第121話 骸骨を乞う
祖父の故郷へ行って帰ってきたところで、文林の丁憂の期間は終わった。
特に行く気はなかったのだが、事情を知らない者たちからは「あいつ意外に孝心あるな」という評価を得てしまった。
特に年配の者たちから優しく声をかけられながら、文林の職場復帰は始まった。
「はいこれ、引き継ぎの文書です」
渡された冊子を見て、文林は渡してきた相手の顔を見る。にこやかな泰である。
「人生の集大成かなにかか?」
「近いですね」
厚みはないがとにかく数が多い。十六分冊構成。なにやら総集編という感じが漂ってくる。
これくらいは読むのも暗記するのも文林にとってはたやすいが、丁憂の間に伝えなくてはならないことが、これほどまでに発生したとはさすがに考えにくかった。個人的に作った詩集という可能性の方がまだ高い。文官の必須技能であるからして。
「なにか大きな政変でもあったか?」
ありえないのをわかって、ついつい問いかけてしまった。さすがにそんなことがあったら、文林の耳にも入る。
泰も「まさか」と笑いながら、首を横に振る。
「いつもどおりの頻度で、出世する者がいて、失脚する者がいるという感じでしたよ」
「日常だな」
平和ではないが、日常的なことであるのは確かだ。
「まあ言いたいことはわかります。いくら長く職場を空けていたからといって、伝えなくてはならないことがこんなに発生するわけがないですしね」
泰はここで「つまり、ほかのなにかが起こったわけです」ともったいぶった言い回しをしたり、「どういうことだと思います?」と質問したりして時間を無駄にすることはなかった。
「この度、骸骨を乞うことになりまして」
文林はぎょっとして泰の顔を凝視した。
官吏は仕官する際に、自分の身体を天子に捧げるということになっている。骸骨を乞うというのは、捧げた身体の残骸をお返しくださいという意味であり、つまり辞職を願いでたということだ。
これは丁憂のような一時的なものとは違い、政界からの完全な引退を意味する。
「受理されたのか?」
「はい」
文林はさらに凝視する。ぴちぴちしてるとは言えないが、働きざかりの年齢にしか見えない男の顔を。
「お前……もう七十歳になっていた、のか?」
「まさか」
泰は一笑に付した。
文林は別に混乱しすぎて妄言を吐いているわけではなく、一般的に七十歳になったら「骸骨を乞う」ことが許されるからである。
この時代、そこまで生きていたら外見上は本物の骸骨のようになるので、言いえて妙である。
しかし七十を過ぎるまで、生きて官職に留まるような人間はそうはいない。寿命の問題というより、政治闘争で常に淘汰されているからである。
今日の勝者が、明日には囚人、明年には故人とは、ありふれた事態であり、宮城とはまさに修羅の地にほかならない。
「先日の一件で、班将軍から正式に処分が下りまして、上の者もだいぶ私のことが扱いにくくなったので、渡りに船とばかりに受理されました」
文林は思わず息を詰まらせた。その一件とは、文林が先日暴走したあのことに他ならない。
班将軍は、自分の責任はとるが、それはそれとして泰のことについて手心を加えなかったので、そうなったのである。
「……というのは冗談で、本音はそろそろ女房に逃げられそうだからなんですけれどもね」
おどけて言う泰だが、文林の気は晴れなかった。
「……やはり怒っているか」
確認の意図で発した言葉に、泰は頷く。
「怒ってますねえ。私には怒るだけの正当な権利がありますからね。きちんと行使しますよ」
「怒っている」と言いつつ、泰の顔には負の感情が見えない。けれども文林は頭を下げた。
「すまないと思っている。だが……」
言いつのろうとした文林を、泰は「あ、今は引き継ぎ優先で」と言って、押しとどめた。
「ああ、それは時間があるときにでもゆっくり話してください。ただちょっと言っておくなら、私が怒っているのはあなたが思っている理由ではありませんよ」
「…………?」
怪訝な顔をする文林の背を、泰はばしんと叩く。
「さあさ、始めますよ。さすがに文書に残せない業務内容もありますから、それは聞いて覚えてくださいね、一回で」
お仕事というのはそういうものである。
これが小玉だったら絶望と怨嗟の声をあげながら、その場で泣きふしただろう。
だが文林は職場への復帰一日目でも文林のままだったので、至極当然といった顔で頷いた。
だが一つだけ疑問を解消したかった。
「辞職はそんなにすぐなのか? いつだ?」
泰はきょとんとした顔で、答える。
「いや、だいぶ時間はありますよ……でも退職の日まで、なるべく早く帰宅するようにと妻の厳命が下っているんです」
その言葉に、文林は急に雨が降られたときのような顔をした。
「女房に逃げられそうというのは、本当だったのか」
ぼそりとこぼすと、泰は心外そうな顔をする。
「私は嘘はつきませんよ。思いこませることはしますけれども」
それはそれでどうなのか。
文林は自らの出来のいい顔に感謝したことはなかったが、頭には感謝している。
泰の早口の説明を聞いて、帰宅する彼を見送ると、文林は小玉の執務室へと向かった。
「……聞いた?」
「ああ。お前が暗い顔してたのは、そのせいだったか」
復帰の挨拶をしたとき、どうも小玉に覇気がないなと思っていたが、泰の話を聞いて納得した文林である。
