苦情

 父と同じように、賢太郎も自室に篭る時間が増えた。昼頃から夜遅くまで漫画を描いている。担当編集者が付き、『少年ヤソブ』での連載を本格的に目指すことになって、彼の脳の最深部に眠っていた「やる気エンジン」がついにかかったのだろう。


 弟が一つのことにこれほど熱心になっている姿を見るのは初めてだ。テレビゲームを除いて。


 私だけでなく父と母も、賢太郎の変貌っぷりに驚いている。もちろん、後ろ向きな驚きではない。「何も期待しておらず、死ぬまで世話をしなければならないと覚悟していた出来損ないの息子が、生きる道を見出してくれて喜ばしい」といった様子だ。


 賢太郎が部屋から出てくるたびに彼らは、ねぎらいやはげましの言葉をかける。その光景を見ると、私の心に芽生えたねたみの気持ちがにょきにょきと成長した。


 両親からの評価に今もこだわる自分のことを嫌悪したくなる。だが、賢太郎だけが目の前で賞賛される暮らしなど、もっと嫌だ。


 私も何かやらねば、と久しぶりにやる気エンジンをかけることにした。私のエンジンは賢太郎よりも高性能。「やる」と強く決心しなくても、素早く動き出す。


 今すぐにできることといえば、腕を骨折した母の代わりにすべての家事をやること。父と賢太郎は当てにならないから、私がやるしかない。ダラダラと映画やYouTubeを見てその日を終えるより、家事の一つでもやったほうが充実感があるだろう。それに、家事をやれば父と母から「ありがとう」という言葉をもらえることは間違いない。私も家族も満足できる、Win-Winというやつだ。


 父は家事代行サービスを頼むと言っていたが、一人暮らしをしていた期間が長い私は家事も自分でやってきた。母ほどではないが、父と賢太郎よりは上手くこなせる自信がある。ならば、無駄な金を使う必要はない。


 思い立ったが吉日。私は今日から、母に代わって家事をすべて一人で請け負うことにした。


 母がやっていた一日の最初の仕事は、朝食を作ること。包丁で野菜を切る音や、フライパンで卵を焼く匂いで、上階で眠る家族を起こす。


 全員で朝食を食べたら皿洗いをし、洗濯物をベランダに干す。外に干すのは晴れの日だけ。最近は雨が多いので、ペースは二、三日に一度くらいだ。


 洗濯物を干したら、床に掃除機をかけ、ほこりが付いた家具を雑巾で拭く。掃除が終わったら家の近くの集積所へゴミ捨て。


 洗濯物を干したり、掃除をしたり、ゴミを捨てたりといったことなら私一人でもできる。しかし、料理だけは難しかった。父や賢太郎よりは経験があるのでそれなりにできるつもりでいるが、人に振る舞えるようなレベルには程遠い。一人暮らしをしているときに自炊は多少していたものの、既製品のうどんを茹でるとか、冷凍餃子を焼くとか、その程度だ。これらを「自炊」と呼んでいいのかすら怪しい。


 金持ちになり、食にもこだわるようになった我が家の冷蔵庫に、付け焼き刃の料理スキルで美味しく味わえる食材など一つも入っていない。頭と尻尾がついたままで捌かれていない魚。スライスも味付けもされていない大きな肉塊。畑で収穫された形そのままの野菜。どれを料理するにも、私一人では力不足だ。


 そのため、料理をする際は母に後ろに立ってもらい、コーチングを受けることにした。私は母の指示で動くお料理ロボットに徹する。


 左腕を動かせない分、母の口はよく動く。「その切り方だと食べにくい」「もっと火を弱めないと焦がしてしまう」など、細かい指導が入る。


 この日は朝食として、白ごはんと豚汁、秋刀魚さんまの塩焼き、コールスローサラダをなんとか作り上げた。手間がかかったが、この家にいる間に母から料理の手解きを受けるのも悪くない、と思えるくらいには楽しめた。


