瓦解の終着点

@daikiukita

瓦解の終着点

瓦解の終着点

はしがき

 

 君が恨んでる人は地獄に堕ちない。

 誰かが君を憎んでいても君は地獄に堕ちない。


 世界は僕を許さないと思っていた。でも裁く者も存在しなかった。いくらでも悪いことはしてきたと思う。人の陰愚痴を言った。浮気もした。会ったばかりの女と平気で寝てきた。家族を壊した。今君に話せば、読む気も失せ、この本すら燃やして全て無かった事にしてしまう様なエピソードの百や二百は持っていると思う。しかし同じくらい、もしくはそれ以上に世界から傷つけられてきたと思っていた。でも、それは「世界」ではなく「社会」という崩壊した概念の一つに過ぎなかった。

 この話をするには1週間ほど前に遡らなければならない。僕は江ノ島にいた。そこにはどうしても好かない女がいた。この旅はそんな女のどうしても行きたいという誘いから始まったものである。2人では行きたく無かったので、友人を誘った。友人がいれば少しは楽しめると浅はかながらに思ってはいたが、とにかく空気の読めないこの女がクラッシャーで、僕らが企画した花火やら、スイカ割りやらにやる直前になり、文句を垂れてくるので、腹が立っていた。その腹立ちはそこまで周囲の冷たい目線にすら心を閉ざし、たとえどう思われようともそんなことすら気づかない鈍感さに対する羨ましさからの嫉妬心が無い事は無いとも言い切れないのだが、まぁ、人間とは罪な生き物な者で、多少なりともこの女が可愛ければ、むしろ美人のわがままであれば、喜んで頷く気にもなるのだが、かけらもないこの女には腹を立てる一方であった。

 流石に我慢ならないことが続き、注意をするも、倍の言い返しが返ってくるだけで、本当にこの人は周りを見る、という事象が存在しないんだと気づく。ご愁傷様。

 気を取り直して観光することにして、江ノ島の橋の上を歩いてみるが、17時ごろだったと思う。この世の言葉であてがうことすら禁断に感じていく様な沈みゆく夕陽に照らされた、すべての目に映るものに当然の様に言葉と時間を忘れていった。それは蒼をとっくの真昼に置き去りにして、紅オレンジすら超越して、ピンクになったあたり一面、山の向こうの空、遠くの水面に出たイルカのヒレ、泣きたくなった。わからない、でも愛おしい。「水」を感じた。全てに水を感じた。これはこの日の数日後、生死を彷徨った時に確信に変わった。

「そろそろ行こうぜ」友人の声、好きな声、現実に戻る。

 その後、どんな見晴らしがいいとされているところに登っても、もうあの時間が停まる感覚に戻る事はなかった。

 一通り島を散策し終えた頃、事件は起きた。やはりあの女だ。今度の標的は僕個人だっが僕に直接何か言ってくる訳でもなく、友人に向けて、僕が如何程に美しくないかを学級委員かの様に高々と解き始めたのである。これには元々腹を立ててたこともあってかなりムカついた。こういう事が起こりかねないので最低限の関わりだけでなるべく避ける様にしてたのに、僕の人生の大体は避けようとする奴ほど近づいてくる気がする。欲しい人ばかり離れていく気もする。それはそうと、美容にはかなり気を遣っている。イケメンと呼ばれるのもある程度の多数派の共通認識であり、それ相応に見た目には努力と自己投資をしているので自他共に認められるのも当たり前だと思っている。しかし、それが気に入らない様子でいかに僕が安っぽく見窄らしいかだけを誇らしげに語り出すものなので会話に割って入る。

「お前が生涯付き合うどの男よりも美しい自信はあるよ」

と伝えた所、

「それは主観じゃない?」

 ……何を言っているんだこいつは。

 続け様に言い負かしてやろうと

「美貌を手にするために使った時間も金も…」

 すると言い切る前に食い気味に

「なら、お金使ったもの勝ちじゃん。お金に逃げないでよ。」

 なんて言ってくるのだが、少なくとも維持する為にはお金も時間も必要という事、その為に週6日必死に働き続けているという事、親の仕送りだけで悠々自適に大学生活を満喫しているこいつだけには何も言われたくなかった。

しかしながら、会話ができない女なので最後に

「そんなに否定したいなら美について調べたらいいじゃん、君からはなんの才覚も、努力の痕跡も見受けられないけど?」

 すると痛いところを突かれた様子で

「まぁそうだけど…」

 またネチネチ言われそうになったので、今度は自分が食い気味に

「はいっ、この話おしまい!もう何も聞かないし、言うこともありませーん!」

 と、お道化をかますと、彼女は、知っていた。僕が世界の愚かさやら、人の寂しさを嘆き、死や孤独を身近に起き、苦しみや生きづらさを纏い、弱さをアイデンティティとし、そんな作品の中でなんとか生きながらえている事、それをこんな奴に言ってしまったことを激しく後悔した。

「お前は可哀想に、誰にも理解されないまま死んでいくんだよ。孤独死だね笑」

 …頭が白くなる前に体が反応した。橋から飛び降りて死んでやろうとした。いや、死にたかった訳ではない、死がどれ程の物か自分の死を見せて教えてやろうと思った。この女が如何程に死と向き合っていないか叩きつけてやろうと思った。自分の死により、人殺しの自覚を持ち、一生心から笑えない体になって仕舞えばいいとすら思った。しかしそれを本能が止めた。体は橋の欄干を飛び越えることを許さなかった。体がロックされたようだった。慌てて首を絞めようとするも、またしても右手は本能の元、封印されて左手のみが自分の首を絞めた。動かない、力が入らない。体が完全にシャットダウンされた。滑稽。なんとも、滑稽。恥の上塗り、片手では人は死ねまい。もちろん通行人すら気にも止めない。それでも過呼吸になるまで動く左手のみで自らの首を絞め続けたのは、きっとあの女がなんとも中途半端な自分を見て、“ほら、死ぬ気なんかこれっぽっちもないんじゃない。”と薄汚い嘲笑で勝ち誇っている所を見たくなかったからに他ならない。見かねた友人に止められ、その場所に倒れ込み、

