつき、レミーが質問した。

 だが、彼は隣にいるドン主任と話してばかりでレミーが到着したことにも気を回せなかった。むしろ、このコンマ一秒が無駄で、早く研究所に戻りたいと思っているようである。

「皆さん集まったようなので始めます」

 先を急ぐかのように早口だ。

 レミーも会長席に座り、動向を見守る。

「結論を先に言いますが『ウロボロスの輪』計画は素晴らしい成果をみせました」

 グッと拳を握って喜んだのはレミーとその派閥。

 勝利を確信したかのようだった。

 一方で、タナベを筆頭とした利己主義者たちは懐疑的だ。

「具体的に説明していただきたい」

 求められたので、ドン主任が答えた。サミュエルよりも劇的に痩せ、もはや過労死一歩手前の彼は、いつにも増して神経質そうだった。

「け、研究対象のスペスから採取した毒には、細胞を破壊する作用があります。その効果を逆手にとりタンパク質分解毒を抽出して……」

「専門用語はいい。結果を言え」

 レミーが言った。

「は、はいレミー会長……彼女の毒から作り出した薬には、ガン細胞だけをピンポイントに死滅させることができるのです」

 会議室は一気に沸き立った。喜ぶ者から怪しむ者まで、それぞれの反応を示した。

 パンッッ!

 サミュエルがイライラしながら手を叩く。

「それでは証拠を見せます。こちらを」

 会議室のスクリーンには、明らかに異常な瘤のあるマウスが写っていた。

「コレはガンを発症したマウスです。見ての通り、腫瘍が背中にありますね? 次に見せるのが、薬を投与して一週間後の様子です」

 マウスの背中はなだらかで、他のマウスと共に野菜を食んでいた。言われなければ、どれが実験体か分からないほどに、完治している。

 しかし、それでもまだ信じられない者がいる。

「臨床試験をしなければ、まだ成果があるとは言えないでは?」

「すでに臨床試験は行ってます」

 このサミュエルの言葉には、流石のレミーも耳を疑った。目を細め、息子を見る。

「……この短期間で臨床試験をしたのですか?」

「ええ。こちらがその映像です」

 映し出されたのは『レミー大学付属病院』の入院棟だった。カメラには初期段階から末期に至るまで様々な、ガンに苦しめられている患者が映っている。

「二〇名の被験者に、マウスに投与した薬と同じ物を注射しました」

「も、もちろん有志の方々ですよね?」

「ええ。とても協力的な方々ばかりで――――」

 ところが現在進行形でスクリーンに登場している『患者A』は得体の知れない注射に対して確かな拒否をしている。「やめてくれ」と叫び、腕を振って抵抗していた。だが、屈強な男たちによって手足を拘束され、腕に無理矢理に注射針を刺された……そうとしか見えない光景だった。

 あまりにも非人道的なやり方に、一同は驚愕する。

 皆が知っているサミュエルがこのようなことをするなど、あり得なかったからだ。

「効果はマウスと同様。ガン細胞は綺麗にいなくなり、健康体です。むしろ病人とは言えないほど、他の疾患も驚異的に回復しております」

 言葉を失った役員たち。

 映像が終わり、部屋に明かりが戻ったはずなのに、この部屋にはどんよりとした霧がかかっているかのような、そんな雰囲気だった。

 長い静寂――――

 パチパチパチ。

 拍手しているのは誰であろう?

 レミーだ。

「諸君。俺様の正しさが証明されたわけだ……薬として販売できる段階には?」

「倉庫一杯に備蓄しております」

「よし……記者会見の準備をしろ‼」

「しかし会長……もしもこの実験が世間に明らかになったら……」

「どうせどんな薬も最後にゃ金の力で治験しているんだ文句は言わせない。それに、ガンが消え去る薬に飛びつかない国がどこにある?」

 レミーは腕を拡げて会議室全体に聞こえるように大きな声で高らかに宣言した。

「『レミー・インターナショナル社』は製薬会社として生まれ変わる!!」

 その日の夜。

 レミーは全世界に向けて記者会見を開いた。いつもの真っ白なスーツに身を包み、隣には身だしなみを整えさせたサミュエルとドンが控えている。

「全世界の皆さん‼」

 会見は演技がかったレミーのひと言から始まった。

「私たち『レミー・インターナショナル社』は大きな誤解をされています。過去の負の遺産によって、今尚世界では弊社の名誉を毀損する声が多い――――しかし、知っての通り我が社は南米にて貧困撲滅運動を行い、国家の再建に携わりました」

「レミー会長。その慈善事業は『ただのカモフラージュに過ぎず、偽善事業だ』との声もありますが?」

 記者の鋭い質問も予想通り。

「ええ。世間の皆様からはそう思われているでしょう。しかし、こんな言葉があります『やらない善より、やる偽善』だとね。私たちがこの国の社会システムを再構築した功績は揺るがない事実です」

 だが、

「これでも皆様のご理解をいただけていない現状はとても残念でなりません。ですがそれも昨日までの話。我が社では製薬部門を設け、新薬の開発を行ってまいりました。その結果、これまでにない画期的な、ガンの特効薬を発明したのです‼」

 レミーが指を弾いた。

 すると会議で流れたのと同じマウスの実験と、大衆向けに編集された臨床試験の映像が記者たちの目を奪った。

 映像が終わる前にレミーはニッカリと笑って、腕をタイタニックの映画ばりに拡げた。

「この素晴らしきガンの特効薬は私自らが発見した『新種の毒蛇』から見つかりました。自然界の毒を薬にしている事例は数多く存在しています。その歴史に、新たにこの新薬『ウロボロス』が刻まれたのです! 名前の由来は蛇が自分の尾を噛んでいる『不変・不老不死』の象徴から拝借しました。

 敢えてスーツのボタンを開けているのは、首のタトゥーを見せつけるためだ。

「蛇と言えば皆様危なくて邪悪なイメージを持たれるかもしれませんが、WHO(世界保健機関)のシンボルには蛇が、使われています。杖に巻き付いた蛇……コレはギリシャ神話に登場する『治療の神・アスクレピオス』が手にしていたと言われております。アスクレピオスはあまりにも多くの人命を救ったので冥界の神ハデスに「人間を不滅の存在にしてしまうのではないか」と恐れられ、殺されてしまいました。ですがこの二一世紀にアスクレピオスは蘇ったのです‼ それでは功労者のご紹介を‼」

 ようやく終わったレミーの芝居臭い演説の後に、サミュエルとドンが記者の前へ進み出た。

「こちらはサミュエル取締役。本プロジェクトの指揮をしておりました」

 サミュエルはペコリと、頭を控えめに下げる。

「続いてドン主任研究員。彼は蛇の毒の成分からガン細胞を破壊するという仮説を現実の物にしました」

 フラッシュの多さに内心ビクビクしながら、ドンは挨拶をした。

「が、ガンは治る! 私が見つけた!!」

 言葉を覚えたての子供のような挨拶。しかし、自分の研究が実を結んだことによりアドレナリンが全開の彼は、興奮してこれしか言えないでいた。

 サミュエルもドンも、公式には知られていない存在だったゆえに、全てのカメラは二人に向けられた。レミーという巨大な影に隠れていた英雄二人。そのように感じたのだろう。

 引き際を悟ったレミーは、二人の少し後ろから、

「では、新薬に関するご質問は二人へどうぞ。私はあくまでも経営陣なので、会見はここまでとさせていただきます……ですが最期に」

 レミーはカメラの向こう側にいる、液晶を前にした人々へのメッセージを残した。

「やまない雨は、残念ながらあります。しかし私たちが傘を、あなたへ」

 微笑みを絶やすことなく、レミーは会場を去った。背後から聞こえる質疑応答に満足感を覚えながら――――

『画期的な新薬の発表に世界中は驚きと歓喜に溢れています。すでにレミー・インターナショナル社の株は最高値を記録し、世界から新薬購入のオファーがあることはまず間違いないでしょう』

 夕食を楽しみながらテレビを見るのは初めてだった。

 レミーは世界中が大騒ぎしているのが、面白くてしょうがないらしい。自分が世界の中心だと考えているナルシストならではの、感情の高ぶりである。

「お前は自慢の息子だサミュエル」

 食後にウイスキーのオンザロックを揺らしながら、レミーは言った。

「まさかこの短い期間で、このような成果を上げるとはな……『死の商人』も脱帽だよ」

 返事はない。

 サミュエルは記者団からの怒濤の質問攻めに遭い、酷く疲れていた。

「さっそく俺のスマホに古い友人たちから電話が来たよ。どうか売ってくれないか――――家内がガンなのだ――――などね。フンッ……俺様がアメリカからマークされた瞬間に逃げるようにして離れていった連中が、エサに群がる鯉のように……まあ、利益になるのであればどうだって良い」

 レミーは液晶画面から目を離して、サミュエルを見た。

「……レミー・インターナショナル社は製薬会社として再出発する。その会社の社長のイスにはお前が座る。クララは社長夫人。これで皆ハッピーエンドってわけだ」

 だが……、

「あの臨床試験はマズかったなぁサミュエル。俺が言えたことじゃないが、非人道的と言うやつだ。役員会議ではああ言ったが、隠蔽工作は必要だろう。患者とその家族に一生遊んで暮らせるだけの金を払う他あるまい」

 ここで黙ったままのサミュエルが口を開いた。

「……もしくは殺します」

「殺す?」

 レミーがグラスを机に、少しだけ乱暴に、置いた。

 ゴンッッ。

「……慣れないことはしない方が身のためだぞサミュエル。人間の口は金で閉ざすことができるんだ。血は出さないに超したことはない」

 レミーは悪人の先輩として語る。

「人間を殺すなんてこたぁガキでもできる。銃・毒・ナイフ・水・そこら辺に落っこちている石――――どれでも殺せる。世界には、まるで人殺しが自然の摂理かのごとく殺人の道具で満ちている。しかし、問題はその後始末だ……遺体はどうする? いなくなった人間を探す家族は? 死亡届は?」

「……僕に教えてよお父さん」

「お前に教えるつもりはない。そんなことしなくて良いんだ……お前は光りの道を歩め……裏の仕事は俺に任せろ」

 レミーは立ち上がり、サミュエルの肩をポンと叩いた。

「輝かしい未来が待っているぞサミュエル……少し痩せたか?」

 触った感触が皮と骨しかない。

「……研究で忙しくて」

「そうだろうな。まあ心配するな。今夜からグッスリと眠ることができるぞ」

 レミーはウイスキーを一気に飲み干す。喉の奥でアルコールの焼けるような熱さを感じていた。

「明日以降は電話を受け取るスタッフを一〇倍……いや二〇倍に増やす。世界中が『ウロボロス』を欲しがるだろう」

 だが、レミーはその後を計算していた。

「しかし、個人に売るのはダメだ。新薬ゆえに国ごとに臨床試験をクリアさせなければいけない――――と表向きには言っておく。裏では、明日にでも買いたい国家へ薬をジャンジャン輸出するんだ。欲する世論の高まりを受けて、渋る政府はいなくなり、いずれ医者が処方するようになる。もう一度言うが、その前に売るのだぞ? 社外に情報が出た今……今なのだ……チャンスは」

 レミーは知っていた。

「『ウロボロス』はガンの特効薬……ガン細胞を死滅させる薬だが、世の中の製薬会社が金儲けのためにやっているような、長期間処方されるような薬ではない。一度で充分だからだ。となると儲けるタイミングは今しかない――――この機を逃せば、他の会社が似たような薬を製造し始める可能性がある。そうなってからでは、いかに『ウロボロス』が効き目抜群でも意味がない」

 核爆弾が市場に出回らない理由の一番が、今レミーが語った内容だ。

 一発使えば世界はたちまち壊滅する。そうなれば需要と供給のバランスが完全に崩れてしまい、武器商人は儲けることができない。

『ウロボロス』は言ってみれば、ガン治療の核爆弾。

 一度で完治する優れものは、やがて需要が薄れてしまう。

「ガンという病気が恐ろしいという認識が蔓延している現在が、最も『ウロボロス』の価値を高めてくれる。いいか? 全世界に同時多発的に売るのだ。さすれば、会社のイメージは回復し、新しい事業に着手する資金も調達できる」

