四日目:何も注文しない夜(前編)
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その夜、看守はいつものように扉の前に立った。 鉄の扉の前に立つその背は、昨日よりも少しだけ重たく見える。
足音が廊下に響くたび、牢獄の空気は冷たく沈んでいく。
石壁に囲まれた空間は、まるで時間が止まったかのようだった。
「……今夜のディナーは?」
声の大きさはいつも通りだったが、不安が混じっていた。
だが、死刑囚ジャウハラは首を横に振った。
その動きは、ゆっくりと、確かに拒絶の意志を示していた。
「今日は、いらない」
看守は少し戸惑った。
この国の習わしでは、死刑囚は望む限り、毎晩食事を取る権利がある。
それを拒む者は、ほとんどいない。
食事は、最後の人間らしさの象徴でもある。
それを断るということは──何かが、終わりに近づいている証だった。
「理由は?」
しばらく沈黙が続いた後、死刑囚ジャウハラはぽつりと答えた。
「食べたい記憶が、もう思い出せない」
その言葉は、まるで空虚そのものだった。
牢の中は、しんと静まり返る。
食器の音も、香りもない夜。
ただ、空腹と沈黙だけが、二人の間に横たわる。
それは、言葉よりも重く、冷たい。
「……ジャウハラ隊長」
看守の声は、少し震えていた。
その名を呼ぶことに、罪悪感と敬意が入り混じっていた。
「もう隊長ではない、ただの死刑囚だ」
ジャウハラの声は、静かだった。
だが、その静けさの中に、深い断絶があった。
かつての栄光は、今や鉄の枷に変わっていた。
「では、少し、お話をしませんか。他愛ない話……なんでもいいです、たとえばそう……、そうですね……バザールの思い出なんかどうですか?」
その言葉を聞いた死刑囚ジャウハラは、ほんの少しだけ笑みを見せた。
それは、過去の光が一瞬だけ差し込んだような、儚い笑みだった。
「……サフラ。お前と会ったのは、そう、十年前のバザールだったな。お前が貧しさのあまり盗みを働いて……俺がそれを捕まえた」
ジャウハラの声には、懐かしさと哀しみが混じっていた。
あの頃の自分は、まだ理想を信じていた。
正義とは、誰かを救うことだと、信じていた。
「はい。お恥ずかしい限りです。しかし、それがきっかけで、罰を受けたあと、教育を施される機会を得ました。ジャウハラ隊長が、『お前は真っ当に生きられる』と、背中を押してくださった。僕は、あれから、真面目に働いて更生して、今は……」
「……立派に看守を務めている、と」
大柄になった体をちぢこめて、看守サフラははにかんだ。
その姿は、かつての少年の面影を残していた。
ジャウハラの言葉が、彼の人生を変えた。
それは、確かな事実だった。
「……ジャウハラ隊長のお陰です」
「皮肉なものだな、あのとき……今は……真逆のようだ……」
ジャウハラは、くっくっと笑った。
その笑いは、苦味を含んでいた。
かつて導いた者に見守られながら、今、自分は死を待っている。
そんな死刑囚ジャウハラに向けて、看守サフラは必死に問いかけた。
「ジャウハラ隊長のような立派な方が、陛下を殺めるなんて信じられません! そうだ、誰かに罪を擦り付けられたのではないですか? もしそうなら、今からでも無実を訴えましょう! 僕は、ジャウハラ隊長に死んでほしくありません! だって、僕は……!」
声は震え、言葉は涙に濡れていた。
サフラの心は、かつての恩人を救いたい一心だった。
だが──。
「…………」
死刑囚ジャウハラは、虚ろな目をしてうつむいた。
その瞳には、後悔も、怒りも、悲しみもなかった。
ただ、静かな事実だけが宿っていた。
「間違いない。俺が陛下を殺めたのだ。この手で。胸に、
その告白は、まるで刃のようだった。
サフラの希望を、静かに切り裂いた。
そして、牢の夜は、さらに深く沈んでいった。
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──死刑執行まで、あと三日。
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