「あぁ、ストロングのロング缶を買ってこい。酒で酔わなきゃここから一歩も動かない。金は何倍かにして返すから。」

 なんてガキみたいにわがままを言うと泣き出した。ただただ、泣き出した。

その間に完全に陽はもう完全に落ち切って、橋から見える景色からは高速道路の街灯が規則正しく並んでいる。民家の明かりがまばらに遠くに見える。橋の上の人の3人に1人くらいはその明かりを見ては、綺麗だと足を止める、まるで希望の光だと言わんばかりに写真を撮っていく。その光を見た僕は再度ダムの決壊のように、ギリギリで堪えていた何かが、歯止めが全く持って効かなくなり、大泣きした、嗚咽と鼻水も関係なく、大泣きした。なぜ、なぜ傷つける側は決まっていつもこんなにも鈍感で、何も気にせず人を傷つけるのか。なぜ死と向き合わない人間ほど、軽々しく死を口に出来るのだろう。今も言葉巧みに僕がどれだけ害悪かを喋り続け、被害者アピールをしていることだろう。そしてこの後家に帰り、ぐっすり寝て、何事もなかったかの様に朝食を食べ、明日のことに全力で取り組むのだろう。友人が酒を持って戻ってきた。女はとっくに車に戻っていたみたいで、全員が自分を待って立ち往生しているらしい。友人に言った。

「あぁ、あれは絶望の光だ。この場所で自分たちが傷つけあった様に、見える限りの光の下で人が人を傷つけている。人を傷つけなくては、人は人の形すら保てない。こんな世界もう嫌だぁぁぁぁ。うわぁぁぁぁぁん。」

 泣き喚き、当たり散らす。友人が優しい声で囁く。

「それでもこの光の下で愛し合ってもいるよ。」

 僕は心の中で、こう反論した。腹の中から愛を授かって生まれた愛し合う能力を持ち合わせた者が傷つけあっているから辛いんだ。決して最初から傷つけることしかプログラムされていない悲しい生き物なら、こんなに胸が締め付けられる想いになどならない。人は傷ついた先でしか優しさを手にすることなどできない。傷つき、苦しみ、その苦しみの中でようやく相手の心と相対し、ようやく優しさが芽生えるのである。傷ついた人間は傷ついた分だけ優しい。人は傷つかなすぎだ。それすら分からない人間がこうも愛すべき心優しき人間を壊していく。

 でも、そんなことはもうどうだっていい。どうやら僕が全部間違っていたらしい。

上司に呼び出され三階へ上がっていた。会社は小さい。創業4年目で僕は3年目の2期生だった。様にならないスーツに身を通して3年経てど慣れというものは一向に訪れない。必死にメンタルが強く豪傑、単純明快人間を演じる道化師であったが、決してバレることもなく上役からこ信頼も勝ち取り、まとめ役と言う名のリーダーとなっていた。それなりの兄貴肌で男子からは慕われていたと思う。いや、その為のお道化だ。入社したての緊張した新人を見かけてはその趣味やら趣向、生い立ち、なるべく嫌がられない、それでもそのギリギリを突く事が人に信頼される一歩であると確信し、うまく立ち回っていたと思う。そして極め付けは、こちらが先に恥を晒す事であり、男子の内輪ノリで、あの女性社員のケツがエロいだの、胸がシコいだのと話をすれば、こいつバカだな、バカすぎて警戒するにすら値しないと思われる、その無警戒さこそがバカとしての信頼関係である。お笑い芸人が無邪気を装いバカな事をしてそれに対して屈託もなく笑えるのはそれと同じだ。このテレビの前のお笑い芸人にも苦悩やら、苦しみ、様々な喜怒哀楽の先に辿り着いたお笑いだと感じ取って仕舞えば誰も笑うことすらできまい。お笑いの人間は真剣にバカを演じ、僕らを笑わせてくれている。しかし、笑えなくなった今もお笑いは決してつまらないと思わない。この作用がこう働き、そこにこう笑いを生み出していると考えることはとても面白くて、愉快だ。

 話は逸れたが、上司と階段を上り、タバコ休憩中の後輩達を18なのにやれやれなんて話しながら退かすと、

「フジタくん、まずいよ。セクハラです。呼び出して体いいねって、それとDMがしつこいっ言う報告が2件程来てます。」

「えっ……」

 少し驚いた。まず、女を呼び出したことなど一度もない。男の内輪ノリでそんな話をしていた訳だが、“犯す気”なんて毛ほども湧く物か。いつも周囲に溶け込むことで精一杯なのに、明らかな誇張が含まれている、DMだってそうだ。業務上必要なことを送ったに過ぎない。それに付随して成り行きでDMが行き来していた訳で、一方的になんて…………。と反論を繰り出そうと思ったが、辞めた。理由は大きく分けて二つあった。一つは上司があまりにも優しく、心配そうに話してきた事、これも自分の道化が起こした悲劇、無性に申し訳ない気持ちになった為である。もう一つは、あぁ、もうダメだ。今まで馴染めてない事がバレてしまうのが恐ろしく、必死にお道化を演じてきたものの、それすら受け入れられないのであればいよいよもうこの世界に生きる余地なんてものが存在しないと完全に理解したからである。体の力が抜けた。

 “もう、辞めよう”

弱々しくて惨めだが、確かな決意であった。

「はい、すみませんでした。以後、気をつけます。」

 上司は最後まで僕を気にかけてくれた。

その日の昼休みから遺書を書き始めながら死に方について調べた。“自殺”と言うワードを入れて仕舞えばいのちのフリーダイヤルが出てきてしまい何も進まない。電車や高いところからの飛び降りであれば確実かと思うが、江ノ島の時のようになる気がした。後から迷惑をかけるのが嫌だったとなんとでも言い訳はできるが、単純に怖かったに過ぎまい。死に方にODを選んだのは幾分か飲み込むだけで簡単だと思ったのと、その確実性に疑問はあるが、“若者がOD!昏睡でそのまま寝たきりに!」なんて記事があり、それが妙に魅力的に見えた。この際、なんでも良かったのかもしれない。昏睡、植物人間、来たる明日から逃げられるのであればもうどうでも良かった。薬選びは難しかった。いろいろな情報が錯綜していてよく分からなかったが、メジコンという薬に決めた。やはり昏睡死の前例が決め手となった。昼休みに職場近くの薬局に行き、一人一箱までのその薬を買った。20錠、仕事終わりに恋人を安いイタリアンに呼び出してその道中、薬局をハシゴして五箱ほど入手して、レストランに向かう途中に最後のお別れの手紙を書いた。恋人と呼ぶにはあまりにも都合が良く、軽薄な仲ではあったが、やはり、最後に女の顔を一目見たくなるものだ。