 家族の感想も上々で、彼らの「美味しい」という言葉が私の自己肯定感を爆増させた。


 ここまでは順調。しかし、すぐに問題が発生する。掃除を終えて家中のゴミ箱の中身を大きなビニール袋にまとめ、近くのゴミ集積所へ持って行ったときだった。


「今日は燃やせるゴミの日じゃありませんけど?!」


 袋を地面に置こうとした瞬間、背後から鼓膜を針でつつかれるような甲高い声が響く。振り向くと、小柄な老婆が立っていた。初めて見る人である。


 年齢は母よりいくらか上で、六十代後半くらい。ウェーブがかかった、うっすらと紫色に染まった長い髪。黒いシャツの上からピンク色のエプロンを着けている。


 老婆は右手に持ったほうきの先を、私の眼前に突きつけた。まるでフェンシングのサーベルのように。初対面の相手にこんな威圧的なことをする人間がいるとは……。老婆の思わぬ行動に驚き、私は少しの間動けなくなる。


「燃やせるゴミは月と木! 今日は資源ゴミの日! ルールは守ってくださる!? それ、持ち帰って! 早く!」


「す、すみません……」


「あなたみたいな人間が地球環境を悪化させるのよ! あー、もう! なんでこんな基本的なこともできない無能な人間がのうのうと生きていられるんだか! 考えられない!」


 不快な声でひとしきり怒鳴り散らすと、老婆は背を向けて歩き出し、路地へと入っていった。


 老婆の姿が見えなくなって、体が動くようになる。彼女に気圧されてしまっていたようだ。


「なんだあのうるさいババアは……」


 と、私の口から小さく漏れ出る。


 老婆の声は、朝の閑静な時間帯ということもあって遠くまで響いたのだろう。私の前方、四十メートルほど離れたところにいた中年男性が走り寄ってきた。彼は両脇にダンボールを抱えている。老婆が言った「今日は資源ゴミの日」というルールをしっかり守っていた。


「あの、もしかして最近引っ越してきました?」


 と、問いかけてくる男性。私は「ええ、まぁ」と答えた。男性は、やっぱりね、という表情を浮かべながら続ける。


「さっきのお婆さん、田畑たばたさんっていう人なんですけどね。ほら、駅のすぐ近くに青い瓦屋根の大きな家、建ってるでしょ? あそこが田畑さんの家で。あの人、毎朝ゴミ出しのルールを違反してる人がいないかパトロールしてるんですよ。見つけると、さっきの調子で怒鳴り散らして……。引っ越してきたばかりの人は間違えても仕方ないと思うんですけどね。それでも容赦ないんですよ。新参者はみんな食らってる、通過儀礼みたいになってまして。参っちゃいますよね」


 男性は顔をしかめながら、そう教えてくれた。田畑さんという老婆を見かけたのは初めてだったが、駅近の青い瓦屋根の家には見覚えがある。父の手紙を読んで新居を目指し、最寄駅に着いたときにホームから見えた家だ。周りに建っているどの建物よりも大きな家だったので、印象に残っている。


 男性曰く、田畑さんは大地主で、何世代も前から彼女の一族がこの地域で幅を利かせているらしい。いわゆるボス猿だ。刃向かうと嫌がらせをされることもあるのだとか。そのため、近隣住民は誰も彼女の言うことに逆らえないでいる。


「今みたいにあの人に怒鳴られて、この町から出ていっちゃう人も多いんですよ。本人は治安を守ってるつもりなのかもしれないですけど……周りからすると、迷惑なだけなんですよね」


 男性の話を聞き私は、自分のことを客観視できない愚か者ってどこにでも居るよな、と内心呆れる。


 男性は「ゴミ出しの日はよく覚えておいたほうがいいですよ」と言い、集積所にダンボールを置くと、そそくさと立ち去った。


 田畑さんに言われたとおり、私はゴミ袋を集積所に置かず、家へ持ち帰る。一歩、また一歩と家に近づくにつれ、田畑さんに対する怒りが沸々ふつふつと湧いてきた。


 確かにゴミ出しの曜日を間違えた私に非がある。だが、ゴミ出しのルールは地域によって異なるのだから、男性が言ったように引っ越してきたばかりの人が間違うのは無理もないだろう。田畑さんだって、それくらい分かっているはずだ。


