ぶれむみゅあえ
アガタ
素顔
陽子はカップの酒を掲げて、そこから世界を垣間見た。
透明な酒の入った壜の中で、街燈に照らされた夜の公園が浮かび上がる。
公園には誰もいない。街燈の光を集めて、酒は光り輝いている。
その中をブランコやすべりだいがゆらゆらと水中花のように泳いでいた。
カップを傾けて、陽子はお酒をあおった。透明な液体を無理矢理流し込む。お酒がひゅうと音をたてて喉の奥に飲み込まれて行った。
お酒は好きでも嫌いでもない。ただ酩酊できるから飲んでいる。
陽子はそう言う自分が嫌だ。元々、家族を置いて夜の公園に来て、酒を飲んでいる自分も嫌なのだ。
今頃、家では子供達を相手に夫が右往左往していることだろう。戻らなくてはと言う思いもあるが、今はへそを曲げた少女のように戻る気がしなかった。
色々と失敗したかも知れないと、彼女は思っていた。
例えば、生まれたことなどに対して。
もう一度、頭を上げてお酒をあおる。お酒を飲み干して頭を下ろしたら、目の前に女が立っていた。
「良い喉ほとけですね」
女が挨拶をする。なんて挨拶だろうと思った。でも、気に留められたのは何となく嬉しかった。陽子は鷹揚な仕草でじろりと女をねめつけた。
長い黒髪の、特徴のない顔をした女だった。女は美しい水色のワンピースを着ていて、開襟のそれのボタンは貝殻の形をしていた。
「隣、座っていいですか」
女の特徴のない唇が面白そうに動いて、指先が陽子の座っているベンチの隣を指す。陽子は、「どうぞ」と言うとベンチの隅の方に体を寄せた。女はさっと翻るように背中を向けると、ワンピースをたなびかせてベンチに座った。
ワンピースの裾の端が、ふわりと陽子の親指に触れる。陽子はワンピースが濡れないようにカップを自分の方の脇に置いた。
「何を泣いていたんですか」
「泣いていた」
陽子はオウム返しに女に言葉を返した。女はうなずいて、目を細めた。女の白い、透き通った肌が、街燈に照らされている。
「泣いては無い」
女が笑う。嘘ですね。話してみませんか。と唇が動いた。
陽子は女を見つめた。何だか急に心臓がどきどきと動き始めて、顔に血が上る。
「私」
陽子の口から言葉が漏れる。
「私は生まれたのが間違いだったかもしれない」
「生まれたのが間違いだったんですか」
「そうだよ」
「そうですか」
「だって生きてる意味はないよ」
「意味はないですか」
「そうだよ」
「そうですか」
女は、膝に腕を乗せて頬杖を突いた。ゆっくりと黒髪がその肩から中空に落ちて、薄闇の中で宙ぶらりんになった。
女と夜との境目は曖昧だ。
女がじっと頬杖をついたまま陽子を見つめる。陽子も、彼女を見つめ返した。
特徴のない顔だ。その眼孔も何となく覚えにくいような気がする。
女は何度見ても見知った風な顔にならない。
「それなら、一緒に踊りませんか」
女が立ち上がって、ワンピースの膝の皺を叩きながら言った。そして、危なげない足取りで、公園の中央まで行くと、ふらふらと踊り始めた。
奇妙なステップの踊りだった。右へさっと飛んだと思えば、後ろへ下がる。下がったと思えば、優雅に跳躍する。
見ようによっては、クラッシックバレエにも見えるが、時折いびつな間や動きがあって、それが奇妙さを陽子に感じさせていた。
奇妙な踊りで、女が陽子を誘う。ゆらゆらと手招きされて、陽子はふいに瞼が重くなるのを感じた。
夢を見ているのかも知れなかった。いやきっと、これは夢なのだろう。
陽子は立ち上がって、女の元へ大股で歩み寄った。
至近距離に女の顔がある。陽子は女の手を取って、自分に抱き寄せた。
女は踊るのを止め、陽子の腕の中に大人しく収まってしまった。
ふいに、調子っぱずれなフルートの音色が何処からか聞こえてきた。
しめたと思った。陽子はそのぬるりとしたフルートの音色と一緒に、ゆっくりと踊り出した。
陽子は女を抱き寄せたまま、ゆっくりとワルツのステップを踏み出した。一歩、二歩、三歩。右足を斜め前に出し、左足をそれに揃えるように引き寄せる。そしてまた右足を一歩。女の体は陽子の動きに吸い付くように滑らかに追従した。
フルートの音色は相変わらず調子っぱずれで、か細く不安定な音色で響く。しかし、その不協和音が、かえって陽子には心地よかった。どこで踊っているかわからなくなる。公園の街燈が、二人の影を長く揺らした。公園は二人だけの舞台になってぐるぐる回り始めた。
(ひだり……みぎ……)
陽子は心の中でリズムを刻んだ。女の腰に回した手が、その細いウエストの曲線を感じ取って、吸い付くようだ。女の黒髪が、踊りの拍子に合わせてふわりと舞い、陽子の頬をくすぐる。
陽子が左足を横に出し、女は右足をその内側に寄せる。そして、陽子が再び左足を前に進めると、女は優雅に後ろへと下がった。まるで鏡写しのように、動きがぴっちりと合う。
女が熱っぽく陽子を見つめる。彼女の瞳が、陽子の瞳をじっと見つめていた。陽子は、ただフルートの音色と、腕の中の女の体温だけを感じて一心不乱に踊っていた。
