愚弟
ダンスホールと化したリビングから自室へ逃げ込んだ私。ベッドに飛び込み、布団を頭の上から被って耳を塞ぐ。
この布団は、私と現実世界を切り離す
少しの間だけでいいから、自分だけの空間に閉じ篭りたくなった。弟の成果に狂喜乱舞する両親がいるこの世界から、自分を切り離したくなった。そう感じた理由は、単に家族で踊り出すという異様な空気感に耐えられなかったからだけではない。
素人でも分かるほどお粗末な賢太郎の漫画が、プロの編集者から「連載を目指そう」と言われるなんて、何度思い返しても考えられなかった。そして父と母の喜びよう……。彼らは賢太郎の漫画を見て賛辞を送っていたが、それはお世辞だと思っていた。なのに蓋を開けてみたら、私の見る目がなかったかのようではないか。
そんな状況を、現実を、一時的にでも拒絶したくなった。
心臓の鼓動が速くなり、頭に血が昇る。出版社に持ち込み、ボロ負けして帰ってきた弟を「二度と漫画なんて書くものか」と誓わせるくらいに
不意に大きな声が出そうになったが、ふぅーっと長く息を吐いて、心を落ち着ける。私がいくら大声を出したところで、この嫌悪感が少しだけ
……それにしても受け入れ
あり得ない。そんなこと、あってはならない。
小学生の頃、いや中学生になってからも、学校から通知表をもらう度に賢太郎と見せ合い、比較してきた。学年が違うので、評価基準も科目数も違う。それでも、どちらの成績が優れているかは一目瞭然だった。私はどの科目も、両親の言いつけどおり毎回オール「5」。賢太郎「1」と「2」ばかり。得意科目だと言っていた体育だけは「3」のことがごく稀にあったが、特段褒められた成績ではない。スポーツは多少できても他の生徒とより突出していたわけではなく、筆記テストや授業態度は悪かったのだろう。私は実技も筆記も態度も抜かりない。成績では弟に圧勝し続けてきた。
そんな出来損ないのアホ弟が進学したのは、答案用紙に自分の名前が書ければ受かるような低偏差値高校に、どの学部学科も受験者数が定員割れしているFラン大学。私はというと、偏差値六十を超える進学校から、誰もが知る有名私大へと進んだ。学生時代という期間において、私は弟に完勝したのである。
大学卒業後も私の勝利は揺るがなかった。私は新進気鋭のITベンチャーに就職。上場寸前で大企業の仲間入りをしようとしていた会社だ。テレビ番組やネットニュースで特集されたことが何度もある。実際のところサービス残業とパワハラが横行しているブラック企業だったが、ネームバリューが大きいことには間違いなかった。
賢太郎が就職したのは無名の中小企業。確か物流業界の会社で、賢太郎は物流センターの作業員をやっていたと記憶している。会社や職業に
賢太郎が私より優れていて、他人から褒められる点など、何一つとしてなかったはずなのである。
弟が私を上回っている点を強いて挙げるとすれば、メンタルの強さというか、図太さだろうか。テストの点がどれだけ悪くても、机に向かって勉強することなどない。両親や先生に何度叱られても、授業をまともに聞く姿勢など一切見せない。私なら、今までの自分を
何があっても自分の興味があることしかやらないメンタルの強さ。ブレなさ。そこだけは、敵わないなと思っていた。でも、羨ましいとは全く思わない。嫌味だ。悪い意味であいつには敵わない。
敵わない……その言葉を思い浮かべた瞬間、私は今感じている嫌な気持ちの正体に気付いた。愚かだ、無能だと見下してきた弟に、生まれて初めて敗北を味わされ
他人から評価されている弟。何より両親から評価され、彼らを喜ばせている弟が妬ましくて仕方がない。
それはずっと私の役割だった。両親の期待に応え、喜ばせ、「優秀だ」と褒められるのは弟ではなく私だった。その言葉を言われたいがために、私は勉強にもスポーツにも芸術にも打ち込んできた。幼少期の時間の大半を費やしてきた。その費やした時間がある分、今さら賢太郎に立場をひっくり返されることなんてないと思っていた。
なのに……無能な負け犬に……その立場が
二十数年の人生の中で、賢太郎に対して負けたと感じたのは、今の一回だけ。しかし、私としては一敗でもあってはならないことだった。賢太郎だけには、何が何でも完勝したまま人生を終えたかったのだ。棺桶の中でも、火葬炉の中でも勝利の美酒を味わっていたかったのだ。そう思いながら頑張ってきたはずなのに、負けてしまうなんて……。
だが、私が賢太郎に黒星をつけられるのは時間の問題だったとも思える。この家での暮らしを始めてからの私は、両親に褒められるようなことなど一つもしていない。ただダラダラと時間を浪費していただけだ。インターネットに二次創作イラストを投稿することさえもやめてしまった。
そんな、植物プランクトンのようにただ生きているだけの私よりも、低いクオリティであっても自力で漫画を描いて出版社に持ち込む賢太郎のほうが称賛されて当然だろう。
私が気付いていなかっただけで、立場が逆転する瞬間は着々と迫っていたのだ。
これまで私が独占していたものが、賢太郎のほうへ流れていく……。その消失感や敗北感、嫉妬心から、私はこうして布団を被り、現実逃避しようとしている。賢太郎が今の私と同じような状況に陥っても、あっけらかんとしているだろう。そう考えるほど、なおさら自分が惨めな敗北者に思えてくる。
