第1話 旅立
時は変わって文久三年旧暦二月。
東の空が白み始め、もやの中に吉原の
そんな大門に会所の人間が揃っている。一見、身請けの女郎の見送りのようであるが、見送るのはまだあどけなさが残る小柄な総髪の少年。色が白く、羽織袴姿でなければ可愛らしい少女と見間違うほどだ。
「
「いえ、あなた様は吉原にとって大事なお方。本来なら世話になった花魁総出で旅立ちの見送りをするべきところですが、この四郎兵衛の見送りでご容赦くださいませ」
いかつい顔を破顔させて四郎兵衛が言う。
四郎兵衛と言っても実名ではない。四郎兵衛は吉原私設警備組織、四郎兵衛会所の見張り番の役名だ。見張り番は交代制なので、「四郎兵衛」は複数いる。彼はそのうちの一人で、一番の古株だ。
「それにしても、雪之丞様がいなくなると吉原も寂しくなります。初めて来られてから何年になりますかな」
「五つの時だから、もう十年になりますね。早いものです」
十年の間、色々な事件を四郎兵衛と共に解決してきたが、【この】四郎兵衛との付き合いが一番長い。実の父親より長い時間を過ごしているだろう。
「十年も吉原の治安に貢献していただき、誠にありがとうございました」
これではまるで永遠の別れの挨拶ではないか。雪之丞は苦笑した。
「この吉原の結界は、歴代の将軍付き陰陽師が守ってきたもの。私はその代理をしたまでです。今までも、そしてこれからも」
吉原は売られてきた恨みつらみ、女郎どうしの妬みやひがみ。それら負の感情が渦巻くところ。物の怪はそんな負の感情が大好物だ。それゆえ吉原は陰陽道に基づいて町が作られ、四方には結界のための社が設けられている。歴代の将軍付き陰陽師たちはその結界を守り、その結界すら破って現れる物の怪を退治し続けてきた。将軍付き陰陽師を父に持つ雪之丞もまた、弱冠五歳の身で祖先の陰陽師たちと同じ任を担ったのだった。
「それはそれは、四郎兵衛心強うございます」
「四郎兵衛。後ろが詰まっているので、手短にな」
感動的な別れの
「これはこれは雪之丞殿。ご立派な旅装束でございますな」
確かにいつもの黒袴には脚絆、大小の刀には雨でもないのに柄袋。手には笠を持ち肩には手行李。いかにも遠出ですといった格好ではあるが、いたって普通の武士の旅姿である。もちろん小栗の言葉は半分、いや半分以上がごますりだ。それはいつものこと、雪之丞は百も承知である。
「こたびの京への修業、誠にめでたい。めでたいのだが、私としてはちと困る。貴殿がいないと私の手柄が、ごほん、私の優秀な助手が
今までのように雪之丞に事件を解決させ、手柄を南町奉行所が持って行くことが出来なくなるので困る、ということだ。事件解決といっても、当の雪之丞は単に物の怪の仕業か人間の仕業か見分けているだけなのだが。大体、奉行所は南と北がありそれぞれは月ごとに交代するというのに、難事件は必ず南町奉行所の月に限って起こる。それも小栗が南町奉行所に来てからだ。絶対何かある、と雪之丞は思っている。
「聞けば、使役の獣を使えば、半刻(一時間)ほどで京と江戸を往復できるとか。困った時は文を飛ばしますゆえ、ぜひお力添いを」
色々と突っ込みたいところはあるが、今はそこではない。修業に行ってまで面倒見る義理がどこにあろうか、と思っていると、
『半刻だぁ? 俺の翼なら瞬きしている間に着いちまうわ』
と鮮やかな緋色の髪、
『さすがに瞬きの間は大げさすぎるだろ、朱雀』
と突っ込んだ。そんな二人を、翡翠色の髪と同色の瞳を持つ生真面目そうな男が諫める。
『朱雀、白虎。指摘するところはそこではありません。我々は十二天将で四獣という立派な神将であって、使役の獣などではありません』
――青龍、それを指摘したところで、誰もお前の声は聞こえていないんだが。
雪之丞は呆れてため息をついた。