 金のことしか頭にないレミーの話にはついて行けないサミュエルは、話題を少し変えた。

「……アメリカには?」

「アメリカ……フンッ……忌々しいアメリカ合衆国様か。売ってやれ。もちろん、レミー・インターナショナル社への『テロ支援組織』というレッテルを外すという条件付きで、だ」

 勝利の美酒に酔っているレミーは、アメリカへの積年の恨みも霞んで見えている。

「アメリカだけに売らない、なんてことをしたら我が社をバッシングするのは火を見るよりも明らかだ――――俺たちの利益にはならん。売ってしまえ」

「分かりましたお父さん」

「明日から世界のガンへ対する認識が一変するだろう。チャンスを逃すなよ?」

「はい。お父さん」

 疲弊と復讐心の狭間で彷徨っているサミュエルは「お父さん」と話すロボットのようだった。そんな彼の様子に気がつかないレミーではない。

「……それはそうと、クララは元気かね?」

 彼女の名前が出て、仮面が外れてしまいそうになった。身体を硬直させ、額から汗が一本、ツゥッと垂れた。それを、レミーは目で追っていた。

「も……もちろん元気だよ。どうしてそんなことを?」

「いいや……ちょっと小耳に挟んだんだが、孤児院の経営者が変わったとか……そんなこと聞いていないが、彼女は今現在なにをしているのかね?」

 返答までに数秒。

「べ、勉強だよ。彼女経営の学位が欲しいって大学受験をしようとしているんだ」

「彼女に失礼なことだが、読み書きが怪しいのに、大学?」

「ず、ずっと文字の練習は僕が教えていたから……」

 レミーは目を細めて、サミュエルの真っ赤な嘘を見通した。

 だが、あえて触れることはしなかった。彼女への愛が真の物だと知っているからこそ、二人の間に起こった出来事にはなるべく干渉しない。

「そうか……学費は俺が出そうか?」

「い、いいよ僕が払うから」

「……分かった。明日クララと会うのだっけか?」

 サミュエルがコクリと頷いた。

「ならば……よろしくと。それと勉強をがんばってくれと言っておいてくれ。なぁに、自分の名前さえ書ければ、俺様のコネクションでこの国一番の大学に入れてやる」

「ありがとう……お父さん」

「おやすみサミュエル……輝かしい将来に」

 グラスを空に掲げて乾杯の仕草をすると、レミーは夕食の場を離れた。

 息の詰まる想いをしていたサミュエルは、彼の足音が完全に消えたのを確認すると、用意されていた『金目鯛の西京焼き』を、皿ごと床に叩きつけた。

 ガシャァン‼

 それだけでは飽き足らず、高価なワインの入ったグラスを、壁へ投げつける。

 バリィィン‼

「ハァハァ……クソッ」

「失礼します……どういうことですサミュエル様?」

 背中で感じるのは、利己主義の権化、アレクセイ・タナベだ。

「一定のレベルまで達したら、成功間近に計画を失敗させると……そういう作戦だったでしょう」

 タナベがゆっくりとサミュエルに近づいた。

「せっかく会長に恨みを持つ研究者を見つけ、送り込んだのに……これでは会長の勝ち逃げですよ……」

 エリーを殺害したのがサミュエル自身だということを、タナベは知らない。

「今回の成功によって、私の派閥からも会長派へ鞍替えする幹部は多いはず……一体どうするおつもり――――」

 サミュエルが銀のフォークでタナベの肩を刺した。彼のスーツには血の染みができ、苦痛で顔が歪む。

「がぁっ‼」

「僕が……僕が一番苦しんでいるんだ‼」

 レミーの勝ち誇った顔……アレを見ただけで、サミュエルの中にある復讐心がガソリンをぶちまけたほどに燃え盛った。火柱のようなその感情を殺して、この数週間、研究に没頭していたのだ。

 悔しい……。

 苦しい……。

 だが、他に方法はない。

「お前に何が分かる……金の亡者め‼」

「さ、サミュエル様……」

「もっといいやり方があった? 完璧な作戦があった⁉ そんなもの知るか‼」

 サミュエルはタナベの胸ぐらを鷲掴みし、揺さぶる。

「時間が……ないんだよ……僕と彼女には時間が……」

「クララ嬢のことを仰っているので? それはどういう……」

「言いたくもない……」

 タナベは肩の痛みと目の前にある迫力満点のサミュエルを見て、彼の復讐心が未だに消えていないことを理解した。であれば、なぜ事前に考え抜いた作戦を不意にしてしまったのか……タナベも、馬鹿ではない。

 ハッと気がつき、痛みも忘れて問う。

「まさか……クララ嬢が……?」

「……」

「そ、それならばなんで言ってくださらないのですか⁉」

「……言ったら、お前は『ウロボロス』の完成に協力したか?」

 すぐに断言できない時点で、答えは決まっていた。

 サミュエルとタナベの関係は、あくまでも利害の一致。そこには友情も、忠誠心もない。あるのはシビアで冷え切った金の関係だけだ。

「と、ともかく『ウロボロス』の完成によって我々は一から作戦を練り上げる必要があるとだけ……」

「……出て行け……出て行けッッ‼」

 サミュエルの怒号には、己自身への怒りも内紛されていた。

 タナベが消えた後も、感情は高ぶったまま。

 しかし……明日のことに集中すれば、気が紛れる。

「待っててクララ……助けるからね……」

 力なく、誰に聞こえるでもなく、彼の言葉は空に消えていった。

 一方その頃――――

「いや、どうすりゃいいんだ⁉」

 勝者であるはずのレミーが、自室で困惑していた。

 半日ぶりに帰ってみると、スペスが全裸で待っていた。彼女にすっかり慣れているレミーも裸には耐性がない。見てはいけないと目を手で覆うが、彼女はそんなことを知らない。

「手伝って」

 なにを⁉

 指の間から少しだけ彼女の身体を見る。

 マネキンのように完璧なプロポーションで、ちょうど良い大きさの乳房、銀髪が映える小麦色の肌は……おや? なにやら古い塗装のように剥がれている箇所が。

「脱皮」

「お、お前は脱皮するのか!?」

「当たり前」

 そうか蛇だものな……当然だ。

「だ、だったら壁や地面に擦りつけて取ればいい……というか君には手足があるだろう!」

「ここカサカサで取りにくい……だから手伝って?」

「湿度が充分じゃないってことか……クソッ」

 こうなれば致し方ない。兵士にやってもらおうとすれば、確実に彼女は抵抗する。

 決心して、レミーは半目にしながら彼女の手を引いて浴室へと向かった。

 ……

 ……

 ……

「ど、どうかね?」

「イイ感じ」

 レミーはスペスに暖かいシャワーと湯船を用意した。お湯によって、身体の皮膚はふやけていい塩梅になる。通常の蛇を飼育していたら、霧吹きなどで表面を湿らす程度で良いのだが、蛇人間には通用しない。

 日焼け痕を爪で剥がす夏休み明けの子供のように、スペスは皮を千切っては適当に投げていく。

 その間レミーは大変だった。スーツはびしょ濡れで、会見用にワックスを塗った革靴もずぶ濡れ。おまけに裸の女性と二人きり。

(落ち着けレミー落ち着け落ち着けッッ‼ 今日お前は勝利したんだぞ‼ そんなお前が小娘の裸体で狼狽えるんじゃない……)

 しかし、裸体を見ると身体の中がむずむずしてくる。

(クソッ……そうだ、蛇の皮と言えば、ジャパニーズは金運が上がると信じて財布に入れると聞いたな……スペスの皮でも効果はあるのだろうか?)

 こんなどうでも良いことで思考を満たし、余計なことを考えないようにしていた。

 だが、彼女は一筋縄ではいかない。

「……手伝って」

「充分、現在進行中で手伝っているつもりだが?」

「背中、取れない」

 彼女の腕は関節を外して伸ばすことができる。しかし、薄皮を剥ぐという繊細な動きまではできないらしい。

「お、俺にやれと?」

「そう。早く」

「……しょうがあるまい」

 観念してレミーは彼女のめくれている皮を摘まみ、ゆっくりと慎重に剥がした。

「ン……」

 ……なぜか甘い声が漏れ出ている。

「ど、どうした? 痛かったか!?」

「違う……誰かにしてもらうと、少し、変な気分になる」

 変な気分になられて困るのは俺なのだが……レミーは続けて肩甲骨の辺りを剥がす。

「アッ……」

「……集中しているので口を塞いでいてもらえるかなスペス」

「分かってるけど……ンンッッ」

 ……こうなったら破れかぶれだ。

「大きな皮を取るぞ? 準備はいいか?」

「うん……」

 ビィィ!

「アァッッ‼」

 打ち上げられた魚のようにビクンと身体を反らすスペス。まるで絶頂したかのような喘ぎ声。

 レミーのマグナムも、反応せずにはいられなかった。

 しかし、悲しいかなこの男は筋金入りの童貞。女性との甘いひと時の作り方など知らない。

 生殺しのようなこの攻防は、数十分続いた――――

「スッキリした」

「そうかいそうかい……」

 自慢の真鍮で作ったバスタブや、凝った造りのタイルには彼女の古い皮膚が散乱している。そしてその主たるレミーは、まるで戦場帰りの兵士さながらに疲れ切っていた。それと反比例するようにスペスはツヤツヤ活き活きしている。

「ねえ! かくれんぼの続きしない?」

 体温が高くなりテンションも高くなった彼女が言う。

「申し訳ないが俺にはそんな体力残っていないよ……」

 早く服を着てくれと、いつもの白いワンピースを渡す。

 渋々袖を通すスペス。

 ……ワンピースが昨晩までよりもわずかに、こんもりと山を作っている。

 端的に言えば、少し胸が大きくなっていた。

「脱皮か……なるほどね」

 自分が会見で言ったように、蛇は脱皮をすることで太古の昔から『不変・再生』の象徴だった。そのことを失念していた自分に、ため息が出てしまう。

 そのときだった――――

 プロジェクトが成功した今、彼女を丁重に扱った理由は何だ? そんな疑問が湧いてきた。『ウロボロスの輪』の成就のために、彼女のご機嫌を取り、優しく接してきた。その必要性は、もうない。

(俺はどうするつもりだった……?)

 思い出せない。つい数ヶ月前のことなのに、あの穴蔵で彼女を新プロジェクトの柱にしようと決めたとき、その後彼女をどうしようと考えていた?

