白いゆりかご

佐藤シンヂ

第1話

 かつて自分の実家は古くから伝わる武道の名門として知られていた。門下生も多く、その中から著名人も輩出されたのもあいまって、界隈でも知らぬ者はいなかった。だが近年はその名声に翳りが見え、徐々に廃れていき、道場存続の危機にまで追い詰められていた。親族も減りつつあったために血統主義の祖父母はとても焦っていた。ゆえにもっと血を増やし、将来的にも揺らがぬ盤石を作り上げる。そのためにはもっと子供が必要だった。

 祖父母は自分が幼い頃から母に対し、早く次の子を成せと口うるさく迫った。母は何度もそれに応えようとして二度ほど授かったが、全て流れていってしまった。祖父母は役立たずの嫁だと強く責め立て、限界を訴える母に父は「使えない胎」と罵倒し暴力を振るった。

 幼い頃から母が傷つけられるのを見かけると、頼りない小さな身を精一杯大きく見せて母の前に立っていた。とくに父が流産した腹を蹴り飛ばそうとした時は足に噛みついて止めたが、その代わりに父の加減のない蹴りを一晩中受け止め、肋が折れてしまった。

「ごめんね、ごめんね」

 母はいつも泣いていた。自分はただ木のように直立し、黙って抱擁を受け入れていた。大地に太い根を下ろし、強く責め立てる嵐にも負けず、木陰で休む人を優しく覆うような大樹でいよう。涙に濡れる母がいつでも縋れるように。そう誓ったために祖父母や父の仕打ちにも耐えられたし、人より頑丈な体に成長することができた。

 そして中学生に上がった頃、母は嬉しそうに語った。

「あなたはお兄ちゃんになるのよ」

 荒れた指先で自らの腹を撫でる母に自分は目を丸くした。不妊治療の末に高齢で身籠った母に宿った命は安定期に入り、順調に育っているらしい。あれほど子を産めと迫った祖父母は「今頃か」と蔑んでおり、父に至っては兼業の関係で家にほとんどいなかった。

 自分にとっては不思議な感覚だった。もう14にもなろうとする身で兄弟ができるというのも滅多にない。兄弟というものはほとんど歳が近いものだったから、自分のように年齢が離れていると珍しい部類に入るだろう。当初思うことはそれだけだった。

 だが母の中で育ち、膨らんで行く腹を見ていくうちに、徐々に別の想いが芽生えていた。自分よりも遥かに小さな命が、生まれてくるためにと懸命に大きくなっていく。そっと母の腹に触れてみると、肉を隔てた向こうで自分の指先にそっと寄り添ってきたような感触があった。この瞬間、母を守ることだけを支えに生きてきた自分の中で、言葉にしようもない狂おしい何かが生まれるのを感じた。当時はそれをなんと呼ぶのかわからなかったが、今ならはっきりとわかる。『愛おしさ』だ。

 出産も間近になってきた頃、母は赤子用にベビーベッドを買ってきた。無垢を表す白に塗られた愛らしいベビーベッドは、近いうちに生まれてくる小さな命を待ち望んでいるようだった。自分がそうだったから、そう思えたのかもしれないが。

「妹が気に入ってくれるといいわね」

 母はそう微笑みながら、赤子用のベビー服を縫っていた。元々洋裁に長けていた母は、自分を身籠った時も帽子やスタイを手縫いで作りながら、生まれてくるのを心待ちにしていたのだと言う。妹のために何かしたかった自分も父に隠れて洋裁を教わり、母の作ったベビードレスに合わせて妹用に白いリボンの付いたレースの帽子を作った。日々武道を競うために鍛えていた手でこういったものを作るのは何かくすぐったいものがあったが、それを上回るほどの何かで満たされていた。とても温かな心持ちだった。

 どうか、自分や母の祝福が妹に伝わるように。そんな想いでベビーベッドの上に完成したドレスや帽子を赤子の形に合わせて並べた時の幸福感は、きっと死ぬまで忘れないだろう。


 いよいよ出産予定日が迫ったある日のこと、身重の母は家から消えていた。一瞬病院かと思ったが、その代わりに見知らぬ若い女が家に居座っていたことで異変を察する。どういうことかと父に問うと、父は上機嫌で答えた。「この人が新しい母だ」母はどこへ行ったのか矢継ぎ早に問いただすと、祖父母は「とっくに出て行った」といけしゃあしゃあと言ってのけた。

 出産間近の状態で家を出ていけるはずがない。確実にこの恥知らずどもが何か理由をつけて追い出したのだ。自分は弾かれたように家を飛び出し、母を探した。あの状態で遠くへ行けるはずがないと思い当たる場所を駆け巡り、道ゆく人に妊婦を見かけなかったかを聞いて回った。通常警察に相談すべき事なのだが、過去に父の起こした暴力事件が警察の上層部にいる父の友人によって揉み消された前例があったのもあって、当時の自分は頼る事はできないと判断していた。

