魚と釣り針と夜
十二水明
魚と釣り針と夜
2024/10/25 16:28
しかし、今。まだ、日は沈んでいない。遠くに見える山脈の陰に隠れつつあるものの、山の端から溢れ出る黄金色の光は、寂寥感と一抹の安堵を伴って空を神秘の色に染めていた。
その薄明るい、絹のような光の中、弥宵は自分のほうに向かって歩いてくる人影を認めた。人影は、弥宵と同じ年頃に見えた。紺色の制服を着た弥宵と違って、デニムのパンツに長袖のTシャツ、薄手のダウンジャケットという出で立ちである。首の中ほどまである黒髪が、時折吹く冷たい風に揺れていた。
こんな道に人なんて珍しい、と思いつつすれ違おうとしたとき、弥宵はその顔に見覚えがあることに気が付いた。
「もしかして、
そうだけど、と言いつつ少しいぶかしげに、まじまじとこちらを見る旭。数秒の沈黙の
「ああ、弥宵か。久しぶり」淡々と言った。
弥宵と
「絶対忘れてたよね」
「そんなことないけど」
「ひどくない?よく遊んだじゃん」
「そうだったような気がする」
「忘れてるね」
「冗談、ちゃんと覚えてる」
「ソウデスカ」
「ぴよぴよしてた弥宵がこんなに大きくなってるとは思わなかった」
「失敬な。旭だってぴよぴよしてた」
「…そんなことない」
「今、一瞬黙った」
「黙ってない、気のせい」………………
不毛なやり取りが続く。
久しぶりの再会に興奮して早口になっている弥宵と、落ち着いた声で話す旭。小学生の頃も、はしゃぐ弥宵に旭が冷静に応対するというのがいつものパターンだった、と思い出す。
両脇に葡萄畑が広がる、センターラインのない細い道。
既に、このあたりの畑では果実の収穫が終わっている。青い防鳥ネット、葡萄棚、そこに絡まった蔓、無数の枯れかかった黄色い葉、ぽつんと立っている踏み台。それらの長く伸びた影が、車が来ないのをいいことに道のまんなかで話し込む二人に芸術的な模様をつけていた。
「まあいいや、元気そうでよかった」と、不毛なやり取りに終止符を打つ弥宵。
「そんなに元気でもない。受験勉強にやられてる」
「ああわかる。肉体的には元気だけど精神的にきつい」
答えつつ、せっかく久しぶりに会ったのに、このままでは話が暗い方向へ進んでいってしまうと感じた弥宵は話を変えた。
「どこに行く途中だったの?」
「図書館。本を借りようと思って。……実は、もう行かないと図書館が閉まる」
あまり焦りの見えない口調だった。
「わあごめん」
「まだ間に合うから大丈夫。じゃあ」
歩き出そうとする旭。
その姿を見て少し名残惜しく感じた弥宵は、思わず、話しているうちに思い出した「ある約束」を口に出していた。
「今日の夜、星でも見に行かない?よく晴れてるし」
今から約三年前の、小学六年生の冬、二人は星空観察にはまった。何がきっかけだったのかはもうよく覚えていない。星空観察といっても大仰なものではなく、夜空をただ眺めながら、ぽつぽつと話をするくらいだった。晴れた日は五時半頃に達磨のように着込んで(このあたりの冬は尋常でないほど寒い)二人で待ち合わせ、近所の公園で星を見るのが、その頃の二人の日常だった。二人とも両親が共働きで帰りが遅く、六時半頃までは遊ぶことができたから、日暮れの早い冬に星を見るには十分だった。何もない田舎だからこそ、星々は美しく煌めいていた。同じように見えて実は刻々と姿を変えている星空に、二人は夢中になった。
しかし、そんな楽しい日々は短かった。二月下旬頃から日没が遅くなり、星が見える時間は減っていった。そして卒業式の日の夕方、二人はいつものように日没を待った。六時半まで待っても、西の空はまだ明るかった。星が十個ほどしか見えない空の下で、二人は地球の自転と公転を恨んだ。
大人に頼んで付き添ってもらえば、六時半以降も星を見ることができただろう。しかし、「それじゃあ楽しくない」というのが二人の一致した意見だった。そのため、二人は「いつか、もっと遅い時間に星を見よう。二人で、大人の付き添いなしで」と約束した。弥宵は、中学三年生になった今ならその約束を果たせるのではないかと、ふと思ったのだった。
