レスリー・トッドの受難

日高ノア

第1話


 ――――バシャン!

 重たい水を浴びせられ、トッドは目を覚ました。

 顎が軋むように痛い。それに、口中血の味がする。

 顔を上げた瞬間、白い煙に襲われた。

 甘いにおい。

 咄嗟に目を瞑り避けようとするも、首から下が動かなかった。

 身体が椅子に括り付けられている。

 一体どうして。


「寝坊だぞ」


 混乱するトッドに、正面から声がかかる。

 見れば向かいの椅子に細身の男が座っていた。

 モデルのように綺麗な顔と、それに似合わぬ忍び寄るような低い声。

 男はいくつかのシルバーを嵌めた指の間に、シガリロを挟んでいる。

 さっきの煙はこれか。

 ひとつひとつ状況を拾い上げる間、男は黙ってこちらを見つめていた。

 感情の透けないアイスブルー。

 その真冬の湖のような瞳を見てようやく、トッドは記憶の断片を掴んだ。


 『レスリー・トッドって、お前か』


 間違いない。

 さっき――気を失ったので時間として本当にさっきなのかは不明だが――クラブの裏口で声をかけてきた、あの男だ。


「……? まだ寝てるのか」


 ひとつしかないライトの下で、男がことりと首を傾げる。

 ちょうど、犬が「散歩」と言われた時のような仕草だった。

 無垢にも見えるその様子に、何故かどっと汗が吹き出す。

 振り向いた後の記憶がないのは、襲われたからに違いない。

 顎への一撃、窓のない小部屋、二脚の椅子。

 十中八九、この男は“本職”だ。


「いや……起きてるよ」


 落ち着け。

 トッドは口元に笑みを貼り付けながら、内心幾度も自分にそう言い聞かせていた。

 耳の奥で、心臓が激しく戦慄いている。

 落ち着け。話す順番を間違えるな。

 浅く弾む息を、歯の奥で噛み締める。

 そんなトッドの様子をじっと見つめていた男は、ぽつりと呟いた。思ったよりは賢そうだ、と。


「クラブで会ったよな? デートもせずこんなところに連れ込んで、俺に何の用だ」


 まずは軽口を叩いてみる。

 こちらの内心を悟らせず、男に喋らせるのが目的だった。男はぱちりと目を瞬き、「まどろっこしいのは苦手だ」と首を振る。


「あんた、そんなんじゃモテないだろう。せっかく顔が良いのに勿体ない」

「トッド。まずはハッキリさせておこう」


 男はトッドを遮ると、両手の指を顔の前で合わせた。

 有無を言わせぬ物言い。

 主導権を握るのは難しそうだ。けれど、男から話させる流れに持ち込めたのは悪くない。


「これは今後のお前にとって大事な話だ。最後までよく聞いて、一回で覚えろ」

「……分かった。何だ」

「まず一つ目。俺は“とある組織”の一員だ」


 言いながら、男が服の袖を捲る。

 筋に沿って大きな傷の残る右腕に、ユリのようなタトゥーが見えた。

 黒一色で描かれたそれは、この辺り一帯を仕切っている麻薬カルテルのものだ。

 やはり本職だった。

 トッドは背中側で縛られた手を強く握り締め、一度首を伸ばした。何だか襟元がきつい気がする。


「……それで?」

「二つ目。お前の商売は、俺たちに届け出がされていない。これは重大なルール違反だ」

「何の話をしてるのか」


 分からねぇな。

 言うはずだったセリフは、しかし声にならず喉の奥で不自然に丸まった。

 鼻面に衝撃が走り、身体が椅子ごと大きく揺れる。

 視界が一瞬白んで、何か焦げたような臭いがした。

 遅れて、鼻を捩じ切られたような重たい痛みに襲われる。

 男に殴られたと気が付いたのは、彼の指輪が血で濡れているのを見てからだ。

 それくらい、素早い一撃だった。


「ああ、悪い」


 男は悲鳴すら上げられないトッドを見やり、一言謝る。「ルールの説明を忘れてた」


「ルール……?」

「俺と話をする時のルールだ。喋れと言われたら喋り、そうでない時は黙る。俺はそういうのが好きだ。簡単だろ」


 無茶苦茶だ。

 けれど、トッドは黙って頷いた。

 出会い頭の顎への攻撃といい、男は相当な腕利き。

 引きこもってクスリを捏ね回してるだけの連中とは思えない。まるでボクサーだ。戦っても勝ち目はない。

