第2部「ミッシング・フラグ」

第1章 「不可視の序章」

【01】昇進と依頼


──昇進は、栄誉ではなく、宿題の束だった。


神谷 蓮の名札に新たに刻まれた「係長」の文字。

だが、それを見て笑う者はいない。──少なくとも、彼自身は。


責任と調整と、増え続ける“割り切れなさ”の処理。

それが、これからの彼に課された職務だった。


(自分が望んだわけじゃない──そう思っていた。)


中庭で歩きながら無意識に名札に触れる。

──“係長”と記された名札を、まだ見慣れていなかった。


四月の風が、病院の中庭を静かに吹き抜けていく。


神谷 蓮は、いつも通りの足取りで職員通用口を抜けた。

その胸元には──数週間前から新たに加わった肩書きがぶら下がっている。


──情報システム課・係長。


ほんの少し前まで、彼は記録の不整合を追っていた。

誰かによって削除されたログ、書き換えられた報告書、“K.M”という共用アカウント。

そして、真壁 沙耶による告発──それらが交錯した事件は、組織内では一応の“決着”を見た。


沙耶には、匿名アカウントの使用と横領疑惑がかけられた。

だが、神谷は報告書にこう記した──「彼女の行動すべてに悪意があったとは思わない」。

それがどれだけ効いたのかは分からない。

だが処分は“異動”にとどまり、最終的に彼女は現場を離れることで幕が引かれた。


一方で神谷には、お咎めとは別の評価があった。

事件のあとに久原監事から一通の辞令が渡された。

──情報システム課・係長任命。加えて監査部門との併任。


名目は昇進だが、それが単なる人事でないことは明らかだった。

(……見逃されたわけじゃない。ただ、終わらせ方を“選ばれた”だけだ)


すれ違う職員たちの一礼には、確かな“温度差”が混じっていた。

敬意、遠慮、あるいは──距離感。


神谷はその視線を敏感に受け取りながらも、黙して歩を進めた。

この人事が意味するものを、彼は誰よりも理解していた。


情報システム課のオフィスは、病院棟の隅にひっそりと設けられている。広々としているはずの空間は、無数のモニターやサーバーラックに圧迫され、どこか閉塞感を漂わせていた。天井の蛍光灯は無機質な白色光を投げかけ、壁際の書棚には技術書や報告書が無造作に並ぶ。静かな空調音と、時折鳴る電子音だけがこの部署の静寂を刻んでいた。


職員たちの机は整理整頓されているが、それでも配線や書類、メモの山が常に増殖している。奥まった窓際に神谷のデスクがある。そこだけは、散乱した書類の中にも几帳面な性格が垣間見えた。デスク上の黒い端末が静かに稼働し、薄く積もった埃がモニターに光っている。


そんな朝、メールチェックを始めようとした矢先、電話が鳴った。

監査室秘書の声が飛び込んできた。


「神谷係長、久原監事が──監査室でお待ちです」


わずかに眉を動かし、神谷は立ち上がる。

久原監事の招集は、その“割り切れなさ”をさらに加速させるものだった。


この呼び出しが単なる世間話でないことは、すでに察していた。


 先日──。

 彼は久原監事から、ある患者の家族から記された一通の「通知書控え」を受け取っていた。


 文書には、こう記されていた。


“術後になって良性と知らされた。

本来なら、娘の体を守れたはずだ。

なぜ、医師は結果を確認せず、手術を進めたのか──”


 それは、弁護士を通じて提出された正式な調査依頼だった。

 院内の診療過程に対する“外部からの照会”という形式をとっていたが、

 実質的には、内部記録の“消失”または“操作”が疑われていることを意味していた。


 ……結局、自分はまた「記録の空白」と向き合うのか。


 神谷は小さく息を吐いた。


(さて、病院としての見解はどうだろうか)


 かつては、ただの情報システム課の一職員として、

 証拠を積み上げることしかできなかった。

 判断を下すのは、常に別の誰かだった。


 だが今は、係長という立場にある。

 監査室との併任も、表向きは“補佐”に過ぎないが、

 その実──久原は「判断を任せる」と言外に伝えている。


だが、前回の事件──記録の空白を追いながら、何も変えられなかった──

今度こそ自分の手で未然に防ぐことができるかもしれないと思っていた。


 神谷は、病院別館の監査室へと向かって歩き出す。

 中庭を抜ける足取りは、やや早くなっていた。


   ◇


監査室は病院の別館最上階に位置し、そこは他の部署とは明らかに違う緊張感があった。重厚な木製ドアを開けると、すぐに冷房の効いた空気が神谷の肌を突き刺した。深緑のカーペットが音を吸収し、静寂を際立たせる。


部屋の中心には巨大な会議テーブルがあり、その周りに革張りの椅子が整然と並んでいる。窓際にはブラインドが下ろされており、薄暗い室内には人工的な照明が落ちている。壁には法律書や規則集がぎっしりと詰まった書棚があり、監査室特有の堅苦しさをさらに助長していた。