 僕の人生は一体いつから壊れてしまったのだろう…………。

草むらでカマキリを追いかけ、DSをして、ドロケーも。一体いつから、何を間違えていったのだろう。

そんなことを遺書が進むにつれて思い出し涙が止まらなくなる。

 幸い彼女と集合場所の高田馬場に着く頃には涙も引いていた。

「今日は奢りだ。たくさん食べていいよ。サイゼだけ 

 ど…………笑」

 年中金欠の僕とのデートは3つ下のこの子に対しても基本は割り勘だったから、少し驚いた様子だった。

「えっ、いいの?」

「うん、臨時収入が入ったんだ、気にせず食べて、サイゼだけど…………笑ドリンクバーにする?」

「水でいいよ。持ってきてあげる。」

 ジュースよりも水を好む様な、素朴というかなんというか、まぁ純粋でいい女だった。

薬代でもう財布の残金は3千円程度になっていたがそれでも充分だった。もう終わる人間に金などあっても仕方ないのだから。

 そのまま会社のすぐそばの公園で死のうと思ったが、暗くて蒸し暑くて、それどころではなかったので、一度家に帰る事にした。

 また思う、僕はいったい誰に騙されてこんな事になってしまったのだろう。親か、教師か、教師か、友人か、それとも自分自身なのか。哀しい気持ちに対して、もう全て終わりだから、とうとう自分は最後まで誰からも認められることはなかった訳だが、それでもここまでまよく頑張ったと言い聞かせれば、様々な感情が込み上げてぐちゃぐちゃになり、涙が落ちる。僕はだいぶ脆い方だ。あとは生きながらえてしまった時の言い訳ばかりを考えていた。ストロングゼロで酔おうと思ったが、不味くて飲めたものじゃない、半分ほどしか減らなかった。



        7月30日 午前2時


(前略)

 

 はじめに僕の死に事件性はありません。

 刑事の介入の必要性はありません。


 僕は生涯人目を伺い、本心を見られる事が恐ろしくて仕方ありませんでした。もう疲れてしまったのです。そんなことをしているうちに次第に本音が何かすらわからなくなっていったのですが、それでもよく分からなくなった何かを探し続けてきました。ですがそのお道化の姿ですらそがいされ、存在を許されないので、命を絶ちたいと思います。

 僕は目の前の女に発情したことなど、一度たりともありません。下心というものも分かりません。そそる事など微塵もありません。しかしあたかも目の前の女に発情し、そのことしか考えられるなくなる様な“バカ“を演じなければ生き延びることすらできず、そのくらい何者にもなれず、苦しんできました。まるで悩みなんて一つとして持つ能力の無き鈍感な人間になりすましてきました。つまり人の、君たち人間の真似事をして生きながらえてきました。でも世界の風は君たちの味方ばかりするし、冷たい陰口の唄は、虚構や誇張をたっぷり含んでなるべく大きく人を傷つけるように唄われる。みんな愛のもと生まれてきたはずなのになぜ傷つけ合わなければならないのか。僕はたくさんの人に傷つけられてきましたが、それ以上にたくさん人を傷つけてきた気がします。今回の件で何が真実で何が虚構かは、遺品整理の時にスマホを見れば明らかになる事だと思うので、特に言及は致しません。それでもボクに犯されそうになった哀れな被害者でありたいと思うのならば、怖くなって消しちゃったんですけど、フジタさんも隠蔽の為に消したみたいです…………とでも言えばいい。生きる側の人間が自分を守る為にする事なので自分は構いません。


            (中略)


 ただ君たちが、いや世界中の人々が、人をキズつけなくても生きていけるくらい暖かい世界になる事を祈っています。仕事はとても楽しかったです。今思えば吐きまくって介護されたり、そのお礼を渡す為に万馬券を取りに勤務後にWINSに行ったり、はちゃめちゃだったけどとても楽しかったです。みんなのことが大好きです。

 では、暑い日が続きますがお身体にお気をつけて。

                 

                  さよなら。



 この遺書を書く動機の90%くらいは、今回の件で僕を疎外しようとした主犯格への当てつけである。周りの同調した人間は、考える能力のない、正真正銘の“バカ”に過ぎないのだから。

 続けて父に向けてこう書いた。 




         (前略)



 小さい頃から間違ったことも沢山教えられて来たが、自分はしっかり両親から愛されて来たと思う。

 トメ子(祖父)に関しては親不孝ながらも、俺が死んでも新しく生まれてくる命があるから、(姉の子供)上を向いて生きるんだぞ。ばあば、大好きと伝えて欲しい。沢山わがままを押し通させてくれる優しい父だよ。だから、大丈夫だ。こっちのことは心配ない。強く生きろよ。新婚生活頑張ってくれ。産んでくれてありがとう。家族のことを愛しています。俺が死んだからってショックで仕事辞めるとかは無しな。それはそれ、これはこれ。だから気にしないでしっかり夢の続きを進んでくれ。

     

                藤田 樹

 