 だが良かった事もある。

 彼の話が“クスリの売買についてなら”、解決はそう難しくない。どうせケチな商売だ。この際手放してしまってもいい。

 トッドが静かに頭を巡らせていると、不意に男が手を伸ばしてきた。

 反射的に首が竦むのを、鼻で笑われる。


「お前がいい子なら、俺も殴らない。血がつくのは嫌いなんだ」

「……」

「一応証拠を見せてやる。お前の商売について」


 差し出されたのは、何枚かの写真だった。

 男は一枚一枚主要人物が見えるように、トッドの膝に写真を置いていく。

 いずれもモーテル前で撮られた隠し撮りだ。

 薄暗いが、全てにトッドと、それぞれ違えど一目でジャンキーと分かる人物が写っている。

 やはり焦点はクスリの売買についてらしい。

 内心ほっと息を吐いたトッドは、その内の一枚を見て目を見開いた。

 “あの女”が映っている。

 東ヨーロッパ出身の、言葉すらまともに喋れなかったあの女が。


「三つ目」


 男の声に、トッドは急いで写真から視線を剥がした。

 不自由な肩を精一杯持ち上げて、戻す。

 落ち着け、大丈夫だ。


「俺は今傷付いている。お前に“モテないだろう”と言われたからだ。悲しかった。何か癒やしが必要だ」


 その言葉に、全く感情がこもっていないのは明らかだった。だが、話の方向自体は良い方に進んでいる。

 癒やしとはつまり、金の事だろう。

 けれど、ここで口を開いてはいけない。

 ルールに従って黙っているトッドを、男がまたじっと見つめる。

 ……不気味な沈黙だった。

 ルール違反はしていないのに、今まさに間違いを犯している気がして、トッドは喉を鳴らす。

 胸の奥で、やたらと存在を主張する心臓。

 背中をつたう汗まで見透かすような視線はそのままに、男は椅子に深く座り直した。

 革のジャケットのポケットから、ゆっくりとシガリロの箱を取り出す。

 そのまま自分の唇に一本迎え入れると、思い出したように手を止めた。


「……吸うか?」


 差し出された茶色い箱。

 トッドはぶんぶんと首を振った。

 男は興味が失せたとばかりに目を伏せて、くわえたシガリロに火を灯す。


「トッド」


 喋る口元から、ふう、と白い煙が吐き出される。

 ここからが本題だ。知らず、姿勢を正す。

 適切な反応をして、それから彼の要求を呑む。まずはそれだけでいい。

 トッドは逸る心臓を抑えながら、男が口の中でシガリロを転がし終えるのを待った。

 一分か、二分か。

 焦れるトッドを面白がるようにゆるゆると煙を味わっていた男が、ようやく口を開く。


「まずは、お前の意見を聞かせてもらおう。俺たちの間にある複雑な問題について、お前はどう考える?」

「え……」

「さあどうぞ。喋ってくれ」


 男は顎を上げて促すと、それきり黙ってしまった。

 予想外の事態に、トッドの脳みそが目まぐるしく回り始める。

 こういう場合、相手方から何らかの要求もしくは“匂わせ”があるのがセオリーだ。しかし、男はそれを寄越さなかった。これは難しい局面だ。選ぶ回答を誤ればどうなるか分からない。

 

 トッドの手元には今いくつかの選択肢がある。

 その1。シラを切る。

 これは絶対にあり得ない。そんな事をすればトッドの鼻は顔に埋まり、奴の指輪が後頭部から発見されるだろう。

 その2。金額を提示してみる。

 悪くはないが、良くもない。こちらが出した金額が奴の求める慰謝料よりも安かった場合、同じくトッドは鼻を失う事になる。反対に多すぎれば大損だ。鼻は大事だが、金銭被害も最小限に抑えたい。

 その3。筋を通さなかった事を謝って、具体的にどんな癒やしが必要が聞いてみる。

 これは恐らく現時点では一番マシな手だ。意に沿わぬ反応への一発やルールの押し付けから見て、奴は力を誇示したいタイプに違いない。であれば、立場を立ててやれば満足するはず。丁寧に非礼を詫びて、要求を引き出そう。ついでに、男前だと言ってやればいい。

 

 脳内で方針を固めたトッドは、申し訳なさそうな表情を作って顔を上げた。

 大袈裟に眉を下げ、口元を歪ませる。

 男はトッドと目が合うと、煙をぷかりと吐き出した。

 

