クレオパトラのワインを飲みたくなくて

さわみずのあん

アボガドロ定数をアボカドロ数とよく間違える。

 教室には二人いた。


 数学教師の辺木べき丈一じょういちと、

 勉強嫌いの一之瀬いちのせいとが。




「クレオパトラのワインを知っているか?」

 辺木べき丈一じょういちが、一之瀬いちのせいとに質問をする。


「歴史の話っすか?」

「化学の話だ。そして、数学の話だ」

「はあ、」

「物質は何から出来ている?」

「万物の根源は水であると、寝耳に水を挟んだことあるっすけど」

「歴史の話じゃないんだ。化学の話だ」

「クォーク」

「ああ、歴史が進み過ぎだ。原子だ原子」

「原始時代って、歴史の初めの方じゃ?」

「歴史を勝手に遡るな。私の感情を逆撫でないでくれ」

「ビーフオアフィッシュでビーフを選ぶんですね」

「I have a beef with you.」

「英語の授業はやめましょう。良え子にしますさかい」

「ほな、はじめまひょ」

「ワインはよう知りまへん」


 辺木べき丈一じょういちは、感染した関西弁を直し、説明を続ける。


「ああ、物質は原子からできている。原子というのは小さな粒のようなものだ。粒同士が繋がり、大きな粒をつくり。また大きな粒同士が繋がり、物質を形作っていく」

「その説明だと例外がありますけれど。どうぞお続けを」

「例えば水は、水素原子1つと酸素原子2つが繋がり、水分子をつくる。H₂Oというやつだ。そしてその水分子H₂Oがいくつも集まったものが水なのだ」

「見ず知らずのおじさんではなくて、良かったです」

「さて、今から約2000年前。クレオパトラが飲んだ一杯のワイン」

「そんなにいっぱい? 飲兵衛ですねえ」

「おほん。グラス一杯のワイン。その中には、一体いくつの水分子があるだろうか?」

「グラス一杯ってどれくらいです?」

「100mlとしよう」

「キリが悪いので一合でもいいですか?」

「一合?」

「180mlっす」

「18。ああ、まあなんでも良い」

「んなら簡単っすね。概算で良いんでしょ?」

「アルコール度数0%で良い」

「それは、もう水ですよ。まあ、未成年ですので仕方ないですね。では計算します」


 一之瀬いちのせいとは、黒板の前に数式を書いていく。


「180mlの水は180gの水です。実際は気温で密度が変わりますが。ここでは、水の密度を1g/mlとしています。180gの水の中に何個の水分子が存在するかについては、水分子のモル質量。これはHが1g/mol、O2つが8×2=16g/mol。で計18g/mol。これで180gを割ることにより、10mol。10molというのは、アボカドロ定数、」

「アボガドロだ。1molの水の中には、水分子がアボガドロ数個。約6×10^23個存在する」

「クレオパトラのワイン。グラス一杯分には10molの水。つまり6×10^24個の水分子が存在するっす」

「計算を簡単にするために以下では、10^24個とする。さて、地球上の水分子の数がいくつか、君は分かるか?」

「フェルミ推定っすか?」

「いや、10^47個といわれている」

「なんだ計算しろといわれるのかと」

「ここから、計算だ。地球上の水分子の中から適当な一つを選ぶとき、それがクレオパトラのワインの中の水分子である確率はいくつか?」

「ワインの中の水分子の数を、全ての水分子の数で割れば良いっす」

「いくつだ」

「24−47で−23。10^−23っすね」

「では、クレオパトラがワインを飲んで2000年経った今。君がコップ一杯の水を飲む。その中にクレオパトラのワインだった水分子はいくつ入っている?」

「自分が飲むコップ一杯の水の中の水分子の数は、計算したクレオパトラのワインの水分子の数と同じ10^24個。ある一つの水分子がクレオパトラのワインである確率は10^−23」

「期待値計算だ」

「10^24×10^−23=10」

「そう。君が飲む水の中には、クレオパトラのワインが含まれているのさ」

「へー」


 辺木べき丈一じょういちは黒板の前で肩を落とす。


「先生はもっと感動するのを期待していたんだが」

「期待値計算間違えましたね。いや、話は感動なんですけれど、計算過程。話の過程が長すぎて、冷めちゃいました。まあ、ワインならぬるくなっちゃったっていう言い方のほうがいいっすかね。あれ、その。クレオパトラのワインって、どこから来たんです?」

「さあ、地中海のワインなんじゃないのか?」

「いや、そっちの来たじゃなくて、クレオパトラの飲んだワインは、どういった経緯で、自分の飲むコップの中に来たんです」

「まあ、大部分は。尿だろ」

「おしっこじゃないですか。よくよく考えたらクレオパトラの飲んだワインよりも、水とか果物とか飲んで食べて出して。そういった物含めたら、ワインよりもおしっこの方が多いじゃないですか」

「まあ、そうだな」

「もっと言えば、クレオパトラのおしっこよりも、知らないそこらへんのエジプトのおじさんのおしっこの方が多いわけで。はあー。これから、水を飲むとき、なんだか抵抗あるー」

「そのついた、溜め息には、レオナルドダヴィンチの吐いた溜め息と同じ、」

「先生」

「なんだ」

「私。将来の夢。決まりました」




 それから20年。

 一之瀬いちのせいとは環境テロリストになっていた。

 地球温暖化を加速させ。南極の氷を1000万年分溶かした。

 海水面は上昇し、エジプト。ナイル川デルタ地域のような、海抜の低い地域は、全て沈んでしまった。


「ふー、やっと、抵抗なく水が飲める」

 1000万年前の南極の氷層を溶かして、一之瀬いちのせいとはそう呟いた。

 人類以前に発生し、人類に汚されていない物質。

 水分子。

 クレオパトラのワインを一滴も含まない水。

「くー。冷たい。澄み渡り冴え切っている。この一杯のために人類を滅ぼす価値があるねえ」

 満足気に水を一杯飲み、一之瀬いちのせいとは眠りについた。

 恐竜のおしっこを含む水を飲んで。

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クレオパトラのワインを飲みたくなくて さわみずのあん @sawamizunoann

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