第122話 彼のいない日常


「若い者は失敗するものです。でも中年だって、老人だって失敗します。若いなりに、中年なりに、老人なりに。失敗自体が悪いことではないとは言いません。非常に悪い。けれどももっと悪いのは、失敗に気づかないこと。いちばん悪いのは、失敗をむしろ成功だと思っていること」

 そんなやりとりを、小玉は知らない。



「それでは皆さんお達者で!」

「お達者で~!」

 にこやかに、そして最後の勤務日でもしっかり定時で帰る泰を、一同手を振り見送った。夕日を浴びて去っていく彼の背中は心なしかやりきった感に満ちている。その誇らしげな背を見て、部下たちが「なんて頼もしい背中……」、「あれが隠居を勝ち取った男の……」とうらやましそうに呟いている。


 正直、小玉もうらやましい。


 泰はこの後、母の故郷に戻ってのんびり畑でも耕すという。農業舐めるとたいへんだよ……とは忠告しておいた。

 とはいえ彼も土木工事なんかに随伴したことはあるから、ある程度は理解したうえでのこの選択なのだろう。土木工事と農業、一緒にしたらそれぞれの分野の玄人くろうとに怒られそうだ。


 多分、奥さんの療養を考えての選択なんだろう。

 父の故郷……つまり自分の生家の方に戻ると、「あそこの息子は遊女を嫁にして」と言われかねないし、奥さんの生家の方に戻ると「売られた娘が男をつかまえて帰ってきた」と言われるだろうし。

 どちらも妓女であったことを気にして、それが高じて気鬱きうつの病になった奥さんには辛いはずだ。


 泰はほどほどに土地勘があって、なおかつ奥さんが休める場所を選んだのだと思う。母の故郷でも、知ってる者になんらかの陰口は叩かれるのではないかという疑問はあるが、小玉はそこらへん泰の選択だとか手腕だとかを信じている。

 だから彼の前途に対してはまったく心配していない。

 それより、自分たちの前途のほうがよっぽど心配だった。


 

 泰の見送りは、最後のお手振り以外は、思ったよりも慌ただしく、なおかつ殺伐としたものであった。というより、ちょうど新しい案件が重なって、慌ただしさが倍増してしまったというほうが正しい。

 おかげでみんなあちこち走り回ったし、泰は泰でものすごい速度で文林への引き継ぎを終えて(でも帰宅時間を遅らせることはなく)、そして今日を迎えたのである。


 なんかさっき、泰が文林をちょっと離れたところに引きずっていって、耳元になにかささやいている姿を見た。伝えなくてはいけないことが、ぎりぎりまであったらしい。

 最後まで力を尽くして働いてくれたことには、まことに感謝している。彼の背中が心なしか大きく見えるのは、その気持ちのおかげでもあるのだろう。

 

 さて、小玉たちをここまで奔走させた案件というのはこれである。

 なんと、班将軍が北衙禁軍に戻ることになってしまったのである。

 

 ここで経緯を簡単におさらいするが、班将軍は人材育成の一環で、わざわざ南衙禁軍に移ってきたのである。人材の育成というものは、往々にして時間がかかるものである。

 だからこんなに早く、班将軍の部隊が解散することになるとは、誰も思っていなかった。

 班将軍本人も、そしておそらく皇帝も。


 つまり、この人事は人材育成という目的を達成してのものではない。宮中闘争という、世にも世知辛い事情によるものである。

 しかも小玉とも、そんなに縁がない話ではない。


 先の襲撃事件の、小玉が教えてもらえなかったほうの犯人の排除に班将軍が動いた結果、なんやかんやでそうなったらしい。

 そのなんやかんやが一番大事だというのはお約束というものであるが、別に小玉のものぐさで省略しているわけではない。単純に教えてもらえなかったので、こんな表現で認識するしかなかったのである。


 とりあえず、もう一人の犯人が失脚したと聞いて、小玉は復卿の位牌いはいに手を合わせた。なお復卿の位牌は清喜の部屋にあって、清喜が毎日手入れして線香やら食べ物やら化粧品やらを手向けている。

 清喜の情の深さに見ていて胸が痛むのであるが、位牌が完成した日に清喜が感慨深げにこんなことを呟いたときは、この生活を考えなおそうかなと、さすがにちょっとは思った。


 「復卿さん……これで閣下と僕と同居できるんですね!」


 明慧曰く、「怖い人間一歩手前の発想」らしい。文林に至っては「もうその一歩を踏み越えてるだろ」と言っていた。

 他人のことをどこまで許容できるかは、人によるんだなと理解した小玉である。



 小玉としては胸がちょっとすっとしたのであるが、その結果班将軍が北衙禁軍に戻ることになったのは、いただけない。まったくいただけない。元凶であるもう片方の犯人は、やはり生涯許さない所存であった。

 なお、小玉は班将軍についていくわけではなく、王将軍の麾下きかに戻ることに決まった。


 お偉いさんばかりの北衛に一緒に来いと言われなくてよかったと、小玉は心底安堵した。だがそれはそれとして配置換えの手続き、死ぬほどたいへんなんだよ……よりにもよって、泰がいなくなった直後にかよ……と、絶望と怨嗟えんさの声をあげたのも事実である。

 さすがに泣きふしはしなかったけれど。


 泰がいなくなっても文林が戻ってきたので、そこだけは救いなのであるが、それでも乗りこえられる自信が小玉にはまったくない。

 前回の配置換えの際の事務処理で、泰と文林の両方が忙しそうだった。そして現在、文林は泰からの引き継ぎで忙しいうえに、前回と同じ事務処理を一人でやらなくてはならない。


 ――それでは質問です。今回、辛い目にあうのは誰でしょうか。


 足し算とか引き算とか職場の立場とかを掛けあわせれば、簡単にわかる問題である。

 しかし小玉は、解答を半分放棄したかった。


 ――確実なのは文林です。他に辛い目にあう人間については考えたくありません。


 しかし文林本人は悲観する様子もなく、それどころか静かにやる気をみなぎらせている。

 とても頼もしいが、そのやる気が後任の文官にも向きそうで、彼が厳しくしごかれるのは間違いない。


 小玉は、この新人に優しくしてあげよっと……と思いながら、最近飴を作っている。新人のころ、自分もよく飴をもらった覚えがあるので。あと、丙のおやつのために。

 丙は最近、阿蓮のところで手伝いをして、おこづかいをもらっている。あそこは子どもが多いが、上の娘たちは下の子の世話で忙しく、長男の人見知りが激しいので、商売を手伝える人手が少ないのだ。


 丙は愛想がよく、あまり動じないうえによく働くので、重宝されているらしい。叔母としては、素直に鼻が高い。

 阿蓮の長男も、親しく付きあっている丙の影響を受けて、最近は裏方の仕事を手伝えるようになってきたと、阿蓮にいたく感謝されてしまった。叔母としては、やっぱり鼻が高い。


 小玉にしてみれば、丙は独り立ちを視野に入れた年齢になったので、仕事を経験するのはいいことだと思う。

 そういうことをさせるのはどうなんだと文林が言っていたが、彼は丙がどれほど大人物になると思っているんだろうか。ついでにいえば、彼は丙にとっては他人なので、小玉はこの件については自分の方針を曲げないつもりである。


 丙ともども世話になっているが、それはそれ、これはこれである。

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