 なのに、あんなにも喧嘩腰な態度で注意してくるなんて……。「先祖代々の大地主」という既得権益を盾に、胡座あぐらをかいている。のぼせ上がりやがって。


 私がだったから、こうしておとなしく帰路に着いている。しかし、もし後先考えない危険人物だったら、大騒動になっていたかもしれない。田畑さんが命を落とすような大騒動に──。


 私は、中学時代はソフトテニス部、高校時代はバドミントン部で毎日体を鍛えてきた。当時から十年ほど経っているが、引き締まった肉体は健在である。そもそも私の身長は一七○センチ近く、男性顔負け。その気になれば、骨粗鬆症こつそしょうしょう寸前の老いぼれごとき、タコ殴りにして全身をばきばきに骨折させ、病院を通り越して葬式場送りにすることも容易い。


 そういう危険性があることを考えず、初対面の私に強い言葉で詰め寄ってきた田畑とかいうババアの愚かさ。その愚かさに対抗できなかった自分の生真面目さに、はらわたが煮えくり返りそうになる。


 家に戻り、玄関扉を音を立てながら強く閉める私。ゴミ袋を扉の左横に置き、肩を怒らせながら三階の自室に入る。そして、枕を田畑のババアのしわくちゃな顔面に見立てて、拳で何度も殴打した。


 それでも怒りは収まらない。スマホでXのアプリを開き、知り合いが誰もフォローしていない裏アカウントに罵詈雑言ばりぞうごんを書き込む。


 “さっき見知らぬババアに「ゴミ出しの日が違う」「あんたみたいな人間が地球環境を悪化させている」みたいなことを言われた。そんなことを言うあいつこそゴミだ。あのババアが消えたほうが地球も人類も救われる。こういう腐った思考回路をした人間は、何ゴミに分別すれば良いのだろうか?”


 あのババアと違い私は、デジタルネイティブ世代にギリギリ当てはまる若者。物理的に怒りを発散するよりも、インターネットに書き込むほうがよほどすっきりする。怒りを他人にぶつけることなく、自分だけで処理できるのだ。非常に合理的な世代である。


 もし私が会社員で、この投稿を取引先の人に見られたら人間性を疑われ、契約を即刻打ち切られているだろう。けれど、今の私は無職。こんな投稿をしても失うものなど何一つとしてない。


 他にも三十件ほど田畑のババアの悪口を書き込むことで、怒りの熱がほんの少しだけ冷めた。


 しかし、自分勝手な正義感でゴミ集積所を徘徊しているあのババアの習性が、私の投稿によって変わるわけではない。別の日にゴミ出しに行けば、また顔を合わせることになるはずだ。そのとき、この怒りは再熱して火山のごとく大噴火し、今度こそ田畑のババア本人に向くことだろう……。





「ああ、あの人ね。母さんもここに越してきてすぐ、同じようなことを言われたわ」


 夕食のときに私が田畑のババアのことを話題に出したところ、母も被害に遭っていたことが判明した。あの男性の話は本当で、田畑のババアは誰に対しても喧嘩腰なのだ。


「仁美に言っておけば良かったわね。ごめんなさい」


 軽く頭を下げる母。「母さんのせいじゃないって、だから謝らなくていいよ」と、私は頭を上げるように言う。


 謝ってほしいのは田畑のババアのほうだ。額をゴミ集積所の汚い地面に擦り付け、頭蓋骨が露出するまで土下座し、傷口に雑菌が入って破傷風はしょうふうになって死んでほしい。


「そんなことがあったのか。どうして早く言ってくれなかったんだ?」


 父は、大皿に盛った回鍋肉ホイコーローの肉を箸で摘まんで自分の小皿に置くと、そう言って母に視線を向けた。母は口をすぼませる。


「だって、田畑さんの言ってることは間違いではないでしょ? ゴミは正しく分別しなきゃ。特に可燃ゴミは、放置しておくとカラスとかネズミとかが寄ってきちゃうし」


「だとしても言い方ってものがあるだろう? 田畑さんがどれだけ偉い人かは知らないけど、失礼にも程がある。言葉に敬意がない。ルールを守ってほしければ丁寧に伝えるべきだ」


