医療事務ですが、病院で謎を追ってます!【第3部 シグナル・ロスト】
暁月
第3部「シグナル・ロスト」
第1話:沈黙の病室
ナースステーションの壁掛け時計が、午前二時を指していた。
秒針の「カチリ」という音が、やけに大きく静寂を刻む。
廊下には人影がなく、蛍光灯の光が床に四角い区切りを落としている。だが灯りは均一ではなく、一つがちらつき、その影が壁に波紋のような揺らぎを生んでいた。
空調の風は乾ききっていて、消毒液や漂白剤の残り香が鼻腔を刺す。耳の奥には低い「ブーン」という唸りがまとわりつき、静けさを逆に際立たせていた。
その空気を裂いたのは——聞き慣れない電子音だった。
「……ポーン、ポーン」
規則的でありながら、調子外れなリズム。普段の「ピーピーピー」と鋭く告げるアラームではない。柔らかいのに、不自然で気味が悪い音色だった。
当直看護師は反射的に巡回リストを落としかけ、背筋を冷たい汗が伝う。
「……モニター? でも、こんな音は——」
彼女は駆け足で病室に飛び込む。
モニター画面は波形が途切れたまま、平坦でもなく、中断したような歪な終わりを示していた。
「先生! 患者さんが!」
コールボタンを叩く。医師が駆け込み、矢継ぎ早に指示が飛ぶ。酸素、昇圧剤、胸骨圧迫——だがすべては虚しく、時間だけが積み重なっていった。
数分後。静寂。
有料個室の清掃された室内には、乱れたシーツと転がった注射器、床に散らばる包装紙が残され、人工的な秩序の中に救命の痕跡だけが浮いていた。
「……心不全」
医師は短くそう告げ、額を拭った。
看護師は震える指で足元を見た。
そこには外れかけたまま垂れ下がった電極コード。処置の最中に取れたのか。だが耳の奥では、なおあの不気味なアラームが残響していた。
翌週。病院2号館の会議室。
医療安全管理室による定例会議が開かれていた。
この会議は2週間に一度、院内で発生した死亡症例を対象に行われる。
死亡診断書や電子カルテの記録をもとに、多職種の視点から「処置は妥当だったか」を確認し、医療安全の観点で問題点を洗い出すための場である。
会議を取り仕切るのは、医療安全管理室の係長・
三十歳代、ストライプのシャツにグレーのジャケット。
立ち居振る舞いは整然としており、眼鏡の奥の瞳は冷静そのもの。
その会議の一角に、普段は見かけない人物がいた。
ネイビーのYシャツにノーネクタイ。情報システム課の係長及び監査部門併任者
——なぜ自分がこの場に呼ばれたのか。神谷には見当がついていなかった。
(どうして俺が……?)
会議前日に藤村から直接連絡があったときは、神谷自身、何かあるとは思っていた。
しかし、内容も「多職種としての意見を聞きたい」とだけしか言われなかった。
(藤村は何か協力して欲しい意図があるのだろう……)
「先週夜勤中に発生した急変から死亡に至ったケース。死因は“心不全”と診断されています」
藤村が書類を掲げ、出席者に資料が配布された。
神谷も一枚を手に取り、目を落とす。そこには簡潔にまとめられた診療記録が並んでいた。
【診療記録(抜粋)】
入院理由:大動脈弁狭窄症(手術予定:2日後)
入院経過:バイタル安定、夜間呼吸苦なし
検査結果:
・心エコー:EF 60%、心拡大なし
・血液検査:Na/K/Cr 正常範囲内
・BNP:軽度上昇(基準値の1.2倍)→経過観察範囲
食事:本人希望により減塩食
看護記録:夕方に廊下を歩行。会話時に「手術に向けて順調」と発言あり。
(……バイタル安定、検査も特段問題なし。術前管理としては極めて順調……なのに急変?)