 その他母と姉宛てに遺書を書き留め、友人には、僕は尾崎豊にも、太宰治にもなれない、中途半端な男で終わりましたと情けなさだけを書き綴った。



 夜のうちに決行しようと思っていたが、だらだら遺書を綴っているうちに外は明るくなっていた。薬を一粒ずつ開けて手に取った。白い錠剤。これから自分を殺す物を見つめていていると、一抹の不安がよぎった。ひょっとして飲んでも何も起きないんじゃないか。後3時間もすれば始業の時間だ。そうすれば何事もなかったかのように仕事に戻らなければならない。最初の30錠を口に放って、深く考える前に慌てて一気に水で流し込んだ。どうも20〜30錠ほど飲めば幻覚の症状が現れるらしい。すんなりと体が受け入れた事に安堵して、そこから100錠全て飲み干すには時間は掛からなかった。そんな安心も束の間、猛烈な胃の痛みと不安を感じる。腹の中の痛み、感じたことが無い程に締め付けられるような不吉な痛み。胃が、やがては内臓全てが焼け溶かされる様な感覚を覚える恐ろしい痛みだった。本能がメジコンの空になったシートを一枚ポケットに入れて、慌てて外に出た。血の味がするゲップを何度もした。これから起こるであろう無惨な出来事からもう逃げることもできない恐怖心を上書きする様に、"最後だからもう頑張らなくていいんだ。"とおまじないの様に自分に言い聞かす。やがて一歩一歩を実感しないと歩けない様になり、10分もしないうちに震えが止まらなくなっていった。慌てて小さな道端にある公園に入りゲロを吐いた。毛虫が潰される様な薄緑色の嘔吐だった。その時はもう体の自由はほぼ効かなくなっていた。呼吸ができない、苦しい、嘔吐も止まらない。大丈夫、大丈夫、尾崎豊だってこの景色を見て逝ったはずだ。怖く無い、お前はよく頑張ったんだ。怯える事はない。最後の力で親友に、"生きていたらまた会おう"とLINEし、なるべく発見してもらいやすい様に道路側に倒れ込んだ。サラリーマンの初老の中年が華麗にスルーしたのを見て、不安と一緒に目を閉じた。

朝6時、区外のサラリーマンはチラホラ出勤し出す時間だ。小学生時代のサッカー合宿朝を彷彿とさせる澄んだ早朝の空気、やはり一体どこで僕はこうなってしまったのだろう。

「大丈フ?今、救急スァ呼フから」

 中年の女の優しげな歯抜け声で意識が戻る、この女も呂律が回っていない様子だった。助かるかも知れないと思った。助かる、助かる事が果たして幸せなのか、分からない。けれど多少の希望と希望を持ってしまった自分に対する落胆の二つの感情が混ざる事には、あぁ、やっぱりかと思わざるを得なかった。119に病状を聞かれている様子だった。

「――――どうしたの?」

「――メ……コン……メ……メジコ……ン……。」

「分からないでスゥ。とにかくたくさん吐いセいセ、サベられないソうたい(状態)みたいで。」

「今、救急スァ呼んだからね。」

 女の声からこの上ない人生においての苦悩を感じた。もう目など開けれる状態では無かったが、その声は確かに僕の心をつついていた。あぁ、限界、この女も苦しいんだ。限界故の優しさ、傷故の優しさ。そんなこの女の優しさが僕を包むと、自然と口が開いた。

「お姉さんもツラいでしょ………。」

「私?私は大丈夫だよ。」

 少し驚いた様子だった。その言葉を聞き取ると、また気を失う。次に目が覚めた時には救急隊がいた。

「ここどこか言える?」

「………………。」

「何したの?」

「…………メジコン………メジ……コ……」

 必死に伝えようとする。もう声になっているのかも分からない。体の自由が全く効かなかったが、その他の苦痛と言うものが全くなかった。体は死を受け入れる準備が出来たようだ。コンクリートに倒れ込んでいるのはどことなく心地良いような気がした。野生で喰われる草食動物がどこか気持ちよさそうな顔をするのと似ている気さえした。

「さっきからずっとネジコ、ネジコって言っているの。」

 女が言う。

「ネジコって何?」

「…………メジ…………コン………。

「メジコン?メジコン飲んだの?」

「………………。」

 必死に飛ばされまいと握りしめていたメジコンの空シートを隊員が見つけた。

「メジコン飲んだのね?何錠?」

「…………ヒャク………………。」

「お酒は?」

「………………………………。」

 運ばれていく。どこまでも、どこまでも。やがて車内の時は止まった。隊員たちも。停止した時間は無限のようで一瞬のようにも感じた。歪んだ時間軸を僕は彷徨った。幽体離脱、とでも言えば近い感覚でもあり、それもまた安っぽい言葉に聞こえてしまうような場所に来ていた。世界は矛盾の中で生まれ、全ての矛盾達が繋がっていく。もう元の姿には戻れないと悟った。しかし、恐怖など無かった、もう自分は自分じゃない所にいた為である。誰かの夢を見ていた気がする。長い夢だ。俺は誰だ?

 「フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、」

 永遠と鳴り響く。フジタの景色か、フジタ、フジタって誰だ?思い出せないが、その昔、もうずっと昔のことに感じるが、フジタと言う肉体と深い関わりがあった気がする。へその緒?いや、もっと離れられない物で繋がっていた気がする。元々は一緒だった気がする。水でできた世界では螺旋のみが若干の喜びを生み出す。

 「フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ、フジタ………………………………………………」

 フジタって誰だ?深い関わりがあった気がする。思い出せない、止まった時空の中で何度も繰り返した気がする。フジタって誰だと思えば、関わりがあった気がする。フジタってなんだ、自分はフジタなのか、そもそも自分ってなんだ。ニンゲンってなんだ。生物ってなんだ、一元化された世界では自分は存在するが、自分は存在しなかった。次第にその繰り返しは自殺に変わる。

「ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ」

 俺は"ジサツ"したのか。あれ、ジサツってなんだ。ジサツ、あれ、俺は誰だっけ、俺はなんだ、俺ってなんだ。

「ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ、ジサツ……………………。」

 頭の中がゲシュタルト崩壊して、それはとうとう言葉の外側まで来てしまった。その時世界が全て壊れていたことに気づく。自分が壊れたことによって世界の歪みに気づくことが出来た。元々壊れていたんだ。ビリビリのバラバラだった。きっとそれらをあたかも壊れてないかのように長い歳月をかけて照らし合わせて積み上げた概念こそが「社会」である。これまでの僕はどうやらこれを世界と勘違いしていたようで、世界というのは瓦解された全ての存在達のつながりでできたこの場所のようにも感じた。そして僕はきっとこの壊れている世界を受け入れたくなくて、それは頭で理解してしまうことが怖くて堪らなくて、世界を憎んでなんと重ね合わせて社会にしがみついていたのであろう。無論、壊れた世界になどそんな感傷は入り込む余地などなかった。ここではどんな言葉さえもなんの意味すら持たなくなる。そんな言葉と共感のみで重ね合わせた概念なんて物は、言葉を失った時にあっさりと壊れていった。壊れた世界は世界の単純さのみを思い出し、全てが分解されて小さな粒になっていた。その小さな玉達が一生懸命働いている。この世界に頑張っていない存在など1つとしてないのだ。暫くすると、突然視界が真っ白になり、宙に打ち上げられた。あぁ、"死"が始まる。そう確信した。その真っ白な世界に似た場所を以前見たことがある。小学3年の秋、下校中の事だった。猛スピードの車に撥ねられて、それもかなりの距離吹き飛ばされた。その飛ばされる最中、その時も内心、あぁ、これはもうただ事では済まないだろう、と悲観的になることも無く妙に冷静に考えたことがある。その時に連れて行かれた真っ白な所にそっくりだった。死が始まる、俺は多分死んだんだなと、今もまた落ち着いて自分の状況を分析していた。白い世界の中、高く運ばれていく。恐怖心は無いわけではなかったが、それは脳の命令とは無関係に勝手に運ばれていくことによる多少なもののみであった。やはり死に対する悲しさや、怖さなど、精神的な恐怖や苦痛は全く感じなかった。それは、打つ「手」が無かった事、つまり諦めるしかなかったからなのかも知れない。仮に肉体が残っていて、出口でもあるものなら今の状況をすんなり受け入れれたかは些か疑問ではある。自然と宙に舞ったGは全く感じなかった。きっと肉体とはもう全く違う場所にいたからだ。こうしてすんなりと僕は死を受け入れた。死を僕が受け入れるしかなかったように、死も僕を受け入れるしかない。僕も、貴方も、大地も、生物も、物質も、この世の全てが世界であり、一つの大きな繋がりでしかなかった。運ばれた先の終点で僕はそれらとくっついた。僕は水だ。宇宙というものがもし、この上空に見える物などではなく、人間に感覚できる1番大きい物だとしたら、そんな大きいものと僕は水蒸気になり、くっついた。みんな、全てが水だった。この世界に存在するおよそ同時期に死んだ概念達と共に、水になり、そして戻るべき大きいものと一つになった。そこには、つまり死の世界には、天国も地獄も、そもそも裁くものなど存在しなかった。しかし、「無」でもなかった。善人も悪人も、クズも犯罪者も、聖人も還る場所はある、それは土でもなく、天でも無く、大きいものと一つになるだけなのだ。

 やがて2択を迫られた。生きるか、終わりにするか、と聞かれた気がした。それは生きると言う生物が生み出した最初の概念である。それは2択のプラカードを持った天使などではなく、言葉そのものの2択であった。僕は間を空けずに、必死に生きたいについて行った。多少の、え?生きれるの?と言う困惑を覚えると同時に救急車の後部ハッチが開く、光が差し込む。

「起きた?なんでそんなとしたの?」

「…………死にたかった。………………。」

「死のうと思ったの?」

「…………尾崎豊が…………好き…………。」

「そうなのね。」

「ここどこか分かる?」

「……とうきょうと…………。」

「おぉ、東京のどこ?」

「…………」

「ここどこが分かる?」

「…………」

「ここどこかわかる?」

 消えゆく意識の狭間で何回も聞かれるので、これは幻聴だと確信し、無視する事にする。時計の針がまた止まる。全ての時空がまた歪み始める。

 次に目が覚めると囲まれていた。男女5人くらいだと思う。みんな優しい顔をしている。1人が話しかけてきた。後から聞けば財布に学生証が入っていた為だ。

「美大行って絵、頑張ってるの?」

「…………ううん、……最近は文ばかり。」

「どんなの書いてるの?」

「……………人間失格ばかり書いてる。」

「太宰治が好きなのね?文豪になるんだ?」

 すると囲っていた周りの男女が、すごいね、なんて合いの手を入れてくるものなので、それはそれは気分が良くなり、こんなことを呟いた。

「…………ううん、嫌い、越えなきゃ、僕は弱さに依存しな…………い。…………」

 この感覚を覚えている。幼稚園くらいのよそのママさんはやたら煽てるのが上手い。どんどん調子に乗ってかけっ子が一位だっただの、サッカーで点を取っただの、おまけに幼児なら誰でももらえる空手大会の参加賞の金メダルの自慢さえ引き出させてくる。後年になり、喋り上手だとよく言われるが、たとえ飲みの席で聞き上手と言われる女達に自分にどれだけの価値があるかを語っては来たが、それはどう語れば楽しませれるか、退屈はしていないか、こう語れば女は気に入るだろうなんてことばかり考えて気が気ではなかった。人目を気にして卑屈になる前のこの感覚、ずっと欲しかった。まるで幼児に戻って構われる。愉快でずっと語っていたい気分だった。すると突然僕の仮性包茎が剥かれ、エロい気持ちになると同時に気を失った。

 また目を覚ましても、優しい何人かが僕を囲っていた。目を開けていてももうほとんど何が何だかわからなかったが、黒茶髪にパーマの優しげな男に対して無性に申し訳なくなった。キサヌキと名乗った。

「ここは、病院だよ。」

 この残酷な世界から逃げもせずに、そんでもってこの目前の大変な仕事からすら逃げない。きっとよほど自分なんかよりこの人の方が大変で苦しいはずだ。それはこの人の優しい声と喋り方一つ聞けば全て物語っている。

「…………大して歳も変わらないのに、ごめんね…………。」

「そうだよ。イツキ君と結構近いんだよ。29歳。」

「…………僕と大して変わらないのに………すご…………い…………。」

 どうやらぼくは東京か、神奈川か、そこら辺の港に停泊中の船の上にいた。船の上、ベットの中、船は特有の浮遊感と、気持ちのいい波の音を立てて佇んでいる。友人が出港前に見送りに来てくれたみたいだった。

