part.9


"ありがとう"


たったそれだけの言葉に何かを託してはいけないと、私は知っている。


期待も、願いも、ほんの少しの希望すら忍ばせてはいけない。


信じるという行為がどれだけ脆く、そして傲慢なものかを、私はもう痛いほど知っているから。


だから、私はチャットアプリをそっと閉じた。


今日は誰とも話したくなかった。


声を交わすには、心が擦り減りすぎていた。


「はぁ……」


考えすぎたせいか、息と一緒に重たい疲れが押し寄せてくる。


何もかもが霞んで、指先から力が抜けていく。


もう今日は、このまま眠ってしまおう。


きっと目を覚ましたら、また憂鬱な自分に会うことになる。


でも私はそこに戻るしかない。


泣いても笑っても、朝は平等に訪れるのだから。





「優菜、今日一緒に帰れる?」


次の日、教室の片隅でカバンを手にした私に優斗が声をかけてきた。


その声に、私は少しだけ立ち止まる。


ゆっくりと振り返って、うすく笑った。


「……帰れるよ」


その言葉を待っていたかのように、優斗はふわりと笑みを浮かべた。


あぁ嫌だ、その顔が私を責めているような気がする。


嬉しそうな顔は優しさの証のようだけど、時々刃のように私を刺す。


「優菜、今週の日曜、空いてる?」


帰り道の途中、なんでもない会話の隙間に紛れたその言葉に、私は少し考えるふりをした。


予定はない、けれど、気持ちは決まっていなかった。


あの夜、水稀がアプリをやめるなんて言わなければ、私はこの誘いをきっと断っていた。


心が別の誰かに向いているくせに、私は今、立ち止まってしまっている。


いや、そもそもこの誘いを受け入れる権利なんて

私にはないんじゃないか。


断ろう、そう思い顔を上げると、期待と不安に満ちた優斗の瞳と目が合った。


出かけていた言葉が、喉の奥で詰まる。


そんな顔をされると、すごく断りづらい。


「午後からなら、空いてるよ」


私は咄嗟にそう返してしまう。


結局、私はこの半端な優しさを捨て切れない。


誰かの期待を裏切ることが、どうしようもなく怖い。


「ほんと?行きたいとこあるんだ!」


嬉しそうに話し始めた優斗の声を聞きながら、私は自分の気持ちに蓋をする。


笑って、うなずいて、気がつかないふりでごまかして。


そんな自分が少しずつ色を失っていくのを、どこかで冷静に見ていた。


「じゃあ、また明日ね!」


手を振る優斗に、私は小さな笑顔で応えた。


心にできた霧のような白いモヤが、私の笑顔を濁らせる。


優斗の後ろ姿がやけに楽しそうで、それが余計に私を暗い感情でいっぱいにした。




家の扉を開けると、ひんやりとした空気が足元から這い上がってきた。


物音ひとつしない、いつものことだ。


私はほとんど何も入っていないリュックを机の横に無造作に投げる。


音が鳴っても誰にも咎められないのが、この家の静けさだった。


特別なことなんてなにもない。


布団に寝転がって、スマホを手にする。


それが、毎日繰り返される私のルーティーン。


「はぁ……」


ため息は、呼吸の一部のように自然に出る。


何かを嘆いているわけじゃなく、ただ、生きているだけで出てしまう。


こんな生活がどうしようもなく情けなくて、嫌になる。


誰かに何かをされているわけでもないのに世界は妙に冷たくて、私は時々誰にも気づかれずに消えてしまえるんじゃないかと思ってしまう。


でも、それはきっと思い詰めてるわけじゃなくて、ただの小さな逃避。


その気持ちをごまかすための、唯一の手段がスマホだった。


無数の誰かの投稿に紛れて、私は自分の存在を誤魔化す。


何もしないまま夜が訪れるのも、いつも通りだった。


お風呂を済ませて、ご飯を食べて、ベッドに沈む。


そうすると急に、水稀から何か来ていないかが気になり始める。


しかし画面のアイコンに触れようとするたびに、心臓が少しだけ早くなる。


メッセージが届いているかもしれない。


既読をつけてしまえば、またあの曖昧な距離感に飲み込まれるかもしれない。


その可能性だけで、胸の奥がざわつく。



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