「大動脈弁狭窄症の患者さんですから、心不全で亡くなるのは自然でしょう」
出席していた医師の一人が言う。
だが藤村は首を横に振った。
「ただし、2日後に手術を予定していた。症状は安定していた、と記録にあります」
神谷は資料の片隅に視線を移した。そこには小さな文字で書かれた看護師の記録が残っていた。
《夜間巡視時、モニターアラーム音異常》
(アラーム音……藤村は、ここを俺に調べさせたいんだな)
「初動対応に問題はなかった。これはもう終わりでいいでしょう」
医師がページをめくろうとした瞬間、神谷は静かに手を挙げた。
「すみません。情報システム課の神谷です。臨床について理解不足な点があるので教えていただきたい。
“初動が正しかった”というのは、発見から処置までが速かったという意味でしょうか? それとも、モニターの異常を早く検知できたことも含めての評価でしょうか?」
「……対応が速かったという意味だ。それが何か?」
医師は不機嫌そうに答えた。
神谷は一呼吸置き、資料を指で押さえる。
「私は、異常を検知できる仕組みも含めて“医療安全”だと理解していました。
そして、この症例にはいくつか腑に落ちない点が見えます」
「腑に落ちない?」
「まず、この患者さんは有料個室を利用してます。1日3万円です。所謂、VIP室といったものです。その場合、特別食がでるのですが、患者さんは断って減塩食を自己申告している。普段から食事に気を付けている可能性があります。
さらに、直前の検査データは安定しており、心エコー・血液検査も手術に耐え得る状態。看護記録には日課の散歩もあり、本人も“手術まで順調”と口にしていた。
そこまで健康管理に気を配っていた方が、手術を二日後に控えて急に心不全で亡くなるのは……どうにも出来過ぎている気がするのです」
「情報システム課の人間が臨床について口出されてもね……」
別の医師が怪訝な表情で神谷を見つめる。
「ぁあ、それではこの医療安全の会議自体が破綻してしまいますね。多職種での意見をもとに問題に対して検討するものですから……それでは今後医師や看護師のみで行うようにしますか?医療安全という観点では要件を満たさなくなりますが」
医師たちが顔を見合わせ、言葉を失う。
藤村は口角をわずかに上げ、神谷の方へ視線を送った。
「……なるほど。では一度、カルテや検査データを改めて精査してみましょうか」
藤村はまるで用意されたかのような言葉で議題を締めくくった。
会議室には、言いようのない緊張が漂っていた。
―会議室前 廊下―
「いやぁさすがですね……医師に対してちゃんと発言できる。問題の理解。他の職員にはないですね」
藤村は、不機嫌そうな顔をしている神谷に向けて、精一杯の世辞をかける。
「で?思惑どおりなんでしょ? 俺が発言することも、疑念を浮かべる箇所も」
神谷の声は淡々としていたが、その眼差しは鋭く藤村を射抜いていた。
藤村はわずかに肩をすくめ、表情を崩さぬまま、眼鏡の奥で光を反射させる。
「はて? 私は多職種として神谷係長の意見が聞きたかっただけですよ」
神谷は短く鼻を鳴らし、皮肉を返した。
「
「はは。厳しい言いようですね」
藤村は声を立てて笑ったが、その笑みに温度はなかった。
むしろ神谷の揶揄を楽しんでいるかのように、わざと芝居がかった仕草で手元の資料を軽く叩いた。
「……VIPの素性について、調べてみると面白いことがわかるかもしれません」
「……面白い?不謹慎な表現だな。どうせどっかのお偉いさんなんだろ」
藤村は眼鏡の奥で光を反射させ、わざとらしく肩をすくめる。
「さて。それは——今後のお楽しみです」
「……本当に“たぬき”だな」
神谷の怪訝な眼差しを真正面から受け止め、藤村は満面の笑みを浮かべていた。
その笑みは、計算尽くで貼りつけた仮面のように動かなかった。
【あとがき】
最後までお読みいただきありがとうございます。
この物語は、病院という“日常”に潜む違和感と闇を、記録と記憶をめぐる調査劇として描いています。
第1部、第2部で主人公・神谷蓮は“記録を見る側の交渉人”として静かに歩み出しましたが、第3部の幕開けは、深夜の病室から始まりました。
静寂を破る“異質なアラーム音”──その不気味な響きが、今後どのように関わってくるのか。
今回の症例は一見「突然死」に見えますが、神谷の目には「出来過ぎた偶然」として映ります。
それは、第1部で主任の死を経験してきたからこそ、見えてしまう“歪み”なのかもしれません。
そして、第2部から登場した医療安全管理室の藤村岳士。
その微笑の裏に潜む思惑が、今後どのように神谷たちを導き、あるいは翻弄していくのか……。
第1部・第2部で積み重ねてきた日常と謎の交錯は、さらに複雑な局面へと進みます。
有料個室に入っていた患者の死をきっかけに、病院の奥底に眠る“新たな不整合”が浮かび上がるのかもしれません。
よろしければ、お付き合いください。
もし面白かったと思っていただけた方がいらっしゃいましたら、☆やレビューを頂けると大変嬉しいです♪♪
https://kakuyomu.jp/works/16818622174774232509
第1部「ログイン・イニシャライズ」
https://kakuyomu.jp/works/16818622174774232509/episodes/16818622174774332442
第2部「ミッシング・フラグ」
https://kakuyomu.jp/works/16818622174774232509/episodes/16818622176542526603
※第3部からでもある程度は読み進められますが、前作を読了していただいた方が深く楽しめます。
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