 確かにプランはあった。彼女は危険だと考えたから、兵士たちには威力が高い弾丸を用意させ、いざという時に備えていた。

 ドンによれば、もはや彼女の毒を採取する必要はないとのことだった……ならば彼女は用済みなはず。

 だが、彼の中には明日も明後日も、数ヶ月後も今日の昼間のように彼女と遊ぶ慎ましくも楽しい日々が続くものだという想いがあった。その感情は、言葉にしてしまったらあまりにも陳腐だが、心で考えれば考えるほど答えの出ない『あの言葉』だ。

 彼には可能だった。

 今すぐに外に待機している兵士たちに命じて、彼女を連行させ、鋼鉄の鎖でもって自由を奪うことも。世界へ『世紀の発見』として見世物にすることも。

 しかし、彼が口にしたのは、

「さあ、もう寝よう。クタクタだ」

「うん!」

 ベッドに自分が横になる前に潜り込み、ちゃんとレミーが眠るためのスペースを空けてくれている彼女を、鎖で繋ぐことなどできようもない。

 レミーはサミュエルの『偽りの愛』に慣れすぎていたのだろう。

 こんなに当たり前に自分を慕ってくれる彼女がいない生活は、考えられなかった。彼女との純粋で無垢な信頼関係は、金でも脅しでも手に入らないのだ。

「おやすみ……スペス」

 すっかり定着した、スペスの絹のように滑らかな髪を眠る前にかき上げる習慣。

「おやすみなさい」

 二人は平和に眠った。

 その後起こることなど、想像だにすることもなく――――


『第十章:求めよさらば与えられん』


『ウロボロス』はレミーの予測通り、世界中が欲していた。先進国から発展途上国まで、あらゆる国が、様々なルートを使ってレミー・インターナショナル社にコンタクトを取ったのだった。

 レミーは正しかった。研究所の倉庫に備蓄されていた『ウロボロス』は、数日で消えてしまった。全世界に『ウロボロス』が行き渡ったのである。

 社内の風紀は一気にレミーに向かってなびいた。彼の発見が、会社の起爆剤となり、製薬企業としての道を歩めるからだ。タナベは肩身が狭そうに、毎日本社へ出社している。

 数週間後――――

 レミー・インターナショナル社製薬部門子会社の研究所所長に就任したドンは、多額の報酬と好待遇を受けていた。

 なのだが――――

「忘れようとしても忘れられない……」

 研究員たち、すなわちかつての同僚たちを使い、人体実験をした過去は彼から離れることがなかった。自分の仮説を証明するために、彼らには様々な方法で試験段階の『ウロボロス』を投与していた。食事に混ぜたり、身体の自由を奪って注射をしたりと……まあ色々なやり方で、だ。

 実験途中で半数が死に、そして生き残ったもう半分は未だに研究所の地下に作られた牢獄のような部屋に閉じ込められている。データを収集すると、サミュエルはドンに彼ら彼女らを『廃棄』せよと命じた。

 そんなことできるわけもない。

 ドンはやはり人が殺せなかった。

 しかし、命令は命令だ。なのでずるいことは承知の上で彼らを放棄した。食事も水も、何も与えることなく、臭いものに蓋をしたのである。飢え死にしてくれれば、自分の任務は完了……なんて割り切れるドンではない。

「パパは……こんなことをしたかったわけじゃないんだ……」

 ロケットに向かってそうささやく。

 サミュエルは約束を守ってくれた。

 来週には、子供たちがドンのもとへ帰ってくる予定だ。なので家族の再会を特別なものにしようと準備していた。誕生日プレゼントもまともにやれなかった昔とは違う。今や彼は所長。息子が「おもちゃが欲しい」と言えば全ての棚を、娘が「あの服が好き」と言えば端から端まで買い占めてあげることができるのだ。

 だが、幸せに身を委ねていると、ふとエリーの声が聞こえる時がある。

「あなたに人殺しは無理よ」

 耳を塞ごうがどうしようが聞こえてくる。

 声を振り切るために、今日も彼は仕事に励む。

 とは言っても、何を研究するでもないのだ。彼は『ウロボロス』を製作した段階でもう役割を終えている。レミー流に言えば「早めの隠居生活」を送ればいい。子供たちと遊び、家庭を再建すればいいのだ。

「ドン所長。おはようございます」

「お、おはよう……」

 部下たちなど持ったこともないので、何を言ったらいいのか分からない。

 そして自分が没頭すべき研究もない。

 彼は大切なものを失った気分なのだ。人間が、元来持っているはずの、大切なものを。

「……誰かに命じればいいか? いやいやそんなことしたらバレてしまう……やっぱり自分で確かめるしかないよな」

 自分しか持っていない(経験からポケットにではなく、首からぶら下げるようにした)カードキーで研究所の暗部、地下へと静かに入っていった。

 二ヶ月――――よもや誰も生き残ってはいまい。

 湿った地下の廊下を歩き、実験対象を観察するための部屋に向かう。

 すると――――

「まさか……!」

 ドンは目を見張った。

 白衣を身に纏った懐かしき同僚たちが、元気に話し合っている。笑顔を見せ、手を叩いて笑い合ったりもしていた。

 そんなはずはない……幻でも見ているのではないだろうか……?

 どんなに肥満体型の人間でも、水を与えなければ一週間ともたない。

 にもかかわらず……

「どうなってるんだ……?」

 ガラス越しに、ドンが呟く。

 そのわずかな声を聞いたのか、全員が振り向いた。

 そして……

 チロチロ――――

 一方『レミー大学付属病院』には、花束を持ったサミュエルが病室に向かっていた。そしてちょうど、部屋から出てきた院長とばったり対面した。

「ああ院長。こんにちは」

 自らの病院を悪魔の実験場にした青年とは思えない天使のような笑みに、院長は怯んだ。

「さ、サミュエル様……こんにちは」

「クララの様子は?」

「まさに奇跡が起こったような回復ぶりで……『ウロボロス』によりガン細胞は綺麗さっぱり、死滅しました」

「子供は?」

「それはもちろん。順調です……そろそろ胎動を感じる頃合いかと……」

「そうですか。何から何までありがとうございます」

「あの……例の病棟はいかがすれば……?」

 院長のひと言で、サミュエルは人間が変わったかのごとく冷酷な表情を見せた。

「実験体たちはどんな状態ですか?」

「はい。皆ガン以外の疾患も治り、健康そのもの……ただ最近妙なことに、実験に非協力的だった患者も他の患者と良好な関係を築いているようで……そう。まるで数十年ぶりに再会した旧友のように……」

「あっそう……全員死んだことにでもしてください」

「いや、そういうわけには……」

「ご理解いただけないようでしたのでもう一度だけ言いますね。死んだことにしろ。コレは命令だ」

「……かしこまりました」

 院長が足早に去って行く。

 フゥと息を整え、病室のドアを開ける。

 愛しき人に会うのに、恐い顔はしたくない。

「そこの美人さん。よかったら、お花でもどうですか?」

「まあサミュエル……」

 クララはベッドから起き上がり、窓から差し込む日光を浴びていた。

「何してるの?」

 花瓶に新しい花を入れながらサミュエルは質問した。

「日光浴。暖かくて、気持ちいいの」

「僕には熱いくらいだけどなあ」

 クララの隣に立ち、まぶしそうに太陽を見る。

「フフッ……テレビ見たわ。あなた英雄ね」

「そんな、僕は君を助けたかっただけだよ」

 それと、

「僕らの赤ちゃんも」

 サミュエルはクララの後ろから手を伸ばし、彼女の腹部を優しく触った。院長の言葉通り、お腹が少し張って順調そうだ。

「会うのが楽しみだ……」

「ねえ……そろそろレミーさんにお話ししない?」

 サミュエルは黙ったまま、恋人の肩を抱きしめる。

「はぁ……どうしてこんな幸せなときにアイツの名前を出すの?」

「だって、孫ができたら誰だって嬉しいんじゃない?」

「あのクソ野郎を喜ばすってこと?」

「コラ……赤ちゃんに聞こえちゃうでしょ? 汚い言葉はダメ!」

「……レミーを許すなんてこと、できるわけないじゃん」

 そんなことをしたら、自分の半生はどうなる? 復讐のために生きてきた。道徳観念も感情もかなぐり捨てて、ここまでやってきた。

「僕は何のために頑張ったことになるの?」

 苦悩する恋人に、クララは優しく言った。

「この子のために……それじゃあダメなの?」

「……」

「この子は復讐心の産物? 私たちの愛は、ニセモノ?」

「そんなわけないだろう……」

「だったらいいじゃない。もう偽物のあなたは捨てて。立派なお父さんになってもらわなくちゃ」

「……レミーにはなんて言う?」

「それはあなたの心が教えてくれるわ。いい? 彼を許さなくたって、憎んだって、あの人がいなかったら今はないの。そのことは感謝しなきゃ」

「……本当、お人好しだね君は」

「この子も、お人好しになるわよきっと」

 クララは振り返り、彼の頬にキスをした。

「……愛してるわ」

「分かってるって……」

「食べちゃいたいくらい」

「大げさだよ……」

 サミュエルは決心を固めて、部屋を出た。

 クララは日光を全身に浴びながら、大きなあくびをする。

 チロチロ――――

 一方その頃。

「違う違う! 社長の椅子はそこだ! だから、そこじゃあフロアが見れないじゃないか!」

 レミーがうるさく指示を飛ばしているのは、新会社『サミュエル製薬会社』のオフィスだ。とは言っても『レミー・インターナショナル社』の本社ビルの中にある。元々はレミーが使っていた部屋を大規模にくり貫き、ワンフロアをオフィスに改造中なのだった。

「ボス‼ コレはどこにおけばいいでしょうか⁉」

「L・J手伝ってもらえるのは有り難いんだがな、オフィスになんで固定式のミニガンなぞ置くのだ?」

「有事の際には役立つからであります‼」

 工事を行う業者に混じってラング大佐も(方向性はともかく)はりきっていた。

「いいか? これからはボスは俺じゃない。サミュエルだ。リトル・ボスではないぞ?」

「ではボスは今後なんてお呼びしたらいいのですか⁉」

「そうだな……シニア・ボスじゃあ格好悪いし……どうしたものか……おおっ! 噂をすれば影、だな!」

 エレベーターを降りたサミュエルに、レミーはいつものごとく腕を拡げて迎えた。

「どうだ! ここがお前のオフィスだ」

「ちょっと広すぎませんかお父さん……」

「何を言ってるんだ。会社のボスに相応しい部屋にしているだけだ」

「ボス……?」

「ああ」

 レミーがサミュエルの肩を叩く。

「お前がボスだ」

「ちょ、聞いてませんでしたよ……」

「なぜなら言っていないからだ。当然だな」

「僕が……レミー・インターナショナル社の?」

「安心しろ会長には相変わらず俺がふんぞり返っておく。世間のバッシングなどは俺に向かうように仕向けるんだ。お前は『サミュエル製薬会社』の代表取締役社長と言うわけだ」