「泰がいなくなるのは、人材的に惜しいからな」
「そうなんだけど、それだけじゃないんだわ」
さらに沈んだ顔になった小玉に、文林は声を低くして問いかける。
「他になにかあったか?」
「辞職の理由がさ……」
「ああ……俺のせいだ、すまない」
陳謝した文林の言葉に返ってきたのは、疑問の声だった。
「え、なんのこと?」
「え?」
下げていた頭を持ちあげると、小玉が混乱した顔をしてる。
「もしかしてあんた、女と間違えられる格好で泰と一緒にいたの?」
「え?」
二人して少々沈黙し、話が噛みあってないことを無言のうちに確認しあう。
次に口を開いたのは小玉だった。
「ほら、奥さんがやきもち焼いてついに……って」
「あれは、深刻な空気にならないようにするための方便だろ」
文林は呆れた声を出したが、小玉は小玉で呆れた顔を文林に向ける。
「あんたは泰の奥さんのこと直接知らないから、そんなこと言えるのよ。でもここ最近、あんたいなかったから無理もないか」
泰の妻は元は妓女である。花街出身であることを気にしている彼女は、元来神経質だったこともあって、堅気の女が夫に近づくことについて神経を尖らせていた。
小玉や明慧はもちろん、女装した復卿に対してまで警戒をつのらせていたのだから、相当なものである。
文林としては復卿を「堅気の女」の枠にはめるのは、性別的にはもちろん生き様的にも納得がいかない。「椅子と猫は同じ四つ足」で分類するくらいざっくりしすぎだと思う。
それくらいなら泰の妻のほうがよっぽど「堅気の女」の枠に当てはまると、誰も教えてやらなかったのだろうか。
その復卿が戦死したことがきっかけで、泰の妻の神経がさらにすり減ったのだという。
「職場で泰に近いのは女ばかりだって、よけいぴりぴりしちゃって」
泰と一緒に働いている人間は他にもいるが、特に近しいのは小玉、明慧、清喜……たしかに女性率は高いが、母数が少なすぎる。
「しょうがないから、あたしたちが適当な男と結婚しようかって、明慧と話しあったんだけど……」
「ちょっと待て」
文林はここで制止したが、小玉は待たなかった。
「しかし適当な男たちにとって、あたしたちは適当な女ではまったくないのであった……」
いきなり昔話の語り口みたいな言いまわしをして、小玉は遠い目になった。
どうやら惨敗に終わった果敢な挑戦があったらしいが、その努力を尊いとはあまり思えなかった。男側にも選ぶ権利はあり、それを行使しただけなのだから。
「それでなんにも事態が改善されないままでいたら、奥さんが最近寝込んじゃって……このままだと妻に先立たれてしまうって、泰がね」
ここで文林は思わず声をあげた。
「『女房に逃げられそう』、ってそういうことなのか」
「声がでかい」
小玉がたしなめてきたが、それどころではない。
なんということだろう。これはこれで深刻な事態であった。小玉たちが急遽結婚しようと血迷ったのも、それならちょっとわかると思ってしまった。同僚の妻が自分たちのせいで病むだなんて、それこそ自分たちの精神のほうも病んでしまう。
泰は大きな政変はないと言っていたが、泰の周囲のほうがよっぽど大嵐だった模様。
「あたしさあ」
小玉が嘲りを含んだ声をあげる……誰に対する侮蔑なのか?
「聞いたとき、『そんなことで』って思っちゃったんだよね」
……小玉自身に対するものだ。
「それは深刻になる理由として、成立するのか?」
「だってあたし、家族のために軍に入ったのよ、文林」
ちょっと間を置いてから、小玉は「他にも理由はあるけどね」と付けくわえる。
「だから家族のために辞める人間に対して、そんなことを思っちゃうようになった自分が信じらんない。仕事と私、どっちが大事? って聞く資格は奥さんにあるけど、こっちはあたしと奥さんどっちが大事? とか言える立場じゃないのにね……」
ため息をつく小玉の言い分はわかるが、言葉選びにはだいぶ問題がある。
「待て、それは完全に浮気相手の発言だぞ」
文林は、二人の間にやましいことがないと信じたい。しかし文林の懸念は長続きしなかった。
次の発言で、小玉の中で泰の優先順位がはっきりわかったので、文林は二人の間にやましいことがないと信じることができた。
「あたしだって泰や文林や清喜と親兄弟だったら、迷わず親兄弟を取る自信があるし」
ただ、自分の名前がそこに並べられたことについて、文林にも思うところはある。
あえて指摘はしなかったが、内心では免職覚悟でお前を助けに行った男に対して、えらい言いようだなと思っていた。
文林はそういう思考自体がとても身勝手で、泰の期待を失った原因であることをわかっていなかった。
彼は「口に出したら恩着せがましくなるから」と思ってなにも言わなかったわけであるが、彼にとってそれは幸いなことであった。泰が知ったら期待を失うどころではなかった。
なお明慧の名前が出なかったことについては、彼女と家族を天秤にかける事態が発生したら、小玉は最終的に家族を取るにしても、迷いはするんだろうな……と、文林でも納得してしまった。
他ならぬ明慧本人が天秤を無理やり動かして、両方とも取れる道を力ずくで切りひらきそうではあるが。
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