「…………マキバ、来てくれたんだ…………。」

「…………マサキまで、…………。」

 嬉しくてたまらなかった。こんなところまで親友が2人も。

「イツキさん、来たっすよ。」

「誰?」

「キサヌキだよ」

「シュンスケまで、…………ありがとうな…………。」

 船の中で僕は働いていた。それは"無限"な事以外はいつも通りだ。お客さんにいつも通り注意事項を話すと、部下と部屋を囲み、他愛のない会話をする。みんなも働いていた。僕の顔の中で一生懸命働いていた。優しい人を生かすための電子音が鳴り目が覚める。それは船の汽笛だったかもしれない。デッキで少し寝てしまった様だ。天気は曇っていたが、プラスチックのビーチチェア、体にあたる水蒸気、こんなに心地よければ仕方ない、こんな所にいたら風邪をひいてしまう。さぁ、戻ろう。あれ、戻る、どこへ。俺は誰だっけ。誘われてゆく、どこかもわからない。もう僕は何者かも分からない。僕は、誰。そんな事はどうでもいい、世界は一次元になって行った。一元化された世界では自分の存在などどうでも良かった。ただ一つのサイクルに過ぎないのだから。僕らはウスバカゲロウにそっくりのサイクルの一つでしかない。なぜ生きているかなど考えてしまうのは、サイクルである事に気づける素養でしかない。それに気づいても僕らはウスバカゲロウだ。世界は単純明快なサイクルであり、世界は複雑な創り出しの芸術であり、そしてその矛盾は繋がりを持って分解された場所に辿り着いた。そしてさまざまなチャンネルがスロットの様に回る、僕は誰だ。誰でもない、存在でしかないんだ。意味などない、世界のネジの一つだと言えば、意味はある、しかし僕らは繋がっている。意味はなさないが、必要とはされている。また電子音が鳴り、飛び起きる、それはモンハンでクエストに出発した時の音にそっくりでもあり、でも実際はミセスのMagicの「いいよ」のところの音でもあった。今いいところだったのに。やはり船の中のベットにいた。多少のイラつきは僕の寝起きの悪さ故だ。でも、起きたら優しい人たちが話しかけてくれるんだ。でもその時、僕はどうやらモニターで監視されていて、口に蜘蛛の糸の様にくっ付いた呼吸器マスクから伝わる振動で音を聞いていた。マスクは自力でははがせない。優しい声が返事してくれるから僕は、何かを喋っていた。何を喋っていたかは分からないけど、楽しいことを少し話すと、すぐ眠くなってくる。息が多少苦しかった気がする。けどそれは些細な問題であった。船はどうやら、四国に向かっている様子だった。僕はまた連続した世界に向かって行った。僕はもう何かはわからない。でも何かである必要もない。心と体は分離して行ったが、それは元々一つじゃなかった気がする。苦痛もなければ、幸せでしかない、そこに女はいなかった。でも満たされていた。僕らは跳ねたりする粒だったり、水蒸気であったりした。やがて暗い世界にやってきた。そこには、手足も顔も、身体中バラバラにり、横たわっていた男と、それをくっつけようとしている数人の小人たちがいた。小人達は赤十字のヘルメットを纏い、その男のバラバラになった体をくっつけようとしていた。僕はその作業を上から見ながら、異様に申し訳ない気持ちになった。その体に対して、君をこんなにボロボロに壊してしまってごめんなさい。と謝りたい気持ちで涙ぐんだ。しかし、医療は発展し過ぎているとも思った。人間のパラメーターの中で医療というものだけはやたらと伸びている。死を理解する者は殆どいないのに、人を生かすことに長け過ぎている。人類は恐らく3回くらい禁忌を犯しているとすら思った。それはそんだけ人は死にたくない生き物なのだろう。その涙ぐましい医療の発展によって僕の壊れた体は、くっつこうとしていた。

 やがて目が覚める。やはり第一声はキサヌキという男の声からだった。優しく、安心する、穏やかな声。

「イツキくん、お父さん来てるよ。」

 父を見た時、それは、一つ目の化け物だった。顔には大きい目ん玉が一つあるだけだった。しかしすぐに分かった。俺はこの人の息子の"フジタイツキ"と言う男であることを思い出した。それは紛れもなくこの男が僕を創り出した者だったからだ。僕は僕を創った者を見て、自我を取り戻した。一つ目の父の素顔を僕は思い出せないでいた。それは幻覚だということは容易に理解したのだが、素顔だけが本当に思い出せない。父と別居するまでの13年間は毎日この人と生活を共にしたはずだ、いろんな記憶が蘇る、それは決して褒められたことばかりではなかったが、バッティングセンターに連れて行ってもらった記憶、一緒に釣りに行った記憶、マリオのコインゲームで遊んだ記憶、怒られた記憶、殴り合いの喧嘩をした記憶、はらわたが煮え繰り返るほど憎んだ記憶すらも、色んな記憶、この人はフジタイツキ、つまり僕を形成する上で深すぎる関わりがあった人だ。そしてこんなになった僕に一目散に会いに来てくれた。そんなに僕を大切に思ってくれている大切にしなきゃいけない筈の人間の顔すら僕は思い出せない。本当に申し訳ない気持ちになった。そして、一つ目のバケモノの幻覚の下の真実の顔は、きっと心配している様子を僕になるべく悟られない様にしている顔な筈だ。後年僕はほとんど父とは会うことはなくなっていたが、"オヤジ"と呼んでいた。しかしその場では"パパ"と呼んだ、そこには複雑な感情がある。まだ父に愛情表現をしていた時のパパ、甘えたかったからのパパ、そして、少しでも気丈に振る舞うための心配かけたくないが故のパパでもあった。僕の悲惨な行いを見て、トラウマを与えない様に、そして、今度はこの人の顔を忘れない様に大切にしようという思いも込めて、こう言った。

「パパ、あんたの息子でよかったよ。」

おそらくなんて声をかけたらいいのかわからない様子だったであろう父がこう答える。

「バカ、恥ずかしいこと言うんじゃねぇよ。」

「パパ、愛してるから、手を繋ごう。」

「恥ずかしいこと言うなって。」

と言って僕の手を握る。僕を叩いた手、そして僕も父を殴った手。それでもその手は暖かかった。安心する様な手。僕の汚れ切った手を父の手が包む、しかしもう僕と手の大きさは同じか、僕のほうが少し大きいか。最後に手を繋いだのは、小学3年の時に富士山に登った時以来だった。時を挟んで実に14年の月日、それでもその感触はいまだに覚えていた。全く同じ暖かさだった。一つの家族を守りぬいて来た強くて温かい手だ。