旭はあっさりと「いいよ、受験勉強嫌だし」と言った。まさにその通り、と弥宵は思う。
「一緒に現実逃避しよう、旭」
「そうしよう」
「何時集合にする?」
「八時半に公園に着くくらいで良いと思う」
「じゃあ、それで」
「じゃあ、図書館行くから」
「わかった、また夜に」
そうして、弥宵と旭はそれぞれの目的地に向かった。
心の中で、夜を楽しみにしながら。
2024/10/25 20:31
二人は、公園にいた。弥宵は、久しぶりに物置から掘り出して持ってきたレジャーシートを芝生に敷いた。靴を脱いで、二人で寝転ぶ。小学生の頃は広々としていたレジャーシートが、今では身動きすると互いにぶつかりそうになるくらい小さい。旭が持ってきた一枚の毛布を横向きに広げて、二人の足に掛ける。靴下だけでは寒さを防ぐことができないと、二人は初めての星空観察の時に痛感していた。
月は出ておらず、雲もなく、星空観察にはもってこいの空だった。漆を塗り重ねたような深みのある黒を背景に、この世の何よりも美しい輝きを放つ星々。天の川が、縦によく見えた。
弥宵は、しばらく星空を眺めてから旭に聞いた。
「さそり座って、どんな形してたっけ?」
「大きなS字というか、個人的には『ち』を縦に伸ばして横棒より上にはみ出してる縦棒を消したみたいな形だと思う」
だけどなんで、とつぶやく旭を尻目に、弥宵はさそり座を探す。やがて弥宵は、天頂のあたりにそれらしい形を見つけた。
「あれじゃない?さそり座」
しばらくの沈黙。旭は少し困ったような顔で言った。
「……弥宵。今、さそり座は見えない」
「え、もうすぐ旭の誕生日だから見えるんじゃないの?旭確かさそり座じゃん」
「確かにもうすぐ誕生日だしさそり座だけど、見えない。生まれた月に太陽が位置していた星座が自分の星座になるから。まあ、もう十二星座が決められてから二千年くらい経ってるからだいぶずれているらしい」
「もうちょっと簡単に言って」
「今、さそり座は見えるはずがない。弥宵が見つけた、というか創ったのはさそり座もどき」
「……おかしいって!」弥宵は叫んだ。
旭が耳を押さえて少し顔をしかめる。どうやら、かなりうるさかったらしい。
「落ち着いて、弥宵。夜だから。叫ばないで」
「誕生日の頃の夜にはっきり見える星座にしてくれればよかったのに。……おかしいって」
「気持ちはよく分かる。だけどもう浸透しちゃってるから、世の中に」
「おかしいって」
「まあまあ。ちなみに、どれがさそり座もどき?」
「話題変えようとしたね」「何のことかな」
「別にいいけど。……空の真ん中の辺に上から縦に五個、明るい星が緩くカーブしながら並んでるじゃん。その一番上の星が『ち』の横棒の中心で、その左上にある星がまとまってるところから数えて三つ右の少し明るい星と…………」弥宵の説明が続く。
旭は、ふんふんとうなずいたり、時々確認したりして、弥宵の説明を聞いていた。
そして、
「『ち』の横棒は左から、ペルセウス座イプシロン星、同じペルセウス座のミルファク、カシオペヤ座のセギン。残りの縦棒とカーブは上から、さっきのミルファクと、アンドロメダ座のアルマク、ミラク、アルフェラッツ、ペガスス座のシェアト、マタル、はくちょう座のアルジャナー、わし座のアルタイル、わし座シータ星、みずがめ座のサダルスウドだと思う」
心なしか口角を上げて、熱っぽい口調で話す旭。それを、弥宵は信じられない思いで見ていた。
「旭だよね……?宇宙人じゃないよね?」
「ちゃんと烏丸旭として存在してる。なんで?」
「旭がそんなに楽しそうに話すのはあんまり見たことなかったし、すらすら星の名前が出てきてびっくりしたから」
「そう?弥宵とはいつも楽しく話しているつもりだったけど」
「表情と口調に反映されてないんだよ」
そうだったのか……とショックを受ける旭。いや、それより、
「いつの間にそんなに星に詳しくなったの?小6の頃は星の名前なんて全然興味なかったのに」