十二天将で東と春を司る四獣でもある木将青龍。同じく南と夏を司る火将朱雀。西と秋を司る金将白虎。偉大なるご先祖で、陰陽師の安倍晴明も式神として従えたといわれる四獣を雪之丞も従えていた。従えるというより、お世話されていると言った方が正しいかもしれない。普段彼らは
「小栗殿。私は未熟者ゆえ修業で手いっぱい、江戸まで来る余裕はございません」
「またまたご謙遜を。将軍付き陰陽師のご子息であり、物の怪退治では江戸で右に出る者などおらん力の持ち主。未熟者など言われたら私なんぞ何になりましょう」
そんな小栗の後ろでは、部下の同心や岡っ引きが大げさに呆れていた。
「まぁまぁ小栗殿。この辺にしないと夜が明けてしまいます」
四郎兵衛が小栗劇場の幕引きをする。確かに東の空が曙色に染まり始め、今にも吉原の町に朝を告げようとしている。楼の玄関が開いて、そろそろ朝帰りの男たちが現れる頃合いだ。
「おお、それはいかん。足止めをしてしまいましたな。では、京に着きましたら下宿先をお知らせください。困りごとがありましたら文を出しますゆえ」
懲りない人だ。雪之丞は絶対に文は出すまいと心に誓い、にぎやかな見送りを背に吉原を後にした。
「これから旅の始まりだというのに、疲れたな」
日本堤、通称吉原土手の両側にある水茶屋の、朝帰り客を迎える支度を眺めながら歩く。途中、吉原帰りの遠方客と間違われて客引きに合うが、雪之丞と見るや奥に引っ込まれてしまう。そんな奥からはひそひそと、
「ついに江戸を追放されちまうのかい。可哀想に」
「井伊の大老を守れなかったからねぇ。仕方ないさ」
「それに陰陽師のくせに、占いは全くできないらしいぜ。何でも本妻の怨念のせいだとか」
「そりゃ長男を差し置いて庶子が大きな顔してりゃ、本妻も黙ってないさ」
という声があちこちから聞こえてくる。
『何も知らないくせに、何言ってやがる』
『この吉原を守ってきたのは誰だと思ってるんだ』
朱雀と白虎は聞こえないと分かってても、悔しくてつい大きな声で言い返してしまう。
「まぁ言ってることは事実だから」
雪之丞が二人をなだめるように言った。
『追放は違げぇだろうが』
似たようなものだろ、と雪之丞は自虐的に笑った。
「どんなに頼りにされても、守れなければ意味がないんだ」
雪之丞はぽつりとつぶやく。そんな雪之丞を見て、青龍はたまらず口をはさんだ。
『世の中には人の力ではどうにもならないことが、いくらでも存在します。ですから全部背負うとするのはおやめください』
青龍が気を遣ってくれるのはありがたいと思う。だが、結果が全ての陰陽師という仕事では、依頼者を守れなかったら意味がないのだ。
『井伊が暗殺される運命だったなら、お前があの雪の日の事件から井伊を守ったとしても、別の日に暗殺されただろうよ。運命ってやつはそんなもんさ』
どんなに人間があがいたところで、運命には逆らえない。神籍に身を置く者としての朱雀の意見は正しい。青龍も言いたいことは同じである。しかし。
『朱雀。あなたは少し言葉を選ぶことを覚えてください』
『俺はお前みたいに、物事を歪曲に言うのは性に合わねぇんだよ』
また始まった、と間に白虎が割り込むまでがいつもの光景だ。木将の青龍と火将の朱雀は陰陽五行的にも相性は良くないので仕方ないが、旅が始まったばかりだというのにこれでは先が思いやられる。雪之丞は二人の言い合いを眺めながら、道中を案じて大きくため息をついた。
土手をしばらく進むと、前方に閑静なたたずまいの寺がもやの中に見えてくる。門前に寺の、浄閑寺の住職がたたずみ、雪之丞の姿を見つけるとゆっくりと会釈をした。
「今朝旅立ちと聞きましたので」
「ご住職、わざわざ見送りありがとうございます」
「旅立ちの時に何ではございますが」