 どうやら父は僕のことを心配して、千葉から大慌てでやって来て、熱海あたりで停泊した船に追いつき、乗り込んで様子を伺いに来てくれた様だった。

ここは病院で、今は熱海で停泊、船の病院は野晒しでテントの下のベットで、心地よく夏日にあたり、それは暑すぎることもなく、最高な気分である。多少の安堵もした。流石に四国なら大事だ。暫くは物理的に帰れないのだから、仕事にも行かなくていい。そんな邪な安堵も多少は抱いたと思う。

 やがてすぐに気を失い、最後の粒子達のパレードを見る。それは、壊れた世界とのお別れだった。時間にすると父が病院を出てから約4時間後、僕は目を覚ます。それまでに見た夢達は、よりこの世に近くもあり、芸術的なものばかりであった。芸術は爆発し、螺旋する。ぐるぐる回る、また電子音が僕を連れ戻す。複雑化された船の個室で僕はとある物を見させられた。それは密閉された個室に、黒のソファーが机を囲む様な四畳半程の間取りであった。それらはこの世のものとは思えない角度で、ベートーヴェンか、バッハか、ナポレオンか、僕はそれらに明るくないので誰かは分からないが、そんな肖像画が飾られている。これはこの世の言葉では言語化できない角度だ。近い言葉をはめるならそれはおそらく四次元。斜め、でもない、飛び出し、でもない、やはりこの世には存在しない角度である。その肖像画は僕へ四次元の存在を示していた。力強く僕の方を見つめていた。

 やがて戻ってくる。目が覚めるとやはり、キサヌキという看護師が目の前にいてくれた。何度も電子音が鳴って飛び起きると、必ず第一声は彼の優しい声掛けから始まる。

「起きた?ここどこかわかる?」

 ここは船のデッキでは無かった。特有の揺れも何も無い。すぐに察した。病院だ。どこかかなり大きい規模の病院の様だった。まだ視界にかなりモヤが掛かっていたが、それでもある程度この時は"フジタイツキ"であった。

「災害医療センター?」

「惜しい、小平国立平和病院だよ。」

「父は?」

「あぁ、お父さん、今入院の荷物取りに来てくれてるよ。」

「そっか。ケータイ使っていいの?」

 もう仕事に無断欠勤の事が気掛かりでしかたなかった。両手にはかなりの数の点滴、喉あたりがやたら苦しく、チューブが入っている様子だった。性器の先にも何やら管が通されていて、自動的に尿を排泄する様子だった。足には、膨らんだり戻ったりする何かが付けられている。指先にはワニの様な、これは酸素を測るやつ。かろうじてそれらは理解できた。

「昏睡の時も目を覚ましたら仕事のことばかり言ってたよ。ケータイ、電話はダメだけど使って大丈夫だよ。お父さんが持っていっちゃったから、帰って来てからだね。」

「そうなんだ。」

 僕はこういう意味のわからないところの律儀さというか、悪い意味で責任感が強いというか、これも自分を壊す原因の一つだと思ってる。

「入院中、何か持って来てもらいたいものある?ICUだから面会は1日1回まで、明日以降になると思うけど。」

 僕は内心安堵した。ICUという言葉、ここに来るという事は重症だ。アイツは狂言自殺者だと僕の自殺を聞いたものに罵られなくて済む。本当に死にたくてやったんだと、思われる言い訳になるだろう。そっちの方が幾分か今後、生きやすい。通常の病棟に運ばれ、その日のうちに退院でもしてたら………………。

しかしICUというものを僕は誤解していた。医療ドラマのいわゆる、赤ランプで使用中と光る、それは最も「メス!」などと言われる所だと思っていたが、そうではなく、ベットの前に事務室の様な所があり、頭の後ろには沢山の電子機器、モニター、目の前に看護師と医師などが必ずいて、すぐ異変に気づける様であった。それは恐らく、世界で1番人を生かす為の場所だと思う。

 「尾崎豊の本、あと、太宰治も、あと鉛筆と、原稿用紙。全部家にあるんだ、あ、IPHONEの充電もなきゃだ。」

 「わかった。伝えとくね。」

 キサヌキは律儀にメモしてくれていた。

 「そういえば、太宰治のこと言ってたよ。超えるって話してたよ。」

 …………。僕は無性に恥ずかしくなり覚えておらず、ピンと来ないふりをしていると、救急科のドクターが僕の言動に興味を持ったらしく、話にやって来た。

「いろんな話をしてたんだけど覚えてる?」

「全く覚えていないな。でも不思議な世界にずっといたんだよね。」

「どんなの?」

「今はうまく頭が回らなくて話せないかも。」

「いいよ、話せる範囲で教えてよ。」

「死は分解だった。分解されて大きいものとくっついた。死はセックスと似ているね。」

「どういうこと?」

「他のものと一つになれるのは死と、セックスだけだと思う。人は生まれた時点で個になり、個になった時点で孤独だからさ。」

「面白いね。貴重な話を聞けた気がするよ。また話そうね。」

医師は帰っていった。手は脳が命令を送ってからしばらくすると動き出す。文字は大きくなったり小さくなったり、うまく書けなかった。これはあの歪んだ世界の名残りだろうか。キサヌキにごめんね。迷惑だよね。と謝ったことがある。生きたい人を生かすので限界の仕事の中で死にたい奴が来たならたまったもんじゃない。僕が看護師だったらそう思うかもしれない。しかしキサヌキは、泣きそうな顔で優しく囁いた。

「辛かったんだもんね。」

 無性にやるせ無い気持ちになった。この世界は壊れている。不安にもなった。キサヌキは必死に人を助けるが、僕はもしかしたら、救われることを望んでいないのかもしれない。キサヌキの様に優しい人間こそ、真に救われるべき、愛すべき人間なのだ。この人は多くは語らない。でもやはり伝わってしまう、しかしそんな優しさを向けられれば僕には立場がない。慌てて「僕はそんな綺麗な人間じゃないよ。」