ベッドの下からうっすらと聞こえる音楽と足音、奇声。父、母、弟の喜びの舞はまだ続いている。彼らに混ざりたいとは思わない。ただ、この音に怯えるように布団を被るしかない自分に腹が立つ。いつもなら、「想像を絶するほどの馬鹿どもだ」と下に見られるはずなのに、今の自分にはそれができない。
そのとき、はっと気付く。私はまだ家族に強くこだわり続けているということに。弟と自分の人間としての品質を比べ、その差を両親に示し、賞賛してもらうことで自分の人生に価値を見出そうとしているのだと。
大学を卒業して家を出た。その時点で、弟との成績の良し悪しも、両親からの評価も気にしなくていい。両親の顔色を伺いながら物事に取り組む必要などない。そのはずだったのに……。私という人間の核には、嫌で嫌で仕方がなかった「家族」がいる。「家族」を中心軸に、私の人生は今も回っている。そう痛感し、両目からぼろぼろと涙があふれ出た。
いつの間にか眠っていたようだ。カーテンの隙間から太陽の光が差し込んでいる。
枕の脇に置いたスマホの画面を見ると、時刻は朝の六時半。昨日、家族が踊り始め、私が部屋に駆け込んだのが夜の七時少し前。半日近く眠っていたことになる。
あれだけ強い嫌悪感に
ベッドから起き上がり、自室を出る。流石に音楽も足音も聞こえなかった。代わりに聞こえてくるのは、「ジュウウウッ」という、フライパンで何かを焼く音だけ。誰かが朝食を作っているようである。利き腕が使えない母ではないはず。だとしたら父か賢太郎だが、あの二人がキッチンに立っている姿が想像できない。
鏡は見ていないが、今の私は酷い顔をしているだろう。
キッチンで料理をしていたのは父だった。エプロンと三角巾を身に着けている。まるで家庭科の授業で調理実習中の中学生だ。向かいのテーブルに着く母から指示を受けながら、不器用な手捌きでフライパンと菜箸を使い、卵焼きを作っている。
平たく延ばした卵をくるりと巻こうとしているようだが、なかなか上手くいかない。卵焼きはシンプルな料理ながらも、初心者がチャレンジするには意外とハードルが高い。ど素人の父がなぜ卵焼きを作っているのかと、疑問に感じた。
「おはよう、仁美。お父さんが張り切っちゃって、『母さんの代わりに仁美の好物の卵焼きを作るんだ』って聞かなくて。だからやってもらってるの。仁美も座って、高みの見物を決め込みましょ」
母は私を見てそう言った。少しだけ面食らう。予想が外れた。ぱんぱんに腫れた私の顔を見た母の第一声は心配の言葉だと思っていたが、私の様子など百も承知であるかのように、椅子に座るよう促してくる。
母の隣には、テーブルに突っ伏して眠る賢太郎。髪の隙間から僅かに見える頭皮が赤い。どうやら昨夜、踊るだけでは飽き足らず、酒まで飲んでいたようである。
私は二日酔いで潰れている賢太郎の右隣の椅子に座った。ほのかに酒臭い。自宅で家族と、酔い潰れるまで酒を飲む人間がいることを初めて知った。
「昨日は賢太郎のお祝いのあまり、仁美のことを気にかけてやれなかったからな。今朝は仁美が喜びそうな朝食を作ろうと思ったんだ。お前、昔から卵焼きが大好きだっただろう? 母さんには無理させられないから、父さんが作ってやる。もうちょっと待ってくれ」
卵がフライパンからこぼれないよう、手元でバランスを取りながら言う父。母に「集中しないと失敗するわよ」と注意を受ける。
父の気遣いはありがたい。確かに私の好物は卵焼き。三歳か四歳の頃だろうか。母が作った、砂糖がちょっとだけ多めに入った甘い卵焼きに衝撃を受けて以来、私の「好きな食べ物ランキング」不動の一位になっている。
どんなに機嫌が悪いときでも、母の卵焼きを食べると嫌な気持ちが吹き飛んだ。学校の遠足や運動会など、給食が出ず弁当が必要な日は絶対に卵焼きを入れるようせがんだ。市販の弁当に入っている卵焼きも好きだが、母の味は超えられない。
父は母のレッスンを受けながら、私の好きな味を再現しようとしてくれているようだ。
しかし、そんな気遣いを感じただけでは、私の疑念は晴れない。なぜ父と母は私のご機嫌を取ろうとしている?
父は「私に気をかけてやれなかったから」と言っていたが、私はもう大人だ。弟が祝われているだけで不貞腐れるなどとは、まず思わないだろう。実際には不貞腐れていたのだが、その事実を父と母は知らないはずだ。私が自室に駆け込んでから朝まで、家族の誰とも会話をしていないのだから。部屋に誰かが入ってきた形跡もなかった。
それなのに、なぜ私を慰めようとしているのか。料理をしたことなど一度もない父がキッチンに立ってまで。リビングから逃げ出す私の姿は、
明確な答えが出ないまま、私と母は父が作った卵焼き、ウィンナー、白ごはん、味噌汁を食べ始める。父にとって処女作となる卵焼きは、見た目こそ悪くなかったが砂糖の分量が異常なほどに多く、チョコレートと同じくらい甘かった。甘い卵焼きは好きだが、この甘さはやり過ぎである。
それでも、父なりに一生懸命作ったものだ。「美味しい」と褒める。
私がお世辞を言いながら朝食を食べ終わるまで、賢太郎は隣でいびきをかいて寝続けていた。やはりこいつの性根は、幼い頃から何も変わっていない。図太い神経をしていて、自分の興味があることしかやらない
昨日は自分の作品を散々褒めてもらったのだから、そのお返しに父の作品を褒めてやったらどうかと、私はわざとらしく大きめにため息を吐いた。
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