奥のデスクには久原監事が静かに座っている。その背後には組織図やスケジュールが整然と掲示され、彼の視線は常に厳しい緊張感を帯びていた。


「やっと来たな、神谷。係長にもなると、歩くのも遅くなるのか?」


 皮肉交じりの調子で久原が口元を歪める。

 神谷は軽く苦笑し、一礼して入室した。


「本館から遠いので……ご容赦を。──それで、今回のご用件は?」


 久原は無言で、一枚の資料を差し出した。

 オーダー票、術前記録、報告書、そして──患者家族から提出された“告発文”の写し。


「術前検査でがんの疑いとされ、手術を受けた患者が──後から“良性だった”と知らされた」


「先日頂いた通知書の件ですね……しかし、悪性腫瘍で手術して、病理結果を、術後に通知したのですか?この術式で?」


「それだけじゃない。

 “電子カルテに病理結果が記録されていない”──そこが問題だ」


淡々と語るその口調に、神谷は思わず目を細めた。


 神谷は資料に目を通し、システム側での反映状況を確認する。

 確かに、所見のデータそのものが“記録として存在していない”。


「……印刷されて手渡された可能性もありますね。調べてみます」


「それも含めて、だ。

 お前の仕事は“結果が残っていなかった理由”を洗い出すことじゃない。

 ──“なぜ、それが手術するまで分からなかった”についても追うことだ」


 久原は、封筒からもう一枚の紙を抜き出した。


「患者の名前は──羽田 結菜、二十八歳。

 術式は『右乳腺悪性腫瘍手術』。ただ、病理結果は“良性の線維腺腫”だった。

 でもな、彼女は乳房の一部を失った。結婚を控えていたらしい。

 そのショックからか、心療内科に通うようになり、今は実家で療養中だ」


 神谷の眉がわずかに動く。


「なるほど……それで、家族が告発を?」


「ああ。

 “記録があれば止められた”

 “娘の未来を奪われた”──そう言って、弁護士を通じて正式に病院へ通知が来てる」


 久原は、一枚のコピーを差し出した。

 患者の診察記録の一部だ。


“術後、鏡を見るたびに泣いてしまうと本人談。

『先生が一言でも謝ってくれたら……』”


 沈黙が落ちた。


「……神谷、お前なら“情報共有のミスでした”で済ませられるか?」


 神谷はその言葉に答えず、静かに書類を閉じた。


「……承知しました。記録として不備がないか確認します」


 椅子を引く音が、妙に大きく響く。


(なぜこのような方法で手術を強行したのか、むしろ病理結果の遅延が本当の原因なのか、医療安全的に問題になるな……)


   ◇



 情報システム課のオフィスに戻った神谷は、自席へ向かう途中で足を止めた。


 ──空いたデスクのひとつに、見覚えのある横顔があった。


「……沙耶?」


 名を呼ぶと、真壁 沙耶はゆっくりと振り返った。

 その笑みは静かだったが、指先の僅かな緊張を、神谷は見逃さなかった。


「今日から、正式に情報システム課の所属になりました。よろしくお願いします」


「……情報システム課に、か」

 神谷はわずかに視線を逸らした。

 処分としての“異動”は知っていたが、まさか同じ部署になるとは聞いていなかった。


「“神谷さんのご報告”と、久原監事の取り計らいで。

 処分は異動という形で落ち着きました。……また記録を扱う部署に戻るって聞いたとき、本当は少し、足がすくんだんです」

「……本当にまた記録に触れていいのか、何度も迷った。でも──」


 沙耶はそう言って、一度だけ視線を床に落とす。

 その数秒は短かったが、そこに含まれた葛藤は決して軽くなかっただろう。


「……今度こそちゃんと、“正しい記録”の側にいたいって思ってる。

 だから、来ました」


 神谷は何も言わず、ただひとつ頷いた。


 その空気を察したように、すぐそばからもうひとつの声が割って入った。


「えっと……篠田です。あの、お久しぶりです。改めて、よろしくお願いします」


 沙耶はその声に少し驚いたように目を見開き、すぐに微笑んで会釈を返す。


「よろしくね、篠田さん。神谷さんの下で働くの、大変でしょう?」


「いえ、そんな……」

 と言いかけて、ほんの一瞬だけ沙耶の目を探るように視線を逸らした。


「まあ、昔より“今の神谷さん”のほうが、難しいかもですね……」


「へぇ、篠田さんは昔の彼を知っているのかしら?」


 一瞬だけ空気が止まる。

 神谷は軽く咳払いをして、その場を収めた。


「とりあえず、今は監事からの案件を最優先にする。

詳しくは資料を作成して配るから後でみといてくれ。

まずは……沙耶、病理室まわりの電子記録、可能な限り洗ってくれ」


「了解です。日付はざっくりとっておくわ」


「──“葵”。俺と一緒に現地を確認しに行くぞ」


 沙耶の眉がわずかに動く。

 篠田は、“名前で呼ばれること”にやや面映ゆさを感じながら、それでもどこか誇らしげに立ち上がった。


 二人は即座に準備に取りかかる。

 沙耶も端末に向かってログ抽出を始めていた。


 指がキーボードを叩く音はやや固く、だがそのリズムには、確かに“再起”の意思が宿っていた。


 ──係長としての神谷の一日が、静かに──そして確かに、動き始めていた。





【あとがき】

第2部の開幕にあたる第1話「昇進と依頼」を、最後までお読みいただきありがとうございます。


この物語は、病院という“日常”に潜む違和と闇を、記録と記憶をめぐる調査劇として描いています。

第1部では、主人公・神谷が“記録を見る側”として静かに歩み出しましたが、第2部では、“記録の裏にある意図と操作”に踏み込んでいきます。


今回、昇進という立場の変化を得た神谷が、再び“見えないもの”に向き合う中で、

人との距離感、責任、そして「正しさとは何か」という問いが、より色濃く浮かび上がっていく予定です。


よろしければ、お付き合いください。

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