part.10
震える指先で何度もためらった後、ようやく私はアプリを開いた。
タイムラインに流れている投稿を追っていくと、水稀のアイコンを見つけた。
"止められるとやめづらいな"
どう考えても私のことを言ってる投稿。
あの夜引き止めた私の言葉を、あの瞬間を、こんな形で使うなんて。
私がどれほどの勇気を振り絞って引き止めたのか知らない癖に、わざわざ私の目に留まるところに残して、心を爪でなぞるような真似をして。
まるで私が彼の足を引っ張ってるみたいな言い方に悔しくて、苦しくて、目の奥が熱くなる。
逃げ場を失った感情の向かう先を見失って、私は知らぬ間に、水稀が好意を寄せているあの女の子のページを開いていた。
“大好き”
“一生一緒にいようね”
“たくくん”
そこには、水稀ではない名前が繰り返し綴られていた。
この"たくくん"と呼ばれる人と恋人なのか、ふたりのやり取りは、どれも眩しいほどの幸福で満たされていた。
でも最新の投稿、今日のものはいつもと違って冷え切っていた。
喧嘩なのか、浮気でもされたのか、詳しいことは分からないけれど良くないことがあったのだろう。
ネットの世界ならそんなのよくあること。
"むり、たくくんいないならこのアプリやめる"
もはや仕組んでいるのかと思うぐらい同じタイミング。
偶然にしては、出来すぎている。
"たくくん"と呼ばれる人のプロフィールにも飛んでみる。
ピン留めされている投稿には、どこにでもいそうな普通の男の人が映っていた。
思わず私は、なんでこの人を選ぶの…と心の中で呟いてしまう。
水稀のほうがずっと深くて、綺麗で、危ういのに。
“たくくん”のページも、彼女との世界で埋め尽くされていた。
言葉、写真、絵文字、スタンプ。
ふたりの間にだけ流れる小さな空気が、そこかしこに漂っていた。
けれど、今日の投稿だけは違った。
あの子のことに、一ミリも触れていない。
何があったのかは書かれていなかったけれど、書かれていないことの方がずっと重たく感じられる時もある。
その沈黙の中にある痛みが、まるで自分のもののようにじわじわと胸を締めつけてくる。
「……え」
突然画面の中に揺らいだ小さな衝撃が、無心で眺めていた私の意識を引き戻した。
“たくくん”の投稿に、水稀がリプライをしている。
"あの、ちょっと話したいことあるんですけど"
一瞬、意味がわからなかった。
けれどそれは、すぐに繋がった。
このふたりを繋ぐ共通点はただ一人、あの女の子。
つまり、水稀の「話したいこと」とはきっと彼女のこと。
彼女と“たくくん”の間に何かが起きて、水稀はそれを知ってわざわざ声をかけたのだ。
──あの子のために。
その事実に思い至った瞬間、胸の奥から涙が溢れそうになった。
そんなに、あの子が好き?
叶わないとわかっていても、まだ何かをしてあげたいと思うほど?
ねえ、どうして。
水稀の価値すらあの子は分からないのに。
水稀より"たくくん"を選ぶあんな子のどこがいいの。
醜く歪んだ感情の矛先が、可愛いあの子にむく。
憎たらしい、勝てないと分かっているから余計に。
溢れ出る思いと一緒に流れる涙が、握りしめた手の上に落ちる。
それすらも自分のものではないような気がして、やるせなさが胸に重くのしかかる。
──ブー。
スマホが震えて、水稀からの通知が届いた。
あぁ、ほんとうに、タイミングが悪い。
内容なんて、だいたい分かっていた。
私は答え合わせをするように、無言でチャットルームを開く。
"ごめん、やっぱりやめることにした"
……やっぱり、ね。
あの三人の間で何があったのかなんて、知りたくもなかった。
どうせ私には、知る権利すらないのだから。
"そっか、それなら仕方ないね"
こんな言葉で片付けられるわけないのに、こんな短い一言で片付けなきゃいけない。
「……はは」
笑うつもりもなかったのに、乾いた声がひとつ、部屋に響いた。
勝手に想って、勝手に傷ついて、勝手に終わらせようとしてる自分が、ひどく惨めだった。
──ピコン。
もう一つ、通知が届いた。
"でも、インスタとかなら交換できるよ"
……え?
思ってもいなかった言葉に、目が一瞬だけ揺れる。
状況を整理してその言葉の意味を理解すると、
途端に少し心が軽くなる。
もちろん、断る選択肢なんて私にはない。
差し出された手を振り払う術を、私は知らなかった。
水稀と関係が続けられるなら何でもいい、それがどんなに浅い繋がりでも途切れてしまうよりはずっといいと思った。
きっと私は、このときすでに分かっていたんだ。
これが救いではなく、呪いになることを。
観覧車 すい @sui__02
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