玄鳥去〘つばめさる〙
十六夜 水明
玄鳥去
澄んだ
辺りは所々に小花が咲いた草原で何も居ないはずなのに、ざわめいているように感じる。まるで目に見えない何者か――妖怪のような者たちだろうか――が秋の訪れを祝っているようだった。
そんな中、1人の少女が……月の光を集めたような白いワンピースを着た少女が小川の反対側に佇んでこちらを優しげな表情で見つめていた。こちら側を羨むような、それでいて慈しんでいるような顔で。
なぜだろうか。自分はその少女を知っている気がした。
絶対、忘れてはいけない存在。
思い出せない中で、そのことばが脳内を駆け巡る。
自分は今、どんな顔をしているのだろう。思い出せそうで思い出せない、痛々しい表情をしているのだろうか。そう思うと、少女にとても申し訳ない気持ちになった。
暫時の間、少女と見つめ合っていると辺りの風景にモヤが掛かり少しづつ歪んでいくのを感じた。そして、少女が目を細めて口にしたのだ。
『貴方、ここにいていいの?』
その瞬間、周りの歪んでいた風景のピントが合ったかのようにモヤが晴れた。が、先ほどまでと明らかに違う。何者か達が、視界の大半を占拠しているのだ。大から小まで形も様々な、妖怪のようなそれらは、こちらを珍しいものを見るような目で見るものもいれば、積極的に近づいて来るものもいた。
だが、いずれも小川の対岸までしか来ない。ここは何かの境界線なのだろうか。
「じゃあ。なんで君はそちらにいるんだい?」
質問に質問で返すのは良くないと思いながら、問いを口にした。
『君とは住む世界がもう違うんだよ』
「俺は、そちら側へは行けないの?」
『来ちゃだめだよ。君を帰せなくなる』
少女には似合わないその口調も、どこか記憶の隅にある筈なのに思い出せない。思い出したいのに思い出せない。
『そろそろお帰り。もう夕燕が飛んでいるよ』
もう日が暮れる。暮れたら帰りづらくなるよ、と寂しげな表情で少女はこちらに言った。いつの間にか夕方になっていたらしく、彼女のワンピースは夕焼けで淡い茜色に染まっていた。太陽の反対側の天井は瞑色の布が広がってほんのり光る星々が散らばっている。
「君は帰らないの?」
『私はもう、帰れないから』
少女の瞳には、涙が浮かんでいるように思えた。
『太陽の方に歩いて進めば帰れるよ。間違ってもこちら側にある月に向かって進んではいけないよ』
『さようなら。』
そう言って、少女は微笑んだ。辛そうな表情で、まるでまだこの時間を繋ぎ止めていたいかのように。
その時、再び視界が歪んだ。視界の先には少女がたった1人で佇んでいる。しかし、その姿にすらモヤが掛かって今にも消えてしまいそうだった。
「さようなら」
そう言って、踵を返し言われた通り太陽方に向かって進んでいった。
次に視界に入ったのは、陽の光が差し込んだ見知らぬ白い天井だった。頭部が殴られたかのようにズキズキと痛む。
「よかった、目を覚ましたんですね。今、担当の先生を呼んできます」
急に聞き馴染みのない声が頭上から降ってきた。
ここは、病院だろうか、と少し体を起こしてあたりを見回す。するとベッド脇の小さな棚に、1つの写真が額に入れて立てかけられているのを見つけた。
(あぁ、思い出した。)
その写真には先ほど会話した少女に似た女性が写っていた。自分は思い出せなかったんじゃない。思い出したくなかったんだ。つらい思い出を。
(ありがとう。もう、絶対に忘れないから)
病室の窓から見えた空はひどく美しい秋晴れだった。
その空を1羽の燕が月に向かって飛んで行ったのを誰も知らない。
[終]
玄鳥去〘つばめさる〙 十六夜 水明 @chinoki
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