SCENE#114 ポジティブの暴力
魚住 陸
ポジティブの暴力
第一章:微笑みの檻
小さな町、エウポリアは、その名の通り「良い場所」を意味していた。そこでは、誰もが常に微笑みを浮かべ、どんな困難も「ポジティブに考えれば乗り越えられる!」と口癖のように唱えていた。町の中心には、巨大な「希望のモニュメント」がそびえ立ち、まるで意思を持つかのように脈打つ光が町全体を包み込んでいた。
幼い頃、サンドラは夜空を見上げ、その光が星の輝きをかすませるのを不思議に思ったことがある。モニュメントの光が強まるにつれて、町の色彩も一層鮮やかになるようだった。
サンドラは、幼い頃からこの町の「ポジティブ」な空気の中で育った。しかし、彼女の心には常に小さな違和感があった。希望のモニュメントの光が強すぎる日には、理由もなく不安に駆られた。
ある日、彼女の愛犬が病気になった。獣医は憔悴した様子で首を横に振り、「できることはもう何も……」と言いかけたところで、背後から穏やかな、しかし有無を言わせぬ声が響いた。
「先生、ポジティブにいきましょう!きっと回復しますよ、希望を捨ててはなりません!」
振り返ると、いつも穏やかな微笑みを浮かべている町の長老が立っていた。獣医は何か言いたげだったが、結局何も言わずに黙り込んだ。
悲しみに暮れるサンドラに、町の住民たちは次々に声をかけた。
「大丈夫、ポジティブに考えればきっと治るわ!」
「悲しい顔なんて似合わないよ、サンドラ!微笑んでごらん、きっと良い方向に向かうから! モニュメントの光を浴びて、元気を出して!」
「クヨクヨしてちゃダメだ!前向きに、前向きに!希望の光はいつも私たちを照らしてくれているんだから!」
彼らの言葉は、サンドラの悲しみを癒すどころか、まるで心の奥底に封じ込めるかのように響いた。
「私、泣いてもいいんだよね?悲しいんだもん……」とつぶやくと、隣にいた友人は戸惑った顔で言った。
「え?サンドラ、どうしたの?いつも笑顔が素敵な君が、そんなこと言わないで。ほら、笑って。ポジティブにね!それがエウポリアのルールでしょ?」
微笑みは、いつしか彼女にとって、感情を隠すための仮面になっていた。そして、モニュメントの光が強まる夜には、愛犬の苦しそうな息遣いさえも、遠ざかっていくような気がした。
第二章:影の住人
サンドラの違和感は日増しに募っていった。夜な夜な、彼女は奇妙な夢を見るようになった。夢の中では、エウポリアの住民たちが皆、背中に黒い影を引きずっていた。その影は、まるで彼ら自身の輪郭が剥がれ落ちたかのように、不気味な動きを見せていた。
時には、その影が小さな声で何かを囁いているようにも聞こえたが、言葉としては認識できなかった。そして、夢から覚めても、視界の端で黒い影がちらつくことが増えた。それはすぐに消えるのだが、サンドラをじわりと不安にさせた。
ある雨の日、サンドラは町の外れにある古い図書館に足を踏み入れた。希望のモニュメントの光が届きにくいその場所は、エウポリアで唯一、埃と静寂に包まれた異質な空間だった。館内には誰もいない。ひっそりとした書架の間を歩いていると、ひときわ古びた、装丁も傷んだ一冊の日誌が目に留まった。
それは、かつてこの町の司書を務めていたエレナという女性が記したものだった。日誌には、エウポリアが「ポジティブ」一色になった経緯と、その裏に隠された真実が綴られていた。かつて、エウポリアは感情豊かな町だったが、ある時、原因不明の疫病が蔓延し、多くの住民が負の感情に蝕まれた。絶望と悲しみが町を覆い尽くした時、忽然と現れたのが、「希望の使者」と名乗る謎の人物だった。彼は言った。
「負の感情は、この町を滅ぼす毒だ。しかし、恐れることはない。私が与えるポジティブな光で、すべてを浄化し、真の楽園を築こうではないか!」
そして、負の感情を排除し、ポジティブなエネルギーだけで町を満たす「聖なる儀式」を提案したという。日誌の途中には、インクが滲んだ文字でこう書かれていた。
「モニュメントの光は、人々の苦しみを吸い取っていくようだ。まるで、彼らの感情そのものを……記憶さえも、薄れていく。恐ろしいことに、私自身も、昨日の悲しみを思い出せない時がある…」
そして、最後には赤い文字で強調されていた。
「微笑みの裏に、影は深まる。彼らは、真実から目を背けたまま、いつまでこの欺瞞の光の下で踊り続けるのだろうか…」
さらに、ページの隅には、小さな走り書きがあった。
「使者は言った。『私が与えた秩序を乱す者は、真の混沌を知るだろう…』と。モニュメントは、単なる光ではない……あれは、生きている。恐ろしい……」