 母の反論を、父は語気を強めて握り潰す。家族以外の人間に攻撃的な意思を示す父は珍しい。彼とは馬が合わないと思って生きてきたが、今日だけは珍しく意見が合った。


「私もマジでムカつく。今度父さんから、あのゴミババアにきつく言ってよ。毎朝ゴミ集積所をパトロールしてるらしいから、待ち伏せしてさ」


 私は父の意見に賛同しつつ、田畑のババアを攻撃するようけしかける。父は大柄で、しかも強面だ。警察官に筋者すじものと間違われ、職質されたことが何度もあるらしい。


 そんな父が一喝すれば、田畑のババアといえど何も言い返せないはずだ。その横暴さも、多少なりを潜めるだろう。


「分かった。父さんが何とかしてやる」


 父は、どんっと胸に拳を当てる。少しだけ、父が頼もしいヒーローに見えた。


 とはいえ、本心から父に解決してもらうことを期待しているわけではない。そもそも父は内弁慶な性格。このときは、何とかすると言いながら結局何もしてくれないだろう、と考えていた。





 田畑のババアの一件から四日後の夕方、私は母と買い物に出かけた。いつもは母一人で行くのだが、片腕が使えない状態で外を一人で歩かせるのは危ない。そこで私が着いていくことになった。


 家から最も近いスーパーは、最寄駅の中を通り抜けて反対側にある。今の家に来たとき以来、実に三週間ぶりに駅へと向かった。


 エスカレーターを上り、駅の二階へ。そして改札の前を横切る。ふと、駅の大きな窓からクレーン車やショベルカーが建物を解体しているのが見えた。はりが露出した建物の崩落する音が、駅の中にまでかすかに響く。


 私は足を止めた。あの建物は、確か田畑のババアの家だ。原型をとどめていないし、記憶が以前よりおぼろげになっているが、この駅に初めて降り立ったときに見えた青い瓦屋根の大きな家は、あの場所に建っていたと思う。それが今、重機によって崩されている。


 田畑のババアは大地主であり、この土地に先祖代々暮らしてきたそうだ。あの家も相当年季が入っていて、田畑家とこの地がいかに密接に関わっているかを物語っていた。


 その家が取り壊されている……。ババアが建て替えを決意したのか。あるいは引っ越しを決めたのか。だが、先祖から受け継いだ土地と家を突然手放すなんてことがあるのだろうか……?


 その瞬間、私は「もしかしたら」と思い至る。田畑のババアの家が取り壊されていることに、父が関係している可能性に。


 私は田畑のババアの横暴っぷりへの牽制として、父をけしかけた。父は「何とかしてやる」と言っていたが、具体的に何をしてくれたのか、私は知らない。父の言葉を全く信じていなかったが、もしかしたら「ババアを恫喝しながらボコボコにして、この地から出ていくように言った」とか、「強面ではなく本物の筋者を使って、ババアを家から退去させた」とか、そういう強行手段に出たこともあり得る。その結果が、あの解体作業なのかもしれない。


 私はこの四日間のうち二回ゴミを出しに集積所へ行った。しかし二回とも田畑のババアと遭遇しなかった。あまり考えたくはないが、父は建物だけでなく田端のババア本人も……。


 何の根拠もない妄想だと理解している。けれど、人並みならぬ富を得て、気が大きくなっている父なら実行しても不思議ではない。


 数歩先に進んでいた母が、私が立ち止まったのに気付き、きびすを返す。そして私の左隣に立ち、窓の外から見えるを眺めた。


「あらら、無惨ね。でも、これでもう心配ないわ」


 目を細めてにっこりと笑いながら言う母。彼女は、父が田畑のババアに何をしたのか知っているのではないかと感じた。


 私が尋ねるより前に母は「行きましょう」と言い、早足で歩き始める。まるで「何も聞くな」とでも言いたげに。


 駅の中は冷房が効いていて外より涼しいというのに、私の額から頬へと一筋の汗が流れ落ちた。

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