「……お父さん」

 神妙な顔つきの息子に、レミーは疑問を抱く。

「どうした?」

「皆さん! 会長と二人きりにしてくれませんか!?」

 サミュエルのこの申し出に、ラング大佐を含めた改装業者は部屋を後にした。

 二人の間に流れる絶妙な緊張感。

 レミーは、来るときが来たのだな……と直感で察知した。

「お父さんに言わなきゃいけないことがあるんだ……」

「待ってくれ……俺からも言わなきゃいけないことがある……」

「なに?」

「……殺すならば、せめて惨たらしくないように一発で終わらしてくれないか?」

 意を決したように、レミーは目をつむる。

 一方のサミュエルは困惑した。

 鳩が豆鉄砲を食ったようだ。

 彼のこのような顔は、レミーも見たことがない。

「ま、まさか気がついていたのか……?」

「何についてだ? お前の両親を殺したミサイルを俺が作ったことか? お前が復讐のために、俺に気に入られようと努力してきたことか? 全部知っていたさ」

「な、ならなんで僕をそのままにしたの?」

「それは……その……時間が」

 レミーは威厳も迫力もなく、モニョモニョと小声で、

「一緒にいる時間が解決してくれることを期待していたんだ……無理かもしれないとは思っていたが……」

 そんなレミーに、初めてサミュエルは怒り心頭で声を荒げる。

「はぁ⁉ 虫が良すぎるし都合良く考えすぎだろ‼」

「それ以外に……その……償う手段が思いつかなかったんだ」

「で? いざこのときが来たら『潔く一発で』なんて言うの⁉」

「俺だって死に方くらい選んでも良いじゃないか……まあ、どうしても俺様を苦しめたいのであれば、一時間くらいなら拷問に付き合ってやってもいい……」

 塩をふりかけたナメクジのようになってしまったレミーを前に、サミュエルの内に秘めていた恨みに変化が生じた。

「……このクソ野郎!!」

 思い切り、グーで殴った。

 レミーは床に転がり、血の唾を吐いた。

「……これで終わりか?」

「ふざけるなよ……人がどんだけ必死に隠してきたか……クソ親父!!」

 今度はスニーカーの底で蹴り飛ばされた。

 どうやら鼻が折れたらしい。顔の中心に焼け付くような痛みが生じる。

「……痛ってぇな……だが『親父』と言ってくれたのはうれしかったぞ」

「この……この……」

 肩で息をしながら、サミュエルは哀れなレミーを見下ろしていた。

 クララのひと言がなかったら、恐らく腰に差している銃で殺していたに違いない。だが、産まれてくる子供に「人殺しの子」というレッテルは貼りたくなかった。

「……クララと話し合ったんだ」

「そうか」

「彼女……末期のガンで……」

「だろうと思った。『ウロボロス』完成の瞬間にピンときたよ」

「それでも、あんたのことを、許せって……」

「そういう女性だな彼女は……」

 よっこいしょ、とレミーは立ち上がった。

「……で? 俺をどうする?」

「……やっぱり許してやったりしない! でも、殺してあげたりもしない!」

「どういうことだ?」

「孫が産まれるんだ。その子のためにこれからは悪事をしないように、清く正しく生きるんだ……それが、あんたの償いだ」

「……ハハッ……悪人にとってそれは、苦しい償いだな」

 冗談めかしながら、レミーはサミュエルに近づく。鼻は曲がっているし、インプラントの歯も欠けてしまっているが、悪くない気持ちだ。

「では、これでまた親子か?」

「そうだ。息子から恨まれ続けて、そして死ぬんだな」

「いい考えだ。長く……苦しい罰だな」

 レミーはニヤリと笑った。

 サミュエルも、笑った。

 そして、二人はハグを――――

「お芝居はここまでにしていただこう」

 邪魔な声がする。

 誰だと思えば、黒いスーツに身を包んで銃を持っているアレクセイ・タナベだった。

「……親子水入らずを邪魔するとは、よほどのことらしい」

 レミーは冷静だった。

「どうする気だ? それで俺を殺すのか?」

「それもいいアイディアだが、あんたには会社の罪全てを被ってもらう役割がある」

「会社の罪?」

「ああ。『ウロボロス』の人体実験を、世間に公表してやる。そしたらあんたは終わりだ」

「待て、僕はそんなことを命じてはいない」

「黙れ」

 タナベはサミュエルにも銃を突きつけた。

「私はもうあなたの部下じゃない……残念でしたよ。あなたを担ぎ上げていればいずれ会社は崩壊するだろうと思っていましたのに」

「で? そのあとお前はどうする? 就職活動でもするのか?」

 レミーが銃口を自分へ向けさせるためにわざと茶化した。

 効果は抜群。こっちを向いた。

「私を見くびってもらっては困る。すでに余生を穏やかに暮らすだけの資金は貯めているさ。あとはアメリカ政府にあんたを渡せば、証人保護プログラムで別人として新しい人生をスタートできる」

 そんな話は聞いていないサミュエルは口を開こうとしたが、目でレミーが止めた。

「ほう? この俺様を帝国からアメリカに引き渡そうってのか? どうやって?」

「ハッ! 簡単さ!」

 タナベが言い終わる前に、エレベーターが開き拘束されたラング大佐が兵士に連れられてきた。

「お前たち‼ 何をしている‼」

 ラング大佐は抵抗しているが、同時に信じ切っていた自分の部下に裏切られたことへの混乱が見て取れた。

 兵士たちはM四カービンを今にでもレミーにぶっ放しそうになっている。

「彼らはあなたが島で犬死にさせたH・Y・Aアルファ部隊の残党です」

 アルファ部隊の隊長が恨みを込めてレミーを睨む。

「ラング大佐申し訳ありません。ですが、部下たちを召使いのようにこき使い、その上死なせたコイツには復讐しないと気が済みません‼」

 彼らは打倒レミーを掲げている。それをタナベが利用していた。

「アメリカの刑務所はさぞや居心地の良い場所でしょう。レミー・サンタンの老後にはピッタリだ」

 タナベが続ける。

「ラング大佐の無線を使い、会長・大佐・サミュエル取締役は指揮不能と命令しておいた。あとは研究所にある実験データをもらい、このクソみたいな国から脱出するだけ」

 勝利を確信したタナベが、眼鏡を光らせて高らかに笑った。

「なんだかんだ言っても、実験データが狙いか……?」

 サミュエルが言った。

「ああ。『ウロボロス』のデータは世界中が求めている。レミー会長……あなた風に言えば『需要と供給』ですよ」

 レミーは冷静に、そして気兼ねなくその場を見守っていた。

 タナベは諦念からそうしているのだろうと思っていたが、違う。

 やがてタナベが無線を取り出した。

「こちらタナベ。実験データは手に入ったか?」

 しかし、応答がない。

 タナベの表情に、不安がチラリと浮かんだ。

「アルファチーム応答せよ……アルファチームどうぞ‼」

『ジー……ジジッ』

「アルファチーム……誰か応答するんだ今すぐ‼」

 ダメだ……耐えきれない……

 レミーは腹を抱えて笑った。

「ブッ……ギャハハハハハッッ‼」

 それはもうベテラン漫才師の最高のパフォーマンスを眼前で披露されたかのごとく、咳き込むほど笑う。

「ハハハ……ハァ~本当にどいつもこいつも……貴様ら『悪』の純度が足りてねえンだよ」

 その言葉はサミュエルにも向けられていた。

「誰かをアテにしたり演技したり――――社会をねじ曲げようとする『悪』が全くねえな」

「はぁ⁉」

「口先で『殺す』だの『新しい人生』だの……悪人の自覚がねえってンだ! 善は急げ? 悪はもっと急げ‼ 悪事のチャンスは逃げていく‼ 法律・警察・社会の目――――世間皆様の平和を害する俺たちに、時間があると思うんじゃねえ‼」

 タナベにツカツカと歩み寄り、

「洒落た言葉並べて悪人ぶるんじゃねえよ小僧……これが本当の悪党だクソ野郎」

 レミーは五十八歳とは思えぬほどの早さでタナベに襲いかかった。もはやそれは人間同士の戦いというよりも、飢えた獣が覆い被さるような、そのような瞬間だった。

「グッアアアアア‼」

 タナベの悲痛な叫び声が、がらんどうのオフィスにこだまする。

 レミーの唇には、根元から引き千切られた、タナベの耳がはみ出ていた。

 そして……、

 ゴクン……ッッ!

「最高に旨いぜ人の血は……どうだ? 目が覚めたかタナベ?」

 スペスの存在により封印されていた、レミーの異常かつ純度の高いサイコパスな一面が、タナベの矮小な悪事によって蘇ったのだった。

 格の違いを見せつけられたタナベは、耳が『あった』部分をハンカチで抑えながら、苦し紛れに銃でレミーを殴った。

 レミーは気を失い、アルファチームが抱える。

「チクショウ……耳がッッ」

「タナベ様応急処置を……」

「黙れ! 実験データを手に入れるのが先だ!」

 レミーとラング大佐は、ビルの中にある拘置所のような場所へ連行された。

 残されたのはアルファチーム数人と、サミュエルそしてタナベだった。

「……あなたにはずいぶんと振り回されてきました」

 痛みを堪えながら、タナベを努めて冷静に話す。

「腕をひねられたり、フォークで刺されたり……色んな思い出がありますね」

 銃が、サミュエルに向けられる。

 ここまでか――――サミュエルは覚悟した。

 だが、タナベは腕を下ろした。

 そして、かつての上司を、少し懐かしむように見つめたのだった。

「……逃げてください。私が世間にあなたの起こした実験映像を公開したら、あなたは犯罪者だ」

「撃たないのか?」

「……クララ嬢とどこへでも逃げればいい。ひっそりと田舎ででも……暮らすんだな」

 タナベはそれだけを言って、部隊を率いて去って行った。

 サミュエルの脳裏によぎったのは連行されるレミー……ではなくクララだった。

「クララ!」

 彼はありったけの現金をかき集め、そして病院へ自分の車で走っていった。

「アルファは失敗した。油断するな」

 タナベは痛みに顔を曇らせながら(これでよかったのか)と自問していた。

 だが、今更サミュエルを殺しても利益はない。

 世間の怒りの矛先を残しておかねばいけない。決して個人的な感情で彼を逃がしたのではない……そう自分に言い聞かせていた。

「……どうかお元気で。サミュエル」

 側にいる兵士たちに気取られぬように、日本語で呟いた。

 彼が向かったのは研究所。

 同時に、本社ビルの最上階に派兵した部隊から無線が入る。

『こちらアルファチーム。部屋にスペスはいません』

「いない? ちゃんと探したのか⁉」

『はい。ですがこの部屋にいるのは太った牛だけです』

「クソッ! もういい。研究所で合流するんだ」

 研究所にはレミーの息のかかった人間がいる。

 ドンだ。彼も必要ならば拘束して、アメリに引き渡す。

 どうせ責任追及をしたがる国だ。だったら証人は多いに越したことはない。

 研究所に到着した一同は、部屋を制圧しながらラボへと進んだ。『制圧』とは書いたが、実際には誰もいない部屋に銃を向けて確認し「クリア!」と叫んだだけだ。誰ひとりとして、人間がいない。

 何か起こったのかと調べてみるが、飲みかけのコーヒーや読みかけの本などしか見当たらない。普通に仕事をしていた人間たちが神隠しにあったような有様。わけが分からない……その時。

 パァァァン‼

 パァァァン‼

 銃声だ。部隊は銃を構えて警戒をする。

 そして、タナベが音のした方向へと進むよう指示した。

 廊下を抜け、もぬけの殻の研究室を抜け、一番奥のラボに着いた。『ウロボロス』のまさしく産まれた場所であるはずなのに、警護の兵士すら見かけない。緊張感でタナベはメガネがずれたことにも気がついていない。

 すると――――

「助けてくれ‼」

 人の声。しかも聞き覚えがある。

 タナベは部隊を先に向かわせようとしたが、声の主から部隊の方へ飛び込んできた。

「ドン所長!」

「た、タナベさん……」

 彼の手にはルガーが握られていたので、部隊がドンから奪い、中をチェックした。

「弾は残ってません」

「助けてくれ……奴らが……奴らが来る!」

「落ち着けドン所長。あなたを逮捕します」

「呑気なことを言っている場合じゃな――――」

 ドンは押し黙り、ガタガタと震え始めた。そして御守りのようにロケットを両手で包みながら、

「き、聞こえるだろう……奴らが来た……ッッ」

 全員が一切の音を消して耳を澄ませる。

 シューシュー……。

 確かに聞こえるが、何の音だろう?

「奴らだ……パパはとんでもないものを作ってしまった……」

「なんだ⁉ 何が来る⁉」

「ごめんなぁ……パパはそんなつもりじゃなかったんだ……パパを許してくれ……」

「答えろ誰が……」

 カランッッ

 全員の銃口が背後を向く。

 そこにいたはずの兵士が消え、代わりに彼の携帯していた銃が落ちていた。

「ああッッ‼ 来た‼ 来た‼」

 タナベのメガネに映った最期の光景は、白衣を着ていながら牙を伸ばし、四つん這いで迫り来る『実験体たち』だった……ッッ‼

 ……

 ……

 ……

「クララ……すぐに行くから」

 サミュエルは病院へ自家用車を走らせていた。だが、街がにわかに騒がしい。遠くで発砲のような音が聞こえたかと思うと、猛スピードで信号機にぶつかる車が。

 車体がぐしゃぐしゃになり確実に中の人間は原形を留めてはいまい……そう考えたのだが「なにがあった?」とでも言いたげに壊れた車体から出てくるドライバー。

 その表情はむしろ恍惚としている。

 何かがおかしい……そんな予感がしたが、愛する人を求める彼を止めることはなかった。

 病院には受付のナースも、患者のひとりすら見当たらない。

 不気味なほど、静かだった。

 サミュエルは異変を察知して、持っていたベレッタを両手で構え、目指すべき部屋へと向かう……。

『いいかサミュエル。よく映画で拳銃を横にしたり、片手の第一関節だけで扱ったりしているのを見ると思うがアレは間違いだ。必ず両手で支え、そして人差し指の腹でトリガーを引くこと。実際にやってみれば一目瞭然だが、指を曲げると第一関節はやや左を向いてしまう。それじゃあ目の前のクソッタレを殺せない。命を奪う尊き行為だ。間違えるなよ?』

 頭に、幼い頃自分に銃の扱い方を伝授してくれたレミーの声が聞こえる。彼本人を殺すつもりで射撃の練習をしていたが、すっかり癖となってサミュエルの身体に染みこんでいる。

 ……階段を登りながら、ふとレミーを思い出した。

 拳銃で強かに殴られたのも、息子である自分には分かる。

 明らかに、わざとだ。

 タナベの敵意が自分に及ばないように、あの様に猟奇的な行動をとったのである。

 今ならば戻れる。そして、どうやったらいいかは不明だが、レミーを救うことも可能だ。だが、彼の足は迷うことなくクララのもとへ動く。

 結局は虚栄の親子関係よりも、恋人と我が子の方が大切なのである。

 ガララッ!

