囁きは夜を祓う
MASA-NO-SUKE
第1話 森の目覚め
レンは小さい頃から不思議と動物に好かれる子供だった。
近所の野良猫は彼の足元で寝転び、すずめはベランダの手すりに並んでチュンチュン鳴いた。
海岸近くの公園で見かけたカモメに手のひらを差し出せば、そこに餌がなくても寄って来ることさえあった。
両親も友人も、「レンは動物と話せるんじゃないか」なんて冗談を言ったが、レン自身は笑ってごまかしていた。
そんな不思議な体質が、自分の人生に何の意味を持つのか――考えたこともない。
その日も、バイト帰りにいつものコンビニに寄った。
温かいおにぎりと飲み物、ちょっとした夜食を袋に入れて歩いていたときだった。
住宅街の細い路地に入ると、かすかに人の悲鳴のような声が聞こえた。
胸がざわりとする。
夜の静けさを裂くその声は、どこか切羽詰まっていた。
走る。
角を曲がった瞬間、そこにいたのは――
路地の真ん中にうずくまる若い女性と、その前に立ちふさがる黒い巨大な獣だった。
自分以外、誰も気づいていない?
周囲には他に人が駆け寄って来る気配もない。
不思議には感じたが今はそれどころではない。
目の前の獣らしき異形。
街灯に照らされたその影はまさな異様だった。
全身を黒いもやのようなものが覆い、目だけが赤く光っている。
犬でも熊でもない、どこか形容しがたい、悪夢の化け物。
レンは足がすくみそうになるのを必死にこらえ、女性と獣の間に割り込んだ。
「逃げてください!」
声が震えたが、女性ははっと顔を上げ、うなずいて立ち上がる。
その一瞬、獣が低く唸った。
背筋がぞくりと凍る。
次の瞬間、黒い影が飛びかかってきた。
「くそっ!」
レンは反射的に女性を後ろへ押しやり、両手を広げて立ちはだかった。
――触れた瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
獣の姿は煙のように揺らぎ、ふっと消えた。
残ったのは冷たい夜風と、レンの荒い息だけ。
呆然と立ち尽くし、後ろを振り向こうとした瞬間――
景色が変わっていた。
そこは夜の住宅街ではなかった。
頭上には満天の星、鼻をくすぐるのは湿った土と草の匂い。
遠くで梟の鳴き声がする。
レンは思わず座り込んだ。
どこだここは。夢か? 頭が追いつかない。
額を押さえて深呼吸を繰り返す。
風が木々を揺らす音、見知らぬ虫の羽音。
怖いはずなのに、どこか懐かしい。
そのとき、小さな影が足元に現れた。
丸々とした小動物――リスだろうか。
こちらをじっと見て、恐れる様子もなく近づいてくる。
そっと手を差し出すと、リスは迷いなく乗ってきた。
「……やっぱり俺、夢見てんのか?」
リスは掌でひと鳴きすると、くるりと地面へ降り、森の奥へ走り出した。
まるで「ついてこい」と言っているみたいに。
レンは立ち上がり、半ば無意識にその後を追った。
森は深く、夜明けが近いのか、薄い朝靄が広がっている。
土の感触がスニーカー越しに伝わり、葉の雫が頬を濡らす。
不思議と怖くない。
足音さえ静かに感じる。
やがて木々の隙間から光が差し込み、視界が開けた。
そこに広がっていたのは、見たこともない風景だった。
石造りの壁に囲まれた街と思われるもの。
門の前には荷馬車と行列ができ、旅装束の人々が賑やかに何かを話している。
近づくのも一瞬躊躇ったが、なぜか恐れを感じなかった。
まずは門へと続く道を目指す。
歩を進めると、荷馬車の馬の匂い、見慣れない言葉が耳に届いた。
レンは息をのんだ。
まるでゲームの世界だ。いや、現実の匂いがする。
「ここ……日本じゃないよな……」
手にしたコンビニの袋が現実感を主張する。
レンは握りしめたそれを見て、小さく息を吐いた。
――とにかく、街の中へ行こう。
状況は分からないが、誰かに話を聞かないと。
門へ向かう足取りはまだ少し震えていたが、レンは門へと続く列の最後尾へ並ぶことにした。
胸の奥には奇妙な期待と、何かが始まる予感が灯っていた。
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