白い泡

水澄

第1話

 吹き抜ける風に、揺らぐ香り。それらを一杯に吸い込んでから、私は大きく伸びをする。伸ばした背筋を抜ける真新しい空気が、私の心のモヤモヤをさらっていく。


 時々、一人で海に来る。

 一緒に来てくれる相手はいないのかって? 余計なお世話だ。

 眺める午前中の海は寄せて、返し、うねり、盛り上がり、崩れて、弾ける。

 そんな海を眺めながらに深く深呼吸をすると、不思議とそれまでに抱えていたたくさんの悩みや迷いがひどくちっぽけなことに思えてきて、その悩むこと自体がどうでも良くなってくる。

 そして、上着のポケットから煙草を取り出すと、海風を遮りながら火を点ける。メンソールの香りが、私の鼻腔の深いところをくすぐっていく。


 渚に打ち寄せ、引いていく波にさらわれる砂の粒のように、私の悩みとも言えないちっぽけな思いが、今日もまたさらわれていく。

 もしこれが、「ちっぽけ」ではない思いだったらどうなるのだろう? ふと浮かんだ疑問は吐き出した紫煙に乗り、途端に海風に巻かれていく。

 見つめた先には不規則にうねりながら陽光を纏うように反射する海原が広がっている。もしかしたら、重すぎる思いはその思いだけならず、私ごと道連れにあのうねりへと吸い込まれてしまうのかもしれない。

 それでもしかし、私は未だここにいる。

 何度となく見つめてきた水面に、生憎と誘われたことがない。

 つまりは、そういうことなのだろう。

 結局のところ私の悩みなんてものは、目の前の海という存在からすればいつだって「ちっぽけ」なのだろう。ちっぽけで結構。どうせ私自体ちっぽけですから。


 靴裏でクシャクシャと煙草を揉み消し、携帯灰皿の中へ放り込む。二十歳の頃であればポイ捨てしていただろうけど、翻っての私は現在二十九歳。それもあと数ヶ月で三十路というなんとも陰気くさい呼び名に変わってしまう。


 ため息を一つ。彼方の空を海鳥が舞っている。

 それは、願ってもいない話だった。

 付き合って丸三年、先日四年目に突入した二つ下の彼。その彼が、付き合って三年の記念日に、輝く石のついた指輪をくれた。

 その指輪は今、私の左手の薬指にある。


 彼が好き。

 本心からそう言えるし、その思いはこれからも変わらない。だからこそプロポーズを受けたし、今も光る指輪が、そのなによりの証拠だ。 


 でも、なぜだろう――妙にスッキリしないのだ。

 私自身、彼がそう言ってくれるのを待っていたし、望んでいた。全ては思い描いた理想の結果のはずなのに。

 それなのに、いざ結末が結婚という目に見える形となった途端、それまでに抱いていた希望よりも、急激に膨らみだした不安に今は怯えている。


 もしやこれが、世に言うマリッジブルーというものなのだろうか?

 気が付けば、今日も私の足は海へと向かっていた。そうして今、砂浜に座り込んで

火を点けるでもなく煙草を咥えたまま考え込む私の目の前では、いつものように無数の白い泡が弾けていく。


 そんな折、ふいに着信を知らせる携帯電話に、表示されたるは見慣れた彼の名前。そこでふと、その名前を見るだけでほっとしている自分に気付く。

「もしもし?」

 受けた電話越しに、彼の声が私の名を呼ぶ。

 耳なじみの良いその響きに、無意識のうちに笑みが零れる。

「ねえ、今度さ――」

 今度は、彼を誘って海に来てみよう。


 吸いかけていた煙草を箱に戻し、上着のポケットへとしまう。いつかは辞めようと思いつつもズルズルと禁煙できずにいたけれど、なんだか今ならばキッパリと辞められる気がする。

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