第三章:割れた仮面
日誌を読み終えたサンドラは、町の「ポジティブ」が、実は人々の感情を抑圧し、奪い取る「暴力」であったことを悟った。希望のモニュメントの光は、彼らの苦しみを癒すのではなく、見えない檻に閉じ込め、感情を吸い上げるための装置だったのだ。彼女は、町の住民たちが背負っている影の正体を知り、彼らが無理にポジティブを演じることで、どれほど深く苦しんでいるかを理解した。そして、彼らが過去の悲しい記憶さえも失いつつあることに戦慄した。
サンドラは、この恐ろしい真実を町の住民たちに伝えようと決意した。翌日、彼女は意を決して町の広場へと向かった。希望のモニュメントの下に集まった人々に、彼女は声を張り上げた。
「皆さん、聞いてください!この町の『ポジティブ』は、私たちを幸せにしているわけじゃない!私たちは本当の気持ちを、悲しみも、怒りも、恐れも、すべて抑え込んでいるの!この笑顔は、本当の私たちじゃない!モニュメントの光は、私たちの感情を奪っているの!あの光は、私たちから記憶まで奪い去ろうとしている!」
しかし、彼女の言葉は、まるで空気に吸い込まれるように、誰にも届かなかった。一人の老婦人が、顔を引きつらせたような笑顔で震える声で言った。
「何を言うんですか、サンドラ!私たちは幸せなんです、ポジティブなんです!希望の光は、いつも私たちを正しい道へと導いてくれる!昨日あった嫌なことも、もう思い出せないくらい幸せですよ!」
別の男性が、険しい表情で続けた。
「そんなネガティブな言葉は、この美しい町には必要ありません!あなたは、私たちの調和を乱そうとしている!疫病がまた蔓延してほしいのか!」
彼らは、サンドラが放つ「ネガティブ」な感情に触れることを恐れ、まるで伝染病患者を見るかのように、彼女から遠ざかった。町の色彩も、普段より一層鮮やかに、しかしどこか不自然に感じられた。
サンドラは孤独を感じ、絶望に打ちのめされそうになったが、それでも諦めなかった。彼女は、自身が抱える悲しみや怒り、そして長年感じてきた違和感を隠すことなく表現し始めた。道端で転んで膝を擦りむいた時、彼女は我慢せずに「痛い!すごく痛い!どうしてこんな目に……!」と叫んだ。普段ならすぐに「大丈夫!」と微笑んで立ち上がっていただろう。彼女の行動は、まるで静かな湖に石を投げ込むように、最初は小さな波紋だったが、徐々に広がっていった。
ある晩、希望のモニュメントの光が、いつもより明らかに弱く、不安定に揺らいでいることに、一部の住民が気づき始めた。そして、今まで押し殺してきた感情が、まるでダムが決壊するように、小さな亀裂から漏れ出すかのように、一人、また一人と表に出始めた。
道端で小さな子供が、おもちゃを取り上げられて大声で泣きじゃくる。普段ならすぐに親が「ポジティブに考えなさい!」と諭す場面を、その親もまた、どこか不安げな表情で立ち尽くしていた。「私、怒ってもいいの?」と、ある女性が震える声でサンドラに尋ねた。サンドラは力強く頷いた。「ええ、怒っていいんです。それが、あなたの本当の気持ちだから…」
第四章:感情の解放
希望のモニュメントの光が完全に消えた夜、エウポリアは深い闇に包まれた。星明かりだけが頼りの静寂の中、今まで抑え込まれてきた感情が、堰を切ったように溢れ出した。それは、絶望の闇ではなかった。モニュメントの光に隠されていた人々の感情の影が、闇の中で初めてその本来の姿を現したのだ。町には、すすり泣く声、抑えきれない怒りの叫び、そして何が起こったのか理解できずに戸惑う声が、重なり合いながら響き渡った。かつて鮮やかだった町の色彩は、薄暗い闇の中でくすみ、生命力を失ったように見えた。
「もう、我慢できない……!私の人生は、ずっと辛かったんだ!笑顔の裏で、どれだけ泣いてきたか!あのモニュメントのせいで、大事な思い出まで薄れていくようだった!」と叫びながら、一人の女性がその場に崩れ落ち、慟哭した。
別の男性は、長年抱えてきた不満や怒りが爆発したように、地面を拳で何度も叩きつけながら呻いた。「なぜ、もっと早く気づかなかったんだ!この張り付いた笑顔の下に、こんなにも苦しみがあったなんて!この怒りを、一体どこにぶつければいいんだ!」
サンドラは、恐れることなくその中に身を置いた。彼女は、泣いている人にはそっと寄り添い、「大丈夫、泣いていいの。我慢しないで、全部吐き出してしまっていいの。記憶が戻らなくても、今、感じていることが大切なの…」と優しくささやいた。怒っている人にはただ耳を傾け、「その気持ち、痛いほどわかるわ。無理に抑え込まないで、話してみて…」と促した。