 そうやって自分の足で探し回ったが、夜中になっても母を見つけることはできなかった。たった一日でこの世から消えてしまったかのような喪失感に包まれ、自分はとうとう膝を折り、諦めて忌まわしい家への帰路を辿った。

 早朝、ふらついた足取りで戻ってきた自分を見た父は淡々と告げた。

「アレ、邪魔だから処分しろ」

 父が指した先には白いベビーベッドがあった。母と自分が生まれてくる妹のためにと準備していたものは、母と妹がいなくなったことで無用の長物と成り果てていた。ベビードレスや帽子もそのまま残されており、祝福の役目を果たす機会は永遠に失われた。

 最早心を失っていた自分は父の命令に従い、新品のベビーベッドを解体し、粗大ゴミとして処分した。解体している最中、心の内に残っていた温かみもゴリゴリとすり減らされていくようだった。最後の足掻きとしてベビードレスと帽子を取っておこうとしたが、父の愛人に密告され、自分達の前で処分するよう命じられた。

 父と愛人の目の前で焚き火を起こし、その中に放り込む。真っ白だったベビードレスも帽子も、すべて黒い灰になっていく。こんなことをさせる家庭ならば、かえってここで生まれない方が妹のためにもよかったのかもしれない。そう自分を納得させるのと同時に、今度こそ自分が抱いていた愛おしい温かみが全て殺し尽くされていくのを感じた。


 その後の人生は波乱の一言では尽きないものだった。家の敷地内にある蔵が火災に見舞われ、中にいたらしい祖父が焼死体で発見された。そして父は闇金融から多額の借金をしていたことが発覚し、取り立てにやってきた所謂ヤクザな男達に命を以て償わされた。その際に祖母も愛人も巻き添えを喰らい、揃って碌でもない最期を迎えた。

 唯一自分は武道の腕前から見込みがあると組に買われ、兄貴分となる男と兄弟分の盃を交わし日暮の名前を与えられる。それから極道として羅刹の道を歩み続け、ついには組の若頭補佐にまで上り詰めるまでに至ったが、それまでに自分が何を犠牲にし、どれほどの血に塗れたかなど語るべくもない。

 ただ自分が極道となった数年後、驚くべきことがあった。事務所のテレビでとある新生ファッションブランドの女社長のドキュメンタリー番組が流れていたのだが、そこには見覚えのある顔が映っていた。

 間違いなく母だった。自分の記憶よりも血色がよくなり、生き生きと働いている姿がそこにあった。ドキュメンタリーということで母の過去が一部ぼかされて語られており、父に追い出された先のこともそこで知ることができた。身重の母は陣痛に苦しみながら路頭を彷徨っていたが、たまたま居合わせた女性に救われ、病院に搬送され無事に妹を出産。その後はデザイナー志望だった女性とタッグを組み、自身の洋裁センスを活かして新生ブランド会社を立ち上げ見事成功を収めたのだ。今は世界的デザイナーとして名を馳せており、娘とも幸せに暮らしているのだと言う。

 息子がいたことは一切語られなかったが、おそらく母は父の結末をどこかで知ったのだろう。表側では一家ともども失踪扱いとなっているが、実際は裏社会による制裁である。とても話せるような内容ではない。それでも時折、自分と母しか知らない思い出を語っており、それだけでも自分を想い続けてくれていることがわかった。

 妹は裕福な家庭で健やかに成長したようで、今現在は中学生になる。全国でも名高いお嬢様学校に入学し、母に似た洋裁センスですでにその名をファッション業界に轟かせているようで、雑誌の表紙に母子揃って名前が掲載されているのを見かけた。

 そんな将来有望のお嬢様である妹は、なぜか今現在、自分の隣で嬉しそうにクレープを頬張っている。

「うふふ♡いい所で極道さんに会えてよかったのだわ。とーってもいい買い物ができたのだもの」

 妹……えひめの傍には手芸屋の紙袋が綺麗に直立している。たまたま町中で居合わせてしまい、あれよあれよという間に買い物に付き合わされた後、気づけば人気のない場所のベンチに仲良く座りコーヒーを飲んでいた。こんな所を警察にでも見られれば一発でアウトだ。ましてや自分は堅気ですらなく立派な極道なのだから。

