長期的な視点について

脳幹 まこと

ゴールはどこへ消えた?


 最初に質問をしたい。


 あなたが何か大きな買い物をするとしよう。ここで支払い方式は2つある。

 1つは1000万を一括で払う。もう1つは毎月10万を40年間払う。

 あなたならどちらを選ぶか?


 掛け算を学んだ人なら誰でもできる。後者の総額は4800万だ。前者の5倍近くを払うことになる。

 加えて、途中で様々な名目(増税やプランの見直しなど)で10万が11万になり、12万5000円になっていく。契約書をよく見ると書いてあったりするが、私も含め、そこまで追いかける人はそう多くはない。

 1000万が10万になるなら安い買い物だ。詳しいことは手に入った後で考えればいい――そうやって人は後者を選ぶ。


 文章にしてみるとなんと間抜けな話だと笑いたくなるが、実際そういうものだ。小さい傷は傷ついたうちに入らないことを商売人は理解している。サブスクリプション形式のサービスはこの心理を突いて財布の紐を緩めさせるのだ。

 値上げについても、表向きは何でもないような言い回しをして、人が読み飛ばすことを狙う。もちろん積み重なった分、総額は数百万単位で増していくだろう。


 別に必要以上に払う人々を軽んじているわけでも、あこぎな商売をする人々に義憤を抱いているわけでもない。

 そもそもこの質問に正解はない。「支払いが安くなるのはどっち?」なら前者だろうが、その買い物によって1億円以上の価値が見出せたなら、後者が最適解にもなるだろう。



 この喩えで私が伝えたいことは、人生の選択肢とは常にこれの繰り返しだということだ。


 たちの悪いことに金額はぼかされた状態で提示される。値札だけではなく自分の財布すらピンボケした状態だ。感情による短期的な見返りはより大きく見え、対して蓄積による長期的な見返りは「人生が少し変わるかも」程度の小さいものに見えてくる。

 実際には後者の方がずっと大きくなるとしても、それを知るのはすべてが過ぎ去った後である。

 

 お金よりももっと難しいのは時間(命)の損得勘定だ。時間は目に見えない上に、勝手に動き出す。そして目に見えないものは、見えるものより明確に軽んじられる。

 膨大な時間をかけて築き上げた信頼が、一つの過ちで水泡に帰すこともある。知らぬ間に大病を患い、余命を宣告されることもある。理不尽な事故や事件に巻き込まれるかもしれない。

 時代のスピードは高まって、10年後のビジョンも思い描けない。せいぜい自分の(平和的な)状況が維持されることを願う・・くらいだろう。時が経つ間、数少ない人に突然訪れる不幸を目にしながら、ある者は恐怖し、ある者は憤慨し、ある者は面白がる。


 有名人は四方八方から串刺しに遭い、一般人はただ彷徨さまよい疲弊する。

 全員が目指すべきゴールはとうの昔に消えてしまった。

 どこへ消えたのか? 人混みのどこか、それとも山奥のどこか、それともフィクションのどこか。

 もしくはどれでもなく、見えないものに溶け込んだのか。


 厄介な状況だ。

 短期的な利益を優先することは「アリとキリギリス」「栄枯盛衰」をはじめとした多くの物語が示す通り、あまり望ましいものではない。が、長期的な利益に全賭けすることもまた苦しい。そもそも社会の一員以前に一介の動物なのである。

 元の5倍近く払うことになろうが、欲しいものをすぐ手に入れたい欲求を放棄し続けることは、人生の意義を見失うだろう。皆様も重々承知の通り、一生のある瞬間にしか実行できないことは山ほどある。賢い方が生きやすいだろうが、賢いだけでは何も楽しくない。


 さて、どうしたものか。



 散々悩んでみた結果、自分でゴールを作らなければならないのだろう、と結論づけた。 

 ありがちな話ではあるのだが、自分にとっての最適解というのは、自分しか決めようがない。問題なのは、当の自分に結論を出せるだけの知識や経験がないということだ。

 そして、ゴールを決める際には必ず長期的な視点が関係してくることになる。自分は最終的にどうなっていたいのかが決まれば、(夢物語だと諦めない限りは)自ずと現状からの距離を求め、そのためのステップの数と方法に話が進むのだ。


 実際に長期的な視点でものを考える必要はない。が、そういう考え方があるということは知っておいた方がいい。1日でこれなら、1年ならこうなるという掛け算をする。それが時と場合によっては想像をずっと超える結論になる、というケースを知った方がいい。

 もちろん、実現までの期間が長くなるということは、様々な影響、邪魔が入る隙間が出来ることでもある。最初の見積もりから乖離することもあるだろう。だからこそ、人々は新聞やネットからまわりの情報を仕入れる。何が邪魔になりそうか、何に気をつけるか、次はどこに乗るべきか、そういうことを考える。

 娯楽の要素でもあるが、それだけではない。自分が制御できる範囲よりも、制御できない範囲の方が遙かに広く、強い。そして後者は、目に見えるもの、目に見えないものに続く第三の区分、「目を凝らさないと見えないもの」に属する。