 病室を開くと、そこには以前も見た日光浴をする彼女が立っていた。

「サミュエル。来てくれたのね」

 彼女は振り向くこともなく言い当てた。彼女の長い髪が南国の風になびき、入院用の服からは、クララのむっちりとした手足がニュッと伸びている。

 しかし、その肌は妙だった。

 硬い鱗が一枚一枚、折り重なり鎧のように身体を守っている。鱗の部分と、そうではない部分があるが、どう見ても異変が生じている。それは確かだった。

 サミュエルは決断しなくてはいけなかった。

 しかし、選択肢を与えられた瞬間にしてはならない禁忌を犯した。

 それは、選択を放棄するということ――――

「く、クララ逃げよう!」

 目の前の現実を見て見ぬフリ。

 彼女の腕を掴んで、外へ連れ出そうとしていた。

 だが、彼女はまるで岩のようにそこから動かない。

 サミュエルが力を込めて引くが……微動だにしない。

「クララ?」

「サミュエル……どこに行こうというの? ここは楽園よ」

 都会暮らしの人間が田舎町に来てそうするように、彼女は窓の外の空気を肺一杯に吸い込んだ。

「感じない? ここは『私たち』の楽園」

 サミュエルには燃える建物の匂いと、人々の叫び声しか分からない。

 彼もそろそろ気がついていい頃合いだった。

「クララ……頼むから……」

 サミュエルは、自分が何をしたのか、その結末を受け止める運命なのだ。

「本当にあなたは愛らしい……」

 隣にいるサミュエルを見るクララ。

 美しい顔には、鱗と牙が……目も違う。黒目が縦に伸び、薄い膜が張っていて瞬きをしない。

 サミュエルは片手に拳銃を握る手に力を込めた。背後から、彼女以外の気配を感じているからである。シューシューと音を立てながら、巣に迷い込んだエサを、値踏みしている。彼の息遣いひとつひとつが、彼らの食欲を駆り立てていた。

「皆お腹が減っているのね……でも、あなたは私のだって言ったら皆我慢してくれた……」

 到底拳銃ひとつで解決できる問題じゃない。

 すると――――

「ねえ……サミュエル」

 彼女が手で彼の顔を包み込む。

 鱗で覆われていたが……紛れもない、彼女の手の感触。

 彼女の匂い……彼女のぬくもり。

「今の私も……愛してくれる?」

 この選択肢からは逃げない。

 サミュエルに残された最期の、選択だ。

「……愛しているクララ。心の底から……たとえどんなに変わっても……君を愛するこの気持ちは、消えたりなんかしないッッ‼」

 震える自分を鼓舞するように、あらん限りの声を張り上げ、糸目を開き、彼女に宣誓をした。

 彼女は喜んでいるようだった。

 ニコリと天使のように笑い、長く先端で二つに分かれている舌をチロチロしていた。

 これ以上……何も言うまい……。

 僕は正しかった……僕は彼女を……、

「愛しい人……食べてしまいたいくらい」

 救ったのだ――――


『第十一章:悪魔の罠』


「ボスと俺を今すぐここから出せ‼ これは命令だ‼」

 ラング大佐の大声は、拘置所の中で爆発していた。隣で座り込んでいるレミーは、強打されたアゴをさすりながらもう片方の手で耳を塞いでいる。

「何度でも言いますが大佐、それはできません」

 アルファ部隊の残党が答える。

「仲間に敬意を持てと教えてくれたのは大佐、あなたです。しかしこの男は敬意もなく、感謝もなく仲間を犬死にさせました」

「それ相応の報酬をもらっておいて何を言っている」

 レミーが半笑いで言った。

「俺以外のどこの誰が雇ってくれるんだ? このご時世に傭兵気取りのゴロツキ共を訓練して飯を食わせてやる組織があるのか?」

「黙れクソッタレ!」

「なんだ? 撃ってみろ。撃てるものならな」

「……チィ」

「撃ったら新しい上司に殺されるだろうな。どうだ? いつまでもお前たちは小間使いさ」

「アメリカに渡す前に歯を全部折って食わせてやる……」

「残念! 俺の歯は全てインプラントだ」

 兵士たちを茶化すくらいしかやることがない。

 アメリカ政府に身柄を拘束されたらどうなるか……想像もしたくない。なので、その前に思う存分に自分を殺せない兵士を馬鹿にしてやる。

「タナベがアメリカ政府に俺を引き渡したらお前たちはどうなると思う? よく考えてみろよ」

 レミーは『M』と彫られた人差し指で、こめかみをわざとらしくトントン叩く。

「証人保護プログラムで守られる人間に、前科持ちだらけの傭兵部隊が必要か?」

「それは……」

「なあ二〇秒考えれば分かることだろう? タナベがお前らをお払い箱にするのは確実――――」

 シュルリ……

「なんだ⁉」

 二人の警備兵が、衣擦れの音が聞こえ振り返る。

 だがひとりは壁に叩きつけられ、もう一方はトリガーに指をかけたがその直後に地面に頭をめり込まれ、気絶した。

 華麗な技と圧倒的な力を見せつけた人物が、ゆっくりと立ち上がる。

「スペス‼」

 彼女は関節を外しながら、鉄格子を難なく超えてきた。見た目だけならば愛らしい少女に見えるが、ボキボキ関節を鳴らすのは可愛くない。

「スンスン……あなた人を食べたの?」

「あ、ああ少し『ツマんだ』だけさ」

「ふぅん……」

 スペスはレミーにはすっかり慣れているが、ラング大佐は別だ。彼自身も、スペスに耐性があるわけではない。ジト目で見つめる彼女へ、巨体に似合わず控えめに手を振った。

「や、やぁ」

「……」

「安心してくれスペス。彼は信じていい人間だ」

「……内緒にしていたことがある」

 レミーは訝しんだ。

「俺と君の間に内緒はないと思っていたがね?」

「わたしたちの間にじゃない。王様のこと」

「王様?」

「わたしに『外へ出てみたければ良い』と掟を破る許可を出したの」

「なんとも話が分かる王様じゃないか」

「でも……わたしの毒がもしも人間に使われたら……大変。彼はそのことをよく分かっていた」

「前言撤回。どうやら相当に意地の悪い王様だな」

「わたしの毒を使ったの!?」

 スペスの問いに、レミーはばつが悪そうに、

「……ああ。使った」

「大変……ッッ」

「どういうことだ?」

「わたしの毒は、薬になる……わたしたちの仲間になる薬」

「びょ、病気を治す薬ではないのか?」

「病気も治る。でも、それはわたしたちに近づいた証拠」

「つまり?」

「王様の言葉だと『完璧』になるって」

 レミーは頭をフル回転させて、事態がどれほど重いかを知ることになった。

「ぜ、全世界に売ったのだぞ!?」

「なら、全員仲間になる」

「嘘だろう……」

「ボス!! まずはここを出ましょう!! いつ交代の兵士が来るか分かりません!!」

 ラング大佐が言った。

「出たいなら……」

 スペスは鍵も使わずに、鉄格子の扉を外した。彼女の常人離れした怪力を初めて見たラング大佐は、自慢の筋肉が情けなくなった。

「L・J……予備の部隊もかき集めて今すぐに病院に向かうぞ」

 レミーは眠っている兵士の銃を奪い、そして無線をラング大佐に渡した。

「は、はいっ!! こちらラング大佐!! 全部隊に告ぐ!! アルファチームとタナベのクソッタレがクーデターを決行した。これより『鉄拳作戦』を行う!!」

『鉄拳作戦』とは、有事の際レミー・インターナショナル社が有する全戦力を結集して本社とその周辺を制圧する作戦だ。そのまんまの、何の捻りもない作戦の辺りは、まあラング大佐ブランドというやつである。

「警備している者・非番の者・トイレ中の者・ママと電話している者!! 全員今すぐに出動せよ!!」

 しかし、無線の奥から聞こえてくるのは、悲痛な叫びだけだった。

『コイツら銃が効かない!!』

『とにかく殺せ!!』

『軍曹!! 四時の方向!!』

『ギャァァ!!』

「何が起こってる!? ファックッッ!!」

 貴重な無線を地面に叩きつけんばかりな彼を、レミーが制した。

「落ち着けL・Jお前の直轄組織のチャーリー部隊なら、呼び出せるだろう?」

「ええ……チャーリー部隊。ラング大佐だ。聞こえるか!?」

 無線はすぐに応答した。

『大佐!? タナベ様から指揮不能との知らせを受けて全軍待機しておりましたが。ご無事で何よりであります!!』

「よし!! 全員を五分以内に本社ビルへ集合させろ!!」

『ラング大佐……何が始まるんです!?』

「世界大戦だよ諸君」

 レミーが無線越しに伝え、そのままエレベーターで一階に戻る。

「部隊が揃い次第、即座に『レミー大学付属病院』へ行くぞ」

「ボス!! タナベを捕まえるには研究所に行かなければ!!」

「行っても無駄」

 スペスが割り込んできた。

「あそこ、仲間がたくさんいる」

「今更『ウロボロス』のデータを心配する必要はない。俺が心配なのはただひとり」

「リトル・ボス……サミュエル様ですか!?」

「無論だ……ッッ!!」

 息子のことはよく知っている。彼が持つクララへの依存に近い愛情を理解していた。

 間違いなく、病院にいるだろう。

「チャーリー部隊全員揃いました!!」

「前に言った通り徹甲弾を装備しているだろうな!?」

「ええもちろん!! どんな化け物でも殺せます!!」

「だといいが……行くぞ」

「ちょっと待って」

 屈強な男たちに囲まれながらスペスが手を上げた。出鼻をくじかれたような気分になりながら、レミーは冷静に尋ねる。

「なんだね!?」

「誰かあの子を……自由にしてあげて」

「ああ、忘れていたよ……そこの君、最上階の俺様の部屋に行ってくれ」

 適当に兵士を見繕って、指示を出す。

「な、何をすればよろしいでしょうか!?」

「寝そべっている牛を、自由にしろ」

「は、はあ?」

「現段階で二番目に重要なミッションだ。君に任せよう」

「あ、ありがとうございます?」

「では残りの諸君――行くぞ!!」

 街の惨状は目を覆いたくなるほどだった。あちこちで発砲音がこだまし、人々の悲鳴が聞こえる。燃えている建物の中には、レミーの名を冠した図書館や大聖堂もあった。そして『レミー孤児院』も――

 分厚い装甲で守られている軍用車両の中から、子供たちの居場所に火の手が上がっているのを見てしまったレミーは、唾を飛ばす。

「チクショウ! 部隊を分けろL・J!! 孤児院に救助を送るんだ!!」

「了解!! 三班・四班!! 行け!!」

 命令をしながら(貴重な戦力を分散か……結局俺様も、悪にはなりきれちゃいない)と思ったりもした。

 装甲車の車列は首都の大通りを進む。

 蛇人間たちが音で集まり集団で襲いかかるが、装甲に激突して血を流すだけ。それでも当たる度に岩でも砕けたかと思うほどに衝撃を感じるので、蛇人間の硬さは異常だということが分かる。

「前方に敵集団確認!!」

 フロントガラスからは、蛇人間らが外した関節を互いに結び、獲物を待つクラゲのように不気味なバリケードを形成しているのが見える。

「装甲車の機関銃を試してみろ!! うちまくれ!!」

 シャープペンシルよりも長くて太い弾丸の帯を装填し、機関銃手が発砲する。

 ダッタッタッタッタッタッタッッ!!