最初は混乱し、お互いのむき出しの感情に戸惑っていた人々も、サンドラの勇敢な姿を見て、少しずつ心を開き始めた。
「サンドラ、ありがとう……あなたの勇気が、私たちを解放してくれた。本当に、ありがとう。でも、これからどうすればいい?この感情とどう向き合えばいいのか分からない…」と、涙ながらに感謝を述べる者もいた。彼らは、長年閉じ込めていた悲しみや怒り、そして抑圧されていた、忘れかけていた喜びまでも、涙や叫び声、そして戸惑いながらも、少しずつ表に出し始めた。それは、感情が持つ本来の、生々しいエネルギーが解放される瞬間だった。
エウポリアは、初めて本当の意味で「良い場所」になるための、痛みと希望、そして何よりも真実が混ざり合った夜を迎えていた。しかし、その解放された感情の奔流の中には、拭いきれない不安と、どこか深い場所で疼くような予感も確かに存在していた。そして、彼らが抑圧していた感情の影が、実際に彼らの周囲でゆらゆらと揺らめいているのが、サンドラの目には見えた。
第五章:真実の光、あるいは、虚無の残滓
夜が明け、希望のモニュメントがあった場所には、深いクレーターだけが残っていた。そこから、以前のような強烈な光はもう二度と放たれることはない。しかし、その中心から、ごく微かな、青白い光が静かに立ち上っていた。それは、かつての全てを照らし出すような光ではなく、まるで冷たい炎のように、周囲をぼんやりと照らすだけだった。
町の色彩は、鮮やかさを失い、まるで洗い流されたかのように、全体的にくすんだ色合いになっていた。町の人々の顔には、もはや無理な微笑みはなく、感情を爆発させた後の疲労感と、どこか深いところで途方に暮れているような、そんな空虚な感情が漂っていた。彼らの周囲を漂っていた影も、薄れ、消えかかっていた。
サンドラは、モニュメントの跡地に立ち、その青白い光を見つめていた。その光からは、かすかな、しかし規則的な低い唸り声のようなものが響いてくる。彼女の心には、喜びと安堵、そして拭い去れない奇妙な静けさが混じり合っていた。町の人々は、感情を爆発させた夜とは打って変わって、静まり返っていた。
「なんだか……疲れちゃったわ…」と、隣に立っていた老婦人がぽつりと言った。「あれだけ泣いたからかしら。でも、心は空っぽみたい。あの時の悲しみも、もうぼんやりとしか思い出せないわ…」別の男性は、虚空を見つめながらつぶやいた。「これが、本当の私たちなのか?感情を出したら、こんなにも何も残らないものなのか?まるで、感情ごと魂が抜けてしまったようだ…」彼らは、感情が解放された「はず」なのに、以前よりもずっと静かになっていた。まるで、感情というエネルギーを使い果たし、抜け殻になってしまったかのように。
夜が来るたび、モニュメントの跡地から立ち上る青白い光は、徐々にその強さを増していった。その光は、何もかもを静かに照らし出すだけで、何の温かさも感じさせない。そして、その光の下では、町の草花さえも生気がなく、うっすらと色あせて見えた。町の人々は、その光の下で、再び静かに微笑み始めた。
しかし、その微笑みは、以前の張り付いたようなものではなく、もっと静かで、もっと無表情だった。彼らの眼差しは、サンドラをまっすぐに見つめているが、その奥には、喜びも悲しみも、怒りも、そして記憶さえも、何も映っていないように見えた。サンドラは、この「解放」が本当に彼らの望んだものだったのか、それとも、より根深い何かに彼らが囚われただけなのか、分からなくなっていた。町の真の感情は、今やどこにも見つからない。残されたのは、不気味なほど穏やかな、無表情な微笑みだけだった。
そして、サンドラ自身もまた、疲労感と静けさの中で、ふとした瞬間に、その空虚な微笑みを浮かべていることに気づき、背筋が凍るのを感じた。夜の闇の中、モニュメントの跡地の青白い光の周りには、奇妙なほど無音で飛び回る蛾の群れが見えた。それは、かつて「希望の使者」が与えた秩序の残骸なのか、それとも、虚無が作り出した新たな生命体なのか、何度も、頭を振るがもうサンドラには判別できなかったのだ。
そして、彼女の心の中で、かつての活発な思考や感情の波が、ゆっくりと、しかし確実に、遠ざかっていくのを感じていた…
SCENE#114 ポジティブの暴力 魚住 陸 @mako1122
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