 だからこそ集中する。膨大にある「見えるもの」の渦から必死に読み取るのだ。統計学の発展で多くのものが「見える」ようになったが、それでも相当量が個人の経験・気分・勘に拠っている。

「良質」な情報を提供する媒体に身銭を切りながら、自分が本当に必要とするゴールへの道筋を探す――時にサンクコストへの恐怖を抱きながら。

 長期的な視点が分かれば、場合において使い分けが必要になることも何となく分かってくる。普段はぼーっと遠くを見据えながらも、ピクリと反応が起こった瞬間、全力で目の前のことに取りかかる。

 そのどちらかだけを選ぶのではなく、両方を動的に切り替えるということだ。そのハンドル捌きの上手さは経験量に依存するだろう。



 ゴールを決める際に、2つ検討しなければならないことがある。


 1つ目は「自分を支えてくれるものが何で構成されているのか」ということだ。「自分」の構成ではない。「自分を支えてくれるもの」の構成だ。

 当たり前だが、自分ひとりだけで生きているわけではない。支えの100%が自分の能力であれば何も問題はないのだが、残念ながらお金によって生活するならそうもいかない。相手なくして、お金は何の役にも立たない。支えなくして人はまともには過ごせない。昨今の炎上事件を見れば分かるだろう。

 人への感謝、社会貢献を目的に掲げる企業は多いが、別に社交辞令や好感度を稼ぐための策とも限らない。自分達が目指すゴールに「人への感謝」「社会貢献」が含まれているケースだってある。

 自分を支えてくれるものに報いられるものを、ゴールにしたい。これは単なる自分の意志表示である。


 注意したいのは「自分を支えてくれるもの」をずっと大事にしろ、というわけではないということだ。構成を洗い出し、そして定期的に棚卸しするのだ。「自分を支えてくれる」という表現は、敢えて悪い言葉にするなら「今の自分にまで追い込んだもの」ということでもある。

 過去のトラウマ、周囲の無理解、散財、何かへの依存。あるいは定価の5倍近くを支払わせたあこぎな商売。これらだって自分を支えている。良いものも悪いものもすべて挙げる。

 それらを捨てるかどうかは自分次第だ。捨てたら土台がなくなって崩れ落ちるのなら、無理に取り去るべきではない。他人から見れば「さっさと捨てたら」と言われるものでも、支えていることに変わりはない。

 時間とともに存在が薄くなったり、逆に新しい支えが生まれることもある。その中でも変わらないものはきっと自分の骨子になっているはずだ。


 そしてもう1つは「(ゴールまでの)長大な道の中に短期的な寄り道を含めること」だ。


 多くの人が「(許されるなら)自分のやりたいことを思う存分にしたい」と語る。つまり仕事や家事などせず、旅行や買い物や趣味に没頭していたい。

 そういった意見を聞くと感じるのは、「それは今だとダメなのか?」ということだ。

 何かしらに勝たないとやりたいことをしてはいけない、というルールはない。

 本当に勝ってからでないとダメか? 自分は確かに勝っているという確証が欲しいだけなのではないか?


 短期的な視点、特に欲望に即したものは悪し様に言われがちだが、前述した通り、人間もまた一介の動物である。計画や事業だけがすべてではないし、想像以上に期間限定のイベントは多い。実際、目的地に着いたのに、虚しさだけが残る人もいる。

 そういった点でも寄り道は意図的に作るべきだと思う。寄り道が本筋になってしまうケースもあるだろうが―― 一度も方向転換してはいけない、というルールもない。



「長期的な視点でモノを見ろ」という言葉は、ビジネス書をはじめ、多くの場所で登場する。


 社会人になりたての頃、自己啓発本で初めて見た際には「おおっ」とは思ったのだが、時間とともにモヤモヤとしてきた。

 ありもしない「全体」を仮定して、それに対して短期・長期という概念を設けているように感じられた。「木を見て森を見ず」という言葉もそうなのだが、そもそも実生活における「森」を見たことがない以上、分かった風な口を利くことはできても、どうすれば「森」や「全体」を見たことになるのか、という根本的な疑問があるのだ。

 コメンテーター達は事件を語るとき「木を見て森を見なかった結果だ」という。でもその「森」の存在は事件があったからこそ発覚したものではないのか。文句を付けるためだけに急遽作られたものではないか、と思った。

 あれば見るさ。そんなものがあるとするなら。

 これらの言葉を嘘だとは言わないが、いまいち信じてはいなかった。尤もらしいが、それだけの言葉達だ。


 この不信感に対する答えは、社会人として生きる中で降ってきた様々な困難が教えてくれた。

「全体」も「森」も、自分の中に用意しないことには始まらない。誰かが用意したものではなく、自分が構築した全体の中で考え、森を見るのだ。

 知識や経験も、はたまたお金や名誉も、自分が植えた――他者から譲ってもらった苗もある――木々の一本なのであり、森を整えながらも、独特な生態系の発展を楽しみにしているのかもしれない。


 最後の文章は私個人の願望も入っているのだが、そうやって考えると、勉強も気持ち楽しくなる気がする。

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