 トタンをリズミカルに叩いているような音が、車内に響く。振動を人間よりも感じやすいスペスが縮こまっていたので、レミーが安心させるように肩を抱いていた。

 バリケードは粉々に砕け、車列が通れるだけの道を作った。

 そして病院へ――

「散開!!」

『レミー大学付属病院』の玄関前。チャーリー部隊が銃を構えて、レミーの次なる指示を待つ。街は混乱を極めており、警察も軍も、傭兵部隊もグチャグチャになっていた。

「ボス、他の部隊ですが、通常任務の治安維持中に敵と遭遇。戦闘に発展しているようです」

 珍しくラング大佐が小声で(それでも普通の人間の話し声程度)情報を伝えた。

 なぜならば、レミーがある車の前で険しい顔をして固まっているからだ。

「……サミュエル」

 彼の車で間違いない。

 しかし、後部座席には現金の山が手付かずのまま。

 ここに彼が来たのは間違いない。だが、現金よりも車よりも重大な『何か』が起こって戻ってきていないのだ。

「……」

「官庁街と連絡が取れません……恐らく大統領も逃げたか、それとも……」

「どうだっていいッッ!!」

 レミーはラング大佐をよそに彼の部隊へ命じる。

「病院内は敵だらけだ。一階から順に回り、殺せ!!」

 その言葉通りだった。

 元ガン患者の、蛇人間たちは病院の大広間に入った瞬間に襲いかかってきた。

 ガカァァン!!

 ガカァァン!!

 徹甲弾の威力はすさまじい。

 だがそれだけではない。

 スペスと比べると『ウロボロス』の被験者たちはいささか能力が劣っているようにも思えた。銃弾を防ぐが徹甲弾には貫かれてしまうし、なによりも見た目がまさに異なっている。スペスが口さえ開けなければ美少女にしか見えないのに対して、彼ら彼女らは『蛇でもなければ人間でもない』そんな見てくれだ。

「クリア!!」

「大広間制圧完了!!」

「廊下に進む!! 援護を!!」

 敵を見つけ、殺す。

 この単純でありながらも高度な役目を行う兵士たちに紛れて、レミーはナースステーションの中で入院患者のリストを探していた。バサバサと用のないカルテなどは捨てて、ようやく、特別病室のリストを発見した。

「クララ……二階の南側……二〇五号室」

 彼女の居場所を突き止めたレミーは、黄金のデザートイーグルを手に、階段をひとりで登った。数十分前に自分の息子が同じことをしたのも知らずに。

 ひとりきりは無鉄砲に思われたが、仕方がない。

 予想が(外れていればよいが)正しければ、彼女を発見したH・Y・Aは即座に射殺することだろう。それは困る。サミュエルがいるのだ……

 そう――目の前のドアを開ければ――

 そこにサミュエルが――

 信じるしかない。人生で初めて、神という不可思議で確証が得られない存在に祈りを捧げる。

 頼む――

 ガララッッ!!

「サミュエル!!」

 たたずむクララと警戒するレミーの間に、誰もいない。

 誰も――いないのだ。

「クララ……」

「あら! 今日はお客様が多いわね」

「サミュエルはどこだ……!?」

 彼女の肌を見れば、もはや彼女が人間ではないことが分かる。

 では、自分よりも早く来たサミュエルがどうなったのか……

 レミーは目を充血させながら、頭をワナワナと震わせ、再度尋ねた。

「サミュエルはどこだクララ!!」

「嗚呼愛しい人……彼は私と一緒になった……」

 クララは腹をさすりながら、レミーに対面する。

 カラン……

 社員証が、彼の靴に当たる。

『サミュエル・サンタン取締役』

「貴様ッッ」

 チャキッ!

 デザートイーグルの銃口が、彼女に向く。指の腹に、トリガーの反発力を感じながら、彼は内部から溢れ出る怒りを感じていた。

「あなたはいい人。サミュエルと同じよ。私を殺したりできないわ」

「黙れクソアマ……殺してやる……殺してやるッッ!!」

 人体の弱点を知り尽くしているレミーには、殺すことなど朝飯前だ。

 しかし、彼女には確信に似た余裕が見て取れる。

「無理よ……殺すなんて。私と――」

 腹を撫でる。

「――この子を」

「そんな……ウソだッッ!!」

 銃が揺れる。

 腹が膨れていたのはサミュエルを食べたからではない。そこに、新たな命が育っている証拠だった。

「ウソじゃないわ」

 優しく、聖母のごとく彼女は言うのだった。

「私とサミュエルの、愛の結晶よ」

「ウソだ……こんなことって……」

 レミーが両膝を地面に落とし、崩れる。

「あなたの孫……それを殺す?」

 レミーには、もう抵抗する意思すらない。

 いっそのこと……殺してくれれば楽になれる。

「ほらね。あなたは善人だわ」

「……ヤれよ。ひと思いにパクッと喰えばいい!!」

「残念。私は今お腹いっぱいなの」

 なぜかは、言わずもがなだ。

「散歩してくる。そうだわ。屋上に行くことにするわ。温かくて、この子も育ってくれる」

 彼女がヒタヒタと部屋を去って行くのを、レミーはただ見送ることしかできない。

 眼前にある社員証……手に取り、息子の姿を思い浮かべる。

「サミュエル……」

 彼は泣いていた。

 子供の時分、泣くと余計に叩かれたので涙は封印していたが、数十年ぶりに涙腺が崩壊したダムのように。肌を、シワを、アゴを伝い社員証で爽やかに笑うサミュエルの写真にポタポタ雫が垂れた。

 誰かの叫び声が聞こえてくる。悲痛な声。どこから聞こえてくるのか――それは自分の声だった。

 社員証がまるでサミュエルの分身かのごとく、レミーは抱きしめ、胸に押しつける。そして嗚咽を漏らすのだ。

「……これがお前の復讐か……大成功だな」

 ガクガクと揺れる唇を無理矢理開く。

 だが、少年だったサミュエルが。

 笑うサミュエルが。

 怒ったサミュエルが。

 成人して大きくなったサミュエルが。

 大学を首席で卒業して全校生徒の前で祝辞を述べるサミュエルが。

 次々と脳裏に浮かんでは消えていく――

 胸を刺し貫く痛み……己の無力感……

「……そこにいるのは分かっているスペス」

「邪魔しちゃいけないと思って」

 スペスが控えめに入室してきた。

「あの女の人……もう元には戻れない」

「ああ」

「それと……人を食べた」

「分かっているとも……」

「……ごめんなさい」

「君が謝ることはない……全ては俺が悪いんだ」

「わたし、あの女の人の異変に気がついていた。なのに言わなかった。一緒に悲しむこともできないの」

 ウッウッと嘆くレミーを前に、スペスは同情を表していた。

 感情を滅多に見せない彼女だが、彼の痛みを理解し、客観的に考えていたのだ。

「わたしも、お母さんが死んじゃった時に……人間みたいにたくさん泣ければ……楽だったかな」

「……いくら泣いても楽になれんさ……余計に傷口が痛み、苦しさが増す」

 涙でグシャグシャになった顔面を、スペスがベッドに置いてあったシーツで拭ってあげる。

「やっぱり間違っているわ」

「何が……?」

「人を悲しませることが『完璧』なわけがない」

「お前たちの王様のことか?」

 スペスが頷く。

「王様は間違っている」

「……こうなることを知っていたと?」

「それは、本人じゃないと分からない」

「……ならば」

 レミーは地面に転がっていた銃を拾い上げ、一回だけ袖口で顔を拭いて立ち上がった。

「直接本人に訊くまでだ」

 レミー・サンタンが戻ってきた。

 今度は彼が復讐心に飲み込まれる番だった。

 復讐というのは疫病のごとく、感染する。

「L・J聞こえるか?」

『一階は制圧しました!! それよりもボス!! 一体どこにいらっしゃったんですか!?』

「どうでも良い。かき集められるだけの戦力を集めろ」

『ハッ! それよりもボス御本人に見せたいものがありまして』

「今戻る……それと、屋上に奴らのひとりがいるが、決して傷つけるな」

『了解しました!!』

 社員証をポケットに納め、大股に廊下を進む。

「……無理してない?」

「無理でもしなきゃ歩いていられん」

 泣くことはいつでもできる。

 今は、この人類史上最悪の事件に対するケジメと、息子の復讐が彼の足を動かすのであった。階段を下り、安全が確保されたロビーに到着する。

 そこには銃を奪われた兵士二人と、見覚えのある白衣の男性がH・Y・Aに囲まれていた。

「ボス。彼らはアルファ部隊の生き残りで、研究所から――」

 ガカァァン!!

 ガカァァン!!

 無抵抗で降伏していた兵士二人を、問答無用でレミーは射殺した。あまりの仕事の早さに兵士たちが呆然としている隙に、腫れた目を隠すべくサングラスを装着していつもの演技がかった仕草をする。

「ボス!! 彼らは降伏して……」

「これで罪を償ったわけだ……さて」

 次は我が身と震えている白衣の男に、レミーは近づいた。

「ドン主任――いや所長だったか。まあこの際どっちでも構うまい」

 白衣はところどころ破れ、必死に逃げたのだろう靴は片方しか履いていないが、ドンで間違いない。

「れ、レミー会長! 僕はとんでもないものを!」

「みなまで言うな」

「ぼ、僕の推論では『ウロボロス』に含まれていたゲノムが人間のDNAに変化を……」

「……もう優秀な研究者は必要ない」

「ヒィ……」

 ドンは目をつぶった。

 殺されると思ったからだ。必要性のない人間には容赦のない狂人の手で葬り去られる……そう思った。

 だが、

「……子供たちがこちらへ向かっているはずだな?」

「は、はい……今日の午後の便に……」

「ならば、そのまま遠い島国にでも逃げろ。護衛の兵士もつける」

「い、いいんですか!?」

「なんだ? ここで死にたいのか?」

「いいえ! こ、子供に会うまで死ねません!!」

「……そうだろう。親ならばそう思うだろう」

 レミーは納得したように何度か頷いた。

「L・J。いいな?」

「ハッ! では……」

「その前にチャーリー部隊並びにレミー・インターナショナル社の保有する全戦闘員に告げる……無線を」

 ラング大佐が手渡しした無線に、レミーははっきりとした口調で、冷静に最後の命令を下した。

「これを聞いている諸君。無駄な戦闘は止めてとっとと逃げるか、B級ゾンビ映画のように安全な場所に立て籠もるでもして生き延びろ。皆の自由だ。好きにしたまえ。だがもしも、この人類史上最悪なクソをひり出した始末(ケリ)をつけたい馬鹿がいれば、空港で落ち合おう!! てめえが流したクソだ……てめえで尻を拭こうじゃねえかッッ!!」

 最後の戦いが、始まろうとしていた。


『第十二章:最終戦争』


 集まった兵士はおおよそ百人ほど。

 充分とは言えないが、現状で最も戦える者たちだ。

「じゃあなドン。忘れるべき友よ……子供たちにヨロシクな」

「お気をつけて……レミー」

 別れを告げ、空港からH・Y・Aが乗った軍用ヘリが飛び立つ。

 ドンはその光景を忘れはしない。数十機のヘリと、勇猛果敢な兵士たちが人類のために己の命を捧げたのだ。

「ほとんどはチャーリー部隊で構成されております!!」

 ラング大佐がプロペラに負けない大声で叫ぶ。

「人数は不充分!! ですが士気は充分!!」

「本当かL・J!! 無線に繋げ!!」

 ヘリの操縦士が親指を立てた。

『死にたがりの馬鹿野郎共!! ようこそ地獄への直行便に!!』

 聞こえるわけもないが、他のヘリから兵士たちが身を乗り出して雄叫びを上げている。

『これより我々は死出の旅に向かう!! パラシュートを持っているヤツは今なら下りても給料を払ってやるぞ!!』

 誰もそのような臆病者はいない。

『眼前の有様を忘れるな!!』

 下には燃えている市中が拡がっている。

『これを始めたのは俺たちだ!! なら俺たちが始末(ケリ)をつけよう!!』

 無線を切った後に、ラング大佐にレミーは指示を出した。

「空軍に戦闘機を飛ばせられるか!?」

「大半は逃げてしまいましたが、一機だけなら何とかなります!!」

「『アレ』を搭載させて旋回させておけ!」

「アレ? アレって何です!?」

「雰囲気を壊すなL・J!! 例の『アレ』だ!!」

「ですからアレって!? 自分の大好物のドーナツのことですか!?」

「脳みそまで筋肉だなお前は!! 十年以上前に試作した――」

「ああ! アレですか!! だったらなんで分かり易く『アレ』だって言わないんですか!?」

「ハハハ!! 本当にお前は最高の馬鹿野郎な相棒だぜL・J!!」

「誇りに思いますボス!!」

 ラング大佐が無線で空軍にかけ合っている最中、レミーは隣にいる美しい褐色の少女に話しかける。

「無理についてこなくても良かったのに……スペス」

「わたし、あなたといるって決めたの」

「そうか……君の決断に、これ以上疑問を持つまい」

「わたしも訊きたい……なんでわたしが選ばれたのか」

「ああ。存分に尋問してやる……」

 レミーとスペス、そして勇敢なるH・Y・Aが向かう先は、始まりにして終わりの場所――

 島のビーチにヘリが降り立ち砂埃を撒き散らす。

「変なこと言ってもいい?」

 兵士たちが動いている最中に、スペスはレミーにささやいた。

「なんだ?」

「いちばん最初を思い出しちゃって、なんだか、胸がポカポカしてるの。あなたと出逢えた瞬間を」

「た……多分ホームシックだ。行くぞ!!」

 己も同じ気持ちだと、レミーは言わなかった。この期に及んで、感傷に浸る暇などない。彼の思考回路には『撤退』などないのだ。

 もしもこのとき肯定していたら、二人の運命は変わっていただろうか?