住職が少しばかりためらいがちに言う。みなまで言わずとも、雪之丞にはその意図を理解する。寺の奥から気配を感じたからだ。
「分かりました」
ここ浄閑寺は、吉原の女郎が亡くなった時に運び込まれる寺だ。物の怪が放っておくはずがない。案の定、本堂の前に横たわる
「雪之丞様。この者は、かつて花魁だった唐橋にございます」
住職の言葉に雪之丞は驚いて、すぐに声が出なかった。雪之丞が世話になった妓楼の
「身請けされたと聞いておりましたが」
清花とほぼ同時期に身請けの話が持ち上がり、二人の花魁がいなくなるのは由々しき事、ということで唐橋が先に身請けされることになったのでよく覚えていた。
「雪之丞様が日本橋で仕事をされていた間の事です。身請け話が破断になり、それが元で気の病に罹ってしまいました」
それからのことは言わずも、亡骸が物語っていた。亡骸になっても、物の怪に巣食われる身はあまりにも救いがない。雪之丞は懐から短刀を取り出して、亡骸の上にかざした。
白梅兼定。会津藩お抱えの刀工、会津兼定作の浄化の刀である。
――どうか安らかに旅立ってください。
白梅兼定がほんのりと光り、弧を描いて温かい光が広がっていく。やがて光は唐橋を優しく包み込むと、群がっていた物の怪がたちまち消えていった。
――ありがとう、雪之丞様。
在りし日の凛とした唐橋の声がすると、やがて一頭の蝶が黎明の空に舞い上がっていった。
「穏やかに浄土へ参りましたな」
「そうだと良いのですが」
そう言って亡骸に目をやると、苦悶に満ちた顔がほんの少しだけ穏やかな表情になっている気がした。
「足止めをしてしまい、申し訳ありません」
「とんでもない。お役に立てたなら幸いです」
雪之丞は一礼して山門へと向かう。ちょうどその時、東の空からまばゆい光が広がり、雪之丞の薄江戸紫色の羽織を桜色に染める。住職は思わずその背に手を合わせた。
「旅路に幸が多くあらんことを」
雪之丞の京の旅は、定番である東海道ではなく中山道を選んでいた。今は第一番目の宿場町、板橋を目指してその中山道を歩んでいる。雪之丞の前に朱雀が、横には青龍、
『そろそろ板橋宿に着く頃ですね』
白の狩衣に翡翠色の内着の懐から、
陽が昇ってくると朝の寒さも和らいで、歩いているとうっすら汗をかく陽気になる。夜の活動が多い雪之丞は、陽の下での長時間の行動は体力が削がれた。
『休憩していきますか?』
そろそろ休憩が必要となる頃、と踏んで青龍が聞いてくる。雪之丞を覗き込むと、龍の形をした
「かなり時間がかかってしまっているから、休憩なしで行こう」
すると、単衣の上に重ねた緋色の薄絹を羽のように春風になびかせながら、前を歩いていた朱雀が白虎に向かって言った。
『白虎、腹減らねぇか?』
白虎は体格に似合わず、細かいことに気が付く男だ。朱雀の意図を読んで、すぐに反応する。
『ああ、実はさっきから腹が鳴って仕方ねぇ』
『だとよ。おい青龍、板橋宿の名物って何だ?』
まったくあなたたちは、とぶつぶつ文句を言いながらも道中記をめくる。
『大根が名物のようです。評判の店が仲宿にありますね』
「仲宿?」
『板橋宿は江戸四宿の一つで、川越街道の起点でもあります』
残りの江戸四宿は東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、奥州と日光両街道の千住宿。板橋宿は三つの宿場からなり、江戸側から平尾宿、本陣のある仲宿、上宿の順である。宿も三宿合わせて六百弱と、かなり大きな宿場町であった。ちなみに、仲宿と上宿の間にある橋が宿場名の由来と言われている。
というようなことを、青龍が長々と説明をしているうちに、当の平尾宿に着いてしまった。初めて見る板橋宿に、興味津々で雪之丞が眺めていると、
「遅かったじゃないか」
と、不意に声を掛けられる。
『
