野生のさきら

藍条森也

第一話 最後のさきら族

『さきら。

 それは、人の姿のネコ科生物。

 人に交じり、人を食うために進化した人類の天敵。世界に残るあらゆる人食いの妖怪・魔物のもととなった幻の生物。

 私は十数年前、そのさきら族の赤ん坊を見つけた。その赤ん坊を日本に連れ帰り、自分の娘として、人間として育ててきた。この子は恐らく、最後のさきら族。そして、私の寿命はもう尽きる。この子は……』

 その一文を残して、名も無き博物学者が死んだ。主が誰にも知られることなく息絶えたあと、その家にいる生物と言えばネズミとゴキブリぐらい。文書にある『娘』の姿は――。

 どこにもなかった。


 「やだなあ、こんなに遅くなっちゃった」

 大都会と言うわけではないが、さりとて、田舎と言うほどでもない。そんな日本の地方都市。会社帰りの女子会社員が家への道を小走りに駆けていた。

 「残業を押しつけられたせいでこんな時間になっちゃったんだから、帰りのタクシーぐらい会社で用意しろってのよ! いくら、経営の厳しいご時世だからってそこまでケチんな! 社員を大切にしないから人が集まらないのよ。襲われでもしたら……」

 突然、後ろから抱きつかれた。

 電球の切れた街灯の陰からひとりの男が飛びだし、背後から襲いかかったのだ。

 即座に首を絞め、気絶させにかかった。悲鳴をあげるいとまもありはしない。会社帰りの女子社員はあっさりと白目をむき、その場にくず折れた。

 「へへっ。さあて、どうしてやろうかな」

 男は舌なめずりした。どこか、手頃な場所に連れ込んでお楽しみ――と思ったそのときだ。

 目の前に小さな影が降り立った。

 不思議なことに足音のひとつもなく。

 まるで、舞い散る羽毛のように。

 まるで、重力のない世界のように。

 三日月の淡い月明かりのなかにスラリと立ったその姿。

 瞳はネコ。

 姿はヒト。

 まばゆい美貌はエルフのよう。

 夜の闇を銀河に流したような漆黒の長髪と白い裸体。ふくらみかけた胸となめらかな股間とは、その獣が思春期前の少女であることを示していた。

 人として育てられた人食いの獣。

 最後のさきら族がそこにいた。

 「な、なんだ、お前は⁉」

 最後のさきら族が動いた。

 ネコ科特有のしなやかで、素早い動き。右腕が満月を描いて振るわれた。指先から突き出すは必殺の爪。哺乳類最強、狩りを極めし種族たるネコ科の爪が男を襲った。

 切り裂いた。

 ネコの爪が男の頬を。

 鮮血が飛び散り、男の悲鳴があがった。

 男はそのまま一目散に逃げ去った。恥ずかしいほどに大仰な悲鳴をあげながら。

 さきらは追わなかった。そのかわり、倒れたままの女子に近づいた。仰向けに寝かせた。自分の唇を女子の頬に近づけた。

 ペロ。

 そっと、その頬を舌先で舐めた。

 ペロ。

 ペロ。

 ペロ。

 優しく、頬を舐めつづける。

 そのとき――。

 「なんだ、いまの悲鳴は⁉」

 パトロール中の警官ふたり組が男の悲鳴を聞きつけて、ライト片手に駆けてきた。

 ライトの光のなかに浮かびあがった光景。それは、道ばたに倒れた女子に覆いかぶさり、頬に牙を突き立てようとしている――ように見えた――全裸の少女。ライトの光を反射したネコの瞳が妖しく光った。

 「なんだ、こいつは⁉」

 「ネコ目の化け物⁉ こいつがこの人を襲ったのか⁉」

 ふたりの警官は殺到した。鍛えあげた脚力でさきらの腹を蹴りつけた。さきらはまりのように吹き飛んだ。そのまま、ネコ科特有のしなやかな動きで跳びあがり、夜の闇に姿を消した。

 「くそっ! なんだ、あいつは!」

 「まてっ! いまはこの人の保護が先決だ。あの化け物のことは本署に連絡して……」


 警官たちが語り合うなか、最後のさきら族は都市の闇のなかを駆けていた。

 人の姿に擬態し、人のなかに交わり、人を食う人類の天敵。

 にもかかわらず、人として育てられた最後のさきら族。

 この世の誰も知らぬたったひとりの生き物。その行き着く先もまた――。

 誰も知らない

                   完

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