「本当にすまなかった。俺は誓って、アンタ達の商売を掠め取るつもりはない。ただ少し物入りで、それでつい手を出してしまっただけなんだ」


 トッドの謝罪に、男は一度まばたきをする。

 シャッター音が聞こえそうな程、ゆっくりはっきり。

 これは受け入れの合図だ。

  

「……物入りか。気持ちは分かる。金はいくらあっても足りない」


 ほらな、悪くない感触だ。

 トッドは拳を握り締め、より大袈裟に表情を作る。


「分かってくれるか。優しいね。にしても、アンタ達は派手に儲けてるとばかり思っていたが」

「そうでもない。実際、車一台買うにもローンを組まなくちゃならない程だ。残業も多い」


 ローン?残業?

 いや待て、重要なのは車のほうだ。これはサインに違いない。つまり奴の要求は“車”と見ていいだろう。

 しかし車と言ってもピンキリだ。車種によって値段も大きく異なる。高級車を欲しがるようには見えないが……出で立ちからしてクラシックカーが趣味というのはありそうだ。

 トッドはヒントを探して男を見た。

 彼はすらりと長い脚を組み、眉を寄せて自身のこめかみをトントンと叩いている。

 その様子は、静かな衝撃をもってトッドの胃を重くした。

 男はこれまで表情ひとつ変えなかった。これは明らかに苛立ちだ。

 まずい。どうして?時間をかけすぎたか。

 焦ったトッドは、考えがまとまらないままに口を開く。


「とにかく、今回の事は申し訳なかった。商売からは手を引くし……必要なら、顧客リストも渡そう」

「そうか」

「それで、これまでのお詫びというのも何だが……」


 これで合っているだろうか?

 一瞬顔を出した怯えを唾液と共に飲み込んで、恐る恐る言葉を続ける。


「良かったら、インパラをプレゼントさせてくれないか。男前のアンタに似合いそうだ」


 沈黙。

 トッドは無意味に足の先を擦り合わせた。

 こめかみを伝った汗が、ポタリとシャツの襟を濡らす。

 頼む。頷いてくれ。

 トッドは心の底から祈った。これまで一度もミサに出た事がないとは思えない、渾身の祈りを捧げた。

 そしてそれは、無事に届いたらしい。


「いいのか。ありがとう」


 端的な言葉と共に、男が眉間のしわを解く。


「はあっ……!」


 トッドはいつの間にか止めていた息を大きく吐き出した。全身から力が抜けていく。

 ぐったりと椅子の背に身体を沈めながら、口元が緩むのを抑えられない。

 助かった。切り抜けた。どうにかなった。

 これであとは、インパラを買って渡せばいいだけだ。

 安くはない買い物だが仕方ない。新しい鼻を付けるよりは手軽だし……それに、“補填”の目処もある。 

 そう思いながら顔を持ち上げて、ドキリとした。

 男は変わらずトッドを見ている。

 じっと、これまでそうしていたように。

 彼はこれ見よがしにシガリロを落とすと、靴の底で丹念に踏み消して、そして言った。


「それじゃあ、そろそろ本題に入ろう」

「……は……?」


 本題?今のが本題じゃないのか?

 混乱するトッドを置き去りに、男は突然立ち上がった。

 ライトを遮られ、視界が一段階暗くなる。

 膝の上に置かれたままの写真の上を、指輪がついた人差し指が滑っていく。

 男、女、老人……そして、あの女。

 クスリをやる前は美人だったのだろう。エキゾチックな肌色をした、痩せぎすの女の上で、ピタリと指が止まる。

 まさか。そんなはずない。ありえない。

 トッドはまた落ち着きなく首を伸ばした。

 微かに震える膝の上から、男の指が女の写真をつまみ上げる。


「この女……」

「っし、知らない。ジャンキーなんてみんな一緒だしいちいち覚えて」

「トッド」


 嗜めるように名前を呼ばれ、大袈裟に息を呑む。

 トッドは衝撃に備え身を固くした。しかし予想に反し、男はトッドを殴り付ける事はしなかった。

 代わりに励ますように、汗に湿った肩をポンと叩く。


「トッド。確かにお前は頑張っている。一生懸命考えたんだよな、分かるよ。だが少し正直すぎる」

「……」

「現に、お前は自分で教えてくれた。麻薬ビジネスを手放して、5万ドルの車を買って寄越せる程金を持っている事。そうまでして、俺に隠したい秘密がある事。その秘密が、この女に関わっている事まで」


 息が、誤魔化しようがない程に浅く弾んでいる。

 どうして。何で。いつから?