何拍子も、何拍子も、二人は踊り続けた。公園の空気はひんやりと冷たく、しかし二人の間には、不思議な熱が生まれていた。ぐるぐる回る公園が、視界の端で溶けていく。ブランコもシーソーもずべりだいも混ざり合う風景の中ぐちゃぐちゃになって、まばらな色彩の染みになり果てていた。夜咲く不定形の花々のように、それは美しかった。夜の闇に溶け込む蝶の羽のように、女のワンピースの裾がひるがえる。
女は陽子の腕の中から、するりと体を離した。その動きはしなやかで、まるで水のように陽子の腕をすり抜けていく。そして、陽子の目の前で、再びくるりと回り始めた。先ほどまでのような奇妙なステップではなく、もっとゆったりとした、もどかし気な動きだった。女の唇が、また、動いた。
「素顔を見せてあげる」
女の声は、静かな夜の公園に吸い込まれるように響いた。陽子は息を呑んで女を見つめた。踊りながら、女は開襟のワンピースの貝殻のボタンに指をかけた。一つ一つ、女は迷いのない手つきでボタンを外していく。白い肌が、街燈の光を浴びて淡く浮かび上がった。
最後のボタンが外れると、女はワンピースの襟を大きく開いた。しかし、そこには陽子が想像していたような肉体はなかった。
女の腹の上で、まるで万華鏡を覗き込んだかのように、無数の顔が次々と現れては消えていく。
ある時は幼い少女の顔になり、またある時は厳かな老婦人の顔になった。陽子の脳裏に焼き付いているはずの母の顔、そしてもう随分と会っていない祖母の顔が浮かび上がっては消える。夫の顔、そしてまだ幼い子供たちの顔も、一瞬だけ現れた。それらは全て、陽子の知っている顔だった。
それらは、どこか懐かしい記憶の中の幻影のように遠い。
その顔の一つ一つが、喜び、悲しみ、怒り、諦め、様々な感情を宿して刹那の間に陽子の目の前を通り過ぎていく。陽子はその光景に目を奪われ、瞬きをすることさえ忘れていた。
やがて、その無数の顔の連なりがゆっくりと収束していく。
そして最後に現れたのは、美しい顔だった。それは、はっきりとした目鼻立ちをした、それでいてどこか儚げな美しさを持つ顔だった。
その顔には、深い湖のような静けさがあった。瞳は夜空の星のようにきらめき、唇はまるで朝露を宿した花びらのようだった。
これが女の素顔なのだ。
陽子は急にそう思った。なぜかしらそうだと思えたのだ。
女はその美しい顔で、満足げに微笑んだ。
その微笑みは、夜の闇に輝くように、公園全体を優しく照らしてくれた。陽子の心臓が、大きく高鳴った。
女が素顔を見せてくれたことが嬉しくて、自然と笑みがこぼれた。
陽子は、女の美しい素顔にゆっくりと顔を近づけた。
フルートの音色が途切れる。夜の静寂が訪れた。
唇が触れ合う。陽子の心臓が痛い程高鳴る。全身を熱い血が駆け巡るのを、彼女は感じた。柔らかく触れ合った唇の感触が、夢と現実の狭間を逡巡していた。
不思議な感覚だった。
口づけは長く続いた。
女は、陽子の接吻に応えるように、さらに深く微笑んだ。その笑顔は、公園の街燈の光を吸い込み、陽子の目に焼き付くほどに輝いていた。陽子の唇を女の腹にある女の顔が食んだ。
「あっ」
女の特徴のない顔が、吐息を漏らす。陽子は面白くなって、口づけて来る美しい女の唇にもっと深く口づけた。
「あっあっあっ」
特徴のない女が喘ぐ。陽子が美しい女の唇を啜り、舌を動かす度に、女は喘ぎ、蕩けそうな声を上げた。
「アッ!」
一際大きな声を上げたその瞬間、女が飛びのいた。
フルートの音色が、またどこからか響いてくる。
女は身を翻し、ワンピースの裾をひらめかせながら、奇妙な踊りを始めた。
それは、先ほど陽子と踊ったワルツとは全く異なる、奔放で、どこか滑稽な踊りだった。両腕を天に突き上げたり、まるで水草のように体をくねらせたりする。女の体はしなやかに動き、ワンピースは波のように揺れ動いた。女は、ワンピースの裾を大胆にたくし上げ、露わになったお腹をぷるぷると震わせた。
陽子は、思わず声を上げて笑った。女の無邪気な踊りによって、気持ちが泡のように弾け飛んでいくかのようだった。
陽子は、我慢できずに、もう一度踊り始めた。女の腹踊りに合わせて、自分も公園の真ん中でくるくると回り出す。手足を大きく広げ、無秩序に跳ねる。誰かに見られることは気にならなかった。ただ楽しかった。
夜の公園は、二人の笑い声と、無秩序な足音で満たされた。街燈の光が、二人の影を大きく伸ばしたり、小さく縮めたりする。こんな風になったのはいつぶりだろう。おそらく、子供の頃以来だろう。
陽子と女は、何のしがらみもなく、ただ衝動のままに体を動かしていた。
フルートの音色が、不安定に続く。
ずっと、踊っていられそうな気さえした。
ぶれむみゅあえ アガタ @agtagt
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