 それは誰にも分からない。

「てめえら、ここまで来たら帰さねエからな!」

「どうせ蛇人間とジリ貧の戦いをするくらいなら、派手に散ってやる腹づもりです!!」

「大佐と同じく!! 死の間際、死したのちまでお供しますボス!!」

 メラメラと、彼らの闘志が肌に焼き付く。

「よぉし!! 目指すは集落のさらに奥だ。住人たちはとても『フレンドリー』な奴らだからこちらもお返しに鉛玉をくれてやれ!!」

 H・Y・A兵士が森をかき分けて進んでいく。前回の反省を踏まえて、森を熟知している原住民に負けぬよう密集して行軍した。どこから毒矢が飛んでくるかも分からない。慎重さが求められた――はずだった。

 しかし、

「どういうことだ……」

 森での襲撃がなかったばかりか、集落についても攻撃はない。

 当たり前のことだ。

 集落にいる村人たちは全員――老若男女問わず、死んでいたからだ。

 口からどす黒い泡を吹き、息絶えている。

「生き残りはいません」

「探したか?」

「ええ……古い死体は墓地に埋められていましたが、徐々に埋葬する人間が足りなくなったようで、放置された遺体ばかりです」

「一番新しいのは?」

「そこの男の人」

 スペスが指をさした死体は、確かにウジが湧いておらず真新しい。

「衛生兵、調べろ」

「……死後一週間ほど」

「これをご覧下さいボス!」

 ラング大佐の声は人の気がない集落に響き渡った。

 集落から少しばかり離れた場所へ誘導される。

「コレは……川か?」

「補給しましょう。皆水筒を――」

「ダメ」

 スペスが水筒のボトルを開けようとしている兵士を制した。

「……毒」

「なに?」

「川の水に毒が混ざっているのか!?」

「ウン……」

「これで集落の惨状の説明がつく……だが、誰が川の水に毒を?」

 レミーは川の上流を目で辿った。

「……川はわたしたちの住んでいる場所にある湖から流れているの」

「なるほど……お優しい王様が細工をしたようだな」

 隊は前進を続け、そして苦しくも嬉しき思い出の詰まった穴を発見した。

 今度は落とされることなく、ロープを使い穴の中へと侵入する。最初は骨の山に気を取られていた兵隊たちだが、訓練の通りに銃のライトをつけて洞窟の奥を照らす。

「クリア!!」

 レミーはここで長く辛い三日間を耐え忍んだのを、つい昨日のことのように思い出して……アレ?

「ああ……古き友よ」

 そこにはチョッキを着た、しゃれこうべが一体だけ骨の山から離れた場所に転がっている。牛乳瓶のようなメガネを見て、レミーは嘆息した。

「すまない……正直忘れていた」

「ボス、この骸骨は?」

「雇ったガイドだ……ん?」

 手帳が落ちている。前には気がつかなかったものだ。

「なになに……『ここの族長が漏らした神の情報だけでも、学会で僕を笑いものにした奴らを震え上がらせることができる!! 彼らの言う神とは、抽象的な存在でも単なる偶像崇拝でもない。族長は言った。神をこの目で見た。族長になる者だけが許される栄光の刹那――神は私に技術を授けた。そして今日の一族の安寧があると。神は実在する!!」

 レミーは読み進める。

 ガイドの文字はハッキリと『神』について言及していた。

「『この目で確かめねば……族長に神に実際に会いたいと頼むと、彼は拒否する素振りを見せなかった。もしかすると私は文明人初の神に会った人間になれるやもしれない。しかし礼儀を知らないアメリカ人の事業家が邪魔をする予感がする。現実にならなければよいが』なるほど……よほど興奮していたらしい。続きはミミズののたくったような字で読めん」

 ポイッと捨てられる手帳。

「ボス!! 貴重な情報源ですよ!!」

「目の前に銃があるのに触らずマニュアルを熟読するか?」

「しません!!」

「よろしい。では進もう!」

 ガイドの遺体を越えて、一同は奥へ奥へ――

 洞窟が狭く、大柄な兵士が三人横並びになることもできない。

 全員の緊張が、微細な呼吸音で伝わってくる。

「スペス、道案内を頼めるか?」

「こっち」

「さてスペスよ……君たちの王様改め『神』とは、一体何者なのだ?」

「……わたしたちの長。とても賢くて、とても強い」

「君たちのリーダーは、君の母上ではなかったかね?」

「お母さんがよく話してくれた『子守話』――ある日空から降ってきた王子様の話よ……その王子様とひとりぼっちの女の子が結婚するって話なんだけど」

 レミーがそうしたように、この小話も現実に起こった出来事が基であることを、スペスは察していた。

「わたしたちはずうっと女王がリーダーだった。でも、王様がその慣習をなくした」

「反対する者もいただろう?」

「……皆殺された」

「おっと……俺が思い描いていたようなほのぼのライフではなかったらしいな」

「ええ。王様に逆らう仲間はいない」

「ボス……出口が」

 先頭の兵士は明かりの差し込む場所を発見した。

「ここか?」

「そう」

「ですが地形が判別できません」

「なぁに……入ってみりゃ分かる」

 レミーが一番最初に出口へ向かった。ラング大佐は咄嗟に止めたが、

「俺が注意を引きつける。その隙に陣形を組め」

 とだけ命令し、革の靴を鳴らしながら一歩踏み出した――

 そこは空撮した写真にあった島の中心部。

 まるで箱庭のような空間には透き通った美しい湖と、点在する岩。大きな木は天辺から降り注ぐ太陽に向かって青々と茂っている。周囲が岩肌に囲まれていることを除けば長居したくなる場所だった。

 見とれてしまったレミーは、ポケットに手を突っ込みここへ来た理由を忘れないようにしながら、絶景の中へと歩を進める。

 シューシュー。

 シューシュー。

 姿は見えずとも、スペスで慣れている。洞窟を抜けたその瞬間から、彼らには察知されている。隠れても意味はない。意味がないのであれば、ハナからしない。レミーの格言だった。

 観光客のように風景を眺めながら、湖のほとりへ近づく。

 タトゥーだらけの手が、エメラルドグリーンの水面を撫でる。

「ふむ。九十点だな。ここは完璧だが『完璧過ぎる』な」

『私が作ったのだから完璧で当然』

 巨木の洞から聞こえるような声が轟く。

 レミーは水面に反射している声の主を見ながら、静かに息を整える。一瞬だけ目をつぶり、深呼吸をした。そして顔を上げる。

『彼』は巨大だった。群青色の髪は厚い胸板まで伸び、ヒゲは縮れて口の周りをぐるりと一周していた。なによりも彼を異形の存在たらしめているのは、その姿だ。

 上半身はヘラクレスの彫刻のごとき逞しさだが、下半身は違う。腰の辺りから鱗で覆われ、アンダーヘアーの位置から下は完全に蛇だった。黄金の鱗が、太陽光を乱反射してキラキラとしている。

『彼』はその体躯に相応しい大きな杖を握りしめ、上体を起こしていた。隕石のような拳により握られている杖は、木製だが頑丈であることがうかがえる。

『彼』は『神』だった――

「まずは挨拶から。ハロー! 俺はレミー・サンタン」

『人間の言葉など豚の鳴き声に等しい……聞く価値もない』

「そうか。銃声なら聞く耳を持つかい?」

 レミーが合図をすると、穴から百名のH・Y・Aが巣を追いやられたアリのごとくわらわらと出てきた。いくつもの銃口が、見たこともない巨人へ向けられている。しかし、その相手は余裕の表情だった。

『私もたくさんの兵隊を飼っている』

 その言葉を待っていたかのように、褐色の男女が穴やら岩場やらから出てくる。

 ちょうどH・Y・Aと同程度の数だ。

「なあ。これから始まることは大方予想がつく……その前にハッキリさせたいことがあるんだが……貴様は何者だ?」

『私はアスクレピオス。治療の神にして、死者をも蘇らせる力の持ち主だ……』

「アスクレピオス? 俺が会見で口にしたが……たしかゼウスに殺されたんじゃ……」

 レミーの言葉が終わる前に、アスクレピオスは目を溶岩のように赤くして怒号を吐く。

 どうやら逆鱗に触れたらしい。

『ゼウスは私の祖父にあたるというのに、私を殺そうとした! その後ようやく私の才を認めたが蛇遣い座などにしおった……ッッ!! この私が星座だと!? 私は太陽神アポロンの息子だ!! そのような末席に甘んじるわけがない!!』

「あ~話しの途中すまないが、ギリシャ神話の知識はウィキペディアを読んだくらいでうろ覚えなんだ」

 だが、アスクレピオスは自分に降りかかった理不尽な過去に怒り狂った。

『私は天空からこの世界を見ていた……わずか百年も持たない肉体の人間ごときが地上を支配するのを見ていたのだ。そして人間たちが科学などというまがい物で私のまねごとをし出した……許すわけがないッッ!!』

 彼が杖で地面を叩くと、その怒りを恐れた蛇人間らが身を震わせた。

『人が神の領域に手を出したことを知ると、私は父に頼んだ。今一度この世界を完璧な世界にするチャンスをもらいたいと……だが、代償は大きかった……』

 自分の下半身を呪うように見る。

『生と死を操るのはこの私以外いない!! 居てはならない!!』

「で? あんたは何をした?」

『天から墜ちた私は、もはや元の姿ではなかった……しかし私はアスクレピオス。その頭脳は誰にも負けない。人間の亜種であるこの『兵隊』たちに目をつけ、神として降臨したのだ』

「お母さんと……お母さんとは愛していたんでしょ……!?」

 スペスが屈強な兵士たちの間から現れ、猛然と質問した。

 その表情には、どこか懇願するような色が浮かんでいる。

「そうよね……? お父さん」

 お父さん? 初めての情報に戸惑いを隠せないでいたレミーだったが、アスクレピオスは非情にも鼻で笑う。

『黙れ小娘!! お前など女王との間にできた副産物でしかないわ!!』

 愛されるべき存在からの侮蔑……スペスの顔には悲哀が……

『フンッ……かつてこの地にやってきた人間共に殺されれば良かったんだ。だが、そのおかげで女王は死に、私が長となったのだから役には立った。ご苦労だったな』

 アスクレピオスが笑う。

『貴様が外の世界に興味を持っていることも知っていた。それを利用したのだ。傲慢で貪欲な人間がお前を見つければ、必ず神の領域に足を踏み入れると考えた……さすが私だ!! 予想は的中した!!』