 そう、僕を綺麗で優しい人間というにはあまりにも人を傷つけすぎている。どうか優しさを向けないでくれ。彼との対話は楽しかった。あまり多くは語らないが、なぜ看護師になったのか、共通の趣味とか、色々話したと思う。構われたくて、ピラメキーノのは見てたか?イナズマイレブンは?なんてことまで聞いたと思う。やがてキサヌキは交代の時間になり帰っていった。

 「イツキくん、僕は明日から休みだから、きっと戻ってくる時にはもう別の病棟に転院してるかな。」

 「またどっかで会おうね。」

 この言葉は尾崎豊の受け売りである。1番好きな言葉で、大切な人との別れには必ず使っている。僕はその時の尾崎の無邪気な表情をなるべく真似て言ったと思う。今思えば、彼を知り、彼にもたれ掛かる様な生き方をしてから、彼の真似ばかりしている気もする。でも本質的に彼も僕に似ているんだ。僕が思ったことをすでに彼は歌にしている。

「ここで再会したらダメだよ。元気になって、どこかでまた会おうね。じゃあ、イツキくん。お大事に。」

 僕は彼の様な人間を愛したい。

 やがて交代の看護師が来る。やはり看護士はみんな優しかった。女性の看護師だった。隙をみつけては、家庭の話や、息子の話、何かと理由をつけては話しかけて来てくれる。

 僕はこの日、もう1人の自分を目撃した。それは紛れもなく僕の未来の姿に見えた。僕の中での憧れは、こうはなりたくないを必ず孕む。死にたいと強く願えば願うほど、体は生きようとするのと同じだ。僕の未来であろう老人は、髪の毛をわずか残し、それはホームレスと言われても疑いを持たないほど汚らしい見た目をした廃人であり、この男には寂しさしか残っていなかった。しかし、社会は美しくない者の寂しさを拒絶する。それはこの病棟でもそうであった。その老人はわがままを言っては看護師を困らせていたと思う。すぐに何かと呼びつけては喚き散らす。看護師もよく思っておらず、僕のところに来ては何かと世間話をするのとは対照的であった。無論、その老人への扱いは丁寧だ。しかし、どこか事務的な定期問診を行って、呼ばれなければ赴くこともない。しかしその老人は構われたく、何度も看護師を呼びつける。この老人もどうやら僕と同じ、薬の過剰服用でここに呼ばれた様だ。しかし、禍々しいオーラを見れば、この老人がいかに寂しいからすぐに分かった。しかし構ってももらえない。家族からも邪険に扱われていたのか。それでも何処かこの世界で繋がっていたく、孤独を体現した様な老人であった。僕はこの男に強い憧れを抱いた。無論それは先程綴った、こうはなりたくないを大きく含んだ憧れである。僕は廃人に憧れていた。全てを諦めてみたかった。孤独に憧れるほど女は僕に構う。それは僕の美貌が原因だ。誰か僕をブサイクにしてくれ、汗っかきのデブであれば、僕は生きることを疑わずに、働けるはずだ。女の優しさが僕をダメにしていった。そうだ、女だ、どんどん体が痩せ細り、自分は弱いと言ったところから、色んな女に優しくされて来た。それは僕をさらに弱くしていった。弱くなればなるほどさらに女は僕に構う。貴方は生きててくれればそれでいい、金はなんとかするわ、なんて女が一人。貴方が死ぬなら私も一緒に、貴方がいないと私、どうやって生きていけばいいかわからないから。なんて女が一人。実家暮らしだけどいいの、私の家に来てちょうだい、ここで暮らしましょう。寂しいなら、私のママにハグすればいいよ。なんて女がまた一人、みんな優しい女達だった。その優しさは、僕を包み、僕の虚しさが暴走する都度に、そんな優しくて素敵な人間を僕は傷つけてしまった。そして自分自身すら傷つけた成れの果て、僕がのうのうと生きていく未来の姿に見えた。それはやがて看護師にすら相手にされなくなる様な、悲劇であり、一番の悲劇的快楽の劇薬に溺れる、きっと優しく生まれ過ぎてしまったその老人は、遠くない未来の自分の姿に見えた。僕のベットには髪の毛が異様なほど抜けていた。あと数回、同じことをすれば僕は老け込み、いよいよ遜色ない廃人になるのだろう。

 僕はあれから、数ヶ月経った今も、相変わらず世の中を睨む事でなんとかこの世界をくっつけて見ている気がする。やがてその壊れた世界や誘われた世界達は僕の記憶から消え去り、やがて忘れることを危惧してメモしたことすらも、メモに書いたことがはて、さっぱりなんのことやら全く分からないでいる。これから先、選ばなければならない。それは僕が見た壊れた世界を信じて生きていくのか。それを否定して生きていくのか。自分を演じて生きていくのか、僕が僕であるために勝ち続けなくちゃならない。勝ち続けた先に何があるのか。あの世界を見てしまった前と後とでは、もう全くの別人になってしまっている。もしかしたらそれらを繋ぎ合わせて見ているだけで、僕は元々僕では無かったのかも知れない。奇しくもおおよその哲学者ですら辿りつかない次元に、自殺というなんとも情けない方法でたどり着いてしまった僕ですが、僕は、いいえ、世界は、本当はみんな頑張っています。



          あとがき


先日、例の一件で初めてICUに入りましたが、性器に管を通されていて、抜かれた時、死ぬほど痛かったです。おそらく今年1の痛みを体験したと思います。そうであれと思います。挿入の時はどうやら意識が朦朧としてたので、かえって痛がらなかった様ですが、患者さんは入れる時も同じくらい嫌がる様です。鼻から通されたチューブもなんか違和感あって気持ち悪かった気がしますが、とにかくしばらくはおしっこするのも激痛でした。しかし何より、看護師さんの偉大さには脱帽でした。とても褒められた話じゃないですが、この作品は僕の痛みからの財産かも知れません。ですが僕はこの世界が愛で溢れ、人を傷つけるのではなく、人と愛を分け合う、そんな世の中を夢見ています。

ありがとうございました。またどっかで会おうね。

    

              浮田 大樹

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