「いつだってひめちゃんが会いたいなーって思うと現れてくれるんだもの。やっぱりサンタ極道さんとひめちゃんは運命の赤い糸でかっちかちに結ばれているのね♡」

 固すぎるにも程がある。きっと会うことはないだろうと思っていた妹とこうして巡り会ったのも奇妙な縁だった。若頭が執念を燃やしてとっ捕まえて主従契約を結んだあの少女と妹が友人同士だったなどと当初は予想もしなかった。本来なら交流を断つべきなのだが、いつの間にか妹の強引な手腕を以て見事に流され、関係が続いてしまっている。

 ……いや、これは何も妹のせいなだけではない。

「……おっかさんは喜んでくれそうですかい」

「もっちろんよ!極道さんが選んでくれた生地と糸だもの。ぜったい素敵なプレゼントが作れるのだわ!」

 曰く、来週の母の誕生日に贈るプレゼントらしい。妹は幼い頃から毎年、色々手作りをしては母に贈っており、デザインも材料も全て自分で考えて選んでいるのだとか。

「……あんたが選ばなくてよかったんですかい」

「いいえ、ひめちゃんが極道さんに選んで欲しかったのだもの」

 えひめは時折、こんな風に思わせぶりな事を言う。自分に母のプレゼントの材料を選んでほしいなどと、まるで全て「わかって」いるかのように。もちろん、自分はえひめに兄だということは伝えていない。だがここ数ヶ月接して分かったが、この子は大変察しがよく気遣いもできる。そして自分に対しても積極的なアプローチをするが、決して一定のラインは越えようとしない。

「きらきら極道さんのセンスはぴかぴか輝くものがあるのだもの。そこで今年はそれに頼るべしと神様が囁いたのだわ♡」

 そしてそれを気取らせないように振る舞うのもお手のものだ。なんとも強かで、健気で、いじらしいことだろう。屈託のない純粋な笑みを向けられるたびに、自分の中では不相応な葛藤が渦巻いていた。

「そういえば、ぴかぴか極道さんのお誕生日はいつなのかしら?」

 何気なく無垢に質問を投げかけるえひめに、自分は己が内を悟られないように答える。

「……もうとっくに過ぎていやす」

「あら残念……では来年ね」

「来年?」

「もっちろん!極道さんのお誕生日はぜったいぜったいお祝いしないとダメなのだわ!」

 ぐっと拳を握って意気込むえひめの勢いはとても強かった。そうか、この子の中では、来年も自分がそばにいるのか。

「あっ、でもその前に極道さんにはひめちゃんのお誕生日も祝ってほしいのだわ!」

「お嬢さんの……?」

「ええ!3月でぴっちぴちの14歳なの♡」

 思わずふ……と笑いがこぼれてしまった。ぴっちぴちという表現を使うのは果たして14歳らしいのか。

「んまあ!何かおかしいことがあって?」

「いえ……お嬢さんのお誕生日ですか」

 手元のコーヒー缶に目を落とす。こんな風に共にいて言葉を交わすことすら奇跡なのに、誕生日まで祝い合うような仲になるとは。今までなら考えられなかったことだ。実現することも……望んだとて、してはならないことだった。

 自分はもう母のもとには行けない。ましてや家族になどなれる資格はない。この身はとうに地獄へ行くことが決まっており、おおよそ彼女らには顔向けできる身分ではない。

 にも関わらず手放せないでいるのは……人としての道を歩めたらなどという欲が残っている証である。

「ええそうよ!ひめちゃんと二人きりでお誕生日会をやってほしいのだわ。そして極道さんのお誕生日も、同じようにお祝いしたいの!ひめちゃんのぱーふぇくと野望計画なのだわ♡」

 こんな風に未来を語る妹に、それは無理だと一言も告げられない。彼女の願いを叶えてやることなどできないのに、自分はそれをはっきりと口にすることもできない。それほどまでに、こんな生温いゆりかごの中で微睡んでしまったのだろう。

「だからね、極道さん」

 えひめはいつものような悪戯っぽい笑顔を浮かべながら、そっと耳元で囁いた。

「来年を楽しみにしていてね」

 ああ、と気づいてしまった。いつもの甘やかで挑発的な声に、別の感情が漏れていたことを。

 来年も、今日のように。

 できれば、これからも、ずっと。

「………ありがとうございやす、お嬢さん」

 この蜜月は最早残り少ない。来年などもちろん来ることはない。己の中でまた一つ罪が重なっていくのを感じながら、やっとの想いで言葉を絞り出すしかなかった。

「うふふ♡極道さんの恥じらうお顔は本当にあどらぶりぃね♡……ずるい人」

 またも小悪魔のように微笑んでいるであろう妹に感情を見せないよう、そのまま恥じらいを装って目を逸らした。えひめはそんな自分を揶揄うように、指先でちょんと頬をつつく。柔らかな指先の感触と同時に、袖のフリルが頬をくすぐったのを感じた。

 今日のコーディネートは、白いリボンのワンピースだった。

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