 自分はこの男に誘導されていたのだろうか。

 座ったままのトッドの目線に合わせるように、男が腰を折る。

 凍てついたアイスブルー。形の良い唇が、そっと開かれる。

 底なしの沼に、沈んで行くような感覚。


「お前を見習って、俺も少し正直になろう」


 男が体を起こす。

 その際、何か金属が擦れるような音がして、トッドはそれだけで縮み上がった。

 男は徐ろに指輪を外した。

 乾いた血がこびり付いたそれを、トッドのシャツの裾でゴシゴシと拭き始める。

 新しい血が付く前に、綺麗にしておこうという算段か。

 僅かな光源の下でしんと光る指輪が気合いを入れているように見えて、トッドは背を震わせた。

 

「この女、元々は俺たちの組織が囲ってた娼婦のうちの一人だ。先週、カナダの国境付近で見つかった。死体でな。わけあって足取りを確認したら、どうもお前とここでデートした後に姿を消してる。気になったよ。それで、少しお前のことを調べてみた」

「っ、違う、俺は何も……!」

「トッド。俺はここに来てからよーくお前の事を見ていた。お前が“俺への恐怖”より“弁明”に走るのは、痛い腹を探られた時。つまりお前と会った後に姿を消した“他の三人”についても関与してる。そうやって落ち着きなく首を伸ばすのもその証拠だ。言っただろ、お前は正直すぎる」


 男は、床板を踏み鳴らしてゆっくりと椅子の周りを一周する。まるで映画に出てくる尋問官のようだ。

 やがて足音は、トッドの真後ろで止まった。

 また沈黙。

 息を詰めるトッドの両肩に、不意に男の両手が乗せられる。指輪の固い感触。

 グッと濃くなる、チョコレートのような甘い匂い。耳元で、這うような声が囁く。


「お前、“人間”を売ってるな」


 断定的な物言いに、トッドは必死で首を振った。

 今は喋って良いのだったか。

 判断が追いつかないまま、「違う」と繰り返す。


「違うんだ、俺は本当に!」

「良いんだ、トッド。お前は手広くビジネスをしてるだけだ。本来誰にも咎められる事じゃない。賢い奴が儲けて、負け犬は死ぬ。これは世界の共通ルールだ。……だが問題なのは」

「いっ……!」

 

 突然強く髪を引かれ、トッドの顎が上を向いた。

 不安定に揺れる視界に、逆さになっても美しい男の顔が入り込んで来る。


「この地域のルールでは、お前は後者であるべきという事だ。儲けるのは俺たちか、バッラーレ・ファミリーだけ。そして俺の記憶が正しければ、人身売買はバッラーレの商売だ。だからお前は怯えてる。“街のやさしいお薬屋さん”の俺たちと違って、マフィアは容赦がないからな」


 そうだろう?

 そう言って、男は微笑んだ。

 誘うように美しい笑みだった。

 トッドは一瞬、頭の中が真っ白になる。

 何だ今の笑みは。どうしてこいつは笑った?

 不自然なまでに無表情だった男が笑顔を見せる。

 それには、多大な意味があるに違いない。

 “そう思わせられている”事にも気付かないまま、トッドは必死で思考を巡らせた。

 まだ助かる道はあるのか。

 どうすればいい。こいつは何を求めてる? 


「前置きが長くなったな」


 男はトッドの髪から手を離すと、子供にするようにぐしゃぐしゃとかき撫でた。

 セットが崩れた髪が、バラバラと視界の端に降りてくる。

 革のジャケットを着た背中が、元いた椅子の辺りまで遠ざかった。

 それなのに、トッドの心臓は震えたままだ。


 「つまりこういう事だ。お前の前には今、二つの選択肢がある。まず一つ目」


 男が指を一本突き立てる。


「俺と友達になり、一緒に商売をする。お前は安全、俺は儲かる。これは俗にいうハッピーエンドってやつだ。俺のおすすめの選択肢でもある。そして二つ目」

「知らぬ存ぜぬを突き通す。そうしたら、俺は今ここでバッラーレのやつに電話をし、この話をする。状況証拠は揃ってるんだ。あいつらはすっとんできて、俺の何倍も恐ろしいことをお前と家族にするだろう。最悪、事実なんてどうでもいい。そういう奴らだ。野蛮だよな」