旭は、少し間をおいてから話し始めた。
卒業式の頃から日没が遅くなって、星を見られなくなったのがつまらなかったこと。だから本やインターネットのサイト、天体観測アプリなどを見てみたら、面白かったこと。星座のそれぞれに物語があり、星の固有名の由来を調べるのも楽しかったこと。そうしているうちに秋になって、実際の空とスマホのアプリを見比べているうちに星や星座の名前を覚えたこと。春が来て、七時だった門限を伸ばそうと駄目元で親に相談したこと。『ちゃんと寝るなら好きにしていいよ』と許可をもらったこと。それからは春、夏の星も好きなだけ見て、覚えたこと。
そういったことを、旭は静かに、ゆっくりと話した。
「誘ってくれればよかったのに」弥宵は、話を聞いて感じた不満を吐き出した。
「春休み、弥宵は家族でハワイに行っていたし、『中学に入ったら部活で青春する』って言っていたから邪魔をしないほうがいいと思って、声をかけなかった」
「そうでした。ごめん、忘れてた」
「いや、確かに一回誘ってみれば良かった。…じゃあ、また勉強の息抜きにでも星空観察するのはどう?」
覚えやすいように少しずつ紹介するから、と付け加える旭。
「……いいの?確かに、教えてくれたら嬉しいけど」
「もちろん。星は一人より二人で見たほうが楽しいし、現実逃避も二人のほうが罪悪感が少ないと思う」
「じゃあ、お願いします」
「こちらこそ。…じゃあ、早速。この時期、さそり座は見られないけど、うお座は見える。弥宵はうお座だよね」
「よく覚えてたね」
「いかにも三月生まれって名前してるから覚えやすい。やよい(弥生)=三月、だよね。漢字が違うけど」
「そう。会う人みんなに『三月生まれ?』って言われる」
「良い名前だと思う。和風で」
「ありがとう」
「ああ、いつのまにか話が脱線してる」
「いつものことだって。で、うお座どこ?」
「じゃあまず、うお座のイメージについて。二匹の魚のしっぽにそれぞれリボンをつないで、その二本のリボンを重ねて一結びした感じ。『く』の書き始めと書き終わりに魚がくっついてると思ってくれればいいと思う。暗めの星しかないから見つけにくいんだけど、まず………」
旭の説明が長く続く。しかし、
「なる…ほど…?」弥宵にはよく分からなかった。
「分かりにくいよね」「うん」「次に星空観察をする時は、わかりやすい図を持って来る」「頼んだ」
諦めず、自力でうお座を見つけようと静かになる弥宵。
しばらく、沈黙が続いた。
「そういえば」旭が突然話しだし、
「うお座の話をしたから思い出したんだけど」言いながら、ふふっと笑う。
「……だけど?」弥宵は何となく嫌な予感を覚えつつ相槌を打った。
「さそり座の星の並びは釣り針にも似ているから、日本だと『
「ん?」一瞬きょとんとする弥宵。
その様子を見て、旭はこらえきれずにまたふふっと笑う。
遅れて理解の追いついた弥宵が、少し顔をしかめて言う。
「何とも言えない気分……」
「まあ、気にすることはないと思う。星座もその名前も、結局は人間が勝手に決めたものだし」
「でも一回聞いちゃうと気になるんだよ。今すぐ、かに座になってくれない?」
「なんでかに座?」
「かにと魚なら海の仲間って感じじゃん」
「分かった、考えてみる」……………………
二人の話はその後も、続いたり、途切れたりする。
その間にも、少しずつ、少しずつ、星々の位置が変わる。
魚と釣り針の夜が、更けていく。
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最後までお読みいただきありがとうございました。あまり旭のような人はいないかもしれませんがフィクションなので目をつむってくださるとありがたいです。詳しい方、星や星座について誤った点があったら申し訳ありません。教えて頂けたら修正したいです。
魚と釣り針と夜 十二水明 @Ilovepotato
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