雪之丞より先に青龍が呆れ声を上げた。ひょろりとした身体の上に、月代の頭とつかみどころのないひょうひょうとした顔の男。
「可愛い息子が挨拶もなしに旅立とうとしているから、見送りに来たんだよ」
「文を差し上げたではないですか、父上」
「あんな連れない形式的な文、父は悲しいなぁ」
どんな文を出しても来たに違いない、と雪之丞は諦める。晴家はそういう男だ。
「とにかく、こんな道のど真ん中では邪魔だから、店に入ろうか」
『仲宿に美味しい大根の店があるらしいぜ』
「そうかそうか。じゃ、そこにしよう」
こうして、父による板橋宿の強制休憩が始まった。
『うん、付けだれの味噌がうめぇな』
大根にかぶりつく朱雀と白虎を横目に、父と子は向かい合っていた。
「京には三月四日前日には着いて、二条城へ行ってね」
そう言いながら晴家は、二条城の門番へ手渡すようにと一通の文を懐から取り出した。三月四日前日とは、また細かい。
「三月四日に何があるんですか?」
「それは、着いてのお楽しみ」
「そんな楽しみは要りませんから」
いちいち言い方が癇に障る。だから雪之丞は父が苦手だ。
『二条城とは穏やかではありませんね。何を企んでるのですか』
青龍に言われて気が付く。二条城は京での将軍の住まい。と言っても、ここ二百年近く使われていないはずだ。
「だいぶ使われていないからね。物の怪とかたくさん溜まってるでしょ」
「それは、京の土御門の本家が払ってくれているのでは?」
「京にあっても二条城は幕府の管轄、帝の陰陽師である本家には手出しできないんだよ」
そういうものかと、とりあえず納得してみる。幕府とか朝廷とか、
「あ、今面倒くさいって思っただろう?」
図星を付かれて、食べかけた大根がのどに詰まりそうになる。すかさず横から青龍が茶を差し出した。
「私には政は関わり合いのないことです」
雪之丞は青龍からもらった茶をすすりながら言った。将軍付き陰陽師の後継ぎならともかく、
「そうもいかないよ。京へ行ったら、嫌でも幕府の人間という事が身につまされるからね」
と言われても雪之丞にはぴんとこない。
「京での身元引受人は、京都守護職の
だからをいちいち区切って言うのが、雪之丞をいらつかせた。
「そういう重要なことは、早く言ってください」
そうとなれば、雪之丞は幕府の人間とみなされる。のんびり陰陽師の修業生活、というわけにはいかなそうだった。とはいえ、京に知った人間がいるのは心強い。特に容保は「見鬼」のため、江戸在中時から何かと縁があった人物だ。
「容保公も大変だね。京都守護職なんて面倒な仕事を押し付けられて」
あんたは押し付けた側だろうが、と雪之丞は心の中で思う。
「だから、容保公のお役に立つのだよ」
「はぁ? 私は陰陽師の修業のために、京へ行くのではないのですか?」
「修行はどちらかというとついで、かな?」
『落ち着け、雪之丞』
短気な朱雀に言われたくない。だが怒りたくもなる。修業と京都守護職の補佐とでは、意味合いがだいぶ変わってくる。
「京が治安が悪いのは知っているね? 町が荒れれば、物の怪も増える。京の治安を守るのは、何も人間相手とは限らないんだよ」
町奉行が京都守護職に代わっただけで、今までやってきたことと変わりはない、ということか。江戸追放という言葉がますます胸に刺さってくる。
「雪之丞。陰陽師と言う仕事は、どこにいても変わるものではない。やることは同じだよ。民のため。それを忘れるんじゃないよ」
父と惜しくもない別れを交わし、一行は上宿へと進む。「江戸」の範囲は、この板橋宿の上宿の木戸までである。ここから先は江戸にあらず。雪之丞は不安を胸に、江戸から一歩を踏み出した。
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