 男はそう言って、わざとらしく肩を竦めて見せた。

 トッドは全身から血の気が引いていくのを感じる。

 麻薬カルテルの男と手を組むか、マフィアに売られるか。そんなの、どちらにしても地獄だ。

 そもそもサイドビジネスに手を出したのは、カナダの国境警備隊を務めている幼馴染に唆されたせいだった。

 ジャンキーや家出人のような、誰ともつながりのない人間を数人町から運び出すだけで、一月の給料の何倍もの金が手に入る。

 年老いた両親と子ども二人を一人で養うトッドにとって、金はまさしく生命線だ。

 その一方で、この街を荒らし回るカルテルやマフィアの連中を欺く快感があったのも否定しない。

 売った人間の中には輸送中に死ぬ者がいることも知っていたが、トッドの目の前で起こることではないので実感が薄かった。

 そのせいで、家族まで危険に晒すことになるなんて。

 

 「どうするんだ、トッド。金銭事情からみて、今夜辺り”出荷”の予定があるんじゃないか」


 男が静かに問いかけてくる。

 あらかじめある程度調べた上で、会話の中に罠を仕込んで確信を得にくる周到ぶりだ。

 きっともう、家族の元にはこの男の見張りがついているだろう。

 だとすれば嘘をついてやり過ごし、逃げおおせるのも難しい。


「……ああ、その通りだ」


 トッドは諦めて、人身売買の手口を洗いざらい男に話した。

 仲介人との落合場所、国境を抜けるルート、それから協力関係にある友人の名前。


 「集めた人たちをどこに隠してる」


 いつの間にか、男が纏う空気が少し変わっていた。

 真摯な瞳は、カルテルというよりは役人のそれだ。

 少し不思議に思いつつ、けれどもう考えるのも嫌だったので、素直に保管場所を伝える。


 「例のモーテルの105号室に、地下道に繋がる階段がある。そこから地上に出た先のコンテナだ」

 「……聞こえたか。モーテルの105号室。すぐに向かってくれ」


 それは、明らかにトッドに向けた言葉ではなかった。

 見れば、男が自身の袖口の辺りに口を近づけている。


「……え?」


 呆けた声を出すトッドの目の前で、男が再び袖をまくり上げる。

 現れたユリのタトゥー。しかしそれは、彼が指で擦るとポロポロと崩れた。

 まるでティーンが使うシールみたいに。


 「え……」


 訳が分からない。こいつはカルテルの一員じゃないのか。

 トッドが呆然と見つめる中、男――捜査官のユウ・コンウェルは、腰の後ろに隠していた手錠を取り出した。


 「レスリー・トッド。麻薬の密売及び人身売買への関与の容疑で逮捕する」

 「は?!逮捕?アンタ警官なのか!?」

 「インターポールだ。あと言っておくが俺は嘘はついてない。お前が勝手に勘違いしただけだ」


 ユウは言い訳のようにそう言った。

 そして、冷徹なばかりだった表情に少しの人間味を乗せて笑って見せる。

 確かにそうだ。彼は組織の人間としか言っていない。

 タトゥー(シールだったが)とその振る舞いから、トッドがカルテルの人間だと思い込んだだけ。

 けれど。


「お前らこんな真似していいのか?! 今の自白は証拠にならないぞ!」


 鼻面への強烈な一撃、誤認させる事を目的とした取り調べ。どれを取っても、恐らく規程ギリギリだ。

 手錠から逃げるように身をよじるトッドに、「被害者保護、了解。お疲れ」などと答えていたユウがことりと首を傾げる。

 最初と同じ、犬が「よくわかりません」と示す時のような仕草。


「まず一つ。チームがコンテナを見つけた。被害者も保護済み、証拠はこれからたくさん出る。二つ。お前は出荷が今夜と答えた。よって取り調べ手法は緊急性例外が適用される。三つ。お前にとっても、マフィアに売られるよりは良かったと思うが……どうだ?」  


 ついさっきそうしたように、ユウが丁寧に指を立てる。二の句を告げないトッドの肩をポンと叩き、彼は悪戯っぽく目を細めた。


「さあ、ルールを覚えろ。今度教えるのは、マトモに生きるためのルールだ」

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レスリー・トッドの受難 日高ノア @Hidakanoa172

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