 彼は言う。

『人間など取るに足らない存在だが、増える速さだけは認めよう。どこにでも現れ踏み荒らし、環境を変える……とても似ている病気がある。何だと思う?』

 アスクレピオスが初めてレミーを見た。

 レミーは唇をひくつかせながら、

「……ガン」

『お前のような下等な輩にも分かる。私は今、この地球を『治療』しているのだよ』

 アスクレピオスは自分の計画の完成度に酔っているようだった。

『世界が私の『奴隷』たちで埋め尽くされれば、その地球という惑星は完治する!! 互いに争うことなく、環境を変えることもなく、手を取り合いリスペクトする世界が誕生するのだ……フハハハッッ!!』

 アスクレピオスが天を仰いだ。

『さすれば私は新世界の神として、神の世界に戻れる!! この呪縛から解放されるのだ!!』

「……呪縛ねえ」

 レミーは、頭を掻いていた。先程から痒かったのである。

 アスクレピオスは驚いた。

『貴様……聞いていなかったのか!? 私は!!』

「はいはい。似たようなことは、人間様が何百年も前から言ってンだよ」

 レミーは歩いた。

「悪党の三大ゼリフだ『世界は自分のもの』『新世界の神になる』『私は優れている』だな。聞き飽きてるよそんな馬鹿げた未来図は」

『ば……馬鹿げているだと!?』

「人間ってのは都合が良い生き物だ。他人の不幸は嬉しいし、自分さえ良ければいいと思っている。今日捨てたプラスチックのストローが、ウミガメの目に突き刺さるかもしれないなんて考えるヤツはいない。地球のことなんざ、ろくすっぽ考えちゃいねえ」

 レミーは講演をする教授さながら、指を立てて喋った。

「人間……そうさ。まさしくガンさ……だけどな」

 スペスのそばに近寄る。

「愛を知っているガンさ……愛情も知らねえクソ野郎よりも上等じゃねえか」

 スペスの肩をそっと抱きしめる。彼女は絶望で視界が暗くなっていたが、温かな感触が、絶望の淵から救ってくれたのだ。

「好きに生きて好きに死んでやる……悪を選んだこの生涯……そして気に食わねえ野郎はぶっ殺す!!」

 兵士たちが決意を固める。

「人間を……嘗めンじゃねえッッ!!」

 ガガカカカカァァァン!!

 ガガカカカカァァァン!!

 ガガカカカカァァァン!!

 一斉に掃射される銃弾はアスクレピオスとその身辺にいる『兵隊』に向けられた。何十という『兵隊』が死んだが、やはり病院での違和感は的中した。彼らは『ウロボロス』によって作られた『蛇でも人間でもない』存在とは一線を画している。

 銃弾で怯みながらも猛然と走り寄り、H・Y・A兵士の胸を手刀で貫く。

 毒液を浴びせかける。

 巻きつき、骨を砕く。

 まさに人類最後の戦いが行われたのだった。

 だが――軍配はアスクレピオスに上がった。

 徐々に銃声は減り、重量感が尋常じゃない機関銃を持っていたラング大佐が集団を相手にして、最後の一体にやられると、いよいよH・Y・Aは負けに向かったのである。その様子をアスクレピオスはニマニマ笑いながら見ていたが、レミーは静かに忠臣たちが散っていくのを見逃さないように凝視していた。

 最期のひとりが死に、静寂が訪れる。

『お前の負けだ。認めるんだな』

「ああ。俺の負けのようだな」

 そう言いながら、レミーは両手を腰に回した。そして気づかれないように時計をいじくり始める。

『これ以上無駄な足掻きはやめろ。お前は劣等種の中でも、なかなか骨のあるヤツのようだ』

「そりゃあどうも」

『喜べ。お前には神の使命を託そう。お前が作った『ウロボロス』を、残っている人間たちに与えて、これ以上の抵抗をなくすのだ』

「俺に何か得があるのか?」

『残された人間共は、奴隷くらいには役に立つであろう。その者たちの王として君臨するのだ。金も、権力も、名声も欲しいまま……貴様ら下等生物がよだれを撒き散らしてしゃぶりつくもの全てが、お前のものになる』

「それは……魅力的なオファーだなぁ」

 レミーは一ミリも思っていないことを口にする。

「なあ、聞きたいことがあるんだが……『ウロボロス』を治す手段ってのはないのか?」

 カチッとレミーの腕時計からかすかに音がした。それを、スペスは聞き逃さなかった。

 一方のアスクレピオスは、ガハハハと笑いながら、レミーの愚かさを語る。

『この島に住まう人間たちの長だけが、解毒の方法を知っていたが……貴様自身が殺したのだ!! ガハハハ!!』

「なるほど……つまり、自分の首を絞めたのは俺自身か……」

『それに、もしも手立てがあったとして、私が教えると思うか?』

「無理だろうな」

『大人しく私の足となるが良いぞ愚かで、下等で、無様な人間よ!!』

 後ろから……こんな声が出せるのかと驚いてしまうほどにか細い、ラング大佐の声がした。

「ぼ、ボス……幸せ者です……今際の際にボスの御尊顔を見ながら死ねるなんて……本望です」

「……強き友よ。俺もすぐに行く」

「あまり急がなくても……ゆっくり仲間たちと待ってますから……では……」

 ガクリとうなだれるラング大佐から、視線をアスクレピオスに移す。

『どうした? この神にまだ反抗する気でいるのか?』

「だから言ったじゃねえかよクソッタレ……」

 レミーはスペスの肩を抱いて引き寄せる。

「逃げろ」

 耳打ちした彼は、手を離し、アスクレピオスと対峙する。

「さっき言ったな? この子は『副産物』だと……そんな『愛』も知らねえ……いや、知ろうともせず物事を決めつけてるヤツが神? 笑わせんなよ」

 レミーはサングラスを捨てる。

 肉眼で、己の敵を睨みつける。

「こんな可愛くて、優しくて、美しくて、イイ子が副産物? 調子にのんなよ?」

『フンッ! 神の言葉が正解だ! 貴様がどれだけ否定しようとも、この我が口が、真実なのだ!!』

「そこまで言うンならもう何を言っても無駄だな……」

『人間の言葉など、私の耳が汚れるばかり! その口を閉じよ!!』

「へいへい……じゃあ龍の息吹でも、御堪能あれ!!」

 その時――

 上空を一機の戦闘機が通った。そして何かを落としたのだった。

『それ』はヒューと音を立てながら、島の中央の穴の中へ――

『な、なにをしようと!?』

「人間の底力だよ」

 レミーはニヤリと笑った。

 そして、アスクレピオスに恐れ多くも、中指を立てた。

「くたばれクソ野郎」

 放たれたのは『ドラゴンファイア』

 レミー・インターナショナル社が独自に開発した、試作品のミサイル。

 中には地獄の業火を産み出す化学物質がたっぷりと含まれている。

『ムゥ!!』

 アスクレピオスは杖を高らかに上げて、見えない障壁を産み出し、ミサイルの着弾を防ごうとした。

 どうなるのかを一部始終見て、死ぬつもりだったレミー。そんな彼を引っ張ったのは他でもない、スペスだった。

 彼女はレミーの腕が外れんばかりに引き、通ってきた洞窟へと逃げていく。

 一方のアスクレピオスは、そんなことに構っている暇はなかった。

 神の力を使っているのにもかかわらず、ジリジリとミサイルが迫ってくるのだ。

『どういうことだ……私は神……神に不可能なことなどッッ!!』

 より一層力を込めて障壁を厚くしようとした。

 だが、暖簾を強く押したかのように、ミサイルはゆっくりと近づいてくる。

『ウソだ……全知全能たる私を……天空の神々よ!! 私を神と認めぬと言うのかッッ!!』

 その返答かのごとく、障壁がみるみるうちに小さくなり、もはやミサイルとは触れられるほどの距離になる。

『私は神であるぞ……このようなこと……このようなァァァ!!』

 杖に、弾頭が接着した。

『神よォォォォォ!!!!』

 アスクレピオスの叫び声と同時にドラゴンファイア弾に凝縮されていた白燐が飛び散る。そして間近で浴びたアスクレピオスはその身を炎で包まれて、苦痛と恥辱に悶えた。

『アアアア……ウオォォォ……』

 白燐は『箱庭』全域に飛び、『兵隊』らも飲み込んで巨大な火柱を作った。

 そして自身を『神』と自称した哀れな愚物は、灰となったのである。

「ハァハァ……」

 スペスに引きずられたレミーは、ボロボロのスーツの肩で息をしていた。

 場所はビーチ。

 操縦する兵士もいないヘリが寂しげに置かれているだけの、綺麗な砂浜。

「ど、どうやら……成功したらしいな……へへ」

 レミーは島の中央に目を向ける。

 そこからは活火山の噴火のように、巨大な炎が上がっている。そして地を揺るがす『神』の叫び声が止むと、静けさが戻ってきた。

「あそこで死ぬつもりだったのだがな」

 レミーは命の恩人であるスペスに笑いかける。

 と――

 レミーの胸の中に、スペスが飛び込んできた。

 両手でスーツを鷲掴みにして、目一杯、顔面がめり込まんばかりに。

「もう……ひとりは嫌なの」

 彼女が悲嘆に暮れているのを見るのは辛い。

 だが、もうどうしようもないことも、レミーは理解していた。

 彼女を抱きしめ、海岸線を見る。

「美しいな」

 その先で行われているであろう人類の存亡を賭けた戦いなど、ウソのような光景。

「さて、と……」

 レミーは黄金のデザートイーグルをこめかみに――

 グイッ!

「何するつもり!」

「逝くんだよ……もうこの世界はどうしようもない。仲間たちのもとへ……な」

 サミュエル・ラング大佐・タナベ・ベン……たくさんの同胞。

「死んで詫びる……なんて弱虫のやることだと思っていたが、今の俺にはもう何も残っちゃいない」

 会社も兵士もない。

 金も、もはや役には立たないだろう。

「自分のしたことだ……ケジメを……つけさせてくれ」

「なら、私も殺して」

「お、お前は」

「あなたとはどこへでも行く。もしもそれが死んじゃったあとの世界でも……」

「スペス……」

「わたしは……愛してるの」

 その返事をできる立場ではないことは、レミーは承知だった。

「……俺もだ。愛してる」

 だが、

「俺はここで死ぬ。もう、生きている意味なんざない」

「ずるい人……悪い人ね」

「ああ……悪人だからな」

 最後の深呼吸を済ませ、準備に入る。

「キス……したい」

「俺と?」

「人間の愛の形……お母さんから教えてもらった……それでアナタがどうなるかは知ってるけど……それでもッッ」

「分かった。俺も、お前と愛を確かめたい」

 二人は平穏な浜辺を選んだ。

「私たちの急所は……ココ」

 スペスがアゴの下と首の上の境目を指でさす。

 レミーは無言で頷き、銃の弾倉を確認した。

 カチャリ。

 二人は向かい合い、身長差を考慮してレミーが膝を屈した。

 そしてスペスは彼の肩に手を置いた。

 レミーは顔を上に向けるのと同時に、デザートイーグルを彼女の喉元へ突きつけた。

「愛してる……レミー・サンタン」

「俺も愛しているさ……スペス・サンタン」

 二人の口が交差したその瞬間、ひとつの銃声がこだました。

 人類の平穏は音を立てて崩れた。

 戦う者。

 逃げる者。

 隠れる者。

 それぞれが平和が瓦解していく様を、目に、耳に焼き付けた。

 ドンは飛行機の中から、いつもロケットで見つめていた二人の子供と、炎と煙がもうもうと立ちこめている地上を眺めていた。パイロットによれば、行き先は未定。だが、どこか安全な場所に――そんなところがあるのかすらも怪しいが、ともかく飛んだ。

 人類は衰退の一途を辿るであろう。

 しかし、それでも地球は何事もなかったかのように回る。

 そう。

 まるでウロボロスのように終わりもせず……始まりもせず。


  

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ウロボロスの輪 KAI @kai-draco

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