書道教室へ行ったら、病院へ行くことになった
深見双葉
書道教室へ行ったら、病院へ行くことになった
この日、私は書道教室へ行っただけなのに、夜には車で病院へ行き、先生の保険証を握っていた。筆も握ったし、ハンドルも握ったし、他人の保険証まで握った。
この日ほど、握ったもののバリエーションが多かった日はない。
そう、私は今、書道教室に通っている。立派なオトナの私が今まさに取り組んでいるのは、はじめての ひらがな練習ノート。
隣に座ってるキッズ達が、ちらりと私のノートを見てきた瞬間、私は感じ取った。
「そのレベル、もう卒業したんで」
無言の圧力。無言教育テレビ。
でもそれがいい。
私はこの静かな空間で、自分と向き合いたかった。ひらがなと、亡き犬が残した心のぽっかりをなぞる時間だ。
しかしこの日は、教室に入ってすぐ、異変に気づいた。
S先生が肩にアイスノンを2つ乗せていた。サトシがピカチュウを乗せるように、完璧なバランスで。私は心の中でつぶやいた。これは事件の匂いがする。
S先生は、ふんわりやんわりした声で言った。
「テーブル出そうとしたら〜ちょっと〜肩にテーブルが落ちてきちゃって〜」
軽い。その言い方、落ちてきたのが枯葉くらいのテンション過ぎる。
でも、実際の現物は違った。確認したら、落ちてきたテーブルは180cm×鉄フレームの業務用サイズ。
片手で持ち上がらない。もはや鈍器で武器。
「でも〜アドレナリン出てるんで〜大丈夫です〜」
いや、アドレナリン出てる人が、ひらがなのお手本なんて書けるわけない。
どう考えても異常事態だったし、書道教室へ通うごとに、ふんわりやんわりS先生のことが大好きになっていた私は言った。
「先生、病院行った方がよろしいのではないですか?」
S先生は一瞬黙って、それから言った。
「行った方がいいですよね〜でも私、バス通いで〜明日も授業で〜」
お節介が頻繁に顔を出す私は、即座にGoogleマップを開き、整形外科を探す。時間はもうすぐ6時。タイムリミットは近い。
そして、ようやくまだ開いてる病院を見つけた私はS先生に聞いた。
「先生、○○病院が開いてます。保険証はお持ちですか?」
先生は「待ってました」と言わんばかりにうなずいて、こう言った。
「持ってます!はるなさん、乗せていってくれますか?」
ちなみに、私は、はるなではない。
なんなら「は」も「る」も「な」も、苗字にも名前にも入ってない。1文字も被っていないという清々しさこそ、ふんわりやんわりS先生に相応しい。
そして、肩にアイスノンダブル乗せに比べたら、
はるなとして今日一日生きることなんて何でもない。私は、その日、はるなとして生きることに決めた。
車を出し、S先生を助手席に乗せる。S先生はLINEで生徒さんに連絡し、お母様に電話して事情を話し、そのあとぽろぽろと泣き出した。
「すごく痛くて〜でも生徒さんもいて〜手が動かなくなったらって思ったら怖くて。でも、はるなさんが来てくれて良かったです」
私は運転しながら、ナビを見ながら、ティッシュを渡して、先生の肩をトントンした。運転中に右肩トントンは、想像以上に難易度が高いことも知った。
病院に着くと、私は受付で保険証を差し出し、事情を説明した。はるな、大活躍。
ほどなくご両親が到着し、私は先生を引き渡した。
帰り道、車内に残った、アイスノンとティッシュを見ながら、私はずっと、「ひとりでやります」「大丈夫です」と言ってきたなって、そんなことに気づいた。
犬の看病も、最期の決断も、自分のことも。誰にも頼らず、ひとりでやれるふりをして、生きてきたなって。
でも、あの時、S先生が「助けて」と言ってくれたことで、私は、はじめて「助けたい」と心から思えた。
これからも私は、はるなじゃない自分のままで、教室に通う。
また誰かと、ふんわりやんわり、「開かれた心」で生きていくために。
ちなみにその日のひらがなの練習ノートには、
「つ」が、一文字書かれただけだった。
書道教室へ行ったら、病院へ行くことになった